第4話 じゃあ、って言うのやめてみて。
「いい加減決めてくれないとさ、日が暮れちゃうよ?」
窓からそそぐ橙色の光。
黒板を斜めに切る夕陽は、教卓に頬杖をつく黒髪の少女を美しく照らしていた。
普段は一つに結っている髪を下ろし、教卓の上に垂らしている姿は、どこか気だるげでもある。儚げな表情でため息一つこぼすその姿が夕陽に映えるとはよく言ったものだ。まったくその通りだ。はあ。
「ため息ついて、寝て……ねえ、バカにしてんの?」
「いや。夕陽とはなぜこんなにもいい演出をしてくれるのだと思って」
「は? なにそれ」
「気にしないでくれ。で、話はなんだったっけ。
一通り呼吸を整え、胸の内から湧き上がる興奮を抑え込んだ廉太郎は顔を上げた。不機嫌に睨みつけてくる彼女に、すぐさま胸の前でいやいやと両手を振る。
「話は聞いていたが、いまいち理解できないところがあったんだっ。出会い頭に『じゃあ、あんたでいいから彼氏になってよ』って。どういうことだかさっぱりだ」
「他に相手がいなかったから、じゃあ、あんたでいいかなって。それだけだけど」
「彼氏が必要な理由はっ?」
「特には」
「特にはぁ!?」
さっき感じたドキドキを返してほしかった。
諏訪
「だって。あんたとはただの腐れ縁だし……」
当人もそう言っている。腐れ縁。そう。廉太郎と美波は腐れ縁でしかなかった。
歯噛みしても悔しさが紛れるものではない。
はぁと息をついて上体を起こすと背中に垂らす髪を一つに結い、美波は首をひねった。それからうーんと伸びをして、まま発育した膨らみでカーディガンを押し広げる。ブラウスに透けるのはいつも真っ白なシャツだ。何度見てもブラジャーが覗いたことは一度もなかった。
廉太郎は窓のほうに顔を逸らす。
「だからって、『じゃあ』はなくないか? 僕にだって選ぶ権利はあるし、ほ、ほら……まあ、付き合うなら、愛が必要……だろ? そういう形だけの付き合いっていうのはどうかと思うんだが……」
「じゃあ、やめる」
「いや待って。ちゃんと話そう。もう少し話してお願いしぶぁあっ!?」
慌てすぎて椅子から転げ落ちるも、しかし廉太郎はその場で土下座した。
「ぐっうあ……ま、ちょ、ちょっと待とうよ、諏訪さん! いや、ほら、僕にだって選ぶ権利はあるって言ったけどさ、諏訪さ……諏訪様がいいよっていうなら、僕だって付き合ってあげなくはないっていうかさっ!」
「いや、なんであんたが上からなのよ」
「それを言ったらそっちもそうだろうが。なんで彼女いない歴十年の僕がそんな上から目線で言われなくちゃいけないんだ! 最近の恋愛事情は乱れてるなぁ! ビッチだったのかよ諏訪! 知らなかったぞ僕は!」
びしっと人差し指を突き立てると急に攻勢に出た廉太郎に対し、美波はどこか困惑したように額に手を当てた。よくわからないことでもあったのか、眉間にしわが寄っていく。
「ねえ、片桐。今、彼女いない歴、何年って言った?」
「なんだよ、十年のなにがいけない」
「嘘でしょ……!」
嘘じゃねえよ。廉太郎は激怒した。
「彼女いない歴=年齢より優れてるだろ! 別れを経験してる分、僕は大人なんだぞ! 他より一歩
そして廉太郎は自棄になっていた。思わず別れた理由を口にしそうになったが、なんとかこらえた。付き合っていると思っていたらいつの間にか別れていて、彼女は他の男と一緒にいたという――廉太郎は小学生にして女に遊ばれた被害者だった。
つい思い出して溢れそうになる涙をこらえる。
床は冷たかった。いつしか廉太郎の体温で床暖房にも勝る温もりを手にした木目の床だったが、ついぞおさらばしなければならない。
「な、なによ……っ」
廉太郎は立ち上がり、美波に迫る。一歩下がって黒板の縁に当たり、これ以上は下がれないと知った美波は、覚悟を決めたように廉太郎と向かい合った。しかしその視線は泳ぎ、頬は染まっている。
「ち、力づくでなにかするつもりなの……?」
震える声とは裏腹に嬉しそうに見える美波の眼差しを無視して、廉太郎は首を振る。
「いや、僕は『じゃあ』で彼氏に選ばれたくないだけだ。なぁ、諏訪もそう思うだろう? 『じゃあ、付き合おう』とか『じゃあ、キスしよう』とか『じゃあ、セック……」
「ちょっ、待っ、そこまで発展してなあなあな付き合いかたする人なんていな――ひぅっ!」
バンッ、と黒板が揺れた。
「な? そう思うだろう……? 僕はそう感じるんだよ、じゃあじゃあじゃあ……ってなんだよ! 意味わかんないよ! じゃあってなんだよ。適当に済ますなよ! 相手の気持ちも考えて告白しろってんだよ! 勝手に他の男と付き合った後で、僕には昨日までの関係だったのとか言って簡単に別れを済ませやがって……!」
「……誰のこと?」
「いいんだよ、そんなことはっ!」
やばい、口が滑った。
廉太郎は胸の内で絶叫した。美波は迫るそんな変人の顔から、涙の滲む瞳から逃れるように顔を背ける。視線を泳がせるだけでは廉太郎が視界に入るからか。構わず、廉太郎は続ける。
「だから、『じゃあ』をやめてほしい。やめてくれないか、僕には。僕と付き合いたいと思っているなら、『じゃあ』は使わないでくれ。付き合うなら、真剣に付き合いたいんだ」
過去に凄惨な思いをしたからこそ、誠実でありたい。相手にもそれを願うのはエゴかもしれないが、しかし相手を信じきるにはそれしかない。
「それに初めて言うが、僕は前から諏訪のことが気になっていたんだ」
「……え?」
「中学の二年、クラス替えで一緒になってからずっと、僕は君のことが気になっていた。いや、正確には消しゴムを拾ってもらった時に指が触れあった頃からだと思う」
「いや、そんなの憶えてないし……なんかキモいんだけど……」
ぐっと胸に言葉が突き刺さるが、廉太郎は耐えた。言ってから自分でもそう思ったからだ。
「……でも」
それに、目を逸らし続けた美波がまっすぐに廉太郎を見つめていたからでもあった。その頬が少しだけ朱色に色づく。
「そう、なんだ」
夕陽が傾き、美波の笑みを照らした。
儚げな顔は美しいが、笑顔はかわいらしく映えるなと廉太郎は思った。
「えっと……」
「あ、ああ……えと」
粗末な感想もつかの間、二人の顔は近かった。身長は廉太郎のほうが高いが、頭半分突き出るぐらいである。美波の額に廉太郎の息が当たって、前髪が揺らいでいた。
しかも、壁ドン。世にも有名なあの壁ドンを仕掛けてしまっていたことに気づく廉太郎は、しかしここからどうしたものかと黒板についた手を引き損ねた。
今、抱きしめてしまえる距離で美波がいる。アクションを起こせば気持ちを揺らすことができるかもしれない。もしかすれば、好きになる方向に傾くかもしれない。
それに、まんざらでもない反応を示さなかっただろうか。廉太郎の頭は真っ白だが、それが返って冴えているように錯覚した。
「ね、ねえ、片桐?」
「は、はいっ?」
上ずった声の廉太郎を見上げ、美波はほくそ笑む。
「もう……よくない? あたし……逃げないし」
「あ、ああ、いや……すまん」
急いで腕を引き、後ろ手に組んだ。そして一、二歩下がって教壇を踏み外しかけて転びそうになるが、なんとか体制を立て直して、苦笑を浮かべる。
「いや、まあ……あはは……」
「もう……なにしてんのよ」
本当に何をしているんだか……。
おかしそうに笑ってくれる美波の笑顔は嬉しいが、それとは別に自分が不甲斐なかった。
醜態を晒してしまった。
いちゃもんをつけておいて、自分の気持ちを伝えておいて――先に進めない。
これ以上何を言っていいか見当がつかなかった。頭が真っ白になっているのを、今やっと廉太郎は自覚した。
無意味に「あー」とか「うー」とか「あはは」と笑みでごまかして、頬をかく。美波はとっくに笑うのをやめて、まっすぐに廉太郎を見つめていた。その瞳は揺れていない。
「廉太郎」
今度は廉太郎が目を逸らす番だった。しかし頬を両手で挟み込まれ、強制的に美波と向かい合う形になる。
教壇の段差一つで、美波と廉太郎は目線が一緒になっていた。
じんわりと染まっていく頬。胸を膨らませて深呼吸をすませると、美波は言った。
「あたしも好きだったよ、廉太郎のこと」
恥ずかしくて、今まで言えなかったけど。
真っ赤に染まっていく顔で、美波はとつとつと告白する。
「でも、廉太郎はそんな素振り見せなかったよね? もう高校で、三年生だよ? これまでずっと一緒だったけど、これからは違う進路に進むかもしれないんだよ?」
「……」
「そう思ったら、離れたくないって思った。だから、告白しようって決めたの。でも、いざ告白しようと思うと恥ずかしくて、苦しくて、胸がいっぱいになっちゃってさ、言葉がね……うまく出ないもんなんだねっ。知らなかった」
あんまり話さないけれど、なぜかいつも一緒にいた。近い距離にいた。家は同じ方向じゃないけれど、選択授業も、中学の文化祭の打ち上げでアイスを貰う時もメロンソーダ味かバニラ味で迷わずバニラ味を一緒に取って。
「まだ、六月だぞ……?」
「だからだよ。一年間は恋人気分を間近で味わえるし、それに今からならギリギリ進路だって一緒に決められるでしょ?」
「諏訪……お前」
「あたしね、頑張るから。大学? それとも就職? 就職なら、同棲とか……なんちゃって」
ちろっと舌を出して、美波ははにかむ。
「だからね、付き合ってほしいの。結婚を前提でもいいよ。きっと廉太郎なら、いい家庭が気づけそうな気がするもん。だから、ね」
廉太郎の頬から両手を離した美波は、一歩下がって頭を下げた。
「付き合ってください……あたしでもよければ」
差し出された片手を見つめ、廉太郎はやられたと思った。
本来なら、自分がそうするべきだったもの。
美波にやらせることではなかった。結果に関わらず、自分から手を差し出すべきだった。
「やめてくれ……諏訪」
美波の肩を優しく掴むと上体を起こさせた。少しだけ不安を思わせる表情で見つめてくる美波に、廉太郎は頬をかいてから天井を見上げる。
「……廉太郎?」
「決めた。諏訪……いや、美波さん」
美波の名前を呼んでから、廉太郎は彼女の瞳を見つめた。困惑の色が浮かぶ中に、不甲斐ない自分の姿が映っている。その自分から顔を背けるように、決別するように――廉太郎は一歩引いて頭を下げると、手を差し出す。
「ずっと好きでした。僕と付き合ってください!」
古典的で、恥ずかしい。
気持ちを吐き出すだけで身体がぼわっと熱くなる。窓が開いているのか、吹き抜ける風が美波に差し出していた手のひらに当たる。少しだけ冷たい。手汗でもかいてたら大変だ。
隣の校舎に隠れた夕焼けの影。
それでも嫌な顔一つせず、美波は廉太郎の手を両手で包み込んで。
「うん……こちらこそ、お願いします」
泣きそうな笑顔で、そう言った。
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