第3話 ストリング

 いつ、会えるかな。

 寂しくて胸が張り裂けそうになっても頑張っている。こんな自分を褒めてくれたっていいんじゃないだろうか。たちばな夏乃なつのは、家のベランダから星空を眺めて、ため息をこぼした。


 電話で、メールで。古典的に手紙という手もある。

 現代はいろんな方法で遠くの人と繋がる手段を持っている。手にはスマホが握られているし、今送ったメッセージに既読がついて、返信が来たところでもあった。


「なになに……こっちも元気だよ、だけ?」


 翔太しょうたは冷たい男だ。夏乃がどれだけ想おうと、彼には一ミリもその愛の重さが、深さが伝わることはない。

 絵文字もスタンプもふんだんに使ってかわいこぶってみても、彼は乾いた返事ばかり送ってくる。どうしようもなく女心のわかっていない男だ。もう少し愛情表現でもしないと拗ねてしまうぞ。


「……えいっ」


 ぽんっと怒り顔の犬のスタンプを送って、夏乃はスマホを閉じる。

 来年は高校を卒業して、社会に出ることになる。大学に進学しようか迷ったけれど、それだと彼に会いに行くことができなくなる。お金は必要だ。バイトをこなす毎日でも、ちょっとした旅行費の必要な遠距離恋愛は、どっちが会いに行くにしても普通に恋愛している輩とはデート一回分の重さが違ってくる。

 だから、一つの連絡も貴重なもの。寝る前に声が聴けたものなら、ぐっすり快眠、朝は絶好調で間違いないというのに。


 スマホの電源を入れなおして、メッセージを確認する。こういう時だけ、空気を察したように既読をつけてくれない。

 津崎つざき翔太は軽薄な男だ。まったくもって気持ちを理解してない。


「天の川を挟んだ織姫さんはどんな気持ちなのかな……」


 七夕はとうに過ぎている。だが、星空を眺めていると、恋人のことを想うと――どうしてか、天の川が頭をよぎる。

 働かずにニートをしていた彦星に怒った織姫の父が、天の川を挟んで二人を引き離してしまった。当然のことだろうが、当人同士としてはどうだったのだろう。ニートの夫……それはそれで頭を悩ませるものだが、どこか翔太に似ているところがあって他人事に思えない。

 働いていないわけじゃないが、なんというか疎い。気持ちに鈍感で、こっちの言うこともどこか上の空で聞いているし、なんでもいいが口癖だし。考えだすと止まらなくなる。

 それでも好きな気持ちが変わらないのは、夏乃がダメ男にハマってしまうダメな女だからなのだろうか。

 部屋の扉が開いた。


「なっちゃん! お風呂沸いたから入ってきちゃってよ」


「ちょっ……勝手に部屋に入らないでって言ってるでしょうが。プライベート。プライベートは大事なのよ。家族だからってね」


「そんなこと言って……なっちゃんセンチに浸ってるだけじゃん」


「もう……わかったから。出てって」


 訪問者は妹の七瀬ななせだった。彼女は何かいいことでもあったのか最近、最初こそ気に入っていなかった肩で揃えた髪を撫でてにやつく癖がついた。にやつくのは人前では一応減ったが、それでも髪を撫でるのは多い。今はふて腐れた顔ながら髪を撫でていて、キューティクル自慢をしてくる。

 夏乃が手を振ってしっしと追い払うと、七瀬はしぶしぶ部屋を出ていく。


「あんたは髪長いほうが似合ってるでしょうに……」


 ぱたんっとしまった扉を見つめて、夏乃は呟いた。

 髪が短くなると被るのだ。見た目が。

 夏乃はショートカットが主だが、冬から春にかけては少し伸ばしている。首元が寒いのだ。とはいえ、夏乃は自分の髪があまり好きではない。七瀬のようなストレートな髪ではなく、毛先が縦横無尽に飛び跳ねてしまう癖の持ち主。だから、肩に届いてしまうこの七月辺りになると羊の毛刈りみたくばっさりと切るのである。

 翔太はどっちの髪が好きなのだろう。ロングが好きだと言われても伸ばす気はないが。

 既読がついた。


「……電話?」


 メッセージには『電話がしたい』とあった。間もなく、着信の画面に切り替わる。


「やっ、そんな急にかけられても……」


 ベランダの縁に掴まって、三日月を見上げて、下を見下ろす。二階建ての一軒家住まいの橘家はそこまで裕福な家庭じゃない。父母、それに夏乃と七瀬の姉妹を加えただけの四人家族だが、父の稼ぎが普通なので、あまり贅沢なことはしたことがなかった。むしろ普通がいいのだろうか。いや、ちょっとくらいは贅沢してみたいけど。それはさておき。


「……もしもし?」


 電話に出た。あと一回コールが鳴ったら切れてしまいそうな気がしたからだ。


『あ、夏乃?』


「うん。そだよ」


『元気してた?』


「それ、さっき聞いたじゃん」


 とはいえ、翔太の声を聴くと嬉しくなってしまうのである。好きな人の声はカフェインみたいだ。さっと疲れを忘れさせてくれる。仕方なく、夏乃は答える。


「元気だよ。そっちは?」


「元気。夏乃の声が聴けてもっと元気になったかもしんねえ」


「なによもう」


 ちょっと照れてしまう。ああもう、これだから翔太は。

 メッセージでやり取りしていると素っ気ないのに、電話とか、直接会ったりするときは恥ずかしいことを平気で口にする。それに電話越しでもわかるほど彼の声は笑っていた。翔太が笑っていると、夏乃もちょっとだけ頬が緩んでしまう。

 お風呂に入れと言われたことも忘れてしまった。


「まあいいじゃん。聞いてくれよ夏乃。俺な、今日電車でさ、かわいい女の子見かけたんだ」


「ねえ、電話切るね?」


「ちょっ、ちょっと待って! 話は最後まで聞くべきだぜ……? な? かわいい女の子を見かけた続き、知りたくないか……?」


「なんで? 浮気じゃん。浮気以外の何があるの。この変態」


「変態と浮気は別物だろ……?」


 はあ、とため息が聞こえる。バカみたいと夏乃は笑った。

 電話越しには風の音も聞こえた。車の走る音も。もしかしたら、翔太も同じ空を見上げているのかもしれない。

 夏乃が笑みを深めると、目の前の道路を車が通り過ぎていった。


「それで? その、かわいい女の子を見かけてどうしたの?」


 夏乃が訊くと、翔太は言いにくそうに口を開く。


「どうしたってわけじゃないけど……カップルだったんだ、その子。男連れでさ、電車の中でも関係なくイチャイチャしてて、リア充爆発しろって話」


「で、悶々としたの?」


「違うって。……だからっ、それ見て夏乃を思い出したんだよ。いいなって思って」


「……」


 ふて腐れたというか、恥ずかしがっているというか。翔太にしては珍しい反応をして、しかもまた恥ずかしいことを口にして。

 顔が熱くなるのを感じ、夏乃はうつむいた。人一倍大きなため息をついて、深呼吸する。胸に湧く嬉しい気持ちいっぱいに、息を吸って吐く。

 夏乃は言葉が出なかった。まったく嫌なヤツだ。いつもそうだ。

 でも――


「だから、来ちゃった……んだけど。ダメだったか?」


 ベランダの縁から下を覗くと、電信柱の下に夏乃を見上げる顔があった。見知った顔。短髪だった髪も少しだけ伸びて、二ヵ月前より大人びて見える。


「ダメだった?」


 街路灯に照らされる翔太は、くしゃっとした笑顔でもう一度訊いてくる。


「ううん。全然ダメじゃない。むしろ最高……っ!」


 電話を切って、夏乃は部屋を飛び出した。階段を下りて、最速で玄関に向かう。


「おわっ……って、なっちゃん何? どうしたの?」


「野暮用ができたっ!」


「野暮用って……先にお風呂入っちゃうからねー?」


「ずっと入っててもいいよ七瀬!」


「のぼせて溺れちゃうってば……」


 元気になった夏乃は手がつけられない。サンダルを履いて、Tシャツに短パンで、化粧もしてなくて、本来なら彼氏に合わせる格好でもないけれど。

 こちとら二ヵ月も待ってやったのだ。これぐらいは許せというものだ。


「翔太っ!」


 玄関を飛び出して、夏乃は目の前にいた少年に抱きついた。間違えようもない、少しだけする汗の香りと、甘い柔軟剤。翔太のお母さんは柔軟剤を少し多く使う。


「……ただいま。夏乃」


「おかえり。翔太」


 会うのに一年かかる織姫と彦星からしてみれば、二ヵ月なんて甘いのかもしれない。それでも寂しさは負けないぐらいあったし、会いたい気持ちはさらにいっぱいだった。

 背中に回した腕をさらにきつく締めた夏乃は、頬の赤らみを悟られないよう翔太の胸に強く顔を押しつける。


「……浮気してない?」


「してるように見える?」


「してるかもしれない。だって翔太だから」


「俺を何だと思ってるんだよ」


「女の子大好きな人」


 苦笑いを浮かべる翔太。顔を上げ、夏乃は笑顔で自分の彼氏をまじまじと見つめた。


「あと、橘夏乃が大好きな人」


「……夏乃も人のこと言えないよな」


 会ってしまえば、抑えていた気持ちが爆発する。翔太のように常時だだ漏れとは違うのだ。

 でも、似た者同士なのは否めないだろう。だから、言い訳をする。


「あたしは特別だもん」


 ぎゅっと抱きしめて、夏乃は言った。


「大好きよ、翔太。いつまでいるの?」


「明日の夜には帰るけど……まあ、それまでは?」


「じゃあ、明日はデート。今日は泊まってって? お母さんに言ってくる!」


「いや、まあ……うん。そのつもりだったけどさ」


 聞き終える前に、夏乃はウインクして踵を返した。玄関を急いで駆けあがり「お母さーん!」と大声で呼ぶ。いつもはクールなのに、こういう時だけは子供っぽい。翔太が彼女に惹かれた理由はこのギャップなのかもしれないが、まあそれはさておき。


「久々のデートか……」


「いいって! 一緒に寝よっ!」


「夏乃! 親御さんの前で何言って……はあ」


 玄関を飛び出してきた夏乃は無邪気に笑っていた。その笑顔の前では何も言えなくなるのは翔太だけではないはずだ。


「ねえ、お風呂は入った? あたしはまだ入ってないの。一緒に入ろ?」


「いや、だからね、夏乃さん? いくらなんでもそれは積極的すぎじゃ――」


「なーなーせーちゃーん。翔太とお姉ちゃんお風呂入りたいから出てよ」


「えっ、や、おね……きゃあああああああああっ!?」


 がらがらと扉を開ける音に混ざって、シャワーの音と悲鳴が響き渡る。

 廊下に置いていかれた翔太は、風呂場で何が起きているのかよくわからなかった。顔を背け、その先にいた姉妹の父から申しわけなさそうな笑みを受けてしまったからだ。


「すまんね……うちの娘が……」


「あっ、いえ……慣れてますから……」


 慣れていいものなのだろうか。

 とはいえ、風呂場で妹と格闘する夏乃にとっては父と彼氏が互いに苦労を共感しあっていることなんてどうでもいいことだった。

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