第一章『安全地帯』

第1話

「や……やっと着いた……!」


 俺は30階くらいある大きなマンションの前で膝に手を突き、到着の喜びを噛み締める。


 東京駅から無数の電車を乗り継いだ俺は人工島である『新有明』になんとか上陸し、姉が住むマンションまでやって来ていた。


 いや、しかしマジで長く苦しい旅だった……スマホの道案内があったからまだ良かったものの、無かったら絶対辿り着けなかったぞ……。

 話には聞いてたけど、東京って場所は冗談抜きでデカい迷宮だな……。

 これから上京しようと思ってるそこの君、マジでスマホは持ってた方がいいぞ。マジオヌヌメオススメ


 などと心の中で独り言を呟いた俺は、何はともあれマンションに入る事にした。

 スーツケースを引っ張ってエントランスに入り、エレベーターで上まで登って行く。

 確か姉の部屋は21階だったはずだ。


 エレベーターが止まり、21階に降りたった俺は、吹き抜け構造になっている中心部の下を覗き込む。


(……た……高っか……)


 思わずタ○ヒュンする俺。

 田舎じゃこういう高層マンションはまだまだ珍しいし、あんまり入った事も無かったから新鮮な感じだ。色んな意味で。


 と、こんな所で時間を潰してる場合じゃない。

 早く姉さんの部屋に向かわないと。そう思い直した俺は、すぐに歩を進め直す。


 そして『2117』と書かれた部屋の前に辿り着くと、俺はインターホンを押した。



 ぴんぽーん



 そんな小気味良い音がしてから数秒後に、


『……はい』


 インターホンから、女性の声がした。俺にとっては聞き馴れたというか、生まれた時から聞いて来た声である。


「ああ、姉さん。俺だよ、七御斗だよ」


 俺がインターホンのカメラに向かって言うと、


『……今開けるわ』


 という声と共に、インターホンの声がプツッと切れる。

 そのすぐ後、鍵を回す音と共に目の前のドアがガチャリと開いた。


 開いたドアの向こうに人のシルエットを見た俺は、安堵の表情を作る。


「いや~、やっと着いたよ。何度も迷子になりかけてさ~、ホント困っ――――」


 と、俺が笑顔で挨拶を交わそうとしかけた時――――突如俺の目の前に、白い肌をした華奢な腕が突き出される。


「……へ? ――――んがあッ!!」


 瞬間、その細い指からは想像も出来ないほど強力なデコピンが、俺の額目掛け繰り出された。

 その威力に、思わず吹っ飛ぶ俺。


「う、うおおおおおッ!! 痛い! 頭が割れるように痛いいいいいッ!!」


 俺は額を押さえ、マンションの廊下で1人悶絶する。

 そんな俺に、


「いらっしゃい。よく来たわね」


 デコピンをした張本人は、静かに声を掛けた。


「痛う~……。いきなり何すんだよ! 紗希さき姉さん!!」


 俺は額を真っ赤に腫らして涙目になりながら、目の前の女性に怒鳴り散らす。


「あら、これはの自業自得よ。昨日のメールに書かれてあった時刻から、もう1時間も過ぎてるわ。これはどういう事なのかしら?」


 抑揚の無い、良く言えば品のある声で俺にお叱りの言葉を授けるのは俺の8歳年上の姉、日向ひゅうが紗希さき姉さんだ。

 スラリと伸びた長い黒髪をヘアバンドで留め、身長は俺より少し低め。そして何とも言えぬミステリアスな雰囲気と、人の心を見透かしたような鋭い眼をしているのが特徴だ。


 実の弟の俺が言うのもなんだが、紗希姉さんはかなりの美人だ。ホントTVに出てる下手なタレントよりもよっぽど綺麗だと思う。実際、色んな男に声を掛けられて困ると言う話を昔から姉さんに良く聞かされた。


 俺は額を押さえたまま話を続ける。


「か、勘弁してくれよ……。こっちは初めて東京に来て、右も左も分かんない状態でここまで辿り着いたんだぞ? なにも出迎えくらい、もう少し温かくてもいいじゃんか……」


 メソメソと言う俺に対し、紗希姉さんはため息を吐く。


「……ハア……あのね、私は君が遅れた事を怒りたいんじゃなくて、を連絡しなかったという事実を怒ってるの。遅れるなら遅れるで、きちんとメールしなさい。それから遅れた事を一言でもいいから謝ること。社会の常識よ。覚えておきなさい」


「は……はい……」


 相変わらず冷静な声で高圧的に物を言われ、俺は思わずしゅんとしてしまう。


 昔からだ。姉さんの説教には言い返せた覚えが無い。


 何故なら、姉さんの言う事はからだ。

 姉さんの言う事に従っていれば間違いない。俺はそう思ってこれまで生きて来た。


「……まあいいわ。言いたい事は言ったし、お説教はお終い。さ、上がりなさい」


 姉さんはそう言うと俺に背中を向け、部屋の中へと入って行ってしまった。


「ちょっ、ま、待ってくれよ!」


 俺はドアのオートロックが閉まる前に、慌てて部屋の中に飛び込む。勿論スーツケースと一緒に。


 中に入ると部屋は2LDKでかなり広く、よく掃除されて小奇麗にされていた。成程、これなら俺と姉さんが2人暮らししてもそれほど狭くはないだろう。


「そっちが君の部屋で、こっちが私の部屋よ。送られて来た荷物は、もう部屋に置いてあるから」


「あ……う、うん」


 姉さんは流れるようにさらりと言うと、IHコンロでお湯を沸かし始めた。


 俺は説明された部屋のドアを開けると、そこはベッドと机、あとは本棚があるだけの実にシンプルな様相で、ピカピカに掃除された後であった。

 そんな部屋の真ん中に、実家から送ってもらった俺の荷物ダンボールがちょこんとまとめられている。


 相変わらずの完璧っぷりだなあ……。俺は内心でそう思った。


 姉さんは昔からこうなのだ。完璧主義者を地で行く人物で、大体の事はほぼ完璧にこなせてしまう『天才』なのである。


 大学時代はドイツの大学に留学し、その大学を首席で卒業。大学卒業後は日本に帰国して「やりたいことを見つける」という言い分で幾つかの職を転々としたが、全ての会社で最高の成績を残し続け、辞める時はほとんどの社長に「辞めないでくれ」と土下座までさせたらしい。

 中には姉さんが入社した瞬間に一部上場を果たした会社もあったらしいが、姉さん曰く「もう忘れたわ」らしいので真実のほどは分からない。


 現在、姉さんは大学時代の友人と小さなアクセサリー店を経営する傍ら、小説家として執筆作業を行っている。

 そんな姉さんは俺にとって自慢の姉であり、同時に追い付かねばならない目標でもある。

 …………のだが……。


 俺は、今年で17歳の高校2年生になる。

 身長172センチ、体重55キロ、スポーツそこそこ、勉強まあまあ、趣味は銃弄りで、顔は前の学校でギリギリカースト組に入らなかった程度。


 ……と、ここまで言って分かってもらえるかと思うが……俺という存在は、天才の姉さんとは比べるのも可哀想なほどスペックが低い。


 地元では何をするにも姉さんと比較されてしまい、周りに「まあお姉さんが紗希ちゃんじゃねえ……」と半分同情すらされてしまう始末だった。

 正直、自分でも自分に同情してしまう。


 まあ俺にだってが無いワケじゃないが……地元の友達に言っても大抵の場合は自慢にならない自慢として扱われてしまった。


 そんな感じで俺はどうしようもなく凡才なのだが――――姉さんは、そんな俺を馬鹿にした事は1度も無かった。


 俺が悪い事をした時は俺を叱り、俺が困っている時は俺を助けてくれた。

 俺がまだ小さい時、俺の事を「大切な弟」と言ってくれた。


 だから……俺は、姉さんをしているのだ。


 俺は姉さんが俺の為に掃除してくれたであろうピカピカの部屋にスーツケースを置くと、リビングへと戻った。

 俺がリビングに戻ると、姉さんがテーブルの上に2人分のコーヒーとケーキを置いてくれていた。

 コーヒー特有の香ばしい匂いが鼻を掠める。


「何はともあれ、長旅お疲れ様。お茶にしましょう」


 姉さんはそう言うと、ゆっくりと椅子に座る。


「あ、ああ、ありがとう」


 ホント手際が良いよなぁ……。

 などと思いながら俺も姉さんの反対側の席に座り、コーヒーに手を伸ばす。


 そして俺がコーヒーカップに口を付けた時、


「……母さん達は、元気?」


 姉さんが、ふとそう聞いて来た。


「え? ああ、そりゃ勿論。なんかおふくろが急に海外に転勤だーとか言ってを連れてイギリスに行っちまったけど、2人共全然元気にしてたよ」


 俺は肩を上下に動かし、半分笑いながら言う。

 ちなみに俺が『バカ姉貴』と言ったのは俺と紗希姉さんの間に存在する次女の事で、俺達日向一家は4人家族3人姉弟きょうだいである。


 ……ちなみに、家族の中に『父親』がカウントされていないのは、まあ、なんていうかがあるのだ。


「……そう、それは良かったわ」


 姉さんは静かな声でそう言うと、淡い薄ピンクの唇でコーヒーを口にする。

 そして上品に1口すすると、



「…………君、ここに来るまで…………?」



 と、真剣な面持ちで俺に尋ねた。


「……へ? それ、どういう意味?」


 俺は姉さんの質問の意図が汲み取れず、素っ頓狂に聞き返す。

 姉さんは少し考えるような目をすると、


「……いえ、最近、東京もになってきたから……」


 と言って、再びコーヒーを口にした。


 なんか、意味深だなぁ……。

 俺はそう思いながら、姉さんの顔をチラリと見る。


 姉さんは昔からこんな感じだ。

 俺のやる事成す事に対してはなにかと首を突っ込んで来るくせに、姉さんが内心で思っている事はほとんど俺に話さない。


 紗希姉さんが持つミステリアスな雰囲気も相まって、俺は昔から「姉さんには、何か秘密があるんじゃないか?」と漠然と思って来た。

 まあ、今になっても姉さんに秘密があるかどうかなんて分からないんだけど。


 俺は気だるそうにコーヒーの水面を揺らしながら、


「……おかしな事ねぇ…………俺からすれば、東京って場所自体がおかしな事だらけだよ。駅歩いてるだけで迷子になるし、コンビニにトイレは無いし、ATMには長蛇の列が出来てるし……」


 東京駅からここに来るまでの事を思い出し、苦い顔をした。そりゃ田舎じゃまず見れない出来事やら光景やらに次々出くわしたんだから、仕方ないと思って欲しい。


「……ふふ……そう……」


 俺の言葉を聞いた姉さんはどこか安心したように笑顔を見せると、ソーサーの上にコーヒーカップを置いた。


「さて、そのコーヒーを飲み終わったら、君はすぐに郡次ぐんじ伯父さんの所へ挨拶に行ってきなさい。腰が重くなる前にね」


 姉さんのその言葉に、俺はギクッとする。


「え……ええ!? これからって、別に明日でもいいだろ!? それに荷物の整理もあるし……!」


「荷物の整理は夜でも出来るし、明日は君の生活に必要な物の買い出しに行かなくちゃいけないわ。で、明後日から君は学校……。伯父さんのに行くなら、今日がベストなのよ。……それとも、今日以上に伯父さんの所に行くベストなタイミングがおありかしら?」


 姉さんはそう言いながら両手の肘をテーブルに置き、組んだ両指の上に頭を乗せてにっこりとした笑顔を俺に向ける。


「……うん……はい……ないです……」


 ……正直、少しくらい休ませてくれてもいいと思うんだ……。などと思いながら俺はがっくりと頭を垂れ、姉さんに答えた。

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