第2話 今日、君が変わったから 夏


 雨が降っていた。

 明けたばかりの梅雨がまた戻ってきたようだ。晴れや曇りが続いて、梅雨らしい梅雨じゃなかった今年の六月は、すでに夏のような暑さである。


 久々に湿気を含んだ暑さを感じると気怠けだるさが襲ってくるような気分だ。何しろ、脂汗がじわっと噴き出ては肌をペトペトに、ベトベトに変えてしまう。雨はそこまで嫌いじゃないが、湿気は嫌いだ。

 少し大きめの傘の柄を回して、飛び散る雨粒を眺める田中たなか敦人あつとはため息一つ、革靴の底で浅い水たまりを踏んだ。


「……どうしたんだよ」


 わざとではない。仕方がなかった。

 サーッという雨音の中、目の前に七瀬ななせが立っていたからだ。

 七瀬。たちばな七瀬である。小学校に入る前までは遊んでいた、いわゆる昔馴染みだった。

 同じ高校の制服だが、敦人と違って全身雨に濡れている。うつむけた顔に、前髪からはぽたぽたと水が滴り、肌に貼りついたブラウスは透け、中に着る下着まで丸見えだった。

 最近はほとんど交流がなかったが、敦人は忘れたことはなかった。たまに元気にしているかなと七瀬のクラスを覗き見るぐらいはしていたが。


「……ちょっと、傘忘れて」


「風邪引くぞ。入れ」


「うん……ごめん」


 傘を差し出すと、七瀬は少しだけ顔を覗かせ笑みを浮かべる。目元は前髪で隠れていて、口元しか見えなかった。少しだけ震えているようだった。


「家まで送るよ」


 敦人は首を振って、そう答えた。

 歩きはじめると、七瀬は何も言わずに隣を歩いた。家まで送られてやるらしい。

 無言のまましばらく歩いた。

 小ぶりだが膨らんだ胸元に視線が吸い込まれそうになる。太ももに貼りついた紺のスカートも、意外と艶めかしいものだ。知り合いをこんな目で見てしまう自分はどうかと思ったが、傘を差していると、前よりも下を向いていることが多い。それは、雨で滑らないか気にするのもあるが、大抵は気分が落ち込んでいるからなのだろう。雨のせいで。


「ねえ、敦人」


 軽自動車がゆっくりと脇を通ると、七瀬が口を開いた。


「私、なんで濡れてるんだろう」


「傘忘れたって言ってただろ?」


「それね、嘘なんだよ。気づかなかった?」


「まあ……気づいてなかったわけじゃないけどさ」


 七瀬はうつむいたままだ。うなじにぺっとりと貼りついた黒髪は、昔と違って短くなっている。最近まで胸元より下まであったはずの髪が、肩口で切り揃えられていた。

 はなを啜る七瀬が言う。


「失恋、しちゃって」


「……」


 敦人は一瞬だけ歩みを止めそうになった。返す言葉を探すこともできず、内心で驚嘆しつつ耳を傾ける。


「誰に……告白したんだ」


「気になる?」


「いや、そういうんじゃないんだけどさ……まあ」


 ポタポタっと前髪から雫が滴り落ちた。少しだけ顔を上げる素振りをする七瀬。前髪の間から見えた瞳は、赤く充血していて、腫れていて――雨粒が頬を滑り落ちる。


「言いたくないなら、聞かないけど」


「じゃあ、言う」


 視界の端で傘を差した夫人が顔を隠しながら、電信柱にマーキングするチワワのリードを引っ張った。腕を絡めてきた七瀬に敦人が立ち止まったのは、ちょうどその時だった。

 こてん、と濡れそぼつ七瀬の頭が寄りかかる。肩に触れる頬は温かくて、絡められた腕は濡れたブラウスのせいか冷たい。不思議な感覚だ。


「一つ上の先輩に告白したの。でも、彼女がいるからって断られたんだ。まあまあイケメンだったし、まあまあモテてて競争率もそれなりだったんだけど、私ならいけるんじゃないかっていう自負があったのね。なぜかっていうと、先輩の好みだから」


「随分と自信を持って言うんだな」


「黒髪で、短いほうが好き。清楚で、ちょっと甘えてくれるような女の子。……髪は勇気なくてショートにできなかったけど、私これでも頑張ったほうじゃないかな」


「……だから、好かれて当然って?」


「うん、そう」


 暖を取るように敦人の腕を両手で抱きしめる七瀬は、はぁとため息をつく。


「……そこまで好きじゃなかったんだけど、いざフラれると傷つくよね」


「強がりに聞こえるんだけど、気のせい?」


「うーん……気のせい、かな」


 洟を啜る音が聞こえる。

 水たまりをいてバシャバシャと水音を立てるトラックが脇を抜けていく。遠くの信号はたった今、青に変わった。向こうから色とりどりの傘が敦人たちのほうに向かってくる。傍目から見れば、相合傘に腕を組んだ姿はカップルに見間違える。

 だが、勘違いされたくないと思う気持ちは湧かなかった。振り払う気すら起きなかった。


「行こ?」


 弱々しく腕を引く七瀬に従って、敦人は歩き出す。通り過ぎていく人波の中、振り返る視線が少しだけ痛い。縮こまるように七瀬はさらにうつむき、敦人の腕にしがみつく。守るように、敦人は早足になった。



「実は玉砕しただけじゃなかったって言ったら、敦人は驚く?」


 点滅する青信号を渡り終えたところで、七瀬は言った。


「実は、告白したのは数日前だったんだ」


「……それのどこが驚くんだよ」


 ぎゅっと腕を締める力が強くなる。


「私ね、バカにされてたんだ。その一つ上の先輩が今日、私の告白を笑い話にしてたの見ちゃったんだよね」


「……」


「『タイプじゃなかったんだよね、あれ。咄嗟とっさに彼女いるって言っちゃったよ。オレ、優しくね? 傷つかない断り方を咄嗟に出せるオレ紳士じゃね?』だって。笑っちゃうよね」


 七瀬の声が震えた。


「私ね、これでも強いほうなんだよ? 敦人と相撲を取っても、私のが強かったもんね」


「……昔のことだろ、それ」


 小学校に上がる前だ。たった四、五歳のころで張り合われても困る。

 頭一つ分、敦人のほうが今は背が高い。肩幅だって、筋肉量だって運動部に入っているわけじゃないが、体格的に七瀬より劣るところはない。

 七瀬の歩みが止まって、敦人は腕を引かれた。


「じゃあさ……お願いがあるの」


 恐る恐る顔を上げる七瀬は、涙に濡れた瞳でまっすぐ敦人を見つめる。

 雨音と、自動車が水たまりを轢いた飛沫だけが今、この世界を構築しているようだった。

 傘を差しているのに、七瀬はずぶ濡れだ。頬に幾筋もできる涙の跡は、もう雨のせいにできそうにない。


「……ちょっと胸借りていい?」


 敦人の腕を離して、湿気と汗で湿った胸にしがみつく七瀬。


「ちょっと汗臭いね……」


「うるさいな。勝手にしがみついて何言ってんだよ」


「だって……」


 それだけ言うと、七瀬は左右に顔を振った。「ごめんね」と呟きが聞こえたかと思うと、胸元にため息が沁み入る。胸をひっかくようにワイシャツを掴む七瀬は短く嗚咽を漏らした。


「……そこまで好きじゃなかったけど、笑われると傷つくよ私も」


「ああ」


「私だって女の子だし、女は精神的に強いみたいなこと言うけど、そんなことないよ」


「……そうだな」


「あなたの好みになるように頑張ったよ? あなたのための女の子なろうとしたよ? 好きじゃないけど……好きじゃないけど、私頑張ったんだよ?」


「……よく頑張ったよ」


 震える声で、七瀬は敦人の名を呼ぶ。


「ねえ、敦人」


「ん?」


「……泣くね」


 周りの目は引くぐらいに痛いものになった。

 衆目すら気にしていられる暇なんてないほど、七瀬の心は傷ついていたのだろう。

 それは、好きじゃなかったというには大げさなように敦人は感じた。

 一つ傘の下、胸にしがみつく七瀬の嗚咽は雨音にかき消えることなく耳を満たす。

 敦人は七瀬の頭に伸ばしかけた手を――落とした。代わりに背中を擦って、胸を満たす七瀬の嗚咽を和らげようとする。

 沸き起こる七瀬をフッた先輩への怒り。七瀬の涙に湧く嫉妬。

 バカげているとは思っても、自分の中には確かに湧いてくる感情の数々。

 雨脚が強くなった。


「……よく頑張ったよ、七瀬」


 恋なんて知らない。失恋の痛みなんてより知るはずがない。

 しかし、胸を締めつけるこの想いが痛いことだけはなぜか知っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る