第2話 僕と彼女の変態同盟

 誰もいない理科室。

 僕は緊張のあまり何度も生唾を飲み込み、緊張でじんわりとかいた汗を拭う。外には僕の大好きな雨がパラパラと降っていた。これまた大好きな窓ガラスには雨の水滴がときおり、音を立てて横殴りに吹いている。規則的なその音は、まるで潮騒のように耳に心地よい。雨の音に耳を澄ませば心臓がばくばくと脈打つ音が、その雨の音楽に紛れて少し落ち着いてくる。埃っぽい理科室の窓にキュキュと音出しながら文字を書く。

 『黒木くろき香美奈かみな

 待ち人の名前、その響きでさえ僕の心を満たしてくれている。

 僕は無我夢中になって気がついたら、彼女に告白めいた手紙を送っていた。『放課後、理科室に来てください。渡したい物があります。西郷信也』と、こんな質素でなんの面白みもない文章。流石の僕である。だから一人でドキマギしながら誰もいない理科室で彼女を待っていた。

 そうこうしていると、ガラガラと理科室の戸を引く音が鳴り、僕は慌てて文字を消しながらそちらの方に振り向いた。

 その素晴らしい名前の持ち主が現れた。黒木さんは、手紙で急に呼び出した僕を不審な目で見ることもなく微笑みながら入って来た。穏やかに微笑む優しい瞳、白い肌とすらりと伸びた手足。女性にしては身長が高くて僕とほとんど一緒だ。真っ白なセーラー服は、彼女が着るだけで雨の日だと言うのにまぶしかった。だが、一部だけは僕は痛々しくて目にすることが出来ない。

 またガラガラと音がして、戸が閉まりきると、理科室には外から聞こえてくる生徒達の声と雨音だけが残り、僕たちは一瞬の沈黙の後で目と目が合った。それは火花が弾けるような運命的なものじゃなくて、ただ言葉を待っているだけの事務的な彼女の視線。黒木さんは僕が言葉を失っているのを見て、彼女から声を上げる。見とれてしまいそうな小さくて形の良い口が淑やかに開かれていた。

「西郷君。こんなところに呼び出して、どうしたんですか?」

 このとき僕は初めて黒木さんから名前を呼ばれた。それだけで心臓がヒートアップして、心臓どころか顔も頭も目頭だって熱くなってしまう。僕は口をパクパクさせつつ、混乱する頭を必死になって落ち着かせる。

 しかし、ここまでほとんど考えなしに動いていたので言葉すら用意していなかった。無言で手に持った包みを渡して帰ろうかと、思った矢先、黒木さんが身を乗り出すように僕の手を覗き込んでいた。

「もしかし、それが渡したいものですか?」

 僕があぐあぐと言葉を失っていると、そう言って黒木さんは僕の手に視線を送っている。

 その時になってようやく僕は、自分が渡そうとしていた物の恐ろしさに身もだえしてしまった。あの事件が起こるまで、黒木さんを目の前にすると僕は正気を失ったようにとある物を見ていたが、今の彼女にはそれがない。だから僕は彼女のその姿を見て初めて自分がしよとしてる事の重大さ、いや異常性に気がついた。行動をしているときはいつも事件が起こる前の天使のような彼女の姿を思い浮かべていたのだ。そんな自分の幻想に惑わされたのかもしれない。

 いや、そうに違いない。

 僕は自分の異常性と変態性をこの時になって初めて目の当たりにして、包みを後ろに隠した。こんな大爆発起こすような危険物を持っている方がどうにかしている。開ければ爆発して僕は社会的に死ぬ。

「や、やっぱりいいです。なんでもないです」

 僕は首を横に振って、彼女から逃げようと一歩踏み込む。

 だが、僕の逃げ道に立ちはだかるように微笑む黒木さんがいた。

「ちゃんと渡してください。お断りはしますが、西郷君の頑張って用意してくれた物です。一目見てからお断りしますよ」と言って黒木さんは優しく微笑んでいた。

 どうやら最初から僕の勝ち目はなかったようだ。その言葉で肩が脱臼したように気が抜けそうになるが、いやむしろ、この爆弾を前に勝ちとか負けるとかなんて全く関係ない。ここはどうにかしてこの包みを彼女から隠さないと。

 だが目の前には黒木さんがいるので、逃げ場をなくした僕は一歩後ずさりする。

 黒木さんはそれを見て一歩近付く。

 また僕は後ずさり、理科室の窓にゴンと身体をぶつけた。

 それ見て少し黒木さんが笑ってさらに五歩近付いてきた。

 それはもう手を伸ばせば僕の手と触れ合うだけの距離しかない。

 そこで雨音が耳元でパラパラと鳴っていた。

 黒木さんはちょっと小さくため息を吐くと、愚図ぐずついた幼稚園児をなだめる保母さんのように、朗らかで優しい笑みを浮かべる。

「西郷君。どんな物でも笑ったりしません。それに誰にも言いませんよ」

 その優しい笑みを見て、僕は胸をなで下ろした。

 黒木さんにはこんな風に人を安心させる何かを持っている。言葉に信用があるとか、彼女なら秘密を必ず守るとか、そういった人を安心させる不思議な力だ。僕はそういった彼女の性格、という物に惚れた訳ではないが、クラスメイトと話しているのを聞いてそう思っていた。

 僕は受け取らずに秘密を守ってくれると約束してくれるなら大丈夫かと、ふっと息をついた。

「誰にもいわないでください」

「はい、言いませんよ、西郷君」

 その言葉で僕はすっかり安心してしまって、後ろに隠していた包みを彼女の目の前で開ける。ガサガサと音を立てて丁寧に梱包された包みが解かれ、その素晴らしい一品がこの世界に現れた。その素晴らしい黒艶が理科室を照らし出し、この世界をもう一度再生させてくれる。

 僕はそう信じてその商品を彼女に差しだした。

 黒くて長い絹のような手触り。

 彼女のサイズが分からないのでフリーサイズにしている。本来ならオーダーメイドが良かったのだが、それは仕方がない。その代わり、質感や光沢といったものは最高級の物。きっと黒木さんも気に入るだろう。

 そう確信して僕はそれを満面の笑みで差し出していた。

「え?」

 小さく彼女が息を飲む。その大きな瞳が見開かれた僕が持っているものに注目していた。彼女は息を飲んだ後、なぜか警戒するような瞳で僕を射貫く。

「これは・・・ウィッグですね?」

「はい。ウィッグです」

 僕は何とか短く答えた。

 僕が彼女に用意したプレゼント。

 それは黒髪ロングストレートのウィッグだった。早い話がカツラだ。

 何を隠そう僕は、黒髪ロングヘアーの変態だ。先日、この世界の至宝である黒木さんの黒髪ロングヘアーはバッサリ失われて、見るも耐えないショートカットへとなり果てている。いわばエデンの楽園から荒野の砂漠へと変わってしまった。彼女の荒野が芽吹くまでの緊急措置として、僕はこの高級カツラを彼女に渡したかったのだ。

 黒木さんはじっと僕を見ていた。

 その強い眼差しで僕は途端に不安になってくる。自分がよかれと思ってしたことが、相手には不快だったときのあの虚無感。

 お先は真っ暗だ。

 やはり、きっと僕は彼女から酷い言葉を罵られ、クラスメートに僕の変態が知れ渡り、嵐のような虐めに会うのではないか。駄目だ。やはりこの世界は変態には住みにくい世界だ。僕はもう学校に来られない。人気者の黒木さんを気持ち悪がらせた変態というレッテルは僕のクラスでは火あぶりの刑に処される。黒木さんの周りにいるギャルっぽい女生徒達はおそらく僕を醜い豚、いや別に太ってはいないが、のように囃し立て小突かれ僕の教科書は落書きだらけ。

 駄目だ。早く帰ろう。帰って布団にくるまって明日から登校拒否をしよう。そうしなければ僕の身が危ない。

 僕は慌ててカツラを引っ込めようとする。

 だけど―――。

「待って!」

 がしり、とカツラを持っていた手を掴まれた。

 そこには鬼のような顔をしている黒木さん。

 その微笑みからは遠い、鋭い目が僕を見ていた。

 彼女は一度大きく息を吸い、問いただすように口を開く。

「どうして私がコスプレイヤーだって知っているんですか!?」



 放課後の下校道。静かに響く雨の音。

 灰色の垂れ込めた雲から落ちる滴が、アスファルトに飛沫を作り、水溜みずたまりの浪が幾重にも折り重なっていた。僕のスニーカーは、だいぶ草臥くたびれているので靴下がじゅくりと濡れている。雨の日の足下だけは何ともしがたい。ゴム長靴を履けばどこだって行けるのに。

 そんな風に僕の気持ちを他所にして、赤と紺の二つの傘が気持ちよさそうに仲良く雨を弾いている。

 雨音は静かに、心地よく響いている。だけど僕の心は、濡れた足のように暗澹としていた。

 あの理科室の後で僕は卑怯にも彼女に話を合わせた。

 彼女の変態性が僕の変態性に覆い被さったのだ。いや、覆い被さったのではなく一色単いっしょくたんに誤魔化した。早い話が、僕もコスプレが好きなオタクになった。

 コスプレ好きなオタク男子が、コスプレ好きなオタク女子にカツラをプレゼントすることは、不思議な話じゃないらしい。その業界では。

「西郷君はオタクだったのね」

 彼女はクルクルと傘を回しながら嬉しそう前を向いて歩いていた。

「そうかもね」

 僕は気のない返事をして歩きながら考えにふける。

 実は僕が苦手な物が一つある。それはアニメだ。

 僕の周りの友達は、どうしてアニメを嗜好するアニオタや軍事オタク、ロリコンといった偏りのある奴らが集まってくるが、僕はアニメを憎いんでいる。それはどうしても払拭できない僕の偏りだった。

 僕は黒木さんがコスプレイヤーであることを知って彼女への憧れが見る見る内に萎んでいった。それはもう急降下するジェットコースターのように奈落へレッツゴーだ。

 あれだけ緊張していたのに彼女の一言で僕の今は平常心。いやグラフで描くと谷間に真っ逆さま。落ち着きを取り戻した後は何故あんな物を渡してしまったんだろうという後悔。

 その原因であるカツラは、綺麗に梱包し直され、黒木さんのシックな手提げ鞄の中にしまわれていた。コスプレイヤーである黒木さんは、僕が渡したカツラの素晴らしさを一目で看破し、嬉しそうに受け取ったのだ。

「だけど本当にちょうどよかったわ。私も髪を切ったけどロングのコスするときのウィッグは、まだ持ってなかったのよ。ずっと長かったしね」

 クルクルと傘を回していた黒木さんは、手提げ鞄を大事に抱きしめた。

 いや、まぁよく考えればあんな物を渡して嬉しそうに受け取って貰っただけでも幸運なのかもしれない。普通なら、悲鳴を上げて逃げても仕方ないよな。僕はそう思い込んで今回の話を有耶無耶にしようと心に決めた。

 学校の下校道は長い下り坂道になっている。坂道を折りきった先にバス停がポツンとあって、それが静かに濡れていた。周りには人がほとんどいない。雨で運動部は自主練か休部、文化部の生徒が帰るのにはまだ早い。ちらりと見える生徒達は雨で早足にバス停へと向かっていた。

 ひっそりと傘に隠れている僕たちを見とがめる者はおらず、のんびりと黒木さんは鞄を持って鼻歌を歌っている。

 本当なら彼女が黒くて長い髪を揺らして、時に雨に濡れているのを拭く姿を拝めたはずなのに・・・。今の彼女は黒いショートヘアー。首元で切りそろえた綺麗な髪がどこか彼女を幼く見せている。

 しかし、それに僕は少しも素晴らしさや感動を感じない。むしろ、早く家に帰ってこのネガティブな感情のままに布団饅頭にでもなりたいと思っていた。

 黒木さんと一緒にする初めての下校もあと少し。バス停で別々のバスに乗って、それで今日の出来事を全てなかったことにできる。

 晴れた日には僕は自転車通学。黒木さんはいつもバス通学だ。晴れていたら学校でお別れを言えるのだが、流石に今日はバスで帰る予定。大好きな雨の中でも、メリーポピンズのようにステップダンスを踊って帰る気にはなれなかった。

「あ、バスが来てる」

 黒木さんは坂道の下、少し離れた所から黄色いバスがやってくるのを見てまたクルリと赤い傘を回す。

 小さな滴が飛んで、綺麗な円を描いた。

「ごめんなさい。雨、飛んでた」

 小さく手を口に翳して彼女は謝った。僕のシャツには線のように雨が染みている。

「いいよ。雨に濡れるのが好きだから」

「なんだか素敵な言葉ね」と、彼女は小さく笑う。

 素敵なのだろうか?

 よく分からなくて僕は首を傾げる。

「そうかな? まあいいや、とりあえず僕はバスに乗るから」

 首を傾げながらも僕は彼女の先を歩き出そうとした。バス停に向かってきているバスは僕の家の方向に行くバス。だからもうここで黒木さんとはお別れ。バイバイ、さよならだ。

「待って」

 呼ばれて僕が振り返る。

 そこには赤い傘を差した黒木さんが思い悩むような顔で立っていた。

「どうしたの?」

 僕がそう尋ねると彼女は少し息を飲んで答える。

「もしよかったら・・・西郷君の家に行ってもいい?」

 その顔を見たら何故か、僕は自然に頷いていた。



 反射的に頷いてしまったけど、一体全体どうしてこうなったんだろう?

 自覚ある変態は、女性を連れ込むような社会的規範に逸脱するような行動を慎むべきである。いや、考えるに僕の性対象や性目的は、黒髪ロングヘアーに限定されるので、僕の変態性は消えてなくなる。つまり、この状況は至極まともなものかもしれない。

 健全な男子高校生が、ちょっと変わった女子高校生を家に連れ込む。

 ・・・そう思い込もうとしても駄目だった。

 今の僕は、黒木さんの黒いショートカットの髪を撫でたり、匂いを嗅いだり、食べたりしたいとは思わない。だから女性を家に連れ込むときのドキドキやワクワクといった健全な男子高校性が持つあの高揚感がない。

 ああ、綺麗な子だなって、パチパチとチャンネル変えている途中に見たテレビの中のアイドルのようだ。関心も興味もない色あせたどこかのアイドル。

 僕の家は学校から五件ぐらいの停留所を超えた先にある。運良く僕の方面のバスが学校のバス停に到着すると、僕と黒木さんはいているバスに乗り込み、しっとりと起毛して所々剥げ掛かった後部座席に座った。湿度で濡れた窓からは、雨に霞む町並みがゆっくりと動いていく。

 僕は始終、言葉少な目だったが、黒木さんは見たこともないほどはしゃいでいた。学校では口の中で笑い声を上げるようなおしとやかなのに、今は目をキラキラさせて僕の家に行きたい理由を話していた。

 どうやら黒木さんにも色々な事情があるらしく。僕の家に行くのは先ほど渡した高級カツラを試着したいからだそうだ。コスプレを趣味にしていることは、学校でもずっと黙っていた秘密らしく、その話し相手がいなくてつまらなかったのだと頬を膨らませて話していた。

 そんな話を生返事気味に返して僕はずっと聞いていた。

 バスには黒木さんの話し声と、低いエンジン音、それと忘れた頃に停車駅を知らせるアナウンスだけが響いてる。バスのエアコンは少し調子が悪く、ぬるい風を送っていた。

 そうしている内に家の近くにあるバス停に付近まで来たので僕は停車ボタンを押して、黒木さんと一緒にバスから降りた。

 また二人で傘を差して、田舎町の道を歩く。もうお年寄りしかいいないような寂れた町だ。

 近所には目線ぐらいの石垣が続いていて、はみ出た木の枝や庭先に咲くアジサイが滴を垂らしながら軒に並んでいた。この辺は十分田舎なので防犯の「ぼ」の字もない。お風呂上がりのお爺さんがトランクスでウロウロするのがまる見えなんて普通。

 僕は後ろから物珍しそうについてくる黒木さんに振り返る。

「そうだ、黒木さん」

 すでに俺は黒木さんを目の前にしても平常心。言葉も敬語から普通に話すようになっていた。黒髪ロングヘアーがなくなって現実を知った僕は、いまや手の平を返したように気軽に話せていた。恐るべき僕の偏愛ぶり。黒髪ロングヘアーへの幻想がなくなった途端にこの変わりよう。

「なに? 西郷君」と、黒木さんは立ち止まって首を傾げる。

 僕にはこのコスプレイヤーに一つ注意しなければならないことがある。

「僕の家を見たらびっくりするかも」

「どういうこと?」

「まあ、来れば分かるよ」

 彼女は、ん?と首を傾げるが、僕が先に歩くので慌てて水たまりを避けつつ追いすがる。




 傘を叩く雨滴の音楽を聞きながら歩くこと十分。僕は自宅へ辿りついた。

 僕の家の前で黒木さんは口をあんぐりと開けていた。

「もしかして・・・ここが西郷君の家?」

「そうだよ」

 僕の家は一部を除いてど田舎の日本家屋そのものだ。築年数が古くて、雨漏りや庭先の草むしりをしなければならない手の掛かる奴だが、僕にはとても愛着がある。

 正面にはシャッターがピッタリと下りて、そのすぐ右横の石垣の門を通り抜けてアジサイと石畳みの小道を進むと玄関に辿りつく。玄関も引き戸で格子状の木製に磨り硝子がはめ込まれているクラッシックな物。鍵も今時なら百円均一に売っている南京錠の方が、しっかりしてるんじゃないかってぐらいのちゃちな鍵だ。十円玉みたいな鍵穴一つ。

 だが黒木さんはそんなことに驚いてはいなかった。

 彼女は、目を見開きそのシャッターの上に掲げられた看板を見ている。

「西郷君・・・貴方の家は・・・」

「うん、驚くと思った。僕の祖父母はむかし洋服の仕立屋をしていたんだ。西郷洋裁店ってね。古いけどミシンとかも全部揃ってるよ」

 彼女は自分でコスプレする衣装も手作りをする生粋のコスプレイヤー。しかも家が厳しくて作るときは家庭科部のミシンをこっそりと使っているらしい。クラスのアイドルが放課後、部員達のいない家庭科室でアニメキャラのコスプレ衣装を作っているなんて誰が想像できるだろうか?

 つまり、彼女にとってこの家はまさに夢のような場所なのかもしれない。

 赤い傘の下、ごくりと生々しく白い黒木さんの喉が鳴った。

 そして、何かを呟き、黒木さんは僕の方へ振り返った。

 それは黒髪ロングヘアーじゃないのがもの凄く悔やまれるほどの笑顔。もし、四日前の黒木さんにそんな笑顔を向けられたら僕は心臓が止まって死んでいただろう。それぐらいの飛びっ切りの笑顔だった。

「西郷君・・・好きです。付き合ってください」

 僕はその吸い込まれそうなほどの清々しい笑顔に、同じような顔で笑っていた。

「お断りします」

 僕はもう一年以上の恋心が晴れ上がり、学校の王侯貴族である黒木さんなんていう厄介極まる人と付き合うなんて御免被りたかった。



「どうしてよ! 貴方はコスプレしてほしいんじゃないの!? 付き合ったら幾らでも見せてあげるから!」

「嫌だよ! 僕を利用する気満々の彼女なんてお断りだ!」

「なんでよっ! いいじゃない付き合うぐらい! 放課後にちょっとミシン借りるぐらい減るもんじゃないでしょ! も、もしかして私の身体? 駄目よ、そういうのはちゃんと大人になってからじゃないと」

 喧々諤々けんけんがくがくと言い合っていたのだが、勝手に自分で身体の話題を出して、黒木さんはモジモジした。

 それなりの貞操観念はあるのだろうな。ちゃんとあるのにいきなり異性のクラスメートの家に押しかけるなんてよっぽど舞い上がっていたのかもしれない。確かに僕の目当ては身体だ。身体と言っても胸やお尻、足とかではない。

 もう失われてしまった黒髪ロングヘアーなのだ。

「コスプレや身体は・・・もういいよ」

 僕はちらりと黒木さんの黒髪ショートヘアーを見てため息を吐く。

「なにそれ? 変なの。じゃあお友達でどうかしら?」と軽い口調で黒木さん。

 僕は完全にやる気を失ってふて腐れたように口を尖らせる。

「友達も・・・別に・・・」

「ちょっ! 西郷君。ならなんで私にウィッグをプレゼントしてくれたのよ? 貴方の行動は意味不明だわ」

 黒木さんは傘を持ちながらも腕を組んで僕を睨むように見ている。ちょっと下唇が尖っていた。

 でもそう言われたらどう言えばいいのか混乱してしまう。僕がした行動は、彼女とって意味不明だろう。いや、彼女だけじゃなく僕のフェティズムを理解してくれる人でもなかなか分かる人はいないと思う。片思いのクラスメートが髪を短くしただけで、高級カツラを買って突然プレゼントするような変態だ。こんな奴がウヨウヨしていたら世の中に性犯罪が蔓延ってしまう。

 僕が怪訝そうにこちらを見ている黒木さんにどう説明しようかと頭を捻っていると、玄関からガラガラと引き戸を開けて中から小さな女の子が飛び出してきた。

「やっぱりお兄ちゃんだ。声がするから出てきたけど・・・その人誰?」

 玄関から雨に濡れながら出てきたのは僕の妹だった。素晴らしい黒髪を伸ばし、まるで日本人形のように可愛い僕の妹、西郷さいごう香奈かな

 香奈は僕の後ろにいる黒木さんと僕を見比べていた。

「あ、もしかして妹さん?」

「そうだよ」

「初めまして、西郷君のの黒木香美奈かみなと言います。よろしくね」

「え?!」

 香奈は、黒木さんの髪を見ながら驚いた顔をしていた。

 僕は妹に黒髪ロングヘアーの素晴らしさを薫陶にように聞かせている。その僕の彼女が黒髪ショートヘアーという事実に心底驚いたようだ。それは驚きを通り越して恐怖の顔だった。まるで世界が滅ぶ前触れを目撃したかのような。そういえば、寝る間際に何時も黒髪ロングヘヤー以外は非国民だと言い聞かせてたっけ。

 というか、いま黒木さん彼女って言ってなかったか?

 外堀から埋めるつもりか。あとで香奈の恐怖心を取り除いてあげないとな。

「も、もしかして私怖がられてる?」

 黒木さんは、若干震えだした香奈に、ショックを受けたようだった。傷ついた顔をしながらちょっと泣きそうになっていた。

 しかし、そんな黒木さんの傷心はどうでもいいことだった。

 香奈の髪が濡れている。

 あの素晴らしい黒髪ロングヘアーが濡れているのだ。ならば、兄として心ゆくまで拭いてやらねばならぬ。ええい、このようなコスプレ女なんぞ眼中にはない。と心の中で役者ぶってみるものの口から出たのは変態を隠した西郷伸也だった。

「とりあえず、中に入ろうか、黒木さん。香奈、早く中に入らないと風邪引くよ」

 僕はそう言うが早く、放心状態の香奈を連れて家へと帰った。

「あ、うん」

 まだショックを受けていた黒木さんは少ししょんぼりとしたまま僕達の家へと入った。 西郷家は実に古風奥ゆかしい日本家屋だ。

 玄関は、人が踏みすぎてすり減った土間と窪みのある上がりがまち。土間の壁に濡れた傘を立て掛けて、靴を脱いでから上がりがまちを登って廊下に入る。黒木さんはコスプレ女という変態だが、深窓のお姫様気質を持ち合わせているので、礼を言ってから綺麗に磨かれたローファーをきちんと揃えて家へと入ってくる。本当に黒髪ロングヘアーでこんなことをされたら僕のハートは撃墜されているんだが・・・残念でならない。

 既に盗掘された後の宝物庫を見た気分で、僕は妹と一緒に彼女を家の居間へと連れて行く。

「お兄ちゃん。私、麦茶入れてくる」

「香奈、ちょっと待って」

 居間に入る前、香奈がそう言って台所へ行こうとしたのを止めて黒木さんに振り返る。「黒木さん、居間はその横だから先に入ってて。妹が風邪引くと駄目だから」

「え? う、うん」

 いきなり客の放置発言をした僕に黒木さんは驚いていたが、僕の顔つきが真剣だったのか素直に頷いて居間へと入っていた。

 五分後。

 少々物足りないが何とか満足した後、香奈は麦茶を入れに台所へ、僕は黒木さんがいる居間へと入った。

 そこにはちょこんと畳の上に正座している黒木さんがいた。正座をしているが、落ち着きなくソワソワと僕とある一点をチラチラと見比べていた。別にトイレに行きたいわけじゃない。その先にあるものが気になって仕方ないのだ。

 僕はそれを知りながらゆっくりと襖からお客さん用の座布団を取り出して彼女に渡す。「あ、ありがとう」

「もうすぐ香奈が冷たい麦茶を持ってくるよ」

「えっと、大丈夫」

 黒木さんは生返事だ。本当にクラスメートの黒木香美奈さんなのか疑わしくなってくる。彼女は貧乏揺すりもしないし、人の厚意を生返事で返したりはしない、視線を漂わせて人に何かをねだるような濡れた瞳は見せない。

 まるで餌を目の前に「待て」をされている子犬のよう。

 僕はその姿が少し面白くなってにやりと笑う。

「おあずけ」

「なっ!? どういう意味よ!」

「じゃ、見てきてもいいよ」

 僕がそう言った途端、ドタドタと凄い音を立てて黒木さんは西郷洋裁店へと突進した。



「うわぁ・・・」

 その光景を見た瞬間に黒木さんはそう感嘆の声を漏らす。その声の響きには心の底からあふれ出る何かが思わず口に広がったような優しい音色だった。

―――タンタンタン。

 店のシャッターを叩く雨音。

 店の照明をつけていないので、そこは薄暗い海底洞窟のようだ。だけどその洞窟に眠るものを見ている黒木さんの瞳には、間違いなくキラキラと光っている物が映っているのだろう。

「いま、電気をつけるよ」

「・・・うん」

 黒木さんはそう頷き、そっと足を冷たい水に浸すようにそろりと店の土間に下りる。しばらく開けていなかったので埃っぽい。僕も土間に下りて電気をつけるとそこには長年、埃だけではなく誰かの思いが堆積した静かな重みが、ふっと軽くなる。

 黒木さんは白い靴下のまま土間からシャッターが閉じている窓の方へと歩き出すと、そこに眠った一台のミシンを慈しむように触った。

「古いけど・・・ピカピカ」

黒木さんはくすぐったそうに微笑んで、白い手でミシンの上に少し付いていた埃を取る。

「まだ動くよ」

「本当に?」

「嘘ついてどうするの」

 僕は苦笑する。

 彼女が触っているのはウチで一番古いミシン。祖父が使っていた物で、磨くとニスを塗った黒檀のように光り輝く。メーカーは日本で有名なジャノメミシンだ。ミシンはこれ以外にももう少し真新しいものが二台。後は裁断や型紙を作る作業台と家側にある壁の棚に色とりどりの糸が巻き貝のように眠っていた。

 彼女は黒いショートカットの髪をふわりと漂わせてこちらに振り向く。

「ねぇ、西郷君」

「ん?」

「貴方のお爺様とお婆様はこのお店を大事にしていたのね」

「そうだね。頑固一徹の職人気質の人だから道具は全部ピカピカ。でも今は誰も使っていなくて、ちょっと可哀想かな」

 ほんの少しの悲しさを含めて僕はそう言っていた。

 僕がもっと小さな頃、居間でテレビを見ていると祖父と祖母のカタカタ動かすミシンの音が本当に心地よかった。それが中学生に上がる頃は一つだけになり、そして高校に上がったときはその音は聞こえなくなっていた。

 彼女はサっとミシン台の丸い木の椅子の埃を取るとそこに座る。ピアノ演奏家がコンサートの前に祈るような顔で、黒木さんは目を閉じる。そして雨音に耳を澄ましながらミシンの音を口ずさんだ。

―――カタカタカタ・・・

 僕はそれを居間と店の上がり框に座って静かに聞く。

「お兄ちゃん」

 振り向くと僕の後ろには麦茶と茶菓子を乗せたお盆を持つ香奈がいた。

「香奈か」

「うん、わ、私、お邪魔だよね」

「いや、大丈夫。あの人は気にしなくていいよ」

「え・・・でも彼女じゃないの?」

 香奈が少し驚いた顔で僕を見ていた。

 彼女か・・・。四日前なら全力でお願いするところだったけどいまは別にいいかな、と僕は気軽に香奈へと笑いかけた。

「クラスメートだよ」

「そ、そっか。そうだよね」

 僕と香奈がそんな風に話していると、黒木さんが話に割り込んでくる。

「ねぇ、西郷君」

「何? 黒木さん」

 彼女は少し顔を赤らめて伏し目がちに聞く。

「クラスメートから・・・お友達にならない?」

 確かにお友達宣言というのを真面目にに口にすると恥ずかしい。彼女はそういった事を真剣に言ったことがないんだと思う。黒木さんは人気者で自分から言わずとも向こうから友達になりたいと言われ続けたのだ。

 だから僕は意地悪く笑った。

「それでここを使おうって魂胆でしょ?」

 その言葉で少し泣きそうな顔になっていた。僕も少し意地悪しすぎたかと思ってしまいそうなほどだ。

「そ、そんな・・・それも確かにあるわよ。でも・・・私の秘密を話せるが相手が出来たことが一番嬉しいの・・・」

 彼女は精一杯の言葉を絞り尽くすように言葉を絞り出すように言った。だから彼女にここまで言わせた僕は、ちゃんと自分の誠意を伝えなければならない。

 僕は彼女に微笑んだ。

「ならウイッグ被って」

「え?」

 いきなりウィッグを持ち出されて彼女はキョトンと僕に目を向けている。

 僕は自分の変態を彼女にさらけ出す。

「実は、僕がオタクだってのは嘘で、黒木さんがコスプレが趣味なんて知らなかった。僕はただの黒髪ロングヘアーの変態なんだ。髪を切る前の黒木さんの黒髪ロングヘアーに欲情していたんだよ。今日、ウィッグをプレゼントしたのは、髪の長い黒木さんを取り戻したかったから」

 彼女は真っ赤になって自分の身体を抱きしめるようにコチラに牙を剥く。

「よ、欲情って・・・へ、変態!」

「うん、黒木さんと同じ変態なんだ。だからこれでおあいこの友達」

 黒木さんはしばらく僕を怪訝そうに見ていたが、小さくため息を吐く。

「わかったわ。これは私達だけの秘密よ」

 僕はその秘密に頷いた。

「もちろん」

 ここに、僕と黒木さんの変態同盟が結ばれた。

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