伸治とマスターは、店の近況についてや新メニューのことについて、また伸治の受賞と『ユアタイムバンド』についてなど、少しの間とりとめなく話を交わした。



「瑞希って今なにしてるんですかね?連絡取れないんですけど」



 話がひと段落した後、コーヒーを飲みながら伸治は尋ねた。


 特に何も意図することなく、世間話のような心持ちで何気なく発した問いだったが、その何気なさは、その後のマスターの言葉であっさりと裏切られた。



「ミズキ……って誰だっけ?梅村君の彼女?」



 伸治は持っていたコーヒーのカップを取り落としそうになった。昨夜からの違和感が、またもや首をもたげてくる。



「えっと、瑞希ですよ、ここでバイトしてた……」


「そんな子、いたっけ?梅村君が来てた頃だよねぇ。ううん……」



 眩暈がした。


 どういうことだ?



 そもそも伸治がこの店に通うようになったのは瑞希がいたからだし、その後このマスターと話すようになったのも、瑞希を通じてのことだ。


 今こうして伸治とは親しげに話をしているこのマスターが、伸治のことを憶えていて瑞希を知らない、なんてことはあり得ないはずだ――


 伸治は、昨夜山本が言った「お前の彼女なんていちいち憶えてないよ」という言葉を心の中で反復した。



 憶えていない?瑞希のことを?



 違和感は困惑となって、伸治の思考の流れを乱していた。あるいは、最初から瑞希なんて女はいなかったのか?だが、だとしたら伸治の頭の中にあったあの「光景」は?



 コーヒーを持ったまま虚空を見つめる伸治の手首で、『ユアタイムバンド』は赤色のLEDを激しく点灯させていた。


 考えてみれば、あの「光景」も元々、伸治の頭の中だけに存在していたものだ。確かに伸治はこの十三年間、あの光景を目指して努力をしてきた。


 もしかすると瑞希もあの光景も、その過程で伸治が作りだした幻の記憶か、ただの妄想の類だったのだろうか?



「コーヒー飲む?」



 急に黙ってしまった伸治を気遣ってか、マスターは優しく声をかけた。いただきます、と応えて、伸治はカップをカウンターに置いた。そしてふと、瑞希に送ったメールのことに気がついた。


 ――そうだ、あのメールはエラーにならず、確かにどこかに届いている。ということは、それこそが自分の記憶する瑞希が実在する証拠のはずだ。


 伸治の置いたカップに、アルバイトの少女がコーヒーを注ぐ様を見ながら、伸治は冷静になろうと務めた。だが、この「ズレ」について客観的な評価を下すには、あまりにもわからないことが多すぎる。


 とにかく、と伸治は無理やり思考をまとめようとした。同窓会に行ってみよう。昔の友人たちの中には、当時瑞希と面識があった奴もいる。彼らに訊いてみれば、なにかわかるかもしれない。



 冷静に考えれば、この店のマスターよりも瑞希のことをよく知っている人間が同窓会に来るはずもない。学生時代の仲間内で、もっとも瑞希と親しかったのが山本なのだが、その山本は別の仕事だとのことで今日の同窓会には来ない。


 それでも伸治は、わずかな手掛かりにもすがりたい思いだった。


 例の「光景」から先が見えないという不安どころの騒ぎではなない。そもそも、その始まりである瑞希の存在さえもおぼつかないのだとしたら、自分のこの十三年間は一体なんだったのだろう?夢か幻だったのか?


 今、ここに座っている自分の存在さえも危ういような、そんな思いを抱きながら、伸治は貪るようにコーヒーを飲みほした。

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