あおいばら
葉生
前篇
青子、お前に不可能はない。
父親にずっと言い聞かされてきたこの言葉は、いつしか青子にとって魔法の呪文となった。少なくとも幼いころはそれが本当だと信じていたし、不可能を知った今でも自分を鼓舞する大切な言葉だ。
二十歳も近くなって、と思いつつ、きっといつまでも「魔法の呪文」なのだろう、とも思う。
「青子さん?」
話しかけられて、思わずわっと小さく声をあげる。気づけば隣に武長が座っていた。意識を取り戻したように、ざわざわとした喧騒が耳をつく。
時計を見ると、授業が始まる五分前だった。青子が座ったときにはほとんど人がいなかった教室に、他の生徒たちも集まってきている。
「何か考え事していたときの顔だ」
当てられて、まあね、とだけ返す。幼馴染である武長は、たまに青子自身よりも青子のことを理解しているときがある。それは逆も然りなのだとは思うが、不必要なことはむやみに話さない武長なので、少しだけ自信がない。
「魔法の呪文について、ちょっとだけ」
「ああ、そういえば最近あまり口にしなくなったよね。前はよく言っていたような気がするんだけど」
それはきっと私たちの距離や関係が徐々に変わっていったからよ。などとは口にできず、青子はただうなずく。表面上は何の変化もない、ただの幼馴染。
「青子さん、今日時間ある? バイトないよね」
言われて、手帳をめくる。そこには「しーちゃん」という文字が書いてあった。なぞるように口にする。
「今日はしーちゃんと約束が……」
「音無さん?」
すると武長の声音が途端に不機嫌な色へと変わる。そういえば武長は音無のことをあまりよく思っていないようだった。話題を変えてしまおうと、青子はあわてる。
「そういえば昔、造花展に行ったときに」
とっさに、というのはおそろしい。しまったと思ったときにはもう遅かった。そんな話をするつもりはなかったのに。魔法の呪文について考えていたせいだ。
武長が話を続けようとしたところで、担当教員が入ってくる。比較的まじめな生徒である二人は会話をやめ、プリントとルーズリーフを広げた。
憶えているのだろうか。ちらりと武長を見やる。確認するのがこわくて、今までずっと話題にしなかったこと。
小さなころ交わした約束と、魔法の呪文。
今の武長との不毛な関係が頭のなかで浮かびあがる。それを振り払うようにして青子はペンを持ち、気持ち半分で授業を聞き始めた。大切な思い出で、大切な約束だ。武長が忘れたとしても私はきっとずっと覚えている、と小さく唇を噛んだ。
今年で二十歳になる。
*
明確にいつのときだったかは忘れたが、とにかく小学生のころ、青子は母親に連れられて、武長と一緒に造花の展示を観に行ったことがある。まるで生花のような花たちに感動を覚えた。造花はそれぞれ花束になっていたり鉢に入れられていたり、見るかぎりは完全に生花そのものだった。実は生花なのではないかと疑ったが、母親ににおいがしないでしょう、と指摘されて、本当につくられたものなのだ、と衝撃を受けた。
そのなかに、青いばらの花束があった。造花とはいえ青いばらを見るのは初めてだった。「決してつくれない」と聞かされていたはずの花が目の前にあるのを見て、武長と二人で目を輝かせた。
「青子の花だね」
青子はうなずく。父親に聞かされてはいたものの、なんとなく実感のわかなかった花が手の届く場所にある。それがどうしようもなく青子を興奮させた。しかし生花ではないことはわかっている。気持ちをぐっとこらえて、青子は言った。
「つくれない花なんだよ」
すると武長はすぐに言い返した。
「でもここにある」
「本物じゃないもの」
唇を突き出し、ばかにするように言ったのだが、武長はばらから目を離さずに続けた。
「でも、青いばらだ。青子の花だ」
もう一度青子は青いばらに目を移す。今思えば決してそんなことはないのだが、青いばらの花束はきらきらと輝いているように見えた。他のどの展示品よりもきれいだ、とどこか誇らしげに思った覚えがある。
くるりと勢いよく武長は青子に顔を向けた。
「今は無理だけど、僕はいつか、青子に青いばらの花束をあげるよ」
年齢相応にませていたので、青子は少し考えて、いじわるを言うように笑った。
「いつかっていつよ」
武長はその言葉に真剣に考え始め、はたち、とつぶやいた。聞こえたままはたち? と青子が繰り返すと、うん、と武長はうなずいた。
「はたちって大人になる歳でしょう。だから青子がはたちの誕生日に、二十本の青いばらをあげる」
「でもつくれないんだよ。青いばらはつくれないから不可能なんだよ」
「でもつくられた花なら、こうやってできているじゃない」
言いながら、武長は花束を指差す。言い負かされているような気がして悔しかったので、青子は続けて言い返した。
「にせものじゃない」
文句ばかり連ねる青子に、武長はにこっと笑った。
「でも、枯れないよ」
その笑顔を見て、青子はバツが悪そうに指先を合わせていじる。もう一度青いばらの花束を見上げた。何度見ても花束はきらきらと輝いており、偽物であろうとつくられたものであろうと、青いばらであればすてきなものであるように思えた。
「約束?」
「うん、約束」
そうして小指をからめた。ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのます。
*
青子と武長は生まれたときから一緒だったと言っても過言ではない。家が隣で、それも同い年だったために、当然のように二人は幼馴染となった。どちらかが病気をしないかぎりは登下校を一緒にし、休日もよく遊んだ。ほとんどの時間を二人は共有した。
中学にあがる際に、私立を受けるか受けないか、という話が浮上した。青子たちの学年は例年に比べ成績がよく、教師が薦めてきたためだ。そのまま地元の公立中学にあがるものだとばかり思っていたので、私立というのは寝耳に水だった。武長は学校に渡された私立中学のパンフレットをぱらぱらとめくり、やめておく、と言った。
「設備が整っていてよさそうだけど、遠いしね」
公立なら歩いて四十分、私立は電車を使って一時間だった。
「青子さんは?」
いつからか武長は青子のことをさん付けで呼ぶようになっていた。青子は十月生まれ、武長は三月生まれで「ちょっと年上だから」というのと、武長がひとりっこなのに対して、青子には十歳下の弟がいる。それで「なんだかさんを付けたくなる」からだそうだ。
武長からパンフレットを受け取り、同じようにぱらぱらと見たあと、青子は首を横に振った。
「私もいいや」
そう、と武長はうなずき、二人は同じ公立中学に通うことになった。
小学校と同じように登下校を一緒にした。二人の位置関係は何も変わらなかったが、周りが変わってきた。小学校がずっと一緒だった友人たちには不自然さはないようだったが、別の小学校から入ってきた友人たちは口をそろえて言った。
「付き合ってるの?」
否定をすると「気づいていないだけですきなんじゃないのか」と言われる。武長は一緒にいることが自然であり、隣にいない状態がまったく想像できない相手だ。しかし青子は同世代の子と比べて恋愛方面にあまり興味がなく、深く気にしなかった。
三年になるとほとんどが初受験ということで、多少ぴりぴりした空気が流れるようになった。青子も受験生になってから休日に武長と遊ぶ機会はほとんどなくなった。教師にも合格間違いなしだろう、という評価をもらい、面談を終えると、武長が誰か女の子と話しているところだった。青子が武長に帰宅の誘いに行くとよく武長と話している、武長のクラスメイトだ。武長は青子を見つけると女の子と別れを告げ、こちらに向かってきた。いつもの様子で武長は青子に手をふったが、女の子は名残惜しそうにこちらを見ている。
「最近、あの子と仲いいね」
何気なく言うと、昔から変わらない笑顔のまま、武長は答えた。
「ああ、彼女だから」
何かが鈍い音を立てて、青子の胸に突き刺さった。かわいい女の子だった。ショートボブのきれいな黒髪と、小柄な体と、華奢な手足。見るからにおとなしそうな。ああいうのが武長の好みなのだろうか。家に着き、武長と別れを告げて玄関に入る。するとドアの音を聞きつけたのか、十歳下の弟がばたばたと青子のところに駆け寄ってきた。
「おねーちゃ、おかえりっ」
「くろちゃん」
今年で五歳になった弟はまだ舌足らずなところがあり、青子の癒しでもある。にこにこと笑う弟を見て、青子も笑顔で「ただいま」と答えようとし、ぽろっと一つ涙がこぼれた。一つ流れるとあとはもうとまらなくなり、顔がゆがむ。思わずしゃがみこむと、驚いた弟が青子の膝に両手を乗せた。
「おねーちゃ、大丈夫? どっか痛い?」
いたいのいたいのとんでいけ、と必死に背伸びをして青子の頭をなでる。その様子がうれしくてかわいくて、青子は笑う。それでも胸に刺さった正体不明の重い何かは抜けず、いたみが引くこともなかった。ああ、私は武長のことがすきなのだ。青子は知った。気づくのが遅すぎた。どこかでずっと一緒だと信じていて、それは絶対だと思っていた。けれど武長に相手ができてしまうと、その場所は自分ではない誰かのものになるのだ。そんな当たり前のことに気づけなかった。近すぎると見えないものが、遠くに感じたことによって見えてしまった。
そして武長は高校に入っても、青子と休日に遊ぶことはほとんどなくなった。
登下校だけは相変わらず一緒で、武長の態度が変わることもなかった。しばらくすると誰かと付き合い、すぐに別れる遊び人として武長の名前が学年に広がっていった。中学のときのあの女の子とは、卒業と同時に別れたようだった。今は誰それと付き合っているだとか、先日別れただとか、本当かどうかもわからない噂をいくつも耳にした。けれどそんな噂を聞いても、青子の気持ちが薄らぐことはなかった。
少し距離をおこう、と考えた。今までが近すぎたのだ。距離をおけば武長のことなどどうでもよくなるかもしれない。そもそもこんな気持ちは初めてで、青子はどうしたらよいのかわからず、対処に困っていた。それで部活に入った。朝は練習があるので登校は一緒にできないし、午後は当然部活なので一緒に下校することもないだろうと考えた。このころ青子と武長は登下校くらいでしか一緒に行動することはなくなっていたため、それを崩してしまえば自然と距離もできるだろう。そう考えた。しかし武長はあっさりと言った。
「それなら、練習が終わるまで待ってるよ」
何を言っても同じ内容を返してくる。朝は早いからと言うと、「早く行って困ることはないし、一緒に行くよ」と返された。結局別々に登下校することはなく、青子の考えは失敗に終わった。
武長のやわらかい笑顔が、青子はとてもすきだった。昔から変わらない。しかしそれが向けられる相手は自分ひとりではないのだ。あるいは青子が見たことのない表情も、恋人になった子たちは見たのかもしれない。それに気づいてしまった。考えるだけで胸のいたむことだったが、武長は青子に対して彼女の話はしない。それだけが救いだった。しようとも思っていないようで、結局武長の口から彼女の話が出たのは中学三年生のとき、青子がたずねたあの一回だけだ。
高校二年になるといたむ心もだいぶ麻痺してきた。武長に恋人がいるのは当たり前の状態になっていたためだ。今でも武長が恋人と一緒にいるところを見ると、初めて恋人がいると知ったときのような鈍い衝撃を胸に感じる。それでも涙をこらえるくらいのことはできるようになった。幸いにも武長が彼女の話をしなかったので、傷つく回数もむやみに多いわけではない。また部活を始めたことで休日にも登校することになり、休日に武長と会わない理由ができたのも大きかったのだろう。会わないのは武長が誰かと約束しているからではなく、自分に部活があるため、とそんな具合だ。
部活が終っていつもどおり武長の教室に行くと、話し声が聞こえてきた。
「それじゃあ今日の七時に、ビッグマンでね」
武長と、今の彼女のようだった。武長は青子を見つけると手をふり、教室に彼女を残して出てきた。ちらとふり返ると、うらめしそうに青子を睨みつけている彼女がいた。かわいいけれど気がつよいと評判の子だった。羨ましいのはこちらのほうだというのに、と青子は前に向き直る。先ほどの言葉が頭のなかから離れなかった。今日の七時に、ビッグマンでね。
ビッグマンというのは駅にある大きなテレビのことだ。厳密にいうとテレビは本屋の上に掲げられており、そのテレビの下の場所をふくめて地元の人間はビッグマンと言っている。よくイベントや待ち合わせに使われる場所である。
七時近く、気がつけばビッグマンにいた。ちゃんと切符を買って、電車に乗ってきたというのに、ほとんど無意識だった。見つかりたくないので普段は何もしていない髪を一つに結び、帽子を目深にかぶって来たほどであったのに、たどりつくまで何の考えもなかった。何をしているのだろう、と途方に暮れる。見つけたところで傷ついて終りだ。反対に見つかってしまえば気まずさも増す。
帰ろう、と思った。こんなところでむなしい気持ちになるくらいなら、家でかわいい弟と遊んでいたほうがよほど楽しい。家を出るときも弟は青子が出かけることに対してさびしそうにしていた。早く帰って笑顔が見たい。
踵を返すと、彼女と合流する武長が目に入った。二人は移動を始める。それを見ると先ほどまでの帰ろうという気持ちはどこかへ飛び、あわてて追いかけようと足を動かした。すると彼女のほうが武長の手に自身の手を絡めた。武長の表情は見えなかったが、彼女はきらきらした笑顔を見せている。彼女にとって武長は特別なのだ。武長を特別に思っているのは自分だけではない、という事実が青子の頭をがんと殴る。
次の瞬間、人にぶつかった。青子は大きくしりもちをつく。だが武長がふり返ることはなかった。いたみを感じる間もなく追いかけようとするが、今度は足をもつれさせてこけてしまった。顔を上げたときにはもう姿は見えなかった。青子とぶつかったらしい男性が青子に手を伸ばす。
「大丈夫ですか? お急ぎみたいですけど、どこかお怪我とか」
大丈夫です、と答えようとしたら、男性が目を丸くさせているのが目に入った。どこかおかしなところでもあっただろうか、と何気なく顔に手をやると、泣いていることに気づいた。
「医務室に行きますか?」
「違います、これは」
言い訳をしようとして、言葉につまる。こんなところで何をしているのだろう。情けなさとむなしさが青子を襲う。ここに来さえしなければ、武長が誰か女の子と手をつなぐところなど見ずに済んだのに。
七時というのは家路につく社会人が多い。つまり人通りの多い時間帯で、男性は青子の手を引いて柱の影へと導く。青子に気をつかってくれたのだろう。男性を見やるとやわらかく笑んでいた。てっきり困らせていると思っていたので余計に青子は驚き、そしてその笑顔のやわらかさが少しだけ武長に似ていたので、あふれる涙を抑えることもできず泣いてしまった。
青子が泣きやんでから、男性はハンカチを差し出して言った。
「少しはすっきりしましたか?」
おずおずとそのハンカチを受け取り、青子はうなずいた。泣くだけ泣くと確かに少しすっきりとし、代わりに初対面の人間に向って泣いてしまった恥ずかしさがこみ上げてきた。
「すみません」
まだ震える声で言う。
「ご迷惑をおかけしてしまって」
大丈夫です、と男性は答えた。それよりぶつかってごめんね、とそのやわらかい笑顔で続ける。
「怪我とかしていませんか? 念のため医務室に行ったほうがいいかもしれません」
「怪我をして泣いたわけではないので、大丈夫です」
貸してもらったハンカチを目に当てながら、青子は言う。きっと今ひどい顔をしているのだろうな、と思いながら。男性はうなずき、それ以上は何も言わなかった。事情についてはともかく、怪我のために泣いたわけではないことはなんとなくわかっていたのだろう。急いでいるように見えた青子が今はそんな様子もないことからも察せることだ。
「俺でよければ何か聞きますよ。何も言えないけれど、でも第三者になら話せることもあるでしょうし」
これまで武長と一緒にいたために、青子の最大の支えは武長だった。その武長のことについて相談できる相手というのは青子にはいない。今まで武長について相談するようなことはなかったし、武長と青子の関係を知っている人にいまさら武長への気持ちを言うのは気恥ずかしくもあった。武長と青子についてからかってきていた中学校の友人たちのほうが、青子よりもいくぶん何かがわかっていたのかもしれない、と今になって思う。
初対面の相手で、ここはこの辺でも都会で、ともすれば危険な行動ではある。けれど青子の気持ちはもう疲れきっており、深く考えるだけの気力は残っていなかった。口にすれば少しは楽になるかもしれない。あとから思えばひどく安易な気持ちで、青子はこの男性を頼ることにした。
近くにベンチもないし、立ち話も何だから、と喫茶店に移動して、青子は武長のことを話した。幼馴染であることから、先ほどの泣いてしまった理由まで。男性は時たま相槌を打つだけで、質問も、中途半端なアドバイスもしなかった。青子はおかげで気を楽にしたまま話すことができた。全部話すと、運ばれたときには温かかった紅茶がすっかり冷えていた。結んでいた髪が窮屈になり、ゴムをはずす。
男性は青子に笑い、いいですね、と言った。理由がわからず青子は顔を上げる。
「すごくすきなんですね、武長くんのこと」
それだけすきになれるひとを見つけられたのは、いいですね。青子の話を聞いて男性が言った言葉はそれだけだった。だが青子はとても気持ちが軽くなっていくのを感じた。相手がいるのにずるずるあきらめられないことや、彼女との会話を聞いて追いかけてしまった浅ましさに対して、男性は少しも責めなかった。
「ごめんなさい、少しも気のきいたことが言えなくて」
喫茶店を出ると、男性は言った。そんなことはない、と青子は言いたかった。誰にも言えなかった思いが吐き出せたことや、先ほどの男性の言葉は青子にとって確かに救いになったのだ。
それじゃあ、と男性が立ち去ろうとした。とっさに服の裾を掴む。
「あの、また会ってくれませんか?」
口にしてからはっとした。男性はたまたまぶつかっただけの、単なる親切な人だ。失礼なことをしていると気づき、青子は手を離す。それでも口は逆のことを言っていた。
「ハンカチも洗って返したいですし」
男性はきょとんとした顔で青子を見ている。それを見て、やっと思考と言葉が合致した。
「すみません、彼女さんとかいたら迷惑ですよね」
これ以上へたなことを言う前に、早々に立ち去ってしまおうと、青子は頭を下げる。すると上から声がふってきた。
「俺は音無といいます」
あなたは?
これが音無との出会いだった。
それから音無とよく会うようになった。知り合いになってみれば意外と住んでいる場所も近く、長電話をする日もあったし、青子が音無の家に遊びに行くこともあった。あるいは会ったときのように喫茶店で話したりもした。借りていたハンカチを返すと、別によかったのに、と笑われた。両親がいないときは弟を連れて音無と会うときもあった。弟は音無によくなつき、次はいつ会えるのかとせがまれるくらいだ。
「最近楽しそうだね」
武長に言われる。確かに音無のお陰で、ここ何ヶ月か楽しい日々が続いている。
「もうすぐ受験生だし、高校に入ってからずっと元気ないみたいだったから心配してたんだけど」
青子は苦笑した。それはあなたのせいです、と言えればどんなに楽だろう。心配してくれていたのか、という驚きやうれしさと一緒に、ちくりとしたいたみが走る。もはや慣れてしまったそれを受けとめて、青子は笑った。
「うん、楽しいかもしれない」
そして受験生になった。
三年前は武長に彼女ができたと初めて知った。彼女のことを話さない武長であるから、もしかしたらもっと前から恋人はいたのかもしれない。想像して一人傷つく。余計なことは考えないようにしよう。受験に向けてやらなければならないことはたくさんあるのだ。
大学がわかれたらまた関係性も変わるだろうか、と期待してもみたが、志望校は結局同じだった。青子と武長は同じ理系であり、選ぶ大学が似ているのは当り前といえばそうなのだが、目指す方向性は少し違う。第一か第二希望か、どちらか片方でも違うのではないかと思ったが、第三希望までまるきり同じだったことは、もうどうしようもなかった。これで二人とも第一志望に受かれば、青子はまた不毛な気持ちを続けるし、武長は同じように彼女をつくるのだ。考えるだけで泣きそうになる。
三年前はわからないところがあると武長に聞いていたのだが、なんとなく頼りたくなかった。ただでさえ幼馴染ということで変な目を向けられているのに、そこへさらに武長の彼女に睨まれるようなことを増やすのはごめんであったし、休日連絡して、もしいなかったら一人でまたいらない想像をして落ち込んでしまう。とはいえ教師は常にいろんな生徒に引っ張りだこで、なかなか時間がとれない。悩んだ結果、音無が浮かんだ。
「数学? いいよ、教え方に自信はないけど」
青子の第一志望は音無の通う大学だった。音無が通っているからというわけではないが、音無の話を聞いていると理系に秀でた大学でもあるし、雰囲気もよさそうだから、というのは理由の一つではある。
就職活動に忙しそうではあるが、音無には青子が甘えられる何かがあった。四つ年上だからというのもあるし、出会いからしていちばんよわいところを見られているからもしれない。
「一応家庭教師とかやっていたし、大丈夫だとは思うんだけど、わからなかったらごめんね」
言いながらも、すらすらとわかりやすく説明してくれた。
説明してくれている途中、音無が何気なく髪をかきあげた。そのときなぜだかピアスに目をとられた。前々から気づいていたはずなのだが、このとき初めてはっきり認識した気さえした。
「しーちゃん、誕生日いつだっけ」
最初は音無さん、と呼んでいたのが、親しくなって呼び名が変わった。今ではこれが定着している。
「五月だよ」
説明をさえぎったのにも関わらず、音無は気にしていないように答えてくれる。もう少しで五月だ。普段から迷惑をかけている分、何かプレゼントしよう、と再開した説明を聞きながら青子は思った。
次の休みの日にさっそくピアスを買いにいった。派手なものは好まないように思ったので、なるべく小さな、けれどきれいなものを選んだ。なけなしのお小遣いからの出費なので高くはないが、納得できるものにしたつもりだ。喜んでもらえるだろうか、と思いながら帰ると、武長が来ていた。弟と話している。
武長より先に弟が青子の姿を見つけ、ぱっと顔を明るくさせた。
「おねーちゃん、おかえり。しーちゃんに買えた?」
「ただいま。うん、買えたよ」
抱きついてくる弟を抱きしめかえし、答える。武長もおかえり、と青子に言った。
「今ちょっと聞いてたんだけど、しーちゃんって誰?」
聞いたことない、という風に武長は首をかしげた。聞かれて、どう答えたらよいのか青子は逡巡した。なぜ知り合ったのかと聞かれると困ってしまう。かといって嘘をつくのはいやだ。そもそも武長に嘘をついたところできっとばれてしまうだろう。
そしてそれとは別に、久々に見る武長の私服姿に軽く興奮してもいた。制服以外の姿は本当に久々で、どことなく顔も緩んでしまう。
「おともだち。たまにくろちゃんの面倒も見てくれるから」
余計なことは言わずそれだけ答えると、武長は納得したようにふうん、と言った。追及される前に話題を変えてしまおうと青子は口を開く。
「それよりどうしたの、武長がうちに来るなんて久しぶりだけど」
「ああ、取引先の人においしいパンもらったんだけど、ちょっと量が多いからおすそわけに持っていって、って母さんが」
テーブルの上には高そうな食パンが一斤おいてあった。武長は中小企業の跡取り息子で、よく大量にもらうお歳暮やら何やらを分けてくれる。大抵は武長の母が直接持ってきてくれるので、こうして武長が来るのは本当に久しぶりだった。
「うちのお母さんは?」
「買い物行きたいからくろちゃんのことよろしくって」
そういうことか。青子はうなずく。
「青子とも最近は登下校くらいでしか話してないしね。そしたら母さんがおすそわけ持っていくっていうから」
俺が持ってきたの、と笑う。そのやわらかい笑顔をどれだけの女の子に見せてきたの、と卑屈になりながら、青子は武長にお茶を出した。慣れた様子で武長がテーブルにつく。青子も向いに座り、弟を隣に座らせる。
「受験勉強はどう? 前はよく俺に聞きに来てたけど」
「うん、大丈夫。年度末まで気力が持てばね」
「しーちゃんに教えてもらってるとか?」
さらりと言われて動揺するが、武長に他意はないようだった。
「なんで?」
「くろちゃんがしーちゃんは頭がいいんだよって言ってたから」
横に座っている弟に目をやる。いったいどれくらいのことを話したのだろうか。しかし弟は青子と目が合うとにこっと笑うだけで、その無邪気さに青子は困ってしまう。
「まあ、ね。武長にばかり頼ってちゃだめだと思って」
嘘をつくと足が出る。別にやましいわけではない。音無のことを知られて困ることはないと言ってもよいはずだが、やはり出会った理由や仲良くなった経緯を聞かれてしまうと答えられない。後ろめたさを抱えたまま武長と向き合う。
「別にかまわないのに。今さらじゃない」
「でも、彼女がいやがるでしょ」
「彼女? ああ、そんなの気にしなくていいよ」
いつもの様子で武長は言う。昔からの態度で。小学生になろうと、中学生になろうと、高校生になっても、武長の青子に対する態度はほとんど変わらなかった。思春期に入った同級生に何を言われても武長は動じなかったし、反抗期らしい反抗期もないようだった。それでもその態度が青子を傷つける。武長の「そんな」存在に青子はなりたいのだ。
「今までさんざん嫌がらせ受けてきたから、保守的にもなるの」
「それは確かに申し訳なかったけど」
机のなかに剃刀を入れられたり、教科書を盗まれたり、靴箱のなかに罵りの言葉が書いてある紙が入っていたり、そういうことだ。武長はどうしても登下校を青子としていたし、たとえば辞書を忘れたり教科書を忘れたとき、武長は青子を頼っていた。そういうことが気に食わなかったそのときそのときの彼女が、青子に嫌がらせをした。青子は嫌がらせを受けるたびに首をかしげた。うらやましいのは私のほうなのに。武長はそれを知るたびに早々にその彼女と別れ、青子に謝罪してきていた。
「そろそろ誰かこのひと、って人を見つけたら? 遊び人なんてうれしくない肩書きでしょう」
言いながら、ずきんと胸が痛んだ。どうしてこう余計なことを言ってしまうのだろうか。もし武長が「このひと」を選んでしまったら、私はどうするのだろう。青子は考える。深くは知らないが、武長は噂を聞くかぎりあまり長く一人と付き合ったことはない。それがなけなしの救いになっていた部分もあるというのに。
「別に、遊んでるつもりはないし。合わせられないんだよね。たとえば動物園行きたいって言われて、でも俺は動物あまりすきじゃないから、行っておいでよ、と言ったとするでしょう。そうしたらなんで一緒に行ってくれないの? って詰問される。そういうのが面倒くさいんだよね、多分」
「にーちゃんは動物きらいなの?」
横で話を聞いていた弟が口をはさむ。小学二年生になった弟はまだ犬やら猫やらを追いかけるのがすきらしく、よく動物図鑑などを眺めている。動物が苦手な人間がいるのがあまり理解できないらしい。
「きらいじゃないよ。お金払ってまで見に行く価値がわからないってだけで」
武長は小学生といえどもまるで対等の相手のように話す。決して「小さい子に対する態度」は取らない。だから基本的に言葉をやさしくしたりはしないし、やたらと甘い声を出すこともない。
「くろちゃんはすきなの?」
「うん、犬だいすき」
にこっと笑ったその様子がかわいかったので、青子は思わず弟の頭をなでる。弟はうれしそうに首をすくませた。
「話を戻すけど、つまり告白されたときにフリーだったら付き合うってだけで、あまり青子さんが言う、「このひと」っていうのを見出す気がないのかもしれない」
見出す気がない、という言葉にどこか安堵してしまう。
「青子さんはいないの? 告白されても断ってるって聞いたけど」
答えに困り、なるべくゆっくりお茶を飲む。武長への思いを自覚しながら誰かと付き合うような器用な真似は青子にはできそうになかった。できるとしたら、その相手はおそらく一人だけだ。
考えて、それはだめだとかき消す。
「うん、私はいいよ」
泣きそうでもつらくても、不毛な思いを続けるから。続きを飲み込んで答える。
「さっきの、しーちゃんと仲いいなら、誰か紹介してもらってもいいかもしれないよ。しーちゃんって人に彼氏でもいたら特にね」
思わぬ言葉に顔を上げる。音無のことを女だと勘違いしている? 弟をちらと見やり、もう一度武長を見る。青子の様子に武長は笑いを浮かべたまま小首をかしげた。訂正すべきか考えていると、武長が続けた。
「まあ俺は、青子がしあわせならそれでいいよ」
武長がさんを付けないときは、だいたいが真面目なときだ。茶化しているわけではない、と言いたいのかもしれない。そんな言葉はずるかった。そんなことを言われてしまうと、青子はもうどうしたらいいのかわからなくなる。
「あ、そろそろ帰るね。こんな時間だ」
時間を確認して、武長は立ち上がる。青子は玄関まで弟とともに見送り、ドアが閉まるとしゃがみ込んだ。どうしたのかと覗いてくる弟を抱きしめる。涙をこらえるのに必死だった。
五月になり、音無にピアスをプレゼントした。暗すぎない青のピアスだ。何かをもらえるとは思っていなかったらしく、音無はとてもよろこんだ。青子のほうが照れるくらいのよろこびようで、何度もお礼を言われる。音無はつけていたピアスを外し、青子がプレゼントしたピアスを耳につけた。
「似合うかな」
主張しすぎず、それでいて音無の黒髪によく映えていた。
「青子の青だね。そういえば、青子って名前は何か由来があるの?」
ばらなの、と青子は説明する。
「ブルーローズ。不可能の代名詞なんだけど」
「聞いたことあるよ。青いばらは品種改良してもなかなかつくれない色なんだよね?」
「うん。お前に不可能はない、って意味で父がつけた名前。ちょっと洒落てるでしょう。だから私、自分の名前はすきなの」
へえ、と音無は感心したようにうなずいた。実際不可能はたくさんあって、青子は成長するたびにかなしい思いもしてきた。酸素がなければ水のなかで息はできないし、階段から飛び降りても空は飛べない。武長をふり向かせることもできないのだ。幼いころに武長とした約束も、武長はきっと忘れているだろう。
それでもお前に不可能はない、という父の言葉は、いつでも青子を勇気づける魔法の呪文だ。
「でもそうだね、青子に不可能はないよ」
魔法の呪文を口にしながら、音無は笑った。
「その力が青子にはあると思う」
こうやって俺をよろこばせてもくれる、と言いながらピアスを示す。他のひとが言ったら反論したくなるようなことも、音無が言うとなぜだかすんなりと受け入れてしまう。音無が笑うように、青子もつられて笑った。
そのあとはいつもどおり勉強を教えてもらって、帰宅した。音無は理系科目はほとんど完璧に教えてくれたが、文系科目はからきしだった。青子もよく漢文につまずくので、これは教師に聞きにいかなければならない。第一志望は国立大学で、センター試験は必須だ。前期で受かればもちろんよいが、後期まで持ち込むとセンター試験はさらに重要になってくる。
気楽に構えていた同級生もだんだんと気を引き締め、ぴりぴりした空気が流れてきたころ、武長は青子に言った。
「本当に何も聞いてこないけど、大丈夫? 青子さんは昔から漢文とか苦手でしょう」
そんな武長は相変わらず余裕そうな表情をしており、成績の差を思い知る。本当に武長と同じ大学に行けるのだろうか。
「先生にも見てもらってるし、大丈夫。他は成績落ちてないし」
「そうだね。むしろ数学は上がってるんじゃない? 先生が言ってたよ」
青子と武長が幼馴染であることは教師も知っているので、聞かずとも話をしてくれるときがある。
数学の成績が上がったとしたら間違いなく音無のおかげだ。またお礼を言っておこうと思う。音無はもう就職も決まり、あとは卒業を待つばかりだ。今まで以上に時間を割いて青子に丁寧に勉強を教えてくれている。
夏も過ぎて部活も無事に引退し、何か不満があるとすれば、武長と長く話したのは前に武長がおすそわけにパンを持ってきてくれたとき以来ないことくらいだ。
本当はわかっていた。話したいのなら電話をすればよいし、武長が来てくれたように青子も武長の家に行けばよい。隣であり幼いころからの付き合いで、何も遠慮するようなことはないのだ。武長の両親も、青子ならと許してくれることはいくらでもある。極端な話、朝早く、あるいは夜遅くに訪ねても武長の家は笑顔で受け入れてくれるだろう。それでもこわかった。電話をして武長が誰かと電話中だったら、訪ねて武長がいなかったら、どうしても穿った想像をしてしまう。
だからこうして今までと変わらず登下校を一緒にしていることが、青子にはどうしようもなくしあわせなのだった。
「でも青子さんなら前期で受かるよ。心配しなくても」
何の根拠もないのに、武長は言いきった。
「そうしたらまた大学も一緒に行こうね」
笑ってうなずこうとしたらうまくいかず、青子は首だけで返事をした。不毛な思いはいつまで続くのだろう。続けていくと決意したのは自分なのに、そんな疑問が頭について離れない。正直なところ、青子は受験もあって、精神的に疲れていた。音無と初めて会ったときに感情の糸が切れて泣いてしまったように、ともすればくじけてしまいそうだった。
こんなことではいけない。卑屈な思いに目をそらしながら、青子は受験に向けて黙々と勉強を続けた。合否のことを考えると気が重かったが、勉強をしている間は無心になることができた。問題を解いて、答え合わせをし、間違えば間違えた部分を追求し、そういう事務的な作業は頭を空っぽにすることができた。
「おねーちゃん、おかあさんが少しは休みなさいって」
二回のノックのあと、弟が蜂蜜入りの紅茶を持って入ってきた。お礼を言って受け取ると、にっこり笑う。
「おかあさんが言ってたよ。おねーちゃんはむつかしい大学に行こうとしてるって」
「そうだね。でもお姉ちゃんの目的に合ってるから、そのためにがんばってるの」
弟はそれならがんばらないとね、とわかったような口をきき、青子を笑顔にさせた。膝ほどの高さしかなかった弟の身長もだいぶ高くなり、いずれ追い越されるのだろうなあと思うと少しだけさびしくなる。
「ぼくもおねーちゃんと一緒に頑張る。百点いっぱいとるよ」
青子は一瞬きょとんとし、そしてすぐに笑った。卑屈になっている場合ではない、と自分を励ました。
それからは本当に勉強漬けの日々だった。教室に入れば誰かが英単語帳を開き、誰かが数学を解いているような、学年全体が受験生一色の空気だった。推薦で早々に決まった者や、選抜推薦で成績さえ落とさなければよいような同級生は別にして、教師も引き締まった空気に感心しているようだった。
青子は早くから受験勉強に取り組んでいただけあって他に比べればまだ余裕もあったが、周りの空気や同級生の様子を見ていると悠長に構えてもいられなかった。この時期は全員がまじめに勉強に取り組むために成績も伸び悩むものであるし、昼食をとっているとき以外は誰もが教科書を開きノートを開き、参考書を開いていた。
相変わらず青子は漢文につまずき、現代文と現代社会にもつまずき始めた。特に時事問題が苦手だった。事務的に決まったことをすればよい数学や、英語や古文の和訳とは違い、日々が過ぎるほどに増えていく時事問題と、その場その場で答えが変わる現代文は青子にとって鬼門だった。どう対策しようと悩んでいると、音無が言った。
「時事問題は過去十年分だから、もういっそ捨ててもいいかもしれないね。でもどんなに時間がなくても朝刊は読むようにしてたなあ」
それを聞いて青子も同じように朝刊を読むようになった。これなら過去十年分は無理でも現在の問題はわかる。真似をするように弟も新聞を読み始め、わからないところは青子に聞いてきた。その説明をしていくうちに青子でもわからなかったところが理解できるようになり、小さく弟に感謝する。
教室掃除を終えると、武長が待っていた。
「疲れてるね。根詰めすぎてるんじゃない?」
確かに最近あまり食欲もなく、眠りも浅い。ここまできてもいつもと同じ、余裕の表情でいる武長を多少うらめしく思うくらいには疲れている。武長は武長で努力をしているのは知っている。夏からあわてて始めた子と違って、もう何年も努力を続けてきた武長はそもそものスタート地点が違う。さらにいえば周りに流されるということがない。そのため周りの空気に気おされ根詰めることが、武長にはほとんどないと言ってもよい。
すると前方から女の子が走ってきた。ぶつかるように武長に抱きついてきたその子はなぜなのかはわからないが泣いており、青子を動揺させる。抱きつかれた武長はいたって冷静に女の子を見て、ごめん、と青子に言った。
「先に帰っていてくれる?」
頭をつよく殴られたようだった。
一息おいてからわかった、と青子は笑顔で答え、武長に別れを告げた。いたって平静を装い、普段と変わらない様子を心がけながら階段を降りて、学校の門を出たところで走り出す。泣くのをこらえることはできなかった。声だけは必死に押し殺して、泣いた顔を見られるのをいやがるようにただただ足を動かした。
最後の砦だった。部活を始めても武長は登下校を一緒にしてくれていた。大学に入っても一緒に行こうね、と言ってくれていた。たかだか片道三十分のその時間が、どんなに小さなことでも青子にとっては大きな意味を成していたのだ。それが崩れてしまった。武長が病気でもないのに初めて一人でする下校は、どうしようもなくかなしく、さびしかった。
涙でにじんで前もあまり見えない。角を曲がったところで人にぶつかった。すみません、という声も出ないまま、こけた痛みがじわりと広がってくる。
「すみません、大丈夫ですか」
手を差し出されて、それが音無だと気づいた。小さなころにあこがれた王子様のようだと思った。青子がどうしようもない気持ちで泣いているときに現れる。その役目は武長であったはずなのに、いつの間に変わってしまったのだろう。いつの間に武長のことで泣いてしまうようになっているのだろう。
最初に会ったときのように音無は青子を気づかい、痛くて泣いているわけではないと察したようだった。
「とりあえず俺の家に行こうか。その顔じゃ家にも帰りにくいでしょう」
どんな顔をしているのか青子にはわからなかったが、このまま帰ったら弟が心配するくらいひどい顔をしていることはわかる。素直にうなずいて音無の家に行った。もう慣れ親しんだ音無の家で、青子はベッドの横に座りこむ。
音無は青子に紅茶を渡した。
「元気が出るように、砂糖を一杯だけ入れておいた」
やわらかい音無の笑顔も、今は武長と重ねてつらい。紅茶を受けとる。うすく自分の顔が映しだされていた。ひどい顔だ、と笑おうとして、青子はまた涙があふれてくるのをとめられなかった。
音無は青子の横に座るだけで、何も言わなかった。泣いている理由を聞くことも、何か言葉をかけて慰めることもなく、ただいるだけだった。今の青子にはそれがとてもありがたかった。
見たことがある、と思った。武長に抱きついてきたあの女の子を、青子は見たことがある。クラスが一緒になったことはないが、中学校から同じ子で、確か武長のことをすきなのだと噂で聞いたことがある。クラスを引っ張っていくような、常に中心にいるような子だ。彼女にとってはやっと成就した恋なのだ。泣いていた理由は知らないし、知りたくもないが、泣いている彼女を放っておけるほど武長は冷たい人間ではない。明るく、よく大声で笑っているところを見る子だ。そんな子が泣いているとすればなおさらだろう。武長はむしろ、青子が知るかぎりいちばんやさしいひとだ。
たとえば登下校中、本当は足が速いのに青子の歩幅に合わせてくれていることを青子は知っている。自分も受験があって大変なのにいつも青子の成績を気にしてくれていることだとか、昔から青子がいじめられたときに助けてくれるのはいつも武長であるとか。だから武長は遊び人だと言われても悪い噂が流れることはないし、人気も衰えないのだ。
そのやさしさを自分にだけ向けてほしいというのは単なる我儘だということを、青子はちゃんと知っていた。少なくとも幼馴染という立場では言い出せない。
今ごろ武長はあの女の子と帰っているのだろうか。そうやっていずれ彼女と帰るようになって、行くようになって、おいていかれるようになるのではないだろうか。どうしようもない不安が青子を襲う。こんなにも簡単に崩れてしまうことを、いつまでも大丈夫だとどこかで安易に信じていたのだ。
「私、はじめてはしーちゃんがいいな」
震える声で呟くと、音無は一瞬だけ青子に目を向け、そして少し目を伏せた。すぐに何かを言おうとはしなかった。青子が発言を取り消すのを待っているようでもあった。いつまで経っても小さな嗚咽をもらすばかりで、何も言わない青子を見て、音無は改めて青子に目を向ける。
向けられた目線に気づき、青子は顔をあげた。音無と目が合う。どきりとする目だった。そこには間違いなく「音無」がいて、目をそらしてはいけないと本能的に悟る。音無はしばらく何も言わず、青子も何も口に出せなかった。今すぐにでも目をそらしてしまいたい衝動を必死で抑える。
青子が何も言おうとしないのを見て、音無は小さくため息をついた。
「青子はそれでいいの?」
言われて、はっとした。音無は青子が武長のことをすきなことを知っている。これまでずっと相談してきたのだから。音無を困らせたいわけではない。気の迷いだった、と撤回することが、試験で言うところの「もっとも適切な」もののように感じた。それでも言葉を撤回する気には、どうしてなのか、なれなかった。
「俺は青子と恋人にはなれないよ」
言われても、目をそらせなかった。うなずくことも答えることもせずにいると、音無がまた軽い溜息をついた。呆れられただろうか。
「あのね青子、俺は青子がすきだよ。正直に言えば、恋人になってもかまわない。でも俺は青子とずっと付き合っていきたい。そんな切れる関係にはなりたくない」
切れる関係。武長と付き合って、そして別れていく女の子を、全員ではないだろうが青子は知っている。そして彼女たちはその後、武長との付き合いはないのだ、おそらく。
「別れるか、結婚するか、恋人っていうのは今の関係が崩れてしまうことでもあるんだよ。また一からつくりなおすんだ。それだけの覚悟が必要で、それを同時に二つ持つことはとても難しい」
音無は青子から目をそらさない。あまりにまっすぐなので、青子は目が泳ぎそうになるのを必死でたえた。眉を落として、音無は笑う。いつものやさしいばかりの笑みとは違った。
「だから、その覚悟は武長くんに持っていてよ」
青子のことを考えてくれていることがよくわかるその言葉に、何かを言うよりもはやく、青子の目からしずくが落ちた。あれほど泣いたのにまだあったのか、と思うほど、涙は続けて落ちていく。音無は青子の頭をなで、青子は音無に体を預けた。覚悟。頭のなかを支配するのには充分の言葉だった。それでも、青子のことを考えてくれているからこそ、青子は音無と一瞬でも一緒になりたい、とつよく思った。
「でも、でもしーちゃん、はじめてはやっぱりしーちゃんがいい。今だけでいいから、しーちゃんの恋人にならせて」
音無はなでることをやめ、青子の体を離した。逡巡の様子はあまりない。何を言っても返ってくる言葉がわかっているようでもあった。それでもぼろぼろと泣きやむ様子のない青子の額に自身の額を合わせて、
「後悔しない?」
と聞いた。
やさしすぎるこのひとを困らせてしまっている、と青子はまた涙を流した。わかっている。これは単なる甘えだ。お菓子が欲しいと駄々をこねている小さな子どもと一緒だ。だがそんな青子の甘えに、音無はこたえようとしてくれている。誠意をもって。あふれでる涙を手でぬぐい、今度は青子が音無をまっすぐ見つめた。小さく、それでも確かに青子がうなずくと、音無は吐息がかかるほど唇を近づけ、次の瞬間には重ねた。
目を覚ますと、天井が目に入った。ぼうっとした頭のまま横を向くと、音無の後頭部が目に入る。青子の視線に気づいたのか音無は振り返り、本を読むときと勉強をするときにだけかける眼鏡を外した。
「起きた?」
いつもと変わらない笑みだった。音無は読んでいた本を机に置き、やさしく青子の髪をなでた。
「体、つらくない?」
大丈夫、と口のなかで呟くように言うと、音無はよかった、と笑った。本当のところ腰のあたりに多少ずきりとした痛みがあったのだが、そんなことは気にならなかった。体の気だるさに気づかないふりをして、青子は体を持ち上げる。いつ眠ってしまったのだろうか。最近眠りが浅かった分、思いのほか寝てしまったようだった。夢も見ず、だるい体とは裏腹に、目が完全に覚めると頭はすっきりしていた。
「落ち着いたら送るよ。もう七時だ」
息も白くなる今の季節、窓の外を見るともう真暗だった。青子は素直に甘えることにした。いつも通りの音無。手に入れたところで、お菓子は食べるとなくなってしまうのだ。
送ってもらっている途中、青子はごく自然に音無の腕に自身の腕をからめた。音無も何も言わなかった。からめた腕からあたたかさが伝わってくる。恋人のように甘えているというよりは、弟と手をつないでいるときのような安心感があった。おそらく音無も似たような感覚だろうと思う。しかし音無のほうが冷静で、青子の家が近づくと腕をはずした。
「誤解を受けたらいけないから」
武長の家が隣ということに対しての配慮なのだとすぐにわかった。
家につくと音無と別れを告げ、見送る。音無の姿が遠くなったところで家に入ろうと門に手をかけると、「おかえり」という声が横から聞こえてきた。声の方向に目を向けると武長がいた。見られていたのだろうか。
「ただいま」
なるべく平静を装って答える。
「武長も今帰り?」
「うん」
聞いておきながら、あの彼女とだろうか、とまたいらない想像をした。飲み込んだ言葉で秘かに傷つきながら、青子は続けた。
「そう、おかえり」
ただいま、と武長は小さく答え、音無が行った方向をじっと見つめた。
「さっきの、誰?」
口角は持ち上がっているが、目が笑っていない。不快感が見える。武長は短気ではあるが、青子に怒ることはほとんどない。最後に青子に怒ったのは中学二年生のときで、こんな武長は本当に久しぶりに見た。武長は普段やさしいだけに、怒るととてもこわい。残っている記憶が青子の恐怖をつついた。
青子がおびえたのがわかったのだろう。武長は一つ大きな溜息をついて、頭をかいた。無理につくっていた笑顔をほどき、無表情でさらに問う。
「年上みたいだったけど」
「あ、うん、四月から社会人だから」
答えるかどうか迷った。武長は音無のことを女性だと勘違いしていたはずだ。どうして武長が怒っているのかもわからないので、何が地雷なのかもわからない。それでも訂正をするのなら今がチャンスだ。ずるずると勘違いを引きずると、いつまでも抜けだせない。
意を決して、青子は言った。
「前に聞いたでしょう? しーちゃん」
すると武長は少しだけ目を丸くし、男だったんだ、と独り言のように呟いた。青子のことをじっとみつめ、青子が多少あとずさりしそうになると、武長は聞いた。
「付き合ってるの?」
やけにゆっくりとした口調で聞こえた。それがさらに青子の恐怖心をあおる。
付き合ってはいない。付き合ってはいないが、先ほどまでの行為が青子の脳裏に浮かぶ。必死だったのであまりよくは憶えていないが、確かに今さっきまで、音無と。かっと顔が熱くなった。
その様子を見て、武長はふうん、と一人納得したように小さくうなずいた。しばらく考えるような無言のあと、自分の家にまで戻ってしまう。
「おやすみ、青子」
最後にそう言って、家のなかに入ってしまった。結局武長が何に怒っていたのかわからないまま、青子も家に入る。武長が「さん」をつけなかったことが小さくひっかかった。
ただいま、と言うといつも以上の勢いで弟が飛びついてきた。思わずよろめく。
「おかえりなさい。あのねおねーちゃん、ぼく百点とった」
誇らしげにテストを拡げる弟を見て、青子は一瞬でもいろんなしがらみから抜け出すことができた。すごいね、と褒めながら頭をなでると弟はうれしそうに笑い、またばたばたと居間に走っていく。一緒にがんばる、というのを彼は有言実行したのだ。少しは見習わなければならない。
「ねえくろちゃん、今日武長と何か話した?」
「にーちゃん? 今日は会ってないよ」
それより宿題教えて、とノートを持ってくる。弟に勉強を教えながら、青子は考える。それでは何に怒っていたのだろう。何かをした覚えはない。下校しようとしていたときにはいつも通りだったし、それからこの時間まで会っていないのだから何かをしようもなかった。それとも明日になれば何事もなかったようにまた日々が始まるのだろうか。
翌日の登校時に武長に会うと、昨日のように怒ってはいないようだったがどこか考えている風を見せた。青子が何かを言っても生返事しか返さず、武長から話しかけてくることもない。青子にとっては重い沈黙が続いた。普段なら沈黙もなんとも思わないのだが、何しろ原因がわからないのでどうしたらよいのかわからない。また昨日のように怒られるのもいやだった。
沈黙のまま学校に向っていると、昨日の女の子が立っているのが見えた。彼女もこちらを確認すると、青子のことなど見えていないように武長の腕に自身の腕をからめた。武長を認識して腕をからめるまでの、一連の流れの速さに青子は目を丸くする。頭が動作に追いつくと、目の前で腕をからめられたことに激しい妬みを感じた。だが彼女にはその権利があるのだ。
三人一緒に行くことになって、武長が女の子と腕を組んでいるところを見続けなければならないのはいやだ。そうでなくても女の子は青子など眼中にないようだった。青子は泣きそうな気持ちになりながら、黙って歩を速めた。朝から胸に鉛を埋めこまれたようだった。登下校を別にして武長との関係性が変わることを期待していたのは青子だが、こんな形の崩れ方は遺憾だった。なんて勝手だろうか、と思っても、どうしようもなく悔しくなる。
武長は女の子の腕をはずし、
「ごめんね。終りにしよう」
いつもの口調で言った。思いもしない言葉に青子も振り向く。女の子は突然放たれた言葉に理解が追いついていないようだった。
「俺、気づいちゃったんだ」
女の子ははっとしたように反論を始めたが、武長は気にすることなく先に進んでいた青子の手首をつかんだ。状況がつかめず青子は動揺を隠せない。普段どんな別れを繰り返しているのかなど知ったことではないが、少なくとも青子の知っている武長は無責任に投げ出したりするようなひとではない。
「青子、すきだよ」
世界がとまった。
理解が追いつかない。彼は今なんと言ったのだろうか。後ろで何かを言っている女の子の言葉も青子の耳には届かず、かといって何かを言うこともできなかった。
何拍かおいてわかったのは武長の突拍子もない告白と、後ろには武長の今しがたふられた彼女がいることと、手首をつかまれて逃げられないことだ。先ほどは武長が女の子にされていたことを理解するまで時間を有したが、今度は自分が武長にされていることを理解するまで時間を必要とした。
理解が追いついてくると、今度はこわくなった。今までずっと武長のことを思ってきて、武長がいろんな子と付き合ったり別れたりするのをすぐそばで見てきた。突然すきだと言われたところで、青子はすぐに信じることはできなくなっていた。あまりに待ち望んでいた言葉だったので、まるで現実に感じることができない。夢か、あるいは揶揄ではないのだろうか。そんな考えが浮かぶ。昨夜、音無に言われた言葉が頭をめぐる。「恋人っていうのは今の関係が崩れてしまうことでもあるんだよ」。その覚悟があるのか、青子にはわからなくなっていた。長く一人で、気持ちを大切にしすぎたのかもしれない。
「なに言ってるのよ」
茶化すことしかできなかった。
それからの武長はわかりやすく態度が変わった。告白をされても了承することもなくなり、女の子と話す姿もあまり見なくなった。休憩時間には時たま遊びにくるようになり、頭をなでたりと青子にさわることも増えた。青子の前でふられた彼女はまだ何か言っているようで、そんな様子もたまに目の端に映ったが、武長は笑顔をつくることもなく拒否の形をとっていた。
「すきだよ」
ここ数日ですでに何回目かわからない告白をされ、青子はごまかすのにも慣れはじめてきていた。
「ありがとう」
目も向けずに答える。ごまかすのは楽だった。嘘と思っているわけではない。ほとんど本能的に武長のことは信じているが、目をそむけることは楽だと青子は気づいてしまった。そんな青子の心情がわかっているように、「ほんとうだよ」と武長は念を押す。そんなとき青子はじっと押し黙り、やがて「そう」とうなずくほかになかった。
「青子さん、お昼一緒に食べよう」
弁当を携えて、武長は青子の教室に来た。青子はいつもどおり友人と食べようとしていたところだったのだが、武長はさっさと青子のところまで来て、青子の手を引く。お昼は今までのリズムがあるから、とそれまでと変わらず別々であったのに、気が変わったのだろうか。青子が何も答えずにいると、武長は肯定と受けとったらしい。
「青子さん借りるけど、いいよね?」
突然どうしたのだろうと目を丸くしている青子の友人をよそ目に、武長は青子を多少引っ張る形で食堂まで連れていく。
「強引」
食堂で弁当を拡げながら、青子はうらめしそうに武長に言う。拒否はしていないが、まだ了承してもいない。今まで登下校のとき以外来なかった武長が何度も青子に会いにくるので、クラスは武長と青子の噂で持ちきりだ。武長もやっと落ちついたのか、だとか、幼馴染だから青子は長い片思いだったな、だとか、ただでさえ勝手な憶測が飛んでいるというのに、これでさらにひどくなるに違いない。すでに他クラスにまで及んでいる噂の尾ひれ、背ひれに気持ちが沈む。
「相変わらずおいしそうだね。卵焼きちょうだい。青子の家の卵焼きすきなんだ」
小さなころから弁当の中身を取替えあったり、夕食を一緒にしたりしていたので、互いの家の食事はどことなく把握している。青子の返事を待たずに武長は卵焼きをとり、代わりに青子がすきな武長の家の本当に足が八本あるたこウインナーを入れてきた。久々に見たそれに文句が言えなくなり、青子は無言で口に放りこむ。
「信用、してないでしょう」
にこ、と笑って武長は言った。告白されてからあとも何度か繰り返されている「すきだ」という言葉のことだとすぐにわかった。
「今までが今までだったから仕方ないけど、青子が信じてくれるまで俺は言い続けるよ」
箸がとまる。武長がふざけているかどうかなどすぐにわかるし、ふざけて言うようなひとではないことも知っている。単純に青子が恐怖を抱いているだけであって、結局原因は自分にはね返ってくるのだ。
すきだなんだと言ったところで、いつその気持ちが変わるのかわからない。昨日今日のことでは猶更だ。思いの丈に期間が比例するとは思わないが、自覚してからもう七年目になる青子と、数日前に突然言ってきた武長とではやはりどこか違う。武長が言うところの「ほんとう」には違いないのだろうが、青子の恐怖はもっと別のところにあった。
「ごちそうさまでした。ウインナーおいしかった」
弁当を包みなおし、休憩終りのチャイムが鳴る前に青子は立ちあがる。さっさと出ていこうとしている青子に文句も言わず、武長はいつもの笑いを浮かべた。青子は小さな罪悪感を覚えたが、気づかないふりをした。
食堂から戻ると、青子はすぐに数学のノートを広げた。あまり気分はよくない。こんなときは数学の問題を地道に解いているほうが気持ちも落ち着く。黙々と作業するようにペンを動かしていると、誰かの影が青子の体にかぶさる。顔を上げると、青子の目の前でふられた、例の女の子が立っていた。
女の子はハンカチを握りしめたまま青子をにらみ、ぼろっと涙を流した。突然のことに青子はぎょっとする。人が泣く姿など見ていて気持ちのよいものではない。どういう状況だろうかと必死に混乱する頭を回転させていると、女の子は口を開いた。
「返してほしいの」
あ、はめられた。すぐに気づいた。女はこういうときいくらでも相手を悪者にできることを青子は知っている。震えた声を聞きながら、その涙も演技だとわかった。しかしそれは青子が、であって、周りは皆が皆、そうではない。
「返してほしいの、武長くんを」
繰り返して言い、続けて涙を落とし続ける。青子の手にも水がかかった。教室内がざわざわと騒ぎ始めた。できることならば逃げ出してしまいたかったが、状況がそうはさせてくれない。ここで逃げてあることないことを吹聴されて困るのは青子のほうであるし、かといってつよく当れば、それはやはり青子が悪者になる。
どうしたの、と女の子と同じタイプの同級生が寄ってくる。つまりクラスを引っ張っていくような、盛り上げ役の、いわゆる体育会系の女の子たちだ。そうやってかばうとさらに青子は不利になる。ぱっと見て青子が悪者になるような状態にできあがっていくのだ。
やめてよ、と心のなかでつぶやいた。
「青子ちゃんが、私から武長くんを……」
それ以上は言えない、とばかりに嗚咽する。名前をちゃん付けされるほど仲がよかっただろうかと青子は首をかしげたい思いだったが、これも彼女の作戦だろう。仲よしだったのにひどい、というわけだ。これから残り少ない高校生活はこれですべて壊されてしまうのだろうか、とどこか達観した思いで嘘泣きをする女の子を見つめる。こんな簡単なことで。
彼女をかばいに来た同級生たちは大丈夫だよ、と女の子を慰め、代わりを果たすように青子に言った。
「どうなの?」
周りからひそひそと小さく話し声も聞こえる。見かねた青子の友人がちょっと、と寄ってきた。
「こんな目立つところで泣きながら訴えるって卑怯じゃない? これじゃ青子が悪者だって決めつけてるようなものじゃない」
持つべきものは友人、だろうか。しかし彼女もあまり状況はわかっていない。かばうのにも限界がある。泣いている女の子と責められている青子では、やはり彼女のほうが優勢だ。どうしてこんな目に遭わなければならないのだろう。泣きたいのは青子のほうだった。
「青子はそういうことするような奴じゃないよな」
誰か男の子のつぶやきが聞こえてきた。よく耳を澄ませば、泣いている女の子に味方をしている同級生はあまりいない。青子はこれまで自分の築いてきた信頼が見えるようで勇気づけられたが、何か下手なことを言って女の子にさらに泣かれると状況はどうなるかわからない。少なくとも悪者という立場から抜け出したかった。
(私に不可能はない)
魔法の呪文を頭のなかだけで繰り返す。だから何もおそろしいことなどないはずだ、と自分を鼓舞する。魔法の呪文だけが、唯一絶対的な味方だった。
しかし二人きりで言われているのならともかく、クラス内のほとんどが注目している以上、反論さえできない。噂のこともある。完全なる濡れ衣だと信じてくれている人が何人いるのだろう。人のことなどいくらでも言える。悔しさで涙がにじみ始めたところで、そうだね、と聞きなれた声が聞こえた。
「すごく卑怯だよ。俺に直接言えば?」
教室内が声の主に目を向ける。武長だった。青子も武長を認識し、女の子とは違う、本当の涙を流した。こんなに泣く性格だっただろうか、と最近の自分自身に驚きながら、青子はあわてて涙をぬぐう。武長の姿を見て不本意にも安心してしまった。いつもこうだ。青子がどうしようもない状況に迫られると、いつもタイミングよく現れる。小学生のときにいじめられたときや、中学生のときに知らぬ人に連れ去られそうになったとき。武長が原因で涙しているとき以外、この男は絶対に青子の前に現れる。なんともずるいことに。
「うん、悔しかったね。ごめんね」
武長は青子の頭にぽんと手をおき、笑顔を浮かべた。また泣きそうになって、青子はうつむく。そんなやさしい笑顔を向けないでほしい。
姿勢を変え、武長は女の子に向き合う。
「青子さんに言うのって単なる逆恨みだと思うんだけど、どうかな? こうやって目立つところで泣きわめくのも迷惑な話だしね」
さらりと批判する。怒っている、と青子は察した。
「俺は君と付き合っていた、でも俺は青子さんがすきだと気づいて君をふった。青子さんが俺を奪ったっていう解釈は間違ってると思うけど」
にっこりと笑顔で言う。女の子はびくりと体を震わせた。青子からは表情が見えないので笑っている雰囲気しかわからないが、おそらく目は笑っていないに違いない。静かに、理論立ててじわじわと相手を責めるのがいつもの武長の怒り方だ。決してどなったりはしない。
「最低だね」
ぞっとするほど冷たい声が青子の頭上から聞こえてきた。これまで何度も聞いたことのある武長の声に、今までの記憶がよみがえる。怒り方が本当に昔から変わっていない。女の子は顔を真青にし、今度こそ泣きながら教室を出ていった。廊下を走る音が遠ざかっていく。
「大丈夫?」
「疲れた」
いつもの声に戻って、武長は青子の顔を覗きこむ。うらみをこめて答えたつもりだったが、声は震えていた。するとチャイムが鳴り、皆何事もなかったかのように次の授業の準備を始めた。武長はまた青子の頭に手をおき、
「放課後迎えにくるね」
と言い残して自分の教室へ戻っていった。もしかしたらこういうことが起きるとわかっていて、お昼を誘いにきたのかもしれない。武長と青子の関係について噂が流れていることは、武長の耳にも届いているはずだ。そしてあの女の子にも。そうでなければあんなにもタイミングよく現れるだろうか。都合のよい考えだ、と思いつつも、一度思うとそうとしか考えられなくなってしまった。武長ならおかしくない、とどこかで納得してしまう。
ずるい。
口のなかだけで呟いて、青子も教科書を出し始めた。
ホームルームが終って教室を出ると、すでに武長が待っていた。昼間のことはつきつめれば武長のせいのような気もするのだが、助けてもらったのには変わりない。少なくとも青子一人ではどうしようもなかった。お礼を言わなければ、と口を開いたところで、武長が先に言った。
「青子さん、明日あいてる?」
久々に遊びにおいでよ。昼間にあったことなど忘れてしまったかのようだった。お礼を言う機会を逸して、青子は言葉を理解するのに少し時間がかかった。
明日は土曜日だ。武長の両親は休みがくると毎週のように二人で旅行に行く。幼いころ、武長はよく青子の家に預けられたものだった。だからおそらく明日も武長の両親はいないのだろう。しかし断る前に武長が時間を決めてしまったので、青子は素直に従う以外にしようがなかった。今日のお昼に助けてもらった分、断りづらいところもある。断るための理由も見つからない。
武長に告白をされてから、音無に会っていない。次にいつ会えるのかも不鮮明だ。相談する機会のないまま明日を迎えるのは、自分のなかの不安が膨張するばかりだ。迷惑を承知で夜に電話をかける。呼び鈴三回で音無が出た。何をしているのか聞けば、少しだけうたた寝をしていた、と答えられた。かけなおそうか、とさらに聞くと、中途半端な時間なので起こしてくれて助かった、と電話の向こうで音無は笑う。変わらずやさしい音無にほっとしつつ、青子は音無に武長に告白されたことと、今日のお昼に起きたことを言った。説明するととても小さなことのように思えた。必死になっていることは冷静になって客観的に見ると、そんなものなのかもしれない。
聞いたあと、音無はしばらく無言だった。考える風の声を出し、
「こわくなっちゃったんだ」
うん、と青子はうなずいた。
「それなら無理に受け入れる必要はないと思うよ。青子は七年も片思いを続けてきたわけだし、混乱するのも無理はないんじゃないかな」
混乱、なのだろうか。音無の言葉を咀嚼しながら、青子は考える。
「ひどいことを言うけれど、もし青子が受け入れないからってすぐに愛想を尽かすようなら、武長くんはそれまでってことだよ」
きっとそうではないと知っているから、青子は武長くんがすきになったのだと思うけれど。続けられた言葉に、少しだけ目を丸くする。
「けっこう言うね」
音無に対してあまり否定的な言葉を使わない印象がつよいので、単純に驚いて青子は言った。すると当り前のように音無はうん、と返す。
「それはそうだよ。俺は全面的に青子の味方だからね」
こんな心強い味方がほかにいるだろうか。武長には悪いが、青子はうれしくなる。
動揺するばかりではっきりしない自分の思いを肯定してくれる音無に感謝しながら、青子は受話器をおく。
でもこわいのは武長の気持ちそのものじゃない、と青子は自分でも聞こえないくらい小さな声でつぶやいた。
「あがって」
武長の家に行くと、やはり武長しかいなかった。今日は京都に行っているのだと武長が教えてくれた。多少の緊張を持ちながら、何年かぶりの武長の家に足を踏み入れる。前までと同じように二階にある武長の部屋に行く。久々であるのに違和感は覚えなかった。多くは変わっていなかったが、さすがにものが増えている。本棚の本は小難しそうなものに変わっていたし、参考書も並んでいた。相変わらず小奇麗にしているように見えるが、もの自体は無造作に端に寄せられているだけだ。
下から紅茶を持ってきた武長が、小さく笑った。
「特に変わってないでしょう」
幼いころは互いの家も自分の家と変わらず出入りしていた二人だ。家の構造から、コップやらの道具の場所まで大体はわかる。
「そうだね、相変わらず端に寄せるだけできれいに見せようとしてる」
指摘すると決まりが悪そうに武長は笑った。
「はい。紅茶でいいよね」
武長に差し出された紅茶を受けとる。武長は青子の横に腰かけ、じっと青子を見つめてきた。いつもどおりを心がけようとすればするほどわからなくなり、青子の動きがかたくなる。
「青子さん、緊張してる?」
その声が愉快そうに響いたので、多少むっとした。反論しようと武長のほうを向く。待っていたように武長は青子の耳元に口を近づけ、
「すきだよ」
とささやいた。青子の顔があわく朱に染まる。しかしこれを他の女の子にもやったのだろうか、と思うと、少しだけ落ち着いた。余計な思考にもこのときばかりは感謝だ。胸が痛んだことを無視することだってできる。
武長はくすくすとおかしそうに笑い、青子の額に自身の額をくっつけた。音無と同じことをしたのを青子は思い出す。顔が近い、と自分でも意外なくらい冷静に思った。音無とは額を合わせたあと、とそこまで記憶が進むと、青子のなかで何かがはじける音がした。押し倒すようにして武長と唇を重ねる。突然のことだったが、武長はなされるがままに受け入れた。
後悔なんかしていない、と青子はうなるように言う。武長はその言葉が聞こえていないようなふりをした。そのやさしさがありがたく、同時に憎らしくもあった。青子が離れると、武長は何度か目を瞬かせた。
「ひどい顔」
かなしそうに笑って、武長はうすく青子の頬を触る。青子はほとんど泣きそうな顔をしていた。武長の手の冷たさが伝わってくる。ひんやりとした、もう自分よりいくぶん大きくなってしまった手だ。昔はほとんど変わらなかったのに。もう戻れない、と何に対してでもなく思った。
事に及びながら武長は青子に聞いた。
「あのひとに教えてもらったの?」
言葉を発することができず、青子はただ必死にうなずく。そう、と武長は目を伏せた。
「俺の知らないところでこういうことをするようになってたんだ、青子は」
それはこちらの科白だった。反論しようとしたがやはり言葉は出ず、最後の抵抗として武長を睨みつける。だが状況が状況なだけに効果はないようだった。むしろ武長は愉快そうに目を細めた。
一回目とは違う気だるさを全身に感じながら、青子は動く気にもなれずぐったりと横になっていた。慣れた様子の武長をうらめしげに見ながら、毛布にくるまる。
「大丈夫? やさしくはしたつもりだったんだけど」
睨んでくる青子を意に介さず、武長は青子に言いながらベッド脇に座る。やさしくされたのは青子にもわかったことだ。逆を言えばそれだけ場数を踏んでいるということで、それがまた青子のいらない考えを刺激した。
「俺は、青子がすきだよ」
横になっている青子の頬に手を添えて、武長は言った。
「すきだよ」
主張するように繰り返す。今まで聞いたことがないほどのやさしい声だったので、青子は思わず顔をそむけ、武長に背を向けるように寝返りを打つ。熱くなってきた。
幼いころとはさすがに変わってしまった毛布を見ていたら、どこか知らないところに来た感覚に襲われた。なんて遠くまで来てしまったのだろう。武長の知らない青子の生活ができてしまったように、青子の知らない武長の生活もある。なんでも話していたというのに、いつの間にごまかすことを覚えてしまったのだろうか。
「しーちゃんとは、付き合ってない」
ゆっくりと言う。誤解されたままでいたくなかった。
「うん」
まるで知っていたかのように武長はうなずいた。どうしたらよいのかわからずそのあと無言でいると、一つ二つ声のトーンを高くして武長が言った。
「だって青子さんは俺のことがずっと前からすきだものね」
逃げ道をつくってくれているのだ。すぐにわかり、上半身だけひねるようにして目を向けると、武長のうすく笑った顔が目に入る。身の振り方に悩んでいる青子がいくらでも茶化せるように、武長は一つの距離をとろうとしてくれているのだ。今すぐ答えを出さなくてもいい、と言われているようで、青子はまた泣きそうになる。武長のそういうところがずるい。泣きたくなんてないのに、いつだって青子を泣かせるのは武長なのだ。
「なに言ってるのよ、ばか」
震えた声に、武長は気づかないふりをしてくれた。
大学には無事に合格した。入れ違いで音無は卒業したが、入学祝いに写真たてとアルバムをくれた。青子も就職祝いに、音無にネクタイをプレゼントした。今までと頻度は落ちたが、音無は青子とよく会ってくれた。高校と違いが多すぎて最初は新生活に戸惑いもしたが、音無に教授の傾向を教えてもらっていたので授業自体にはすぐに慣れることができた。
何か考えるところがあったのか、武長は大学に入るとすぐに一人暮らしを始めた。一年生の間はほとんど専門科目がなく、時間割はほとんど一緒なので、登校は青子が武長のところに迎えに行く、という形になり、下校は武長が青子を駅まで送る、という形になった。少しさびしかったが、口には出さなかった。
六月に入ると生活リズムも整い始め、アルバイトをする余裕もできてきた。大学の近くの喫茶店で接客業を始めると、武長も追いかけるようにして青子と同じ職場に勤めることになった。見栄えがよく、仕事もそつなくこなすので、店長もあっさりと武長の研修バッチを取り、武長が青子とまったく同じシフトにしてほしいと頼んでも何も言わなかった。
「うちに泊まればいいのに」
バイトが終ると九時を回る。春とはいえ夜は暗い。武長は青子を駅まで送りながら言った。
「いいよ。くろちゃんもさみしがるし」
口実だった。武長のところに泊まって、ずるずると抜け出せなくなるのがこわいだけだ。このままでもよいかな、と少しでも感じてしまうことは青子の思うところではなかった。電車もあり、武長のところに泊まる理由はない。青子の家は最寄り駅から十分圏内で、駅までついてしまえばそこまで危険を感じることもない。
「送ってくれてありがとう。おやすみ」
武長は青子を引っ張り、柱の影に引き寄せた。人から隠れるようにして口づけ、とん、と青子の背中を叩いた。
「明日もすきだよ。おやすみ」
顔が赤くなるのを必死で抑えながら、青子は定期券を改札に通す。ホームに行く途中ちらと武長を見やると、手をふっているのが見えた。小さくふり返して、青子は電車に乗り込む。
大学に入ってから、間違いなく武長は青子に対して積極的になった。毎日のように告白をし、家に誘う。高校の友人も大学はばらばらになったので、昼食も一緒にとるようになった。青子はといえばいまだ茶化す以外に方法を見つけられずにいた。初めて告白されてから半年以上経つが、今になってもまだ恐怖に打ち勝てない。片思いの期間が長かっただけに、足の踏み出し方がわからないままここまできてしまった。足を踏み出せば、そこは崖なのかもしれない、という思いが青子を襲う。
ずるずると気持ちに区切りをつけられずにいる自分を情けなく思っていたある日、武長が仔猫を大学に連れてきた。
「どうしたの、その子」
青子の家も武長の家も、ペットを飼っていたことがない。友人も犬を飼っている子ばかりで、猫といえば野良猫くらいにしか縁がなかった青子は顔がゆるむのを我慢できなかった。
「拾った」
だからといって大学にまで連れてくるだろうか。思いながらもケージを覗くと、思わずかわいい、と声を出してしまうような愛くるしさで仔猫は寝ていた。動物があまりすきではない武長がどうしたことだろうと聞いてみると、武長自身眉根を寄せて悩んだ。
「どうしてだろう。この前の雨の日、捨てられていたのを見て、なんだか拾っちゃったんだよね。気まぐれとしか表現しようがないかも」
まだ名前がないんだ、と武長は言った。青子さんがつけてくれる?
青子は目を覚ましてあくびをした猫をじっと見つめ、やがて言った。
「ブチョー」
「部長?」
およそかわいらしさとは似つかない名前に、意外そうな声を出される。しかし武長はわかった、とすぐに了承した。それでこの猫はブチョーと名づけられ、武長の家で飼われることとなった。
これで口実ができてしまった、と青子は内心複雑になる。武長の家に行くことに対する口実。武長が家に呼ぶ口実。拾った当人はそんなことを考えもしていないようだったが、いずれ気づくだろう。逃げ続けるのにも限界があるのだろうか。
しかし青子の思いとは関係なく、ブチョーはかわいかった。青子はブチョーの様子を見に結局自分で武長の家に足を運ぶようになり、バイト帰りに寄るようにもなった。それでも決して泊まらないというのが青子のなかの一線で、ブチョーを見にいき、泊まるよう武長にせまられても、青子は必ず日付が変わる前には帰った。
「そろそろ素直になってくれてもいいのに」
一度だけ武長がぽつりとこぼした。大学に入って初めての長期休暇がこようとしているときだった。青子は聞こえないふりをし、ブチョーをかまった。大学の二ヶ月という長い休みに頭がくらくらする。
夏休みに入ると、仕事にも慣れてきた音無と久々に会った。
「給料が入ったばかりだから、おごるよ。なんでも頼んで」
そう言いながら、音無が青子と食事をしたとき、会計を支払わせたことなどなかった。青子はなるべくメニューから安いもののなかで食べたいものを選び、注文する。
「大学の休みは長いでしょう。授業料泥棒だよね」
食事が運ばれるまでの間、音無は言った。無事に試験を終えた青子はうなずく。おそらく単位を落とすことはないだろう。九月まで結果が出ないというのが不安感を煽るが仕方がない。
「適度にさぼって、適度に真面目にやるのが一番いいよ。やっぱり大学は一、二年生のうちがいちばん遊べる時期だと思うし。と、今なら言えるよ」
「しーちゃんも遊んだの?」
「遊んだ遊んだ。基本的にはアルバイトに費やしていたけれど、単位を落とさない程度に講義に出なかったこともあったし、友だちと旅行にも行ったし」
「彼女をつくったり?」
その問いを少し意外に思ったらしい、音無は一瞬反応をとめ、やがてうん、とうなずいた。料理が運ばれてくる。店員が去っていくのを確認して、音無は続けた。
「告白したこともあったし、されたこともあった。でも俺はふられる専門だったけどね」
音無がふられるところなど想像がつかない。何が原因だったのだろうと失礼ながら青子が考えていると、音無はそれを察したようだった。
いただきます、と両手を合わせる。
「よく言われたのはやさしすぎる、だったなあ」
「やさしすぎる?」
「そう。誰にでもやさしいから、私じゃなくてもいいんでしょう、って」
なんとなくわからなくもない。友人として、あるいは先輩として、音無はとてもやさしい。実際初対面で話しかけてくれたのは音無のほうだった。それが自分の恋人だったとしたら、やはり見知らぬ女の子の話を聞いて仲よくなる、なんていうのはたえられないことのような気がした。あるいはあのとき彼女がいたらしなかったのかもしれないが、それでもそういうことをできる人には間違いない。
「俺はそんなつもりないんだけどね。でもそう言われたら俺は引きとめられなくて、そうするとまた言われるんだよね。ほら、引きとめてくれない、って。これはもう毎度のことのようだったなあ」
料理を口に運びながら、青子はその状況を思い浮かべた。困っている音無が目に浮かぶ。
「想像つきやすいでしょう」
考えていることを見透かされたようで、青子は軽く頬を染める。ごまかすように料理を次々と口に運んだ。
食事を終えて、音無に家まで送ってもらう。まだ空は明るかったが、音無は送ると言って聞かなかった。青子も遠慮する相手ではないので素直に甘える。家に着くと、いつかのように武長が家に帰っていた。夏休みに入ったら帰省すると言っていたのを思い出す。
「おかえり武長。帰省、今日からだっけ」
青子が話しかけると、声に気づいて武長がふり向いた。青子を認識したあと、青子の横にいる音無に目を向ける。表情に感情が浮かばない。音無のことを憶えているのだ、と青子は察した。
「しーちゃん、これが武長。武長、こちらがしーちゃん……音無さん」
順番に紹介する。やましいことは何もないはずだ。音無についてはいろいろと誤解があったので、なんだか多少どきどきしてしまう。青子はなるべく明るさを装った。音無はうっすら笑いながら、武長に頭を下げる。
「初めまして。音無です」
「初めまして、武長です」
じっと音無を見ながら、武長が答える。音無に言っているというよりは、言われたのでとりあえず定型文を口にしてみました、というような適当さを感じた。
武長の機嫌はあまりよくなかった。じろじろと失礼なまでに音無のことを見て、やがて軽く頭を下げて家に入ってしまった。
「わかりやすい子だなあ」
特に気にしていないように音無は言った。
「ごめんなさい、普段はちゃんと挨拶するんだけど」
「うん、わかるよ。身だしなみもきちんとしているし、言葉づかいもきれいそうだった。ただ俺に敵意むき出しって感じだね」
まあ、気持ちはわからなくもないけれど。音無が言っている意味がよくわからず、青子は首をかしげた。
そんな青子を見て、音無は笑った。
「男女で物事の感じ方が違うってこと」
ぽん、と頭に手をおかれる。そう言われてしまうと青子には一生わからない問題のように思えた。
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