雨の降る夜は

伊藤一六四(いとうひろし)

雨の降る夜は

 雨の振る夜は、不思議なことが起こると、確か誰かから聞いたような気がする。


 とはいえ、膝を抱えてうずくまったままでアスファルトの上にいると、冷たさが足から伝って身体に染み込んで来るみたいだ。

 酔っぱらうと、何もかもどうでも良くなるみたい。おろしたてのパンツスーツとかまたクリーニングに出しゃいいや、とか、ぴかぴかだったはずのパンプスなんかまた磨けばいいや、とか、そういう感じ。おえ。でもそれだけは止めよう。人間として、良くない気がする。


 嘉人にフラれて3日目になる。

 理由はありがちだけど、元カノと寄りを戻したからだとさ。ふざけんなっつの。私に何か責任があってのことならまだ余地はあるけど、そうじゃなかったら……そうじゃなかったら、私にはどうしようもないじゃんか。気持ちが離れて行ってしまったのは、悔しいし、私も散々なじったけど、仕方がない、と諦めるしかない。

 そうしてこうして、金曜の夜の新宿で、雨に打たれてくだを巻いているというワケ。

 女の方が恋愛に対して立ち直りが早い、だなんて男の人は良く言うけど、私に言わせれば、冗談じゃない。私たちはいつも何かを諦めるしかないから、何かから立ち直らなくちゃしょうがないから、そうしてるだけの話。

 ……なんて、誰に反論してるんだか分からないことを考えながら、しかも半ば同時に口に出しながら、私は一体何をやってるんだろうと、ふと我に返る。普段道端に居座っているオヤジよりタチが悪いかも。

 もう多分鏡を見るのが怖くなるくらいの惨状だろうなぁ。マスカラは取れまくってるだろうし、唇だってグロスが剥げてるどころの騒ぎじゃないだろう。

 でもそれでも私はこう叫びたい。てか、もう叫んじゃってる。お化けみたいな顔で。


「どうしてあたしじゃダメなのよー!」


「こら、酔っぱらい。いい加減にしろ」

 不意に声をかけられる。が、傍らに人影はない。ヤッベ、幻聴まで聞こえて来たか。

 そう思った途端に、背中をつんつんと何かに突かれる。

「あたしの声を幻聴扱いするんじゃないよ」

 振り返ると、一匹の黒い猫がいる。首輪がついてないから野良猫らしいが、顔立ちに気品というか、育ちの良さが伺える。

 って、暢気に構えてる場合じゃない。猫が、喋った?

 固まっている私に向かって、楽しそうに目を細め、猫が前に回り込んで来る。

「30分前から傍らで見てたけど、あんた酷い酔い方してるわね。まぁー酒臭い、新宿で奈良漬けの匂いが嗅げるなんて思わなかったわ」

「なによぅ」

 こうなりゃ私もヤケだ。他人の視線も、そして猫が喋っているという事実それ自体の驚きも忘れて、猫に突っかかっていく。酔った勢いも手伝っていたのかも知れない。

「好きな人に振られた気持ち、猫のあんたになんか分かってたまるかっての」

「分かりたくもないわね」

「どーゆー意味よぉ」

 はぁっ。猫は妙に大人びたため息を吐く。

「そんなにひとりのことを好きになれたんなら、これからだって同じぐらいに好きな人が出来るわよ。人間は猫みたいに執念深くなりきれない動物だからね。忘れるということを知ってるんだもん。羨ましいくらいだわ」

 ちょっと面白いこと言う猫じゃん。

「猫って執念深いんだ? 知らなかった」

「知らなくてもいいわよ。いい? あんたが振られたのは誰のせいでもない、その人と一緒にいなくて良かったっていうチャイムみたいなもんなのよ」

「チャイム?」

「だって元カノと寄りを戻すくらいの人でしょう? 同じようなこと繰り返すわよ」

「なんでそこまで知ってるの?」

「さっき自分で叫んでたんじゃないのよ」

 そっか。今の私は、どうやら思考と口が相当直結しているのらしい。

「そんな人のことを未練たらしく思ってても時間の無駄、おやめなさい、とっとと次の恋をしなさいっていう、これは神様が鳴らしてくれたチャイムなのよ」

 また泣けて来た。

「そうかなぁ」

「ああもう鼻水まで垂らして。ほら、しゃきっとしなさい、立ちなさいっての。風邪引いちゃうわよ。あたしたちみたいに体毛が生えてないんだから、体温調節が効かないでしょ」

「服ぐらい着てるもん」

 洟をすすりながらも、どうにかふらふらと立ち上がる。

「よし、立てるんならまだ元気ある証拠。さ、とっととトイレに行って、化粧直しでもして来るのね。ちょっとは見られる顔にならないと。あんたにも羞恥心ってもんがあるでしょ」

 ふと猫を見下ろしてみる。ぴんとしっぽを伸ばして、精神年齢は私より上そうだ。

「慰めてくれてありがと」

 ふん、と呆れたように黒い猫はそっぽを向く。慰めた覚えなんかないわ、と言いたげな表情。

「立ち上がったのは、あんた自身の力」


 雨が止んだ。

 ふと我に返ってみると、あの猫はいなくなっていた。あれ? あれれ? さっきまでいたと思ってたのに。どこいったんだろ。

 まぁいいわ。とりあえず立ち上がれたんだから、とりあえず駅に行って、トイレを探して、まずは化粧直しをしよう。そして家に着いたらメイクも、思いも涙も、全部洗い流してしまおう。そうしたらどうなるか……そこまで頭は働かないけど、なんだかあの猫のぞんざいな言い草を思い返していたら、どうにかなるような気がして来た。


 雨の振る夜は、不思議なことが起こると、確か誰かから聞いたような気がする。

 これがもしそうだとしたら、私は運が良かったのかな?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雨の降る夜は 伊藤一六四(いとうひろし) @karafune

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る