後篇
夏休みは祖父母の家への帰省と、アルバイトに明け暮れる日々だった。学校に近い場所でアルバイトをしていると、こういうとき不便だ。
「だから、俺の家に泊まればいいじゃない」
武長は何度も青子に繰り返した。あれから音無の印象を聞いても別に、しか答えず、決まって不機嫌になるので青子はもうあきらめていた。武長が音無のことをよく思わなくとも、青子にとっては大切な存在で、それは変わらない事実だ。
「ブチョーとは一緒にいたいけどね」
なー、と鳴き、すり寄ってくれるブチョーの姿につい頬が緩む。仔猫というのはどうしてこんなにかわいいのだろうか。青い首輪をつけてもらったブチョーはすっかり青子になついており、毎日来ているわけでもないのにわかってくれているようだった。
「ブチョーとは、ね」
すねるような武長の言葉に聞こえないふりを決めこむ。
「成績が出るのって九月一日だっけ? 郵送されるんだよね」
足の上で丸くなり、すっかり眠る体勢を整えているブチョーの体をなでながら、青子は聞く。冷房がきいてだいぶ涼しくなっている部屋で、ブチョーのあたたかさは心地よかった。
珈琲を飲んでいた武長は顔をあげる。昔から青子は紅茶、武長は珈琲だ。
「知らない。そうなの?」
「そうなの? って、成績が気にならないの?」
聞かれて初めて意識したように、武長は宙を見つめたが、やがて首を横にふった。
「別に。青子さんは気になるの?」
「大概の生徒は気になっていると思うけど」
あきれて言うと、武長は興味がなさそうに伸びをした。そういえば高校に入ったあたりから、武長が成績を気にすることはなくなった。小学校や中学校のころは気にしていたのに、高校からは取るに足らないことになっていたようだ。理由は知らないが、確かに武長はいちいち通知表を気にしなくても毎回よい成績を修めていた。
成績優秀者の余裕だと思うと、なんだか腹が立ってきた。伸びをしている脇腹をつつくように攻撃する。完全に気を抜いていた武長は小さく声をあげて、攻撃された脇腹をおさえた。
「何するの」
うらめしげに見られて、青子は思わず笑ってしまう。
「武長は武長だね」
意味がわからない、とばかりに頭に疑問符を浮かべる武長を見て、青子はまた笑う。ブチョーが青子の足の上で規則正しい寝息を立てはじめた。
「ねえ、小学生のときにした約束を憶えている?」
何気なく口にしたが、武長の耳には届かなかったのか、あるいは聞こえていないふりをしているのか、聞き返される。
「え? ごめん、もう一回言って」
青子はなんでもない、と言葉をにごした。
その日は朝から天気が悪く、台風が近づいているとニュースが入っていた。なんとなくいやな予感はしたが、外を見るとまだ雨はふっていなかった。台風が来るのも夜だという。それなら大丈夫かと、傘を持たずにバイトに向かった。
しかし台風の影響かほとんど客足はなく、来て一、二時間で閉店してしまった。はやく帰れて儲けものだ、と前向きに考えていると、武長がブチョーの様子を見においでよ、と誘ってきた。時間もあるしかまわないだろう。そう考えて了承すると、武長の家に着いた途端大雨が降り始めた。
武長の家に入ってテレビを見ると、警報が出ている。電車は動いているようだったが、窓を割らんばかりの風も吹いてきた。もし今外に出れば、傘は即座に壊れてしまうだろう。雷の鳴る音まで聞こえる。
「危ないから、うちに泊まりなよ」
にっこりと武長は笑って言った。しまった、と気づいたときには遅かった。最寄り駅から十分圏内といっても、この雨風のなかを一人で帰るのは確かに青子もこわい。
「図ったのね」
悔しくなって悪態づくと、武長は軽く首をかしげた。
「青子さんって頭いいけど、たまににぶいよね」
事実上の肯定だ。にらみつけると武長はまたにっこりと笑い、電話をかけに行ってしまった。青子の家に連絡を入れるつもりだろう。
窓が激しい風にがたがたと音を鳴らす。風と、雨と、雷と、大きな音がいくつも重なりあってどれがどの音なのかもう判断できなくなっている。小さなころに、武長と二人で台風のなかを飛び出して怒られたことを思い出す。全身びしょ濡れになって、両方の父親に一発ずつ拳骨をくらった。あれはこぶになって大変だった、と青子は一人で笑う。そのいたさに青子は泣きわめき、武長はたえるように黙ったままだった。確かあのときは手をつないでいて、雨に濡れて冷たい体だったが、握っている手だけがあたたかかった。
「くろちゃんが危ないから泊まっておいでって」
九歳の弟相手でも、連絡さえしたら許可がおりる放任主義に今は落胆してしまう。やがて受話器をおく音が聞こえてきた。
「何してるの?」
雷に怯えながらなーなーと鳴くブチョーを抱きかかえながら、部屋の隅で一人毛布をかぶる青子を見て武長は言った。青子が台風をこわがるたちでないことは武長はとっくの昔に知っている。
「泊まらないって決めてたのに」
「なんで?」
後ろから毛布ごと抱きしめられる。突然のことに青子は多少動揺したが、ブチョーにかまっているとき武長が何かしらしてくるのにはすでに慣れはじめていた。顔が赤くなることもなく、驚きの声をあげることもなく、何拍かおいたあとに答える。
「癖になるから」
ずるずると気持ちに区切りをつけられずにいるのに、泊まってしまうとさらに決心が鈍りそうだった。武長のやさしさにつけこんでしまいそうだった。そんなのは違う、と青子は思う。できることなら逃げ続けていたいと思う反面、このままではだめだという思いはつよくあるのだ。
「癖にしちゃえばいいよ」
青子の顔を持ち上げ、武長は上から唇をふらせた。だめ、と青子は頬を軽く染めながら言う。青子の気持ちは前から決まっているのに、踏みこめないよわさを引きずったまま武長に依存するのは、青子の望むところではない。
瞬間、かっと窓が光った。続けて大きな音がして、それに驚いたブチョーが青子の手を離れてどこかに逃げてしまう。
「落ちたね」
雷に特に恐怖心をいだいていない青子は、窓の外を見ながら言った。武長は青子の言葉など聞いていないように唇をふさいだ。
起きると、昨日の悪天候が嘘のように晴天だった。気づけば足元にはブチョーが寝ており、寝返りを打つと武長の寝顔が目に入った。寝起きのはっきりしない頭で見つめる。髪を触ると、さらりと音がしそうだった。
セックスフレンド、という言葉が頭に浮かんだ。今の武長との関係はそれに近いものがあるのではないだろうか。不毛で、不純で、不潔で。青子は武長とこんな関係になりたいのではない。武長も同じだろう。あきらめるのか、受け入れるのか、青子は早々に決めるべきだった。どうしてこんなに恐怖を感じているのか自分でもわからない。他人からすればひどくばかばかしい状況であることはわかっているのだ。
髪から頬にそのまま手を動かすと、武長が表情をゆがませた。起きそうだ。睫毛が震える。うっすらと目が開き始め、眩しそうに顔をゆがめたまま武長が目を覚ました。おはよう、と声をかけると、うん、とねむそうな声が返ってきた。
「晴れたよ」
「うん」
「台風は過ぎたみたい」
「うん」
「私たちは、いつまで曖昧な関係を続けるんだろうね」
青子のその言葉に、武長は完全に目を覚ましたようだった。ぱちりと目を開け、体を起こす。無造作に落ちているシャツに袖を通して、ベッドから出た。怒ったのだろうか。青子が不安に思って半身を持ち上げると、青子に背中を向けたまま武長は言った。
「青子は、俺が信じられないんじゃないんだよね。俺の気持ちがいつ変わるか、それをおそれているんだよね」
それは自分に言い聞かせているようでもあったし、青子のことを理解しての言葉のようでもあった。
「俺はその、青子の保守的なところがとてもすきだよ」
大きく伸びをする。落ちている青子の服を拾いあげ、青子に渡す。その顔には確かに笑顔が浮かんでいた。
「こわがりで、さびしがりで、…………」
武長は何度か目を瞬かせ、青子の額に唇を落とした。
「今の状態は俺にとって、けっこうしあわせではあるよ」
表情と言葉が一致していないよ、という言葉は飲み込んだ。それをさせているのは他ならぬ自分だ。
そのあとはいつもの武長だった。青子は額に手を当て、朝の準備を始める武長の後姿をじっと見やる。いつの間にあんなに大きくなってしまったのだろう。ずっと一緒だったはずなのに、思いに気づいたのは間違いなく青子のほうが先であるのに、青子には武長のほうがよほど大人に見えた。青子の足元で、ブチョーが一つ大きなあくびをした。
初めての朝帰りをすると、もう抱きついてはこないが弟が出迎えてくれた。
「おかえり。大丈夫だった? 一応阪急は動いていたみたいなんだけど」
JRはとまったのにさすがだよね、と弟は地元の電鉄を褒め、青子に紅茶を入れてくれた。
「傘も持っていってなかったみたいだし、兄ちゃんのところが近くにあってよかったね」
よかったのかどうかはわからないが、青子はとりあえずうなずく。
小学三年生になった弟は、低学年から中学年になったからか、急に大人びた。このころの子どもは成長が早いなあ、などと親の目線で見てしまう。
いずれ弟も彼女を紹介してきたりするのだろうか。まだ想像もつかないことではあった。
「くろちゃんは武長のこと、どう思う?」
「どうって?」
「すきとかきらいとか」
突然された問いに首をかしげながらも、弟は答えてくれた。
「すきだよ。頭いいし運動もできるし、やさしいし」
そうだね、武長はやさしい。弟の言うとおりだ。何も言えずに机に突っ伏す。早く夏休みが終ればいいのに。
姉の様子に首をかしげながらも、深くは聞いてこない。いい弟を持った、と今さらながらしみじみと思う。
それからは引きずられるように武長の家に泊まるようになった。ブチョーの様子が見たいからだとか、もう遅いからだとか、何らかの理由をつけて青子は自分を納得させることにした。そうやって整理をしようとしているのをわかっているのか、武長はただうなずくだけだった。
「夏は痴漢も増えるしね」
昔から青子は痴漢に遭いやすいたちだった。中学生のときは見知らぬ男に連れこまれそうになったこともあるし、電車に乗ると高い頻度で触られる。武長がいるときは武長が助けてくれるが、一人のときはそうはいかない。何人か警察に突き出したこともある。
大学に入って電車通学になってからは、朝が満員電車なので頻度もこれまで以上だった。もうあと一駅だからと我慢してしまうときもあったし、我慢ができず思わず殴り飛ばしたこともある。周りの誰かが助けてくれることもあった。
気持ち悪さはいつまでたっても減らなかったが、大声を出せるくらいには慣れてしまった。よいのか悪いのかはともかく、少なくともかなしみより先に怒りがくるくらいには気丈になることができた。
「俺が実家にいたら、家まで一緒なんだけどね」
言いながらも、武長はあまり後悔してはいないようだった。どうして大学まで一時間圏内であるのに武長が一人暮らしを始めたのか、青子にはいまだにわからなかった。
「お姉ちゃんと二人でいたいからじゃないの?」
けろっと弟は言った。年齢不相応なところが見え始めた十歳下の弟は、このときも九歳とは思えない顔をしていた。
「僕はずっと、お姉ちゃんと兄ちゃんは相思相愛なんだと思ってた」
相思相愛、という言葉に、飲んでいたお茶を思わず吹き出しそうになる。そういう言葉をいったいどこで覚えてくるのか。かわいいだけだった弟は青子が思っているよりもずっと成長しているようだった。
青子が何も言えずにいると、違うの? とばかりに首をかしげてくる。相思相愛。そうだと言えばそうであるし、違うと言えば違う。まだ中途半端な距離を保って、気持ちの均衡をはかっている最中なのだ。
「くろちゃんには、そういう風に見えるの?」
「うん。だって兄ちゃんは、お姉ちゃんにだけ顔が違うもの。昔から」
弟の昔とはいったいどのあたりだろうか、と思いながら、青子は目を泳がす。顔が違う? 青子自身は気づきもしなかったことだ。武長はいつだって平等で、公正で、きっと彼女にだけは別の顔を見せているのだろうと思っていた。
「しーちゃんは?」
「しーちゃん? しーちゃんはお姉ちゃんにも僕にも、同じ顔をするよ。お姉ちゃんもたのしそうだけど、僕への顔と一緒」
言って、弟は机に宿題を広げ始めた。いきづまると青子に聞いてくる。それに答えながら、青子はもう一度頭のなかで武長の顔を思い浮かべる。やはり違いはわからなかった。
夏休みが終わって、初めての後期が始まった。前期と違いいくつかのまとまった休みがある後期はあっという間で、前期の長さが嘘のように過ぎていった。
間があく分、勉強を持続させるのは難しかった。ついこの前まで夏であったことなどすっかり忘れてしまうほど、日が落ちるのも早くなっている。
「遅くなる前に帰るか、うちに泊まるか、どちらかにしたら?」
武長は青子に勉強を教えながら、そんなことを言った。
「春ほどじゃないにしても、暗くなるとやっぱり変質者は出やすいし」
一理ある。ついこの前も痴漢を一人突き出したばかりで、変質者に対する不安は消えない。露出狂に対して寒くないのだろうか、などと冷静に考えることができてしまうほどには慣れてしまっている自分にがっかりしながら、青子は課題に向き合う。
「そうだね。今まで武長が守ってくれていたところもあったけど、今はそれもないしね」
その言葉を聞くと、向かいに座っていた武長は青子の横に移動してきて、じっと目線を投げかけてきた。あまりにじっと見つめてくるので、集中できなくなってペンをおく。武長のほうを向くと、頭をなでられた。なぜなでられるのかわからなかった。
「なに?」
「すきだよ」
もう何度目かわからない告白だ。
「ありがとう」
「そうじゃないよ」
机の下にいるブチョーが、なー、と一言鳴いた。
「そうじゃないよ、青子。俺は青子がすきだ」
あとは口をふさがれて、いつもと同じ不毛な関係だ。
正月に入ると武長も実家に戻ってきて、何年かぶりに青子の家と武長の家とで、年越しをした。小学生のときには当然のようにやっていたのだが、いつの間になくなっていたのだろう、と思い返す。おそらく中学二年生あたりからだ。中学一年生のときはあった覚えがある。仮に中学一年生までだったとして、青子と武長は十三歳、弟は三歳。さすがに弟は前のときを憶えていないようで、どこか緊張しているのかしばらく青子のそばを離れなかった。
音無からも年越し祝いの電話がかかってきた。実家に帰っているらしく、電話越しににぎやかな声が聞こえてくる。にぎやかだね、と伝えると、
「毎年親戚が集まるんだ。いい大人が酔いつぶれて大変だよ」
介抱することが確定している音無があまりにそのままで、青子は思わず笑ってしまう。毎年集まっているのなら、毎年介抱役なのだろうな、と想像した。
「今度は青子の試験が終わってからかな。後期は授業がばらついていて整理しづらいでしょう」
次に会う日を決めて、青子は電話をきった。居間に戻ると武長の姿が見えない。あたりを見渡していると、すっかり空気に慣れた弟が、武長が連れてきたブチョーを膝に乗せながら教えてくれた。
「兄ちゃんなら外だよ」
窓の外を示される。青子も窓から庭に出ると、武長が煙草を吸っていた。喫煙姿は初めて見たので、多少とまどう。煙草の煙がどうしてもすきになれない青子は窓を閉め、少し離れた場所に立った。気づいた武長がこちらを向く。青子を見ると、武長は煙を吐いて、すぐに煙草の火を消した。
「煙草、吸ってるんだ?」
武長は一拍おいて、少しね、と答えた。
「自分で買うことはほとんどないけど」
青子が煙草をすきではないことを知っているので、見られちゃったか、と武長は笑う。早生まれの武長はまだ十九にもなっておらず、それも青子を驚かせた。大学に入ってから同級生が年齢関係なく喫煙をする姿は見てきたが、武長もしているという考えがなかった。
「どうして吸うの?」
一月の冷気に体を震わせると、それに気づいた武長が自身の上着を青子にかけた。
「手っ取り早いストレス解消になるから」
言いながら、形の崩れた煙草の箱をポケットに入れる。かけてもらった上着からは、少しだけ煙草のにおいがした。少なくとも青子の知っている武長のにおいではなくなっていた。少しでもよく知っている武長のにおいを見つけようと、違和感をぬぐうように青子は上着を引き寄せる。
そこにいるのは間違いなく青子の知っている武長だったが、どこか別人に見えた。
「ストレス解消」
初めて聞いた言葉のように青子はつぶやく。
「私のせい?」
いつまでたってもはっきりした態度をとらないから。武長に告白されてもうすでに一年が過ぎていた。肌を重ねながら思いにこたえない。愛想を尽かしてもおかしくはない月日ではある。
「それは自意識過剰ってやつだよ」
武長は大きく息を吐いた。息は白くなり、煙の代わりのように宙に舞っていく。
「ストレスがたまるようなことは世の中にごまんとある。昨日と今日で教授の言っていることが違うとか、お客の態度が明らかに理不尽なときとか、ごみ出しを忘れた日とか」
そういう些細なことがふり積もってストレスになるんだよ、と武長は言った。いつも愛想よくしている武長のそういう面を青子はあまり見たことがない。何かに腹を立ててもその場で解消しているように見えたし、実際一度口に出して怒ると武長は引きずらない。
自意識過剰、という言葉が頭のなかをめぐる。武長のなかで自分の存在がどれだけの割合を占めているのか、途端に不安になった。武長にとっては日常のなかの、些細な一つでしかないのだろうか。
「でも、いい加減いらだちもするけれどね」
はじけるように武長を見る。一瞬背筋がひやりとした。いつまでも待ってくれていると、根拠もなく信じていたのだ、とその言葉ではっきり自覚した。武長は別に超人でもなんでもない。少し考えればわかることだ。ただ武長の思いにあぐらをかいているだけ、甘えているだけだということが。
「あまり外にいると風邪ひくよ。中に入ろう」
そこにはもう、青子の知っている武長がいた。
単位を落とすことなく、二年生に上がった。二年生になったからといって何かが劇的に変わるということもなく、青子よりもむしろ弟のほうが成長を続けているようだった。小学生のときの一年は大きいのだな、と感じる。相変わらず勉強でわからないところがあると青子に聞きにきていたが、口調や態度がまるで違う。自分一人で生きているような自信に満ち満ちていた。青子にも、あるいは武長にもあったことだ。
青子の小学生のときの記憶はほとんど武長と一緒だったことで占められている。クラスが一緒になったのは一年、四年、六年生の三回で、それ以外は隣のクラスですらなかった。登下校を一緒にし、休憩時間には一緒に遊び、放課後は二人で探検と称していろんなところに出入りし怒られた。このころの武長は特別頭がよいでもなく、運動に特別秀でているでもなく、平均的な小学生男子だった。むしろ青子のほうが成績優秀で、運動測定もA判定をもらうような万能さを持っていた。いまだに両親は小学生のときの青子を自慢に言うし、青子自身、武長に勝っていた唯一の時期として誇りに思っている部分がある。
何かにつけ二人で行動し、ずっと同じことをしていた二人だったが、青子が自分と武長は違うのだ、と気づいたのは小学五年生のときだった。下腹部にひどい痛みを感じて保健室に行くと、おめでとう、と言われた。生理だった。保健の授業で習ってはいたが、遠くの世界のように感じていた出来事だ。これが武長にはこないのだ、と実感した。今までさんざんしてきた擦り傷や切り傷とはまったく違う、初めての鈍くて重い痛みは、泣きたくなるほどだった。武長に助けを求めたところで完全に理解してもらうことは不可能なのだと、それがどうしようもなく青子をかなしませた。
一つになりたいのかもしれない、と青子は今になって思う。まるで同じ生き物であるかのように感じていた武長は当然ながらまったく別の生き物で、青子は武長と一つではないとそこで知った。なんともおかしなことに、青子はそのときまで武長と一つだとどこかで信じきっていたのだ。武長にはばかなことだと一笑に付されるかもしれないが、本気でそう思っていた。
大学も二年生になると当然、後輩ができた。大学で下級生との交流はほとんど皆無といってもよかったが、高校のときの部活の後輩が同じ大学に入ってきた。運動部によくいる元気さがありあまっているような子で、比較的青子と仲がよかった。偶然校内で再会し、なつかしさをひとしきり噛みしめ合ったあと、その後輩は言った。
「青子先輩は武長先輩と本当に付き合ってないんですか?」
もう何度目かわからない質問をされ、青子は眉一つ動かさずに笑顔のままうなずいた。
「幼馴染で一緒にいるからって、みんな誤解しすぎ」
いつもどおり茶化すような言葉も一緒に言うと、大概が信じてくれた。この子も同じで、そうなんですか、と疑うこともせず納得する。それならお願いがあるんです、と続いた言葉に、青子はとまどった。
「私ずっと武長先輩がすきで、青子先輩、呼び出してもらえませんか?」
それでもかわいい後輩のために、青子は快く了承した、体を装った。なぜ私が、という思いは胸の奥へとしまいこむ。実際付き合っていないうえ、茶化したのは自分自身なのだ。後輩に罪はない。指定された日時をメモし、笑顔で後輩と別れる。別れるときの後輩は笑顔で、少しだけ照れているようだった。その様子はほんとうにかわいらしく、武長はもしかして自分に愛想を尽かしてあの子に鞍替えするのではないだろうか、とさえ思った。顔がゆがんでいるのを感じて、あわてて無表情を繕う。
「青子さん」
教室に行くとすでに武長がきていた。武長は隣の席を示し、示されたとおりに青子も座る。
「いつも五分前にはくるのに、めずらしいね」
あと二分ほどでチャイムが鳴る。高校の後輩と偶然出会って、とぎこちなく答える。
「それで、この時間ここに来てほしいって」
メモを渡すと、武長の表情が変わっていくのが見えた。笑みが消えて、無表情になるまでの過程がはっきりと。正月のときに見た顔と同じ雰囲気を感じて、青子は内心びくりと震える。
ふうん、と武長はひらひらとメモを泳がし、
「呼び出しを頼まれたんだ」
かわいい後輩なのよ。青子はひとりごとのように言う。かわいい後輩ね。武長も同じように繰り返した。隣に座った肩越しに怒りが伝わってくる。
「呼び出しの内容は?」
「聞いたけど、その子のためにも私は言えない」
わかっているだろうに、その意地悪さに青子は目をそらす。反対に武長は青子から目を離そうとしなかった。
「それを聞いても、青子さんは了承したんだ」
何と答えればよいのかわからず、青子は沈黙する。武長が言わんとしていることはわかっている。わかっているが、青子は気づかないふりを続けるしかなかった。認めてしまえばその時点で後輩の思いも踏みにじることになる。たとえすでに踏みにじっているとしても、それを自分で認めるわけにはいかなかった。
「いいよ、行ってあげる」
笑みもなく、チャイムとともに冷ややかな声で放たれた。明らかに怒っていたのに、その場で指摘されないのは初めてのことだった。
呼び出しに応じてくるから、今日は先に帰っていて。授業が終わると武長は言った。その態度は冷ややかなままで、青子を不安にさせる。武長が下校を別にしようと促したのは、高校のときの一回以来だ。あのときは武長の彼女が原因だったが、今回は青子がその原因をつくったようなものだ。ショックを受けるのは間違っている、と言い聞かせる。
家には帰らず、そのまま音無との待ち合わせ場所に向かう。三時間ほどはやくなるがかまわなかった。家に帰って弟の笑顔でも見れば少しは気持ちが晴れるのだろうが、なぜだかそれをしたくなかった。卑怯だ、と自分でわかっているからかもしれない。卑怯だ。
喫茶店に入り、しばらく課題と向き合う。大学受験のときから、頭を空っぽにする手段は勉強がもっとも適当だった。数字を追いながら、注文したときには充分に温かかった紅茶を飲む。口のなかにほんのりと苦味が残った。
それから行くあてもなくひたすら足を動かし、待ち合わせの時間になるころにはぐったりと疲れていた。顔にも出ていたのか音無と会うなり大丈夫? と問われる。青子は大丈夫と答え、とりあえず約束の店へと入ることになった。
「あのね青子、ちょっと相談があるんだ」
席について落ち着くと、音無は言った。青子が音無に相談することはあっても、音無が青子に相談することはめったにない。
「俺が今、青子に割いている時間を少しだけ、分けてほしいんだ」
噛み砕いて言えば、あまり会えなくなるということだ。仕事が忙しくなったのだろうか、と首をかしげると、音無は少しだけ照れたように笑った。言いにくそうに逡巡したあと、うれしそうに続ける。
「恋人ができたんだ。しばらくは彼女の時間を増やしたい」
わっ、と青子も笑顔になる。おめでとう。どんな人なの? どこで知り合ったの?
「そう一気に質問しないでよ」
どこかくすぐったそうに、音無は言う。
「大学のときの後輩だよ。だから青子の先輩にあたるね。一個下で、今年度から社会人」
小さくて、ぱっと見て社会人どころか大学生にも見えないかもしれない。笑いながら言う。その様子がほんとうにしあわせそうだったので、青子もつられて笑顔になる。会える機会が減るのはさびしかったが、そのひととの時間をたくさん持ってほしい、とも思う。音無がしあわせだと青子もしあわせになれる。なんだかおすそわけをもらったみたいだ。思いがけなくて、そしてうれしくなる。
「いつか会わせてね」
今すぐにでも会いたい気持ちをぐっとこらえて、青子は言った。
「うん、青子にはちゃんと紹介したいな。青子は俺の」
言いかけて、ちらと青子を見やる。何を言おうとしたのだろう。なんの根拠もなかったが、青子は大丈夫、と笑った。
「俺の、妹みたいなものだからね」
すぐに反応が返せなかった。音無のことを兄と思ったことはない。だいいち青子は家族のなかで姉であり、自分が妹になるという考え自体がないのだ。それでもそう言われて、咀嚼するように口のなかでつぶやいた。妹。世の中の妹というのがいったいどんなものなのかはわからなかったが、悪くない響きだと思った。妹か。
言わないほうがよかっただろうか、と音無が多少不安そうに青子を覗きこむ。青子は顔がむずむずするのを感じた。今度はしっかりと口に出した。
「妹かあ」
頬が緩んだのを、自分でも感じた。音無は少しだけ驚いた風を見せ、すぐに微笑み返した。
兄妹ならば、家族だ。切っても切れない関係だ、と青子は嬉しくなる。そこまで音無が思っているのかはわからないが、青子はそう思った。そしてそう思うことにした。
「それならお兄ちゃんだね、しーちゃんは」
「そうなるね」
音無も笑ったところで、料理が運ばれてきた。青子は食事をしながら音無の恋人について飽きるほど質問を繰り返し、音無は一つひとつに丁寧に答えてくれた。泣き虫であることだとか、負けず嫌いであることだとか、なかなか素直になれないことだとか。
別れ際、音無は青子の頭をなでた。
「ちょっとだけ青子に似てるよ。見た目じゃなくて、中身がね」
そのまま髪をぐしゃぐしゃにかき乱される。思わず小さく声をあげた。何するの、と言葉だけで怒ると、音無は武長に似たあの笑顔を見せた。
「青子も、自分の気持ちに素直になっていいころかもね」
それじゃあね、と最後に乱した青子の髪をまた丁寧に直して、音無は行ってしまった。
素直に?
しかし今さら、気持ちを伝えるすべがすっかり青子にはわからなくなっていた。
「しーちゃん、元気だった?」
どこか落ち込んだ気持ちで家に入ると、出迎えてくれた弟が聞いてきた。弟が面倒を見ていなければならない年齢ではなくなってから、音無と弟は会っていない。また音無が落ち着いたら、今度は弟と一緒に会おう、と思った。
「元気だったよ。次は一緒に会おうね」
「うん」
無表情だがうれしそうに弟はうなずく。よく遊び相手になってくれた音無と会えなくてさびしいのだろう。弟の世話を見るのは青子の役目だったので、弟は年上との付き合いに慣れているところがある。
「ねえくろちゃん、下の子ってどんな感じ?」
「下の子って、弟や妹ってこと?」
そう。うなずくと、弟は軽く宙を見る。考えるしぐさがもう彼は小さくないのだ、と実感させた。
「わかんない。兄になったことはないし。でも、友だちとか見ていて思うのは、先生に甘えるようなことを言うのは下の子のほうが多いかな。ひとりっこは自分がいやになったら意見を言うって感じで、上の子のほうがやっぱりちょっとしっかりしてる。責任を持とうとしているっていうか」
班長とかによくなるよ。言われて、班長という言葉を理解するのに多少の時間を有した。そういえば小学生のときは班に分かれて行動させられていたっけ、と思い出すまでの時間。
弟は不本意かもしれないが、こうして話を聞いていると一度通ってきた道なだけに世代差を感じてしまう。十歳の年齢差は大きい。弟はまだ、手の指で年齢を数えられるのだ。
「くろちゃんは持とうとしないの?」
すると弟は悩むようなしぐさを見せて、首を横にふった。
「積極的に持とうとはしない」
年齢が離れているせいで、どこかひとりっこの感覚もあるらしかった。
武長はひとりっこだが、いずれ会社を継ぐためかよく「行動に責任を持ちなさい」と言われていた。それを横で聞いていた青子は自分にも言われているような気持ちになったのを思い出す。武長の家に遊びに行く機会が少なくなってからはめっきり聞かなくなったが、今の自分の行動に責任を持てているのかと聞かれると答えにつまってしまう。
「お姉ちゃんは妹になりたいの?」
「今日しーちゃんに言われたの。青子は俺の妹みたいなものだから、って」
自分の姉が妹のようだ、と言われたというのは弟には理解しにくいことのようだった。年齢のせいかな、とひとりごとのようにつぶやく。そして青子を見て、でもよかったね、と言った。
「何が?」
「だってお姉ちゃんはもっと甘えることを知ってもいいと思うから」
目を瞬かせる。笑い飛ばそうかとも思ったが、弟はいたってまじめだった。
全体、弟は青子よりも冷静だ。青子の知らないこともたくさん知っている。あるいは忘れていたことを、弟はまだ体感している途中なのだ。学校のプールは葉っぱや虫の死骸が浮かんでいて意外と汚いことや、鉄棒で逆上がりをするときは蹴り上げる力が重要なこと、校長室にある豚のぬいぐるみがかわいいこと。
物事を客観的に見るのは弟のほうが断然勝っている、と青子は思う。だからきっと弟の言うことはほんとうなのだ。青子はもっと甘えることを知ってもいいのだ。
「妹になれたのなら、きっと勝手に甘えられるようになるよ。たぶん」
知らないけれど、と弟は続ける。よくわからないが自信に満ちた表情をしていた。
「それならくろちゃんは、甘えるのが上手なの?」
「お姉ちゃんよりはね」
はじけるように弟は笑い、青子を幸福な気持ちにさせた。
電話が鳴る。こんな遅くに誰だろうと思いながら、青子は受話器をとる。弟は時計を見ておやすみ、と青子に言った。青子は電話に出ながら、声には出さずに答える。おやすみ。
「夜分遅くにすみません。武長です」
「武長?」
どきりとした。普段より一つ二つ低い声の武長は、電話口が青子だとわかると用件だけを手短に伝えた。
「今から出てこられる? 悪いんだけど、うちまで来てもらえるかな。駅まで迎えに行くから」
言葉自体はたずねる形になっていたが、有無を言わせないつよさがあった。わかった、と青子が答えると、うん、とうなずいて、武長はすぐに電話をきってしまう。先ほど脱いだばかりの上着を手にとり、まるで追われているように青子は家をあとにした。
駅というのはてっきり武長の家の近くの駅のことかと思っていたが、青子の最寄り駅のことだったらしい。駅の電灯の下に武長が一人立っていた。公衆電話から電話をかけてきたようだった。青子が乗るのとは逆方向の電車がとまると、勤めを終えた人たちが大勢降りてくる。青子はその波にのまれないよう武長のもとへ行くと、武長は行こうか、と一言だけ言った。そしてさっさと改札をくぐってしまう。青子も慌ててあとについていった。
電車は朝の満員電車ほどではないが、多くの家路についた人々が乗っていた。
乗り換えの際にたまたま一つ席があき、武長は青子に座るよう促した。青子が促されるまま座ると、無言のまま武長は青子の前に立った。人が多く狭いために、少しだけ近い。しかし武長は青子のほうを見ようとはしなかった。がたんごとん、といういつもと同じ電車の音がやけに響いて聞こえる。うかがうように武長を見るが、無表情のままだ。青子は目線を前に移し、やがて落とした。少しだけ震えている自分の足が見えた。
目的地に着くと、降りようか、と武長が促す。そのときにはあれだけいた人もだいぶ少なくなっていた。何人かが青子たちと一緒におりて、電車はまた行ってしまう。
改札を抜けると静けさが広がっていた。もともと青子たちが通う大学以外にこれといった建造物がない地域だ。おそらく同じ大学であろう学生らしき人が何人か歩いているくらいで、人通りは多くない。
部屋の前まで来て、武長は鍵を差し込む。何かが落ちるような音がして、武長は鍵を引き抜いた。ドアを開けて入るように手でしぐさを取る。青子はどこか見知らぬ場所に来てしまったような心細さを感じながら、部屋に入った。
なー、という声がして、ほとんど反射的に青子はそちらを向いた。ブチョーがしっぽをふり、青子に挨拶をするように足に体をこすりつけてきた。そうだ、ブチョーがいたのだ。あからさまに安堵する自分を感じながら、しゃがみこんで頭をなでる。ブチョーはうれしそうにのどを鳴らした。そして青子は手も震えていることに気づいた。
武長がお茶を入れてくると、ブチョーは青子から武長のもとへと行ってしまう。武長はブチョーを持ち上げ、慣れた様子でひとしきりかまうと、ごめんね、と言った。
「ちょっとだけ散歩してきてくれるかな。一時間くらいでいいんだ」
窓を開けて外に出されると、ブチョーはさびしそうになー、と声をあげたが、武長は窓をしめてしまう。それまで鳴いていたのがあきらめたのか、窓がしめられたのを確認するとブチョーは軽やかな足取りでどこかに行ってしまった。彼はなー、としか鳴けないのだな、と青子は今さらながらに思った。現実逃避だとはわかっていた。ブチョーがいなくなってしまって、武長と向き合うほかに何かをすることができなくなってしまった。
「お茶どうぞ」
青子にコップを渡して、武長もお茶を飲む。間も持たないのでコップを口元に持っていくと、のどがひどく渇いていることを知った。
「こんな時間にごめんね」
武長は言ったが、声は低いままだ。こちらを見ようとはしないまま。青子は首だけで返事をする。うちは放任主義だから大丈夫、と決して首だけでは伝えきれない言葉を含めて。声を出したらきっと震えていると予感していた。
伏せていた目を青子に向け、武長は宣言するように言った。
「行ったよ」
一瞬何のことなのかわからず、青子はゆっくりとまばたきをする。そして後輩に頼まれた呼び出しのことだ、と気づいた。
どう反応するのがよいのだろうか。それを伝えることによって、武長は何を求めているのだろうか。一度考えはじめるとどうしたらよいのかわからなくなり、青子はとまどいのままに答える。
「そう」
思ったより声は気丈だった。代わりに口にしたあと、コップを持つ手の震えがひどくなったのを感じた。このまま飛び出していってしまいたい。武長から目をそらす。わからないだなんて嘘だ。この状況を打開する方法を、青子はずっと前から知っている。
「呼び出しの内容は知ってるって言っていたよね」
「うん」
「たぶん聞いたとおりだよ」
「うん」
武長は一度青子から目を離し、眉根を寄せた。青子はそれを見なかった。代わりに小さな溜息の音が耳をつんざくようにして聞こえてきた。
数学を解けばよいのだ、と青子は思った。頭を空っぽに、できるだけ空っぽに、何も考えないように、目の前の問題にだけ集中するように。かつてやった問題を思い出してもう一度頭のなかで解けばよい。しかしいくらやってもうまくいかなかった。問題を思い出そうとしたらうまくいかず、うまく思い出せても今度は解き方がわからなくなり、解き方がわかっても答えが導き出せない。
「すきだと言われた。付き合ってください、高校のときからずっとすきだったんです、お願いします」
武長が言葉を重ねるたび、青子のなかに鉛球が積み重なっていく。そうして青子はその重さにたえきれず、動き出せなくなる。
「……かわいい子だったでしょう」
勢いよく頭を持ち上げて、青子は言った。不自然なくらいの笑いをつくり、それでも武長のことは見ないようにしながら、つとめて明るい声を出した。
「一年生のときから代表に選ばれるような子で、いやみのない、見ているこっちが元気になるような力を持っているの」
何を言っているのだろう、と思った。言っていることは確かに本心のはずなのに、後輩を侮辱しているような気持ちにさえなる。脳裏に後輩の笑顔が浮かんだ。大丈夫、彼女のことをかわいいと私は思っている。だから武長にもそのかわいさを伝えよう。なるべく等身大で、彼女のよいところを並べ立てて。
「部長に選ばれていたくらいだから人気もあるし、努力を怠らないし」
それにね、と青子が続けたところで、武長は机をたたいた。およそ夜に似つかわしくない大きな音が部屋を包む。青子はびくりと体をふるわせた。反射的に武長のほうを見る。
「いい加減にしなよ」
どなられて、さらに体を震わせる。眉をつりあげ、片目をひどくゆがませた武長が目に入った。こんなにも武長が怒っているところを初めて見た。青子の知っている武長は静かに、理論的に怒る。少なくともどなったりはしないし、机をたたいたりなどもしなかった。
「泣くまで自分を装う必要なんかどこにもない」
言われて、泣いていることに気づいた。気づくとそれは洪水のようになって、青子の咽喉をびくつかせた。息ができなくなる。
「今までさんざん言ってきたけれど、俺はね、すきだなんて簡単な言葉を使いたくない。こんな、奥からあふれてどうしたらいいのかわからなくなるような思いを、すき、なんてたった二文字で表せるなんて思わない」
武長は机をたたいたほうの手を握りしめる。力に任せ握りしめているせいで、かすかに震えた。青子は武長から目をそらせないまま、嗚咽を繰り返した。これでも武長が怒りをおさえながら、青子を納得させるように心がけていることがわかる。今にも叫びそうな顔をしながら、耐えていることで唇をふるわせながら、武長が青子に向き合っているからだった。
「でもわかるでしょう? たった二文字だから、口にしやすくて、伝わりやすい。だから俺はあきられようと、何度でも、何度だって、青子にすきと言うよ。そう簡単にこの気持ちは変わらないって信じてくれるまで言うよ」
握りしめていた手をほどき、武長は口元をおおった。その様子を見ながら、泣きそうだ、と思った。泣くのを必死にこらえているようだ、と。青子は涙をとめられないまま、武長を見つめた。武長は口元から手をはずし、いまいましげに髪をかきあげた。
武長の目が青子から離れると、青子も目線を落とした。いつの間にか落ちたしずくが青子の手をぬらしていた。嗚咽を必死に押し殺し、でも、と青子は言った。
「でも、覚悟が」
いつかの音無の言葉が思い出される。恋人というのは今の関係を一度崩し、一からつくりなおすこと。それだけの覚悟がいること。
小さな声だったが、武長は拾ったらしい。
「覚悟?」
再び武長は青子に目をやり、なかば強引に青子の顔を自分に向けた。
「俺は青子がすきだよ」
まっすぐ武長に見つめられて、青子は小さく息をとめた。
「青子も俺のことがすきなら、覚悟なんてそのあと一緒にすればいい」
今度こそぐしゃりと顔をゆがめて、青子は自分の頬に添えられている武長の手に、すがりつくように手を重ねた。ゆれている視界で、武長の顔が笑んでいるのが見える。見えると、飛びつくように武長に抱きつく。武長は勢いにおされることなく受けとめて、青子の頭を少しだけなでた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
小さい子がするような叫びに近い謝罪を口にする。武長はうん、とうなずいた。
「待っていてくれて、ありがとう」
すると武長はふきだすようにして笑い、まったくだよ、と悪態づいた。
あたたかい、と思った。服ごしに伝わる体温も、煙草のにおいのしない武長のにおいも、すきというたった二文字の言葉も、すべてがあたたかい、と思った。
抱きついたまま武長の服に涙をしみこませると、青子はいつの間にかねむってしまった。
目を覚ますとすでに外は明るく、頭ががんがんといたんだ。それとほとんど同じころに体の不自然な痛みも感じて周りを見渡すと、武長と目が合った。
「おはよう」
おはよう、と答えて、徐々に頭がはっきりしてくる。昨夜のことを思い出し、青子は思わず顔を真赤に染めた。さんざん泣きわめいた記憶が羞恥心を刺激する。体の痛みは抱きついたままねむってしまったからだと気づき、耳まで赤くなっているのが自分でもわかった。
「頭は痛くない?」
いたって態度の変わらない武長を見て、恥ずかしがるのがばからしく思えてきた。
「いたい」
素直に答えると、だろうね、と笑われた。
「顔を洗っておいでよ。涙のせいでひどい顔をしてる」
確かに頬のあたりから首まで、かわいた感触がする。言われたとおり洗面所に向かう。立てるのか不安になるほど足に力が入らなかったが、少しふらついただけで無事に歩くことができた。
鏡を見るとこの世の終わりでもきたかのような、落ちくぼんだ顔をしていた。自分で自分の顔に衝撃を受けていると、足元でなー、と声がした。ブチョーだった。いつの間に帰ってきたのだろう。人懐こくすりよってくるブチョーを軽くなでて、青子は顔を洗った。
「ほかはいい? 何もないから朝食は外でいいかな」
抵抗する理由が見つからず、青子はうなずいた。今日は木曜日だ。そのまま学校に行くつもりらしく、武長は荷物を手に持った。青子は最低限のもの以外持ってきていないが、今から戻って取ってくるほどの時間はない。
「プリントなら見せてあげるよ。ルーズリーフでいいならノートはあげる」
青子の心配を読みとったように、武長は言った。
あとは拍子抜けするほどいつもどおりの日常だった。朝食を食べているときも他愛のない会話をし、登校し、授業を受けた。昨夜はうまくいかなかったが、勉強をしている間は頭を空っぽにすることができたし、学校が終わればアルバイトをして、帰りは武長が駅まで青子を送った。
「気をつけて帰ってね」
最後までいつもどおりであることに、青子は昨夜のことは夢だったのだろうか、とさえ思った。けれどまぶたは腫れて重く、鏡で見たかぎりは目が赤い。登校したら友人に、出勤したら店長に心配された。やはり夢ではない。
「武長」
「なに?」
やさしく微笑まれて、青子は言葉につまる。なんと言ったらよいのか、まずそこからわからなかった。
困って目を泳がせていると、武長がふきだした。
「青子さん、おもしろい顔になってるよ」
「仕方ないでしょう。いろいろ動揺しているのよ」
むっとして言い返すと、うん、と武長は青子の頭に手をおいた。
「でも、中身まで変わるわけじゃないから」
手をおかれた場所をさわる。そこだけまるで別のもののようだった。
「青子さんは俺と関係が切れることを心配していたみたいだけれど、青子さんと俺には呼び方の変わらない関係性がある」
何に心配していたのかもすっかりばれていたことに拍子抜けする。まさか昨夜のことは計算だったのだろうかとも思ったが、あれほどこわい武長は計算では無理だろうと結論づける。
「呼び方の変わらない関係性?」
「そう。恋人でもそうでなくても、俺たちは幼馴染、でしょう」
たとえどこかで離れていたとしてもね、と武長は付け加えた。
「でも、そんなの」
「どうして? 青子さんも知っているでしょう?」
青子さんが十月生まれで、俺が三月生まれ。互いを示しながら武長は言う。青子はうなずいた。それがどうしたというのだろうか。
「俺が青子さんを知らなかった日はないんだよ」
たまたま隣の家に生まれて、たまたま同い年で、たまたま両親同士の仲がよかったからここまで同じ道を歩んできた。物心ついたときにはすでに互いを知っていたし、二人で遊んでもいた。青子の弟が生まれたときも二人一緒に病院に行った。
「もちろん全部だなんて言わないけれど、その一つひとつを、俺は憶えているよ。青子さんだって」
忘れたわけではないでしょう?
ずるい、と思った。忘れるだなんてできるはずがないと知っていながら、武長は青子に言うのだ。昔から変わらないやわらかい笑顔で。
「覚悟が必要だと言うのなら、もうとっくの昔にしてる」
ずるい。青子はもう一度思う。気持ちに気づくのに時間がかかったのは武長のほうなのに、まるでずっと知っていたかのように言うのはずるい。あまりに悔しかったので、青子は申し訳程度、武長の肩に拳を当てた。
一日ぶりに家に帰り、開口一番「恋人ができたみたい」と弟に告げると、特別驚いた様子もなく「よかったね」と言われた。
「お姉ちゃんはやっと兄ちゃんに甘えられたんだね」
その言い方があまりに確信的で大人びていたので、青子は思わず笑いをこぼす。これから先、弟にはかないそうにない。
音無には電話をかけた。
「やっと報われたね。おめでとう」
受話器の向こうで自分のことのように喜んでくれている音無が目に浮かぶようだった。ありがとう、と青子はお礼を言い、そちらの彼女さんはどうなの? と聞いてみる。音無は少し考えたあと、
「前に青子に似ているって言ったけれど、少し訂正しておくよ。青子よりもっとずっと素直じゃない」
それは筋金入りだ、と青子は笑う。
夏になるころには、青子が武長と付き合い始めたことがどことなく浸透し始めた。はやく終れと祈るように願っていた長い夏の休みも、今年はつらくない。音無の彼女にも念願の初対面を果たした。見た目はとても大人しそうな、いわゆる大和撫子のような清楚な感じだったが、中身は音無が言うように素直ではなく、意地っ張りで、負けず嫌いのようだった。そのギャップに慣れるのに少し時間がかかったが、何にせよ音無の選んだ女性だ。あまり笑ってはくれないが、悪いひとではないことは間違いない。そして何度か会っていくうちに、最初のころはどうも人見知りで緊張していたということが判明した。
「誕生日おめでとう」
十月になると、武長が青子の誕生日に二十本のばらを持ってきた。青いばらだ。いつか約束した、二十歳のときの青いばら、二十本。まさかあんな小さなときのことを憶えていたとは思わなかったので、青子は受け取ってからしばらくぼうっとしてしまった。
「青子さん?」
武長に呼びかけられて、やっと現実に戻ってくる。においはないし、当然ながら造花だが、それでもうれしかった。
「憶えていたの?」
「ゆびきりしたじゃない」
小指を示される。はりせんぼん飲まなくて済んだね、と笑う。
「枯れない花だからね。ちゃんと二十本あるよ、青子の花」
鮮やかな青は、そうでなくとも武長が約束を憶えてくれていただけできらきらと輝いて見えた。いつかの青いばらのように。花束に軽く顔をうずめる。目に青だけが広がった。
「ありがとう」
どういたしまして、と満足そうに武長は笑った。
「私、武長はすっかり忘れているのだと思っていた」
何年前なのかすら曖昧で、武長には青子以外に隣を許した存在が入れ替わり立ち替わり何人もいた。もしかしたらそのうち誰か武長にとっての唯一が現れるのではないかと青子は思っていたし、青子に告白をしてきたあとも、今まで忘れていたとしたら突然思い出すことはないだろうとどこかであきらめていた。
「まさか。忘れたことなんて一度もないよ」
心外だ、と言わんばかりの声音で言われて、青子は念を押して聞いた。武長はほんとうだよ、とうなずく。
「もし俺が忘れていたとしても、青子さんが憶えていて、青いばらを二十本、待ち望んでいたとしたら、やっぱり俺は思い出したと思うよ」
父親に何度も聞かされた言葉が頭のなかを回る。青子、お前の青は青いばらの青だ。青いばらというのは品種改良の関係でつくれない色なんだ。不可能の代名詞とも言われている。だけどな、青子、お前の青は青いばらそのものだ。
「青子に不可能はない、でしょう」
幼いころからの魔法の呪文。青子は花束から顔をあげて、からかうように笑った。
「武長がいるから?」
酸素がなければ水のなかで息はできなくて、階段から飛び降りたところで空は飛べないが、武長をふりむかせることはできた。武長は驚いたように目を丸くし、その後そうだね、と笑った。肯定してもらえたのがうれしくて、青子は二十本あるうちの一本を抜き出す。
「私、小さいころは武長と一つの存在なのだと思っていた」
「一つ?」
「うん。私は武長がいることで完成して、武長は私がいることで完成するのだと、どこかで思いこんでいた」
くるくると抜き出した一本をまわしながら、青子は言う。
「今なら笑い飛ばせるけれど、そのときは本当にそう信じていたの」
「そうだね、それでは困る」
武長は青子がいじっている一本をとり、青子の頭にさした。コサージュではないので多少不恰好ではあるが、青子の髪に青いばらはよく映えた。
「青子さんと一つだと、きれいだよ、の一言も言えない」
あきれたように青子はため息をつく。何をばかなことを、と言えば、しれっとした顔で本音だもの、と返される。最近ではすっかり慣れて、照れることもなくなった。それどころかつっこむ余裕さえある。弟が言うところの「甘えること」に慣れて、音無が言うところの「素直」になれた証拠なのかもしれない。
「でも、ありがとう」
やはり青子にとって名前の由来であるこの花はどこか特別だった。その特別な花についての約束を、武長が憶えてくれていたことが何よりうれしかった。頭のなかで魔法の呪文がくるくると踊りだす。青子に不可能はない。
「これから先も、ずっとすきでいてくれる?」
聞くだけ無意味だとわかっていながら、青子は武長に聞いた。武長は首をかしげ、
「さあ」
と答えた。青子を安心させるために嘘でも肯定したり、あるいはむやみに否定をしたりはしない。武長は一つひとつ言葉を選ぶように、真剣に言った。
「人の気持ちなんてわからないし、青子さんのほうが先に俺に愛想を尽かすかもしれないね」
「ああ、それはあるかもしれないね」
茶化すように言うと、ひどいな、と武長が笑った。昔からの柔らかい笑顔。この笑顔がずっとほしかったのだ、と青子は思った。
「でも、ずっとすきでいさせてほしいなと思ってる」
髪につけた青いばらごと、青子は武長の首に手をまわした。私に不可能はないのよ、と青子がささやくと、俺がいるからね、と武長が続けた。
*
器用にも自分で窓を開けた飼い猫に対して、武長はおかえり、と声をかけた。猫は少しだけ怒ったようになー、と鳴き、主人の足元へと跳んだ。武長は人差し指を立てて口元に持っていき、静かに、と合図をした。それを理解したのか、ブチョーはぴたりと鳴きやむ。
胸にすっぽりと入って、規則正しい寝息を立てている幼馴染を見ながら、前しか見ないんだから、とつぶやく。
「俺はずっと青子の隣にいたのに」
臆病者のつむじに、おやすみ、と唇を落とした。
あおいばら 葉生 @hassyo
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