十三年前の秋、大学に通い人間工学を専攻していた伸治は、学校の近くの古びた洋食屋でアルバイトをしていた沢村瑞希さわむらみずきと知り合った。


 当時瑞希はまだ高校生で、春から地元の短大に進学することが決まっているということだった。


 病的なまでに白い肌と、それとは対照的に艶やかで瑞々しい黒い髪、そして切れ長の大きな目元が印象的な少女で、伸治は、瑞希とその店の名物「オムレツ乗せナポリタン」の両方を目当てに、その洋食屋に足しげく通うようになった。



 瑞希は不思議な少女だった。


 有り体に言って、頭はそんなに良くはない。しかしその眼は、巨大で不確かな世界に怯えて伏せられてもいなければ、挑戦的に世を見据えているわけでもなく、まるで哲学者のように穏やかに、且つ揺るぎなく見開かれていた。


 聞きかじりの学問理論に凝り始めた伸治の話を、微笑を浮かべて聞きながら不意に、「まるで○○みたいだね」と瑞季が言う度、伸治はハッとして、恥じ入るような気持ちにさせられた。


 理解するのでなく、人の話や物事を宙空から漠然と眺め、俯瞰しているかのようだった。知識や理性を感性で抱擁されるような感覚を、伸治は感じていた。



 どうにか瑞希を誘いだすことに成功していた伸治は、何度も話し込むうち、瑞希から与えられる新鮮なひらめきに夢中になった。


 折しも、知識の蓄積が自信に、そして野心へと変わり始めた時期だった。自身が学んだこと、体験したことを言葉にして瑞希に話せば、それは明確なビジョンへと形を成す。テキストに込められた叡智の結晶が、直接脳髄を刺激してインスピレーションが発生するような快感。それは恋愛の興奮もあいまって、過去と未来を同時に手にしたように感じられた。


「例えば夕陽を美しいと思うのってさ、普遍的なものだと思うんだ」



 瑞季をデートに連れ出したある日の帰り路、夕暮れに染まる川沿いの道を歩きながら、伸治は熱っぽく語った。伸治たちの住んでいた町を東西に分けて流れる大きな川が、夕陽を受けて黄金色に輝いている。



「美しさの基準はもちろん人それぞれだけど。でも、そういう相対的な基準を超えて、誰にとってもいいと思えるものってあるはずだと思うんだよね。それがわかれば、世の中ってもっと楽しく、美しくなるんじゃないかなって」



 川はゆったりとした流れに映した夕陽の輝きを、その水面に揺らめかせながら下流へと運ぶ。 水面に立つ細かな波に、その輝きが細く別れてはまた繋がって大きくなり、岸辺から遠くなりまた近くなり。それぞれに踊り、また繋がって大きな流れへ。


 飛沫の一粒一粒が、輝きを抱えて美しく躍動していた。



 何気なくその様子を見やっていた伸治はふと、先ほどまで隣を歩いていた瑞季の姿がないのに気がついた。後ろを振り見ると、瑞希は足を止め、いつものように穏やかな微笑みを浮かべながら伸治を見つめていた。



「あなたはきっと、望みを叶えられる人だと思う」



 伸治が声をかけようとするより早く、瑞希が口を開いた。



「今はまだ、望みの形はぼやけてるけど……でも大丈夫。きっと曖昧な答えじゃなくて、ちゃんとした形が返ってくるはずだよ」



 どういうこと、と返そうとして口を開いた伸治はしかし、結局そのままなにも言えなかった。瑞季の姿は夕暮れの光の中に揺らめき、そのまま景色に溶け込んでいった。


 伸治は眩暈を感じた。


 川の水面に弾ける夕暮れの光の粒が、視界いっぱいに広がる。それは高い天井から投げかけられた真白い照明の光が壁に反射し、客席に座る人々の顔を照らし出す様だった。


 ステージに降り注ぐ光の帯、砕けて散る涼やかな光の粒。スピーカーから流れる司会者の声が、生温かい流れとなってその粒を掻きまわす――



「十三年後くらいかな」



 瑞季が呟く声をその時、伸治は聞いた。


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