2
その洋食屋は昔と全く変わらず、そこにあった。まるでその場所だけ時が止まったかのような佇まい。普遍的な「日常」を主張するその様に、伸治は安堵した。
「いらっしゃいませー!」
重厚な木製のドアを開けて中に入ると、アルバイトらしき少女の溌剌とした声が響いた。
昼食には既に少し遅く、店内は空いている。ドアと同じく重厚な木製のカウンターの席に座ると、厨房の中が見えた。
がっしりとした体つきのマスターが手際良く働いている。少し痩せて髪にも白髪が混じったようだが、そのいかつい風貌に似合わず、細やかで手早い手つきは昔のままだ。
「ご注文はお決まりですかー?」
水を運んで来たアルバイトの少女に言われ、とりあえず伸治はメニューを手に取った。
いくつか憶えのない料理が加えられているようだったが、人気メニューは当時のままのようだ。どれを食べても美味いのだが、今日注文するべきものはひとつしかない。
「オムレツ乗せナポリタン、ひとつ」
伸治はメニューを置きながら、アルバイトの少女に伝えた。
「オム乗せひとつお願いしまーす!」
「あいよ」
少女が伝票を書きながら伝える内容に、マスターが気さくに応える。聞き馴染みのある声の調子。伸治は満足を覚えた。
しばらくして、大ぶりの皿が運ばれてくる。
ベーコンとピーマンを具にしてトマトソースを和えたスパゲッティの上に、淡い金色のオムレツが豪快に乗った「オムレツ乗せナポリタン」が、白い皿に映え、木製のカウンターと落ち着いた調度に支えられて暖かい輝きを放っていた。
伸治はもどかしい気持ちでフォークにスパゲティを巻き、口に運んだ。
やはり格別だ。
決して高級ではない食材で作られたそのパスタも、ソースも、卵の焼き加減から油の温度まで、すべてが当時のままの完全なバランスを保っている。それに向かった伸治もまた当時のように、ただ皿に向かって一気に料理をかきこんでいく。気がつけば、あっという間に一皿を平らげてしまっていた。
昨日の夜からようやく人心地がついた気分で、伸治は口元をぬぐい、皿から顔を上げた。と、ちょうど作業がひと段落したらしいマスターと目があった。
伸治は会釈をしたが、マスターは目で応えただけで特に気に止めず、冷蔵庫を開けてなにやら別の作業へと戻っていった。
学生のころ、瑞希のバイト終わりを待ったり、バイトのない日に一緒に食事に来たりした時に、このマスターとも少なからず会話をしたものだ。料理のこと、店の経営のこと、店内でかけているジャズのレコードのことなど、様々なことを伸治と瑞希に教えてくれた、豪放な好人物だった。
(さすがに憶えてないのかな……?)
伸治も十三年前と同じ風貌ではない。
そもそも、アルバイトの女学生の彼氏が遊びに来ることなんて珍しくもないのだろうし、大体、数十年も営業していて何人のアルバイトがいたのか想像もつかない。その全てを記憶しているわけでもないだろう。
それでも、と伸治は思い、空腹が満たされて気も大きくなっていたことも手伝って、思い切って声をかけてみることにした。
「あ、すいませんマスター」
マスターが手を止めてこちらを見る。その後ろでは、アルバイトの少女も不思議そうにこちらを見ていた。
「お久しぶりです。梅村です。あの……憶えてますか?」
我ながら、間抜けな話しかけ方をしてしまった、と伸治は後悔した。しかし、それでもマスターは、伸治の言葉を聞くとにやっと笑って言った。
「梅村君だろ?なんとかって賞を受賞したって聞いたよ。おめでとう、立派になったね」
この時伸治は、自分でも予想外なほどに嬉しかった。自分のことを憶えていてくれたのみならず、まさか受賞のことまで知っていたとは!もしかして、気にかけていてくれたのだろうか。躍り上がるような心持ち、というのはこういうことを言うのだろう。
「今日は里帰りかなにか?」
安堵した表情の伸治に、マスターは続けて親しげに話しかけてきた。
「いえ、実家はこっちじゃないんで。大学の同窓会なんです」
「それで寄ってくれたのか。ありがとね」
「いえ……それにしても相変わらず美味いですねこれ」
遅いランチタイムから更に時間が過ぎ、他の客はいなくなっていた。
マスターは伸治にコーヒーをサービスしてくれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます