3
「きみ、ちょっと足をどけてくれないかね」
不意にかけられた声によって、伸治の思考は遮られた。
顔を上げて声のした方を見ると、伸治に話しかけたのは、茶色のジャケットを着た初老の男のようだった。手に白ワインのグラスを持ち、伸治が座るスツールの前を通ろうとしている様子だった。
「あ、すいません……」 伸治は足を縮め、その男を通そうとしたが、ふと気がついて男の顔を見た。白髪というよりも銀色に染まった髪と髭、痩せてはいるが鋭い眼光、研究者の放つ独特の雰囲気――それは伸治の見知ったものだった。
「鹿島先生?どうしてここに?」
伸治は立ち上がって鹿島と向き合った。
鹿島康三。『ユアタイムバンド』の技術基盤となる「体感時間」の計測に関する研究論文を発表した物理学教授である。
プロジェクトのリーダーである伸治は当然、面識がある。しかし、鹿島は伸治の顔を見返して訝しげな表情をした。まあ、面識があるとはいえ、プロジェクトのごく初期段階で二、三度会った程度なので無理もない。
「エルゴ・ラボの梅村です。『ユアタイムバンド』のプロジェクトではお世話になりました」
鹿島は伸治の言葉を聞き、またその手首につけられたバンド状の器具を見て、ああ、という顔をした。
「あのなんとかいう会社の人か。私の研究を使ってうまいことやったようだな」
皮肉めいた言い方に伸治は少し鼻白んだが、言葉には出さず黙っていた。鹿島はそうした伸治の様子を意に介さず、伸治の全身をじろじろと眺めて言った。
「ここにいるということは、あんたもここの学生だったのかね」
「では鹿島先生も?」
「私は違う。昔、ここの教養学部の講師をしていただけだ」
それでこの同窓会に来ているというわけか。
納得はしたが、奇妙な偶然と言うべきだろう。もっとも、教養学部とはいえ物理学の方に伸治は縁がなく、学生当時はお互い全く接点がなかったはずだ。
それでも、過去から断絶されたような心持ちでいた伸治にとっては、自分にとっての「現在」に繋がりのある人物がこの場にいることはありがたく思えた。
「しかし、あんたのとこの賞とったっていうあれ、なんとかならんのかね。私は健康器具の研究をしていたつもりはないんだがね」
鹿島は正面から伸治の目を見据えて言った。伸治はたじろいだが、この偏屈な教授のそうした直接的な物言いに、悪意がないことはわかっている。
「健康でもなんでも、最終的に個人の利益に寄与するのなら、科学の勝利だと言えませんか?」
「勝利だとしても、それを目的にしているわけではないからな」
伸治の反論に、鹿島はぶすっとしたまま言って白ワインに口をつけた。そして「まあいい」と呟き、伸治の方を見ずに言った。
「とりあえずそのなんとかバンド、あとで三十個ほど送ってもらえんかね」
伸治は思わず、小さく吹き出してしまった。偏屈な物言いとのギャップが、なんとも可笑しかった。鹿島は伸治のその表情を見て、しかめっ面をよりしかめて付け加えた。
「勘違いしないでくれたまえよ。研究の役に立ちそうだから、というだけなのだからね。研究者というのは、健康器具だろうとなんだろうと、使えるものは使うのだよ」
伸治はこの鹿島という研究者に好感を持っていた。なんとも人間味の溢れる好人物だ。それと同時に、伸治は鹿島の話に興味をそそられた。
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