第5話 今日、君が変わったから続 伝えるべきは 上
本を一冊手に取ると、
彼が選ぶのは、いつもマンガ本だ。マイナーで、あまり知られていないようなマンガが好きで、有名どころにはなかなか手が伸びないという。
放課後の図書室。
利用者は今日に限って楓のみで、普段よりもシンと静まり返っている。
図書委員が常置しているはずのカウンターは無人だし、その奥――ガラス窓の向こうの司書室では、司書教員の
無防備にも寝顔を晒して……二十五にもなって恋人がいないのは、周りの男が寄ってこないからではなく彼女が原因なのだろう。胸が大きくとも、だらしないのはマイナスである。
「明日は……晴れ、かな」
橙色の差し日を受け、空中を漂う埃が姿を現す。スターダスト。そこまできれいに見えるわけじゃないが、幻想的に捉えるならこの言葉が似合っている。
「楓さん……窓の外なんて見てないで、俺の相談に乗ってもらっていいっすか」
「ああ、ごめん。何の話だったっけ?」
「
八人掛けのテーブルの端で、
睨んでいるのかと思うような眼差しに怯えつつ、振り返った楓は彼の前に腰を下ろす。短髪で、精悍な顔立ちに加えて高身長、筋肉質などと挙げられる彼の特徴は、いくらこっちが年上でも委縮してしまう対象である。
今日日借りようとしたマンガ本を脇に置き、楓は話を促す。
「で、七瀬ちゃんがどうかしたの? なんだか怒ってるようだけど……七瀬ちゃんと喧嘩でもした?」
「んなことないっす」
敦人は首を振る。その表情は暗く、どこか苦しげにも見える。
「七瀬ちゃんに何かあった?」
「いやっ……そういうわけじゃ……そういうわけなんすけど」
「何か訳アリ?」
「そういうことでも……これは、俺の個人的なことでしかなくて」
小さなため息をつく敦人。表情に変化はなく、暗く閉ざしたままだ。
書架に振り返りつつ、楓は思う。
このままぐずつくのだろうか。いつものように。
一向に話が進まないまま平行線。核心に触れようとせず、触れようとすれば話を逸らしてしまう。言いたくないのなら、相談があると呼ばなければいいのに。
しかし、敦人は顔に似合わず小心者だから。楓はそれをよく知っている。
「相談に乗ってくれって言ったにしては歯切れが悪いよ、敦人。僕たちの仲じゃないか。腹を割って話そう。少なくとも、僕は何があっても君の味方だし」
「楓さん……」
「ま、楽にして。このマンガ読む? 僕のオススメ」
脇に置いたマンガ本をテーブルの上を滑らせ、敦人に差し出す。
「それ、前回も借りてたやつじゃないっすか……」
「面白かったら何度も読み返したくなるタチなんだよ」
「俺は一度でいいっす……それに今はいいんで」
「そう」
面白いのに。楓はマンガ本を引き寄せ、また同じ位置に戻した。
申しわけなさそうな顔の敦人を見据え、楓は一度だけ時計を見やる。時刻は十六時半前。十七時には帰宅を急かすチャイムが鳴って、我妻教師が起きる。そうなると図書室は閉め切られてしまうだろう。
本日の図書委員当番の敦人には早急に職務に戻ってもらわねばならない。家に帰って、マンガを読んで笑って、惰眠を貪る予定が狂ってしまう。
ため息が出た。
けれども、今回は妹のほうだ。姉の暴挙が振るわれる心配がないだけマシだ。
それに問題の根幹は敦人にある。この小心者の本音を引き出さなければ、問題は先に進まない。敦人の気持ちを知ったところで、それはまだ入り口でしかないのである。
楓は知っている。橘姉妹と同様に、敦人とも長年一緒にいる。
だが、彼を変えられるだろうか。自分すら変われた試しがないというのに。
夕陽が傾く。ため息をひっそりと吐いた。
「それで? ちゃんと聞くよ。僕でいいなら」
☆
事のあらましを敦人は伝えた。
数日前、七瀬が雨の中に突っ立っていたこと。好きな人にフラれたということ。敦人の胸で泣きじゃくったこと――すべて、自分の気持ちを隠して。
「……それで、その翌日からあいつは元に戻ったんすよ。普段通りに笑って、普段通りに友達と話して……俺にも話しかけにくるようになったのは、少し変わったかもしれないけど」
元に戻った。
この言葉が適切。きっとそれで合っている。
頭の端に引っかかる違和感は、きっと間違っているのだ。普段通り。橘七瀬は笑顔を振りまいて、周りを幸せにしている。それが彼女の本来の姿だったはずだ。
「なんすけど……」
「やっぱり引っかかる?」
静かに耳を傾けてくれていた楓が口を開く。
「七瀬ちゃんが無理してるんじゃないかって」
「……はい」
そう。引っかかる。
好きな人にフラれた痛みは正直、敦人にはわからない。
今まで告白をしたことも、告白をされたこともないのだ。恋愛ドラマを見て、恋人の別れのシーンを見て、悲しいと思うことはなかったし。
敦人は胸を押さえた。あの雨の日、自分の胸で泣く七瀬を見て、感じた痛み。
楓は苦笑を浮かべると天井を仰いだ。
「僕はさ、恋愛にあまり詳しくないよ。だから敦人の期待している答えはきっと出せない」
脇に置いたマンガ本をペラペラとめくりながら、楓は言う。
「だけど、落ち込んでいたり、悲しんだりしている女の子にはご飯を与えたり、褒めそやしてあげることが大事だってこのマンガには書いてあったよ」
自信たっぷりにその記述があるらしいページを開いて、敦人に見せつける。
「ほらっ! ここだよ、『この人ならっ……!』ってトキメいているんだ!」
主人公をご飯に誘い、彼女の愚痴を聞いてあげていた男性が突然美化して描かれ、花が散りばめられる。少年マンガかと思えば、少女マンガよりの、しかも主人公が惚れやすい設定の物語のようだった。これでは参考にならない。現実にこんなのがいてたまるか。
「なんだい、その疑いたっぷりの目は」
「いやまあ……なんでもないす」
聞いた相手が悪かった。そうだった。自分から恋愛には不得手だと言っていたではないか。答えに期待するほうがおかしい。
「……それ、借りるんすか?」
「うん、お願いするよ」
敦人は楓からマンガ本を受け取ると、カウンターに引き返した。
あまり参考にならなかった相談だった。褒めるのはいいかもしれないが、ご飯を与えるとか餌付けと何が変わらないのだろう。ペット扱いである。楓はまだ恋愛の「れ」の字も理解できていないのかもしれない。敦人が言えることでもないが。
「まあ、でも。僕個人の意見を言うなら、七瀬ちゃんはきっと無理してるね」
「さっき言ったじゃないっすか」
返却期限を示す栞を挟みつつ、裏表紙に貼りつけてある貸出票に名前を書きながら、敦人はため息をつく。
「無理して笑って、周りに気を遣わせないようにしてるんすよ、七瀬は。昔からそうだった。あいつは、姉がああだから仕方ないのかもしれないっすけど、それでも意地張ってるっていうか……」
もっと誰かに頼ればいいのに。そう思っても、口に出すのはおこがましい気がして言葉にできないでいる。
七瀬は失恋したのだ。今までに味わったことのない痛みだったに違いない。だからこそ踏み込みすぎてはいけない気がした。受け止めて、見守ることが敦人にできる精いっぱいだと思っていた。
「じゃあ、意地を崩せばいいんじゃないの?」
それなのに、楓は自分じゃできもしないことを軽く言ってくれる。
「それができたら苦労しな……」
「まあまあ、話を聞きなよ敦人」
苛立って、バンッと本を閉じた敦人をなだめるように、楓は苦笑いを浮かべる。
「なあ、敦人。他の友達にできないことでも敦人ならできるでしょ? 敦人の話を聞いてるとさ、七瀬ちゃんは人に弱みを見せないタイプみたいじゃないか。それなら、敦人の胸を借りて泣き顔を敦人には晒した……僕は、敦人だけが頼りだと推測するけど」
「……どういうことっすか」
「だから、敦人だけには弱みを見せたってことだろうに。つまり、七瀬ちゃんの抱えている問題を一緒に解いてやれるのは、敦人だけなんじゃないのってことさ」
席を立って、楓は貸し出し作業の済んだマンガ本を手に取る。
戸惑いを見せる敦人の顔を見上げ、楓は肩を叩いた。
「考えすぎないほうがいいんじゃない? 敦人。お前は考えすぎなんだよ」
もっと力抜いていいんだぜ――親指を立てる楓。
考えなくていい。力を抜いていい。
敦人は楓の言葉を
マンガ本も借りられて満足し、図書室を出る背に向かって、敦人は待ったをかける。
「あ、あの! 楓さん! 俺……」
「ん?」
「あの……えと……っ」
返答を待たずにカウンターを飛び出し、しどろもどろになりながら説明を試みようとする。
ただ一つ、今だけのわがままを聞いてもらいたかった。
七瀬はいつも友達としゃべってから帰っていた。
毎週火曜日が図書当番の敦人は十七時に図書室を閉めたあとに帰る。生徒玄関に向かうと、なぜか大体ちょうどよく七瀬がいた。十七時以降は部活のない生徒は残れない――教師の巡回はないが、生徒手帳に記載されている校則の一つだった。
まだ、いるだろうか。
十七時まで、まだ二〇分以上残っている。でも、今日に限っては帰ってしまっているかもしれない。別のクラスだし、友達と一緒にいるし、気まずいかもしれない。
敦人は考える。途端に図書室の静けさに呑まれそうになる。
すると、耳を打ちつける情報量が増えた。廊下を駆ける生徒、グラウンドで汗を流す部活生たちの声、我妻教師が椅子から転げ落ちる音――。
『失恋、しちゃって』
ありありと頭に浮かぶ、ずぶ濡れになった七瀬の姿。
『……ちょっと胸借りていい?』
しがみついてきた彼女の温もりは、今でも忘れられそうにない。
胸を貸す相手は俺じゃなくてもよかった。そこに敦人がいたから、七瀬は彼に縋りついてきただけなのかもしれない。
でも、彼女の前には敦人がいた。偶然がなんだっていうのだろう。
考えすぎるな。
昔馴染みだから。幼馴染みだから。
そんな形ばかりの関係を口ずさんで自分の気持ちを表に出さなかったから、彼女に頼られているかもしれない可能性に気づけなかったんだ。
『ねえ、敦人』
名前を呼ぶ七瀬の声が耳でこだまする。
『……泣くね』
敦人は拳を握りしめていた。
「楓さん! 俺……俺っ……!」
言おうか、言わないか。迷っている暇なんてない。
カウンターを指差し、司書室で上がった痛々しげな悲鳴を無視する。
「あと、頼みました! すいませんっ!」
「え、あ……敦人……?」
何もないところでずっこけそうになりながら、敦人は図書室の扉を引いた。
なりふりかまわずに追わなければいけない人がいる。
伝えないといけない言葉がある。
言えなかった想いを、彼女へ。
「七瀬……っ!」
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