14章:原爆投下・徹底追及、戦争を生み出す魔物とは?~G7『広島宣言』


        【核保有国には抜け穴だらけの『広島宣言』】 


 『広島宣言』が2016年、4月11日、主要7カ国、G7外相会合が行われた広島市で採択された。これは歴史的な出来事である。第二次世界大戦で日本と敵対した主要な連合国であり、かつ現核保有国である米英仏。その3カ国の外相が史上初めてヒロシマを訪れたのだ。原爆投下から70年以上たったとはいえ、彼らが平和記念公園で慰霊碑に献花し、哀悼の意を示した事は極めて意義深い。

 特にアメリカ外相、ジョン・ケリーの訪問は大きい。彼はアメリカの現役閣僚メンバーとして、初めてヒロシマの地を踏んだ人物となった。さらに、訪問の際には大いに誠意を見せた。予定になかったにも関わらず自ら志願して原爆ドームに入り、会見では「いつか大統領もここに来るべきだ」と明言した。


『広島宣言』の肝心の中身の方は、核軍縮と核不拡散を主要テーマにしている。だが、一方で核兵器自体の非人道性や核兵器の廃絶は明記されなかった。

 つまり、米英仏など主要な現・核保有国は、今後も核兵器の所持を認められ、さらに場合によっては核の使用さえ許される事を暗にふくんだ採択になっている。核問題解決は、『広島宣言』だけではまだまだ足りず、その道のりは、果てしなく長いと言える。


           【原爆投下は、人類全体の罪悪】


 ケリー訪問は、来月の伊勢志摩サミットに出席するオバマ大統領のヒロシマ訪問への布石とも言われている。だが、それが実現してもオバマの目的は当然、原爆犠牲者への謝罪にあるのではない。核不拡散や世界平和を訴えるスピーチを主目的にするハズだ。

 だが、いつか、アメリカが原爆投下に対して日本に謝罪する日が来るのだろうか。そもそも、アメリカは謝罪するべきなのだろうか。

 これは個人的に長く考えてきたテーマだが、。だが当然、それはアメリカによる原爆投下への賛同を意味するものではない。ヒロシマ・ナガサキの未曾有の惨劇は、ナチスのホロコーストやスターリンの大粛清などに並ぶ人類史上サイアクの過ちであった。だが、その責任はアメリカや日本といった特定の国だけが担えるものではない。ヒロシマ・ナガサキは、特定の国の謝罪などでは収まらない、人類の普遍的なテーマと言えるものだ。


 原爆投下とは非常に複合的な事象が重なりあったものであり、具体的に決定的な原因を上げる事はできない。だが、シンプルに、本質的に見れば答えは出る。

 それは第二次世界大戦末期において、。日本は絶望的な状況になっても降伏を拒み、アメリカは絶対に勝ちきれない状況になっても撤退を拒んだ。両国は共に越えてはならない一線を越えて、徹底的に争いあった。その間には一切の尊重も譲歩もなく、互いに互いを悪魔だと思い込んでいた。

         勝った方が全てを奪い、負けた方が全てを失う死闘、

   それはまさに戦争の極みであり、原爆とはまさにそれに相応しい結末だった。

      そして、この死闘を欲する狂気は当時、世界大戦の最中にあった

            どの国にも共通してあったものであり、

   だからこそ原爆投下とは全人類が背負うべき大罪であるべきものなのだ。



  【やるかやられるか、極限状況という日米・共同幻想を生み出したものとは?】


 それでも原爆投下への擁護派は、未だにアメリカではマジョリティである。彼らは、戦争という生きるか死ぬかの極限状況では、その最終手段として核兵器の使用も許されると言う。だが、果たして、そうなのだろうか?

 戦時中、日本人の多くは戦争に負ければ、日本はアメリカの植民地になり国自体がなくなって、日本人は永遠にアメリカ人のドレイになってしまうと思っていた。実際、アメリカに無条件降伏を求められる事でその思いはますます強まった事だろう。そのため絶望的な状況になっても敗戦を拒んだ。

 一方で、アメリカ人の多くは日本を徹底的に破壊しなければ、また軍が復活してナチスのように極悪非道な行いを世界中でやりかねないと思っていた。そのため原爆を落としてまで完全な勝利にこだわったのだ。


 しかし、その極限状況は、だった。今も昔もアメリカは自由な民主主義国家であり、戦争で他国を負かしてもその国が立ち直れば自主独立を全面的に認める。一方で、戦争中の日本は識字率が米英仏よりも高く、明治維新の頃から民主主義の文化的な土台があり、太平洋戦争後に軍事政権が長期化する可能性は低かった。つまり日米間の極限状況とは、互いの偏見が生み出した“共同幻想”だったと言える。


 だが、その幻想とは実は純粋な思い込みではなく、ではなかったのか。

 日米両国とも政治、学問、文化の中枢、ヒエラルキーの上部にいたエリートたちは、相手国に対して充分に深い知識を持っていたハズである。だが、日米共に戦争で頭に血が上った軍の幹部や政治家たちがそれをシャットアウトし、聞き入れなかった。そうして、国民に対し相手が極悪非道な国だとアナウンスして戦意をあおっていた。日米とも、戦時中、そういった哀しい事態に陥っていなかったのだろうか。

 そして、その責任は一部の軍人や政治家に押しつけられるものではない。理性的な判断を失い、偏見を作って徹底的に争い合おうとする事は、万人にも通じる悪徳だ。

 もし当時の日本が、今のような情報化社会でも、市民レベルで相手国へのヒドい偏見が生み出されて徹底的な戦争に入っていた可能性は考えられる。


    大戦中、日米共に知識階級の人間は相手が文化大国だと知りながら、

   一部の政治家がそれにフタをして、自国民相手に相手が極悪非道な国だと

         アナウンスし、国自体を死闘の中に陥れた。

    国家レベルで見れば、それは自分で自分をダマす、自己ギマンである。

      そのバカげたことを生み出したものとは、一体何なのだろう?



           【原爆投下前に終わっていた戦争】


 アメリカの原爆擁護派の最たる意見は、原爆投下は戦争を早く終わらせ、犠牲者を最小限に抑えるための最良の手段だったというものである。つまり、それは人道的かつ賢明な選択だったというワケだ。だが、少し考えればバカげている事が分かる。

 なぜなら、そこにはということが前提されているからだ。それは現実的な見方ではない。

 第二次世界大戦を終わらせたのは原爆ではなかった。それは太平洋戦線でのアメリカ軍の勝利であった。前述したよう、論理的に見れば民主主義の土台がある日本でそれ以上、軍事独裁政権が続く可能性は非常に低く、アメリカでも知識層であればそれを充分理解していたハズだ。つまり、太平洋とアジアから撤退した時点で日本は実質的に敗北していたのだ。

 そして、それはを意味する。戦争の終結とは、根本的にまさにそこにあるのだ。

 

 だが、アメリカは明白な『戦勝』にこだわった。日本が降伏を認めねば、歴史的に見てそれは勝利とは呼べず、日本占領に伴う領土や富や利権も得られない。だが、現実的に『戦勝』は難しい。いくら日本中を空襲しても日本は降伏を受け入れず、地上軍による本土決戦に出れば先の沖縄戦が実証したよう、驚異的な数の戦死者が出る。そのジレンマを解決する手段として、原爆が出てきた。

 要するに、原爆投下は戦争終結を早める賢明な策ではなく、『戦勝』をムリヤリもぎとろうとする、ごう慢さがもたらしたものだった。

 一方で、日本は日本中が空襲で焼け野原になりながら『敗戦』を拒んだ。アメリカは勝ちにこだわり、日本は負けないことにこだわった。その両方の執着心、太平戦争をまさに死闘にしたその原因とは一体何だったのだろう。



        【最もシンプルでいて最も真実的な戦争の根源】


 日米両国が、死闘に陥った理由。僕にとって、その最良の答えはカール・ユングが握っている。著書『現在と未来』の中、この心理学の大家は、第二次世界大戦が、人間の無意識に巣くった“暴力・元型ゲンケイ”がもたらしたものだと指摘している。彼はそれを太古の彷徨の神にちなんで、ヴォータンと名づけた。そしてこう説く。戦争の原因はイデオロギーにもビジネスにもなく、単に暴力を振るいたいという無意識的な欲求にある。ヴォータンは人の無防備な無意識に入り込み、人から人へ次々に感染を広げる。


      ユングは戦争とは周期的に現れる、こころの流行病だと指摘した。

          どんな文明人も常に噴火口の上に座っており、

       それが爆発するといかなる理性や良識も吹き飛んでしまう

       それは共に文化大国だと分かっていながら徹底的に破壊し

    死闘に陥った第二次大戦末期の日米両国をみごとに言い表している。

 

 このユングの見方は最もシンプルでいて、最も真実的な戦争観と言える。戦争とは突き詰めれば、単なる暴力的なリビドーの産物なのだ。

 第二次世界大戦当時、ドイツもアメリカも日本も高度な文明国家であったにも関わらず、ほんの数年でいともカンタンにおぞましい暴力の嵐の中に突入していった。徹底的に暴力を振るいたいというリビドー、ヴォータンという悪魔に囚われてしまった。それはそのまま、無意識に潜む暴力・元型ゲンケイの圧倒的な強さを示している。

 その元型出現の現実的な要因は欧米では世界恐慌、日本では関東大震災にあっただろう。それらによる切実な荒廃によって人のこころも荒み、ヴォータンという名のウィルスが生じ、世界的な流行病になったのだ。



           【ずる賢い暴力元型・ヴォータン】


 ヴォータンとは非常に狡猾でもある。それは、こころの宿主に正体がバレないよう、自らを他人の中に投影させる。それによってヴォータンの持ち主は、自分ではなく他人の中にこそ暴力的な存在がいると思い込み、争いを仕掛けるようになる。それによって元型は暴力欲求を解消し、かつ自らの正体を隠せるのだ。そのため元型の持ち主は、永遠に暴力性に囚われる事になる。

 

       ユングはこの暴力元型、ヴォータンの狡猾さ、その持ち主が

         自分で自分をだます自己ギマンを“影の投影”と呼んだ。

    戦争で言えば、それは仮想敵国を捏造して他国に戦争を仕掛けることで、

       自国の中にこそあった戦争欲求を覆い隠すことに当てはまる。


 政治、戦争、核兵器。これらはすべて人のこころの産物である。だからこそ、その悪しき連鎖を断ち切る最大のポイントは、精神的な成長にある。人をよく知る事、コミュニケーションを交わす事はもちろん大切だ。

 だが、より大切な事は、人のこころ、その無意識にはユングの言うヴォータン、暴力的な元型がある事を強く自覚する事にある。

 家族、知人、同級生、同僚、近隣住民。そういった人の中に見るのも嫌だ、いなくなればいいのにと思っている人がいる。そんな思いを抱く人は少なからずいるだろう。僕自身もまた、時々そんな思いに囚われる。だが、そこまでの嫌悪は、その人が、無意識に潜む暴力・元型に操られている事を示している。


        もしかすれば自分勝手にその人を悪人に仕立てている

        のではないか。ただ、胸の奥の怒りに火をつけるために

            または自己嫌悪をごまかすために。

    こんな具合に、狡猾なヴォータンの投影というサギ行為に注意すれば

       人に対して見るのも嫌だという事は決して起こらないだろう。

そして、その自覚は怒りに振り回されて自分自身を見失っていた事に気づかせてくれる。

       そこで人は、自分らしさを取り戻したという幸福感に浸れるのだ。



        【ヒロシマ訪問に向かうオバマに求められること】


 4月14日、アメリカの報道官は、オバマ大統領が来月5月の伊勢志摩サミット後のヒロシマ訪問に前向きになっている事を公表した。

 それが実現すれば、おそらくオバマは平和記念公園で世界に向けて核廃絶を訴えるスピーチをする事だろう。もちろん原爆投下に対する謝罪の必要はない。

 歴史的な未曾有の惨劇だけに日本がいまだにそれを求めるのは無理のない事だ。だが、アメリカに謝罪を求める態度の根源にもまた、ヴォータンがいる。太平洋戦争における数年間にわたる極度の暴力性をアメリカ一国に背負わせようとするごう慢さがある。当時の日本もまた、暴力性のトリコになっていた事を忘れてはならない。自らの暴力性を他者にすべて押し付けようとする暴力元型、ヴォータンの狡猾さを自覚せねばならない。


 オバマの演説に求められる最たるものは、過去の教訓に立った上での未来志向の言葉だ。今後、人類はどうすれば戦争をせずに済むのか、どうすれば核兵器を廃絶できるのか、そしてどうすれば世界平和を実現できるのか。

 世界中の人々がこういった事を考えるキッカケを与える事こそが、ヒロシマに立つオバマに求められる。それはまちがいなく謝罪以上に、ヒロシマ・ナガサキ、数10万の犠牲者たちの命を尊ぶ事になるだろう。<2016/4/16>■

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