第二章『シエラ』

第6話

「なっ、七御斗!? 貴方、お姉ちゃんに何したの!?」


 家のリビングの中で、エプロン姿の母さんが叫ぶ。

 母さんの目の前には床に力無く横たわる少女と、それを茫然と立ち尽くしながら見つめる俺がいた。


 倒れている少女は――――中学生の頃の紗希姉さんだ。


 姉さんは中学校の制服を着用している。

 それを見つめる俺の目線は低く、身長からして6歳前後だろうか。


「紗希!? しっかりなさい!! 紗希!!」


 母さんは姉さんを抱き抱え、必死に呼び掛ける。

 しかし姉さんは顔を真っ青にしながらピクリとも動かず、呼吸すらも止まっていた。


「あ……あああ……ど、どうしましょう…………こんな時……が家にいてくれたら……!」


 母さんは肩を震わせながら涙を流し、ぐったりとした姉さんを強く抱き締める。

 そんな2人を見つめる俺の心は、恐怖と絶望で染まり切っていた。


「ち……ちがう……ちがうんだ…………ぼくは……ぼくは……なんにもしてないんだ……!」


 俺は、声を震わせながら呟く。

 ――――怖かった。

 怖くて怖くて仕方なかった。

 俺は、とんでもないことをしてしまったんじゃないかって。



 俺は――――姉さんを、殺してしまったんじゃないかって――――



「――――うわあああああッ!!!」


 俺は全身汗びっしょりになりながら、ベッドから飛び起きる。

 枕の横に置かれている目覚まし時計は6時を指しており、閉ざされたカーテンの隙間から朝日が漏れていた。


「…………ゆ、夢……?」


 俺は身体に掛けられたシーツを掴む自分の手を見て、今見た光景は夢であると認識する。


「……な……なんだ……? 今の夢……」


 俺は額の汗を拭いながら、そんな事を呟く。


 ――――最悪な気分だった。

 子供の頃の自分が、姉さんの命に関わるような大変な事をしてしまった……そういう夢だった。


「知らないぞ……あんな記憶、俺には……」


 だが、俺にはそんな記憶はない。姉さんの命を脅かすような真似なんて、勿論した覚えはない。

 所詮、只の夢に過ぎなかったのだろうか? それにしては、とても夢だと思えないくらい生々しかったが……。


「……顔でも洗ってくるか」


 俺は全身を気持ち悪さで包む寝汗を流す為、ベッドを後にした。





「七御斗、もう8時よ。そろそろ出ないと、学校に間に合わないんじゃないかしら?」


 紗希姉さんが、凛とした表情で俺に言ってくる。


「わ、分かってるよ……」


 俺はまだ着馴れない新しい制服に袖を通し、ネクタイを結ぶ。


 俺が東京に来てから今日で3日目。いよいよ、登校初日だ。

 東京の学校って、どんな感じなのかな? 

 やっぱ田舎と違って、皆ハイカラな感じなんだろうか。

 シャレオツな挨拶とか考えなきゃ駄目かな? 「東京の皆さんチェッス!」みたいな。

 などと極めてどうでもいい事を考えながらネクタイを締めていると、


「ホラ、ネクタイの結び方がだらしないわよ。転校初日くらい、格好に気を使いなさい」


 と、姉さんが近寄り、俺のネクタイを結び直してくれる。


「え? あ、ありがと……」


 ――――近い。

 姉さんとの距離が、もの凄く近い。

 姉さんの黒髪から、ふわりといい香りがする。

 姉さんはあくまで実姉だが、1人の女性であることに変わりはない。

 しかも弟の俺から見ても、かなりの美貌の持ち主ときてる。照れるなと言われる方が難しい。


 姉さんは手際よくネクタイを結び直し、俺はそんな姉さんの顔を恥ずかしがりながら見る。


 ――――その時、姉さんの顔を見ていた俺は、ふと思い出す。


 今朝に見た、あの生々しい夢を。


「……あのさ、姉さん」


「何かしら」


 姉さんはネクタイを見つめたまま、手を止めずに応答する。


「今朝、変な夢見たんだけどさ……なんかよく分かんないんだけど、子供の俺が中学生の頃の姉さんに何か大変な事しちまって、姉さんがぶっ倒れるんだ。なんだか凄いリアルな夢だったんだけど、昔そんなことあったっけ?」


 俺は何気なく尋ねる。

 もしそんな事があったら母さんや姉さんに聞かされて育つはずだし、記憶に無くとも知らないはずがない。

 所詮夢に過ぎないのだろうが、一応聞いてみるか……その程度の気持ちだった。



 ――――しかし、俺が聞いた瞬間、姉さんの様子が一変する。



 今までネクタイを結んでいた姉さんの手がピタリと止まり、同時に姉さんの凛々しかった表情が狐に包まれたような表情へと変わる。

 まるで、幽霊でも見たような顔だ。


「……ね、姉さん? お、俺なんかマズイこと聞いた……?」


 あ、あれ? まさか本当に何かあったのか……? 

 俺は姉さんの顔色を伺う様に、恐る恐る尋ねる。

 それにしても、あの沈着冷静な姉さんがこんな顔するなんて珍しい。

 ひょっとしたら、ツチノコを見つけるより難しいんじゃないか? 不謹慎ながらも、俺はそんな事を思ってしまう。


 しかし姉さんは数秒ほどで再び手を動かし始め、


「……そんな昔の事、覚えてないわ。どうせ、只の夢よ」


 と言ってネクタイを結び終え、逃げるように俺から離れた。


「え? あ、あの……」


「遅刻、するわよ」


 まるで言及を許さないかのように、姉さんは会話を拒絶する。

 俺は仕方なく、鞄を持って玄関へと向かう。

 玄関の鏡で自分を見ると、姉さんのネクタイの結び方はやはり完璧だった。

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