沈黙の盲点
伊藤 薫
[1]
3月14日、午後11時10分。
真壁仁は文京区大塚の監察医務院にいた。変死体の解剖を待ちながら、年中冷房の効いた廊下のベンチに腰掛けていた。頭にのしかかる眠気に瞼が垂れ、蛍光灯が明るすぎると思っていると、ファイルを手にした監察医が眼の前に立った。
「検案、終わりましたよ」
真壁は顔を上げ、ベンチから重い腰を上げた。
「おたくの見立て通り、直接の死亡原因は狭心症による心臓発作で間違いない。死後3日から4日といったところです」
通報があったのは、午後2時半。台東区の民生委員が、訪問先で人が倒れているのを発見したという。場所は、東上野三丁目×‐×にある柏木自動車工場。倒れていたのは工場主の柏木達三、47歳。
「行政解剖は?」
「必要ないでしょう」
その時、胸にしまっていた携帯電話が震え出した。取り出してみると、画面が「上野南署刑事課」となっていた。
「はい、真壁」
「平阪だ」
相手は直属の上司である刑事課強行犯係長、平阪善明だった。
「検死はまだ終わらんのか?」
「いえ、たった今終わったところです。病死で確定です」
「今し方、署に通報があって、刑事課長が帰ってきてほしいそうだ。あとどのくらいで、帰って来れる?」
「案件は何ですか?」
「分からん。おそらく刑事課長が話すだろう」
「分かりました。20分くらいで署に着くと思います」
「頼むぞ」
電話を切ると、監察医に死体検案書の写しを上野南署に送るよう頼み、真壁は監察院の暗い廊下を走った。
春日通りに出てタクシーを拾い、後部座席に体を滑り込ませながら、運転手に「台東区役所の近くまで。急いで」と告げる。
「この時間に仕事ですか」
「うん、まあ。人使いの荒い会社だから」
「失礼ですが、どういう方面の・・・」
「電線の保守とか」
「へえ、技術屋さんですか・・・」
真壁はシートに深く背をうずめ、数分を惜しんで目を閉じた。所轄には6日に一度、「本署当番」という宿直勤務がある。これに当たると、当番日の朝から翌日の同時刻まで、所轄係に関わらず、発生した事案はすべて当番員が手分けして処理することになる。
例えば今日の真壁がそうだ。まず朝一番で担当したのはガソリン盗。元浅草四丁目の月極駐車場に停めてあった普通乗用車3台が被害に遭った。鑑識係と現場に向かい、被害状況を確認した後、実況見分。この最中にも「事務所荒らしだ」、「ひったくりだ」と事件発生の報せは入って来たが、「まだ動けません」とその度に断った。
ガソリン盗にどうにか恰好がついて次に向かったのが、さっきの変死体事案だ。47歳男性の孤独死。遺体の検視は刑事課長代理の韮崎警部が、現場の実況見分と民生委員への事情聴取は真壁が受け持った。
ちょうど聴取を終えた頃に、孤独死男性の遺体は監察医務院に移送したとの報せを受け、その次に向かったのが東上野五丁目のひったくり事件の現場。38歳の主婦が自転車の前カゴからバッグを奪われた。その実況見分と被害女性からの聴取。
これを終えて大塚に向かったのだが、死体検案書を確認する間もなくまた署に通報があり、しかも案件の内容は刑事課長が直々に伝えるという。忙しさもこれ極まりで、ありがたくて涙が出るといった投げやりな気持ちになっていた。
去年の9月に新宿西署から籍を移して、8か月目。歌舞伎町交番に巡査として務めていた頃と変わらず、他人よりよく歩き、よく聞き、よく見るだけだと微睡む脳裏に改めて刻み付けた。
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