16章:オバマ大統領ヒロシマ訪問~世界の未来は政治ではなく、普通の人たちの望みが決める
【本としても読ませるオバマ演説】
2016年、5月27日、バラク・オバマが現職のアメリカ大統領として初めて、ヒロシマを訪れた。原爆投下から71年もの歳月が流れての出来事だった。原爆資料館を見学し、平和記念公園で慰霊碑に献花した後、かなりの高齢になられた被爆者の姿もある大勢の来訪者が見守る中、オバマはマイクの前に立った。そして演説した。それは予定を大幅に超える17分のスピーチとなった。
オバマと言えば演説の天才であり、このヒロシマ・スピーチもまた多くの日本人の胸に深く残るものになったことだろう。
さらにそれは原稿、スクリプト自体もすばらしいものだった。翌日、朝日新聞の朝刊に演説の全文が日英両語記載されたのを読んだが、読み物としても非常によく出来たものであり、何度も読みこませる内容の濃い文面だった。
日本ではあまり聞かれることはないが、オバマには文才があり、すでに何冊も著作を出版している。それも歴代大統領の回顧録のようなステロタイプな文章ではなく、彼の人柄がにじみでるような個性的な文であり、独自の視点で深い世界認識を披露している。
オバマの天才的なスピーチは、彼の文才がベースになって生まれていると言える。 彼に限らず、どんな分野でも才人とは大抵、文才を持っているものだ。
今回のヒロシマ・スピーチに、オバマ自身がどこまで関わっているのかは知らない。だが後日、NHKニュースの中、オバマが元原稿の多くを執筆したと報じられることもあった。実際、彼の執筆した原稿にスピーチライターが編集を加えたような、そういう仕上がりに見えた。ここでは、文章としてのオバマの演説のすばらしさに触れたい。
【冒頭3行に凝縮された、オバマの抱く原爆への思い】
Seventy-one years ago, on a Bright, cloudless morning, Death fell from the sky and the World was changed. A flash of light and a wall of fire destroyed a city and demonstrated that Mankind possessed the means to destroy itself.
何よりもこの冒頭句に、オバマのヒロシマへの思いが凝縮されている。原稿で3行のこのセンテンスに、スピーチの全文が集約されていると言ってもいい。 この一文はスピーチというより、小説的な表現に近いだろう。しかしこれは単なる文芸ではなく、オバマの原爆に対する根源的な態度が読み取れる内容にもなっている。
日本の報道ではスピーチにアメリカが原爆を投下した事自体への是非がなかったという批判が見られたが、この冒頭句にハッキリと出ている。
ここでオバマは原爆を“DEATH”と表現している。一方で原爆が落とされたヒロシマの朝を“輝かしい雲ひとつない朝”としている。それによって、原爆を投下した側が悪、投下された側が善または無垢であることを印象づけている。そして、原爆投下によって、それ以降の世界が変わってしまったと続く。それによって、DEATHとメタファーで表された原爆が1つの戦争兵器以上のもの、つまり決して開けてはならないパンドラの箱のような、普遍的な悪の極みであることを印象づけている。
この1文に触れた人の多くが、深く考えずともこのように捉えたのではないか。
オバマはこの文芸的な冒頭句で、原爆投下が
とほうもない悪行だったことをハッキリと示している。
【原爆は投下は人類の罪悪/日本人の精神的成熟】
そして、アメリカが原爆投下について謝罪すべきかどうかという問いの答えもここに明示されている。それは最後の一文、人類が自分たち自身を破壊する手段を手に入れてしまったにある。
ここでオバマは原爆を投下した主体をアメリカ人ではなく、人類として置き換えている。つまり、原爆を落としたのは、アメリカという特定の国ではなく、人類自身であるという認識が読み取れる。確かに、それはアメリカの罪逃れという見方もできる。だが、客観的に歴史を見れば原爆投下が人類全体の罪悪であるという認識に納得がゆく。
現実的に見て、アメリカがヒロシマに原爆を落としていなかったとしても、いずれどこかの国がどこかの街に落としていた可能性は非常に高い。人も国も過ちを犯さなければ、その行いの善悪を判断できないものだ。もしヒロシマ・ナガサキの数十万の尊い犠牲がなければ、第二次世界大戦後、ソ連がフランスが北朝鮮が敵国相手に核兵器を使用していた可能性は充分に考えられる。日本にしても経済成長に伴って核を保有するようになり、核兵器を中国や北朝鮮に向けていたかも知れない。
アメリカが最初に核兵器を使用したのは、アメリカ自身に固有の原因があったためではない。その最たる理由は、ただの偶然だったに違いない。悪魔が核兵器使用のルーレットを回すと、そのボールがソ連やフランスや日本ではなく、たまたまアメリカの前にポンと落ちた。実際、そういう見方をしても、それは決して非現実的だとは片づけられない。特に第二次大戦中は、どの国も狂気の政治家によって極悪卑劣な戦争に陥っていたのだ。
原爆投下によって、人類が自滅の手段を手に入れた。オバマのスピーチ冒頭のこの文句は、国家元首という立場を超えて、原爆投下を本質的に捉えたものである。
今では日本人の多くも被害者感情から自由になり、原爆投下を人類共通の問題と考えるようになった。それが根本になって、今回、オバマのヒロシマ訪問に当たって、謝罪を求めない態度が世論の多数派になったのだ。オバマ、あるいはアメリカ大統領は、そのように日本人が精神的に成熟するまで訪問を控えていたとも言える。
71年という歳月は、アメリカが原爆投下の大罪と
向き合わなかった期間でありながら、同時に日本が
この問題と、被害者感情から脱して真に
本質的に向き合えなかった期間でもあるのだ。
【過ちと進歩は表裏一体】
スピーチの冒頭句で、オバマは原爆投下が過ちだったことを“DEATH”というメタファーで示した。だが、同時に、その過ちを犯したこと自体には、否定的に見てはいない。ここにこのスピーチの深い哲学性がある。
オバマは原爆のキノコ雲を、“Humanity’s core contradiction~人間性の核にある矛盾”と表現した。そして科学技術の進歩が、すばらしい発明を生みながら同時に効率的な殺戮兵器をも生み出すようになったとも語る。
人間には根源的な善悪の矛盾があり、戦争と文明もまた表裏一体のもの。つまり、人類は争い合うことなくして、文明を発展させることは出来ない。原稿からは、そういうオバマのアンビバレントな人間観がうかがえる。
そして、それはスピーチ最後のセンテンスにつながる。
“ヒロシマとナガサキが道徳心の目覚めになる、私達はそんな未来を選ぶべきだ”。そういったオバマのスピーチからは、次のような教訓が読み取れる。
人は、人類は必然的に過ちを犯すものだ。
そのため、過ちを犯した特定の対象だけを責めることは不毛である。
それよりも過ちは必ず起こるという現実的な認識の下、
加害・被害の立場を超えて、犯した過ちを認め合い、反省し、償い、
そして、2度と同じ過ちをしないよう、そこから学ぶことこそが最も大切なのだ。
【安倍総理が語った空疎な平和・理想論】
“私たちは、人間が悪事を働く能力を完全に消し去ることは出来ないかも知れない。それは国家や同盟にも言え、自衛の手段が必要だ。しかし、恐怖の論理から脱し核なき世界を追及しなければならない”
スピーチの後半、オバマはそう語った。 厳しい現実認識、人間性そのものへの懐疑も考慮した上で、平和を模索しようとする態度は、本当に素晴らしい。それは、このスピーチが空疎な理想論や平和論に陥ることを防いでいる。
これと対照的なものが、オバマの後に続いた日本の安倍総理大臣の演説だ。
“核兵器のない世界を必ず実現する。その道のりがいかに長く困難なものであろうとも~それが今を生きる私たちの責任であります。必ずやその責任を果たしてゆく”。
日本の首相の演説はこの一文に凝縮されている。つまり、それは凡庸なレトリックによる美辞麗句であり、聞きながらスーっと流れてゆくだけのものだ。
このような空疎な理想論は、多くの人に不快感を与える。その理由は、それが非現実的だから、偽善的だからというだけのことではない。
空疎な理想論とは、皮肉にも現状維持に通じることだからだ。
美辞麗句の言葉は、あまりにも現実とかけ離れているため、
実際目の前にある、醜悪な現実をキレーに洗い流す効果をも持つ。
人は美しい理想を聞いていると、それだけで未来に希望が持てるように感じる。
だが、我に返るとそれが全くの幻想だと気づく。
だからこそ、空疎な理想論は多くの人をイラだたせるのだ。
実際、それは現状維持を促し政治家や富裕層といった既得権益層を守るのである。空疎な理想と醜悪な現実は、まさに共謀してこの世を地獄にしているのだ。
白々しい理想を堂々と語る人は、理想を語る場と現実を作る場をハッキリと分けており、具体的に理想を実現させようなどとは全く思っていない。
安倍首相は数年前から日本政府として初めて、世界の紛争国を相手に軍事ビジネスを始め、世界の軍拡競争に加担するようになった。まさに、そういう人がこのような美辞麗句だけの平和論を堂々と語るのである。
【普通の人たちこそ、21世紀の政治の主役になる】
オバマのヒロシマ演説の中、僕が最もこころを動かされたのは最終盤、“普通の人たち”のラインだった。
“普通の人たちは、もう戦争を欲してはいない。彼らは、驚くべき科学が殺戮ではなく、人生を向上させることに焦点を当てた方が良いと思っている。このシンプルな考えを国家やリーダーが持てば、ヒロシマの教訓は生かされる”。
オバマは自らをふくむ世界中の政治家に対し、反省を促している。この普通の人たちの側に立った態度こそ、彼が世界中で愛される最たる理由だろう。
実際、いつの世も政治が戦争を欲するのであり、ヒロシマ・ナガサキに原発を
落としたものもまた、一握りの政治家の仕業なのである。
歴史を通じ、政治家に踊らされることなく普通の人たちが戦争
を欲したことが果たして一度でもあったのだろうか。
だが、オバマ自身、スピーチの中で普通の人たちとギャップのある態度を示しもした。
日本の報道で、このスピーチに関し、最も多く批判された点は、オバマが核軍縮、核兵器を減らす具体的な政策を打ち出さなかった点にある。それには僕も大いに賛同する。
“自らの生きている間には、核なき世界が達成できないかも知れない”。
オバマはそう語ったが、その言葉の裏には、今後30年間でアメリカが1兆ドルをも投じて核兵器開発をするということがあるハズだ。オバマ自身の考えは分からないが、現在彼の政権は、そんな恐るべき軍事政策を確かに推進しているのだ。
ただ、普通の人たちの思いとその核兵器プランの間には大きなギャップがある。今、世界中の普通の人たちは、もう2度と世界大戦のような壊滅的な戦争が起こらないと確信しているハズだ。それは、先進諸国が核兵器などによる軍事的な抑止力を持っているためではない。そうしないだけの道徳心を、充分に多くの人たちが備えていると信じているからだ。
世界大戦後、ヒロシマ・ナガサキの原爆投下後、世界中の多くの国々で文化、教育が花開き、人のこころは飛躍的に成長した。映画だけで一体何本の感動的な反戦映画が作られたことだろう。
充分に教育と文化が根づいた国であれば
そこに暮らす普通の人たちは、核兵器なんかいらないと思っている。
核兵器の数の均衡が世界平和の元になっているなんてことは
政治家たちのウソであり、腐敗と不公平と貧困の
真の世界平和をもたらすものだと知っている。
普通の人たちは、こういう考えをもう何10年も前から共有している。
そして、そう考えるのは一部の先進国の国民だけに限ったことではない。
だが、オバマ大統領でさえ、こういう普通の人たちのシンプルな考えとギャップのある政治家なのだ。あるいは、彼は大統領任期中、恐るべき強固な現実と戦った末に敗れ去ったのかも知れない。オバマを持ってしても、アメリカの闇の奥、軍産複合体を打ち崩すことは出来なかったのだ。オバマ政権の新たな核戦略の推進の意志が、それを確かに裏付けている。
明確な核軍縮の道筋を示さなかったオバマのヒロシマ演説。それは最終的に次世代の新たな政治的リーダーを喚起するものとなった。<2016/5/30>■
世界に挑む“ヒトリゴト” 宙目ケン @yumaken
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