第7話 七夕目前、姦しく




 黒板上の時計は、昼休みを刻々と削っていく。

 不埒なやつだ。一度は直上へと昇りきった太陽も、今は遠く山並みへと去るべく身支度を進めているし。彼も同罪に違いない。


 小さな弁当箱をつつく水瀬みなせはるかは、最後に残ったホウレン草のバター炒めを口に放り込むと一息に呑み込んだ。


 そして、ついっと指先で弾き、机の上を滑らせる一枚の紙。

 窓からそよぐ風に腰まで垂らす髪をなびかせ、遥はじっと目の前の少女を見つめた。


「あのさ……遥」


「んん……んっ、なんでしょう」


「なんでしょう、じゃなくて。言いたいことあるなら口で言わない?」


「言ったって七瀬ななせが毎回聞いてくれないからです」


「そりゃ……なんか気分じゃないからっていつも……」


「気分で今が旬のスイーツを逃すのは惜しいと思います。口惜しいと思います」


「それ、意味違うんじゃないかな……?」


 紙パックのリプトンを片手に、ちょろちょろと咥えたストローでレモンティーを吸い上げる七瀬は、身を乗り出す勢いの遥に苦笑いを浮かべる。


 肩口で揃えた髪、はっきりとした目元に加えて、幼さの残る輪郭。男女分け隔てなく笑顔を向けることができるたちばな七瀬は、1-Aのアイドルであり、遥の数少ない友人の一人である。


「じゃあ、口が寂しいですか?」


「それだとちょっと中毒っぽいからやめよ? 毎日甘いものを摂取しないと死んじゃうやまいにでもかかってるわけじゃないでしょ?」


「病でないとしても、毎日は食べたいですけどね」


 七瀬から、はあ、とため息が聞こえた。なにがそんなにいけないのか。

 さきほど、遥が七瀬へと差し出した一枚の紙。


 色とりどりの装飾がなされたカラー印刷の表面には、二つに割れた饅頭がでかでかと載っている。なんと一つ五十円。最高級の北海道大納言小豆を使用したこしあんと、舌触り滑らかな自家製生クリームとを織り交ぜた餡を仕込んだ新作饅頭の広告チラシである。

『今しかない! 期間限定! ご賞味あれ!』と饅頭とさほど大きさの変わらないフォントで書かれたその一文はごり押しでしかないが、これこそ日本人の弱みを突く最大の煽り文だと思うのだが。


「それなら一人で行ってくればいいと思うよ」


 七瀬は何度となく、遥の誘いを断っていた。


「毎回、説明しているのに理解してくれないのですか」


「『お二人様でご来店時、饅頭お一つ無料提供』でしょ? いいじゃない一つ五十円なんだし」


「一つ五十円だからこそ、百円で三つ食べられる幸福には敵わないんです……!」


「いや、その二つ食べる前提は太るからやめようよ……」


「それは太ってから考えればいいことです」


「だから太りたくないんだってば、私は……」


 いやいやと首を振る七瀬は、今日も折れてはくれないようだった。

 幾度となくお願いを敢行している遥としては、いい加減に折れてほしいとせつに願っているのだが、簡単には折れてくれないのが七瀬だ。


 恋心はブレやすいのに、他のところは芯がしっかりとしている橘姉妹の妹のほうは、今日も今日とて帰りの買い食いを許してくれないでいる。


「……また今日もダメですか」


「うん。諦めて、別の人を誘いなって。お母さんとか。妹とか」


「私に友達がいないみたいな言い方しないでください」


「だってみんなに断られたんでしょ? じゃあ家族しかないじゃない」


 むむむっ……と眉根を寄せる遥は、ついぞ小さなため息を漏らすと、チラシを自分のほうに引き寄せた。最初はまっすぐで綺麗だったチラシも、今では少しよれてしまっている。今日の空模様と、七瀬のセンチに浸る表情と一緒だ。


 会話は終わりだと曇り空を眺める七瀬は、ストローに吸いつきながら頬杖をついていた。

 その表情は、遠く手の届かない誰かに想いを馳せているような切なさで。


「……」


 遥は仕方ない、とチラシも鞄にしまい込む。

 先延ばしにしてきた七瀬の問題を解決してやってから、こちらのお願いを聞いてもらおう、と。

 ふう、と一息。遥は椅子に深く座り直した。


「七瀬」


「何度言われたって行かないからね」


「七瀬は、なぜ私の恋を応援してくれないのですか」


 そう言った瞬間、ぶふっ、という音とともに黄金色の飛沫が舞った。

 窓辺にいたクラスメイトの男子に、すべて吹きかけられる。


「ご、ごめんね!? 品川くんっ、大丈夫!?」


「だ、大丈夫! 大丈夫だって、むしろ嬉し……ああいや、ちょっと暑かったぐらいだし、感謝したいぐらいだぜ!?」


「え……? あ、でも、ごめんね? ほんとに、あのこれポケットティッシュよかったら使って?」


「お、おおっ! ありがと! 家宝にするよ!」


「いや、あの……今使って?」


 困ったように笑う七瀬とは対照的に、品川はとても嬉しそうに自身の顔にティッシュを貼りつけていた。遥は気持ち悪いと思った。


「唐突だったから驚いたじゃないの……もう」


 小さく咳払いする七瀬は、むくれたようにほんのりと染まる頬を膨らませる。

 七瀬はわかっているのだ。遥の恋が他とは別の意味を持っていることを。

 ごめんなさい、と一言謝る遥はちらと壁時計の長針を確認してから、口を開いた。


「家族にも断られているので、お願いします」


「……やだって言ったら?」


「七瀬が田中くんのこおほほ」


 咄嗟に遥の口を両手で塞いだ七瀬だが、その顔は沸騰しそうなほどに真っ赤に染まっていた。誰かに聞かれていなければいいが、聞かれていればこの赤面の真相は容易く知られてしまうことだろう。

 口を塞がれ、ジト目になっていた遥に七瀬は小声で叱りつける。


「わ、わざと大きな声で言おうとしたでしょ!?」


「はなひふぉ……話を聞いてくれないからです」


「聞いてるってば! ただ、乗り気じゃないだけで!」


 塞いでいた口から無理矢理に手を剥がされたせいで、手持ち無沙汰になった七瀬は、とりあえず椅子に腰を下ろした。そして遥を直視するのを躊躇し、窓辺に視線を向ける。

 やれやれ、と遥は肩をすくめる。


「それがいけないんです。乗り気前提、義務参加。これは買い食いではなく供物を得に向かう神の行者であるのです」


「いや、何言ってんのかわかんないから……遥ってさ、ホントにお菓子のことになると言ってる意味がわからなくなるよね」


「それは褒めてますか?」


「褒めてる、褒めてる」


 適当にあしらう七瀬に、今度は遥がむくれっ面をした。

 遥の恋は、お菓子への、スイーツへの愛である。

 新作が出ると、期間限定、数量限定と銘打たれると――好みのスイーツ如何に関わらず、自分で行けるところには飛んでいく。時には親を、友達を、さらには妹を連れ立って。


 それゆえか、普段からは想像もできない遥の行動力に中学校時代から振り回され続けてきた七瀬は最近、付き合いが悪くなっていた。

 遥の横暴に付き合いきれなくなってきたのかもしれない。

 しかしこれは遥だけではなく、他のクラスメイトも口々に噂していたことなのだ。


 恋をしたのではないか。いやもう男ができたんじゃないか。それとも別れた――フラれたって噂もあるよね、などと。

 女子の情報網は非常に優れている反面、一度敵に回してしまうと手痛い仕打ちを被ってしまう。

 色恋沙汰――しかも、面倒くさいやつ。


 その実態を知っているからこそ、そろそろ決着をつけなければいけないと遥は踏み出そうとしていた。


「でもさ、どうせ恋をするなら、その――男の子にさ、恋をしてみないの?」


「……!」


 言いにくそうに、恋と口にする七瀬。

 面食らったように瞳を見開く遥は――しかし、表情を崩さずにツンとする。


「そういう相手が現れないので何とも言えないですね」


「じゃあ、現れたら?」


「きっとアタックすると思います。好きです、と」


 スイーツと一緒である。

 好みの味ならとことん食べたい。食べ続けたい。同じことだと遥は思っている。

 だからこそ、好きになってしまったらすぐに告白する。

 それは、優柔不断な七瀬への言葉でもあった。


「……敵わないや、遥には」


「?」


 ぼそっと呟いた七瀬は、ううんと首を振って笑った。聞き逃した言葉が何だったのかは想像につかないが、無理に笑みを作る親友の心を読み解くのは、カスタードクリームがこぼれないようにシュークリームを食べるのよりも容易い。


「では、こちらからも質問をいいですか?」


「ん? なに? いいよ、遥からそういうのに質問なんて珍しいし」


 少し乗り気になる七瀬に、買い食いにもこうして身を乗り出してほしいと思いつつ。

 遥は咳払いして、口にした。



「恋をすると、変わるものですか?」



「……な、何がっ?」


「例えば、人生観や好み、趣味など。少し興味が湧いたので」


 そう言うと「あ、ああっ……そういうことか」とホッとしたように胸を撫で下ろす七瀬は、考える素振りをした。


 恋バナなんて七瀬とした憶えなど一つもない。しているところは見たことはあるが、遥はいつも蚊帳の外から眺めているだけだった。

 そう思うと、ちょっとだけ七瀬に近づけた気がして緩みそうになる頬を遥は手で押さえる。


「まあ……あえて言うなら……」


「あえて言うなら?」


「えと、その……」


 両手で頬を挟み込んでいる変な顔の遥には目もくれず、七瀬は頬をさらに染める。

 恋をしている。

 恥ずかしそうにして俯く七瀬を見ていると、ふとそんな言葉が脳裏をよぎった。

 恋をすると人が変わるのだ。よく、祖父母の波乱万丈恋愛劇を聞かされていた遥は、この時初めて、あんな複雑な恋愛じゃない――少女漫画のようなトキメキを七瀬に感じた。

 七瀬が言う。


「嫌いなものも、好きになれちゃうっていうか、彼のためなら何でもできるようになる、というかね……」


「はあ。そんなに田な――」


「それ以上言ったら、何をされても恨みっこなしだよ?」


 遥の口を塞ぐ七瀬は笑顔だが、瞳からは光が消えていた。

 からかいも大概にしないと命の危険が及ぶようだ。

 遥は恐怖の赴くまま、うなずく。


「仕方ないので、これ以上はつっこむのをやめます。恋をしたら女は強くなれる……その言葉に迷信めいたものを感じていましたが、あながち嘘ではないんですね」


「ま、まあ……そうよ。だから、遥も恋をしたらっ? その……男の子に?」


「できたらしてますよ、きっと。とっくに」


 ――そういう相手が現れないので。

 端的に言ってしまえばそうなるのだろう。周囲の男子に対してイマイチ恋愛感情のようなものが抱けないのは、多くが七瀬を見ているからなのかもしれないが。

 自分の理想のタイプとはなんなのだろう。


「ねえ。遥って好みのタイプっていないの?」


「そうですね……コクとまろやかさが絶妙にマッチしているこしあんがいいですね」


「あんこの好みを聞いてるんじゃないんだけど」


 スイーツのことで七瀬に否定されると、寛容な遥でも少しばかりイラッとする。

 好きなものへのこだわりはそれぞれの領分だ。侵していいのは自分だけで、他人の入る隙はない。それが常識だろう。

 恋愛もきっとそういうものなんじゃないだろうかと、遥は思う。


「でも、きっとそんなものです」


「……え?」


「結局、こしあんとつぶあんの好みの違いと同じように、和洋中……それぞれのデザートで舌触りや甘さの深みが違うように、それが自分の好みに合うか合わないかで美味しいと感じるのは人それぞれじゃないですか。だから、タイプを訊かれてもよくわからないんです。

 で、恋愛に然り、結婚に然り。それらの行為は、事象は、同じものを食べ続けるような感覚だと私は思います。甘いお菓子ならいくらでも同じものを食べ続けられると思いますが、こと恋愛となると対象は人で、しかも他人で、しかも異性です」


 そうなると、想い続けるだけではいけなくなる。

 相手の言葉を聞かなくちゃいけなくなって、相手に合わせて自分を変えていくことになる。


 そんな自分が想像できない。

 いや――違う。


「だから、私はたぶん、怖いんだと思います」


「……怖い?」


 遥はうなずく。


「お菓子に意思はないので拒否はされません。私の一方的な片想いを受け入れてくれますが――きっと、それは恋愛じゃ通用しないと思っているので」


「大丈夫よ、遥ぐらいかわいかったら……」


「それは、七瀬から見た私ですよ。もし私が好きになった人が、私のことを七瀬と同じようにかわいいと好意を持ってくれる相手かなんて事前に知ることなんてできない。

 だって、私が一方的に好意を寄せているからです。片想い、なんですよ。七瀬」


「…………」


「しかも、相手は人間ですから、意思があります。他に想い人や、もしかしたらもう付き合っている人がいるかもしれない。考えたことはありますか? いざ付き合ったとして、相手の知らない一面が見えた瞬間……ショートケーキのスポンジの間、生クリームに紛れてフルーツが隠されていた時ほどの喜びを感じることはまずないと思います。

 あるのは、拒否感でしょう。違う、こんな人だとは思ってなかった」


「でも、そんなこと考えてたら付き合うのなんて無理だよ……」


「そうですよ。普段からそんなことを考えているから、私はお菓子に逃げているんです」


 自分で言っていて、なんて卑屈な人間だろうと遥は感じた。

 何しろこれは七瀬の背を押すために始めた恋バナだったはずなのに、どうしてこうも恐ろしく空気が重たくなってしまったのだろう、と。

 これでは、解決した報酬に付き合ってもらうはずの道草が提案できなくなるではないか。


 刻々と過ぎる昼休みは、ついに授業五分前のチャイムを鳴らした。

 周囲の喧騒も少しだけ落ち着き、片付けや次の授業の準備に追われるようになる。

 少ししょんぼりとし始めた遥に、真剣な眼差しを遥に向け続ける七瀬は、一瞬視線を切ったあと、意を決したように机に両手をついた。


「じゃあ、だったら私が紹介する」


「……なにをですか?」


「男の子! 遥にぴったりな男の人を、私が紹介するって言ってるの!」


 七瀬の発言になぜか周囲の視線が集まって、遥は戸惑った。

 なにを勘違いしたらそうなるのか……いや、勘違いはしてないのかもしれないが、そういうのは要らない、スイーツで間に合っているのをなぜ彼女は理解していないのか。

 噴き上がる焦りを押し殺して、遥は手を振った。


「いえ、間に合ってま……」


「ダメだって!」


 ダンッ、と机が叩かれた。

 そして真面目な表情から一転、七瀬は眉尻を下げると、引きそびれた遥の手を取る。


「ずっとそんなんじゃ、いい人と巡り合う前に干からびちゃうよ? いい人がいても、すれ違っちゃうかもしれないんだよ? そんなのダメだって……ダメだよ、遥」


「……七瀬」


「だから、私が紹介する。男友達っていうと……少ないけど、それでもいい人を紹介するから! だから期待してて? 私、ぜったいに遥に合う人を探してみせるから!」


 困惑する遥の手をぎゅっと握り、七瀬は口にする。


「だからさ……そんな悲しいことを言うのやめようよ。ね?」


「……」


「恋をするのはいいことだよ。スイーツでもいいけど、やっぱり男の子に恋をしたほうが絶対にいいよ。ほら、恋をするとお肌がキレイになるとか言うし、他にも色々……」


「……ふふっ」


「な、なにかおかしなこと言った?」


「いえ、なにも」


 ただ、思わず笑みが漏れてしまったのだ。

 お肌のことならコラーゲン入りのスイーツでも間に合うし、色々と創意工夫がされている最近のスイーツ界隈なら、恋愛で手に入る身体的なメリットは得られそうな気はする。

 何でも甘いものを食べれば幸せになれるし、幸福感は小さなチョコの欠片でも与えられる。


 でも、それよりも恋がいいと熱弁してくれる。

 なにより七瀬が自分のためを思って口にしてくれている。

 最近、素っ気なかった裏返しだろうか。


「ただ、七瀬がもっと好きになったというだけです」


「あ、いや、恋をしろとは言ったけど、さすがに女の子同士はちょっと違うかな……って」


 慌てて両手を振るが、しかし「でも、私も遥は好きだよ? だけどね、うーん」とすかさずフォローを入れてくれる七瀬には、意地悪はしてはいけないのだろう。

 遥は笑みを浮かべる。


「ええ、ライクのほうですよ。ラブじゃないです。さすがに七瀬を取るのは忍びないので」


「わ、私を取るって……いやいやっ、あいつとはそういう関係じゃないから! というか、そういう展開にもまだなってないし! なってないからね!?」


「わかってます」


 慌てふためく七瀬を前に、遥は笑みを深めた。

 きょとんとする親友の愛らしさと、彼女の想い人に少しばかり嫉妬しつつ、残り二分程度の昼休みを遥は謳歌する。


「では、七瀬の紹介を楽しみにしてますからね」


 七瀬の手を一度、ぎゅっと握り返してから遥は離した。

 笑顔の灯る七瀬をこの時ばかりは一人占めできることを噛みしめながら。


「いいよ、任せておいて」


 頼もしく胸を叩く七瀬とともに、ふっと笑い合った。


「では、その相談にお饅頭屋さんに今日寄っていきませんか? 奢りますから」


「もう……仕方ないな。今回だけは目をつむってあげる」


 ありがとうございます、と口にした遥は教卓が前になるよう椅子に座り直した。

 ちょうど数学教師が教室に入ってきて、起立の号令をかける。

 授業は淡々と進み、放課後は饅頭屋で七瀬とデートになることだろう。

 今日はいくつ食べようかと考えつつ板書する遥は、普段よりも笑みが溢れていた。


 ――だが、それも今だけ。

 ただ饅頭を食べたくて始めた恋バナ。

 


 それが、ある一歩を踏み出すきっかけになるとはこの時、まだ知るよしもなく――


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