6章:『マッサン』総括レビュー/ベスト・キャラ、シーン、笑い、そして愛と夢の奇跡的な融合
【NHK朝ドラのチャレンジ精神】
2015年、4月、NHKの朝ドラ『マッサン』のTV放映が終了した。
そこで、1人、気ままに総括レビューをやりたい。
だが、そもそも僕はNHKの朝ドラを見るようなタイプではない。1年前に放映された『あまちゃん』が初めて見た作品だったが、それがオモシロかったことでこの『マッサン』にも興味がわいた。もちろん、キッカケはそれだけではない。第一に、朝ドラ史上初めて、外国人女性がヒロインに挑戦するということに魅かれた。しかもそれはハイパー極まるアメリカ女子ということだった。そんなものが、いったい日本文化の最深部、もはや伝統芸ともなったNHK朝ドラで何ができるというのか?
第二に、主人公がパイオニアという点があった。マッサンは、実在する日本産ウィスキーの生みの親、竹鶴政孝をモデルにした人物である。ヒロインはブロンドで、テーマは革新。どちらもNHK朝ドラと相反するものであり、そこに興味がわいた。
半年間、見終えて言える事は「まいりました」である。または「すばらしい時間をアリガトウ」である。
全150話、25週中、どの週にも大きな見せ場があり、
つまらない週はほとんど無かった。僕は毎週、3話分まとめて
水曜と土曜に2回見ていたのだが、半年も続けると
『マッサン』は実生活の一部となり、その世界はまさにもう1つの現実となった。
【お茶の間・知名度を無視した素晴らしいキャスティング】
キャストから見てゆくと、まず全体的に、誰もが知っているような俳優を抜きにしたキャスティングが良い。
まずヒロインのシャーロットは、日本はもちろん、母国アメリカでも無名の新人女優だ。
マッサン役の玉山鉄二も有名な俳優ではなく、鴨居の大将役の堤真一は主に映画界で活躍する俳優で、お茶の間の知名度はない。小池栄子や風間杜夫もまた、同様である。脇役でもTVでよく見るタレントやお笑いの人たちはほとんど見なかった。
まぁ、確かに、泉ピン子がいたのだが、序盤だけの出演なので特に目につくことはなかった。おかげで、ドラマに作り物感がなく、リアルに入り込むことが出来た。
ヒロインのエリーの演出に対しては、賛否両論分かれるだろう。
“NHK朝ドラ史上初の外国人ヒロイン”と話題を振りまいた割には、新鮮さにかけた。清く明るく前向きにという朝ドラ・ロールモデルをそのままアメリカ人が懸命にやりこなしただけだという批判は免れない。
特に、毎回のようにエリーを涙させる演出には大きな疑問がある。もっと外国人らしさを出した方が、ドラマ全体の幅も広がっただろう。とにかく彼女の素が出るのは感情的になった時ぐらいだった―たまに怒りをガマンする時に「ふ~~~」っと息を吐く仕草はかわいかった。
だが、そのマズイ演出に関わらず、エリーを演じたシャーロットは賞賛に値する。何しろ彼女は最初、日本語が全く分からず日本に来る事自体も初めてという30そこそこのアメリカ女子だった。それが、ここまで朝ドラ・ヒロイン役をまっとうしたのだから、その順応性と忍耐力と演技力は驚異的なものだ。また、シャーロットには役柄を超えた女優としてのスケールの大きさも感じられた。少し見た目も似ているがナオミ・ワッツのような演技派女優に特有の柔軟さがあり、将来が期待される逸材である。
主役を張った、玉山鉄二が演じたマッサンは意地っ張りで不器用な日本男児を絵に描いたような男だった。だが、コミカルさや繊細さもある多様な演出が成されていて好感が持てた。そんな男だからこそ純愛を貫くエリーとの相性もばつぐんだった。
【圧倒的な存在感!鴨居の大将】
『マッサン』最高のキャストは、ダントツで鴨居の大将だった。これに同感する視聴者は多いだろう。
堤真一が演じたこの豪傑大阪人は主演の2人を食うような存在感を見せつけ、彼がいなければドラマ全体の魅力が半減したのではないかと思えるほどだ。
堤真一の当たり役である事は間違いなく、演出家や監督が彼自身のパーソナリティを見極めた事で、その魅力を存分に引き出せたのではないか。鴨居の大将の魅力は、そのまま堤の個性にも結びついているように思える。女優、綾瀬はるかの最大の当たり役は『ホタルノヒカリ』の雨宮蛍に違いないが、それにも全く同じ事が言える。
マッサンと共に日本産ウィスキー誕生を夢見る酒造会社の社長、
鴨居の大将はとにかく気持ちのいい男だった。
世の中を変えるという大志の元、人生の表街道を正々堂々、
風を切ってさっそうと歩いているような男であり、言うこと成すこと何もかもがデカイ。
海のように広い心を持ち、岩のように堅いガッツを持ち、
さらに現実への柔軟性や深い洞察力をも持ち合わせている。
大将を見ていると、大阪弁が似ている事もあり、たびたびサッカーの本田圭佑が重なってきた。そう言えば、世界で活躍するスポーツ選手の多くが関西出身者である。今も昔も、大将や本田のように純粋で豪快な人物が日本に新たな風を送り込んでいたのではないか。僕は作家の端くれのような者だが、そういう自身の社会実体の薄さからなお、鴨居の大将の王道を行く生き様にはしびれさせられた。とにかく、気持ちのいい男だった。
【戦前も変わらぬ資本主義の闇~最低のキャスト】
『マッサン』における最低のキャストを言えば、文句なくオール阪神・巨人が演じた大阪の資産家だった。鴨居の大将が大阪人の良さを凝縮したような男である一方、彼らは大阪人のダークサイドをみごとに体現していた。
オール阪神演じる資産家はいわゆる大阪の典型的な
オール巨人演じた資産家は西洋かぶれのシニシストであり、日本人は何をやっても西洋にはかなわないという絶望的な信条を持っている。まぁ最後にはマッサンのウィスキーを認めたのだが、いつの時代でも彼のようなネガティブな冷笑家は、世界に挑む夢を持つ者が最も嫌う敵の1人である。
大志を抱くマッサンや一大経営者である鴨居の大将でさえ、資産家を前にすればペコペコ頭を下げるしかない。そういう場面を見るたびに、70年以上経た今でも、それがまったく変わっていないことにガクゼンとさせられた。
【ベスト❤ビューティ】
美しいものに目を向けると、最も魅了された女優は、マッサンの妹を演じた早見あかりだった。元ももクロというビックリな過去がある子だが、その美貌にもビックリさせられた―まぁ単に僕がハーフっぽいコに弱いだけなのだが。それでも、早見には圧倒的な存在感が備わっているように思える。
『マッサン』に続く朝ドラのヒロイン役、波瑠などと共に、日本女優界の『ネクストジェネレーション』を担う存在になるのではと期待させられる。
また、美術、ロケーションの美しさも目を引いた。100年近く前の日本が舞台だが、主な舞台となった純和風の家屋やその室内装飾はどれもレトロモダンでセンスが良く、見ているだけで癒された。特に、大阪時代のマッサン夫婦の家はおしゃれであり、また大阪山崎の山中や雪の北海道の景色の美しさは、深く心に残るものとなった。
【ウィスキーの味を知らなかったエリー/最も愛したものがその人のプライドになる】
個人的なベストシーンを3つあげたい。
1つ目は最終回、病床のエリーが「死んだ後に読んで」とマッサンに託した手紙が読み上げられるシーンだ。中でも印象的だった文面は、ウィスキーの味がまったく分からなかったという告白だった。エリーは味おんちだったのだ。何とマッサンがことあるごとに口にしていたスモーキー・フレーバーでさえさっぱり分からなかったという。確かに、放送全体を通じて、エリーがウィスキーについて何か意見したような事は一度もなく、あるいは最初から脚本に組み込まれていた計算高い演出だったのかも知れない。
この一文は大いに笑えるオチでもあるが、同時に涙も誘う。まさに泣き笑いのシーンだった。自分が全く興味のないものを深く愛し、それに一生を捧げている人、そんな理解しがたい人を死ぬまで愛し続けられる人とは中々いるものではない。それは、本当に稀有な存在である。
愛はよく、共通した趣味やセンスや価値観を持つ者同士、
つまり深い相互理解の下でしか生まれないと言われる。
だが、それは実は愛の表層でしかなく、その核心には理屈や論理では語れない、
何だかよく分からないものがあるのではないか。
何で、2人ずっと一緒にいるのか本人たちにもよく分からない。その不可思議さを受け入れ、何となくキープする事が、永遠の愛を成就させるものではないか、そんな事を考えさせられた感動の名シーンだった。
2つ目はエリー、危機一髪のシーンだ。
太平洋戦争が始まり、敵国であるイギリス出身のエリーは日本でひどい差別にあい、家から出られないようになる。そのうち、家の中にも日本軍の息のかかった者たちが踏み込み、スパイ容疑で彼女を捕らえようとする。その時、エリーは大勢の家族知人に囲まれた中、当局の男相手に1人、勇敢に立ち向かう。あなたたちが私を憎むのは、私の髪の毛の色が違うからか、それとも肌の色が違うからか。私は日本を愛し、夫を愛している。そんなことを力強く言った後、彼女は最後に誇り高い顔つきでこう言う。
「私は亀山エリーです」
それは、彼女だけが話す1分近くあるシーンだったが、全150話中、シャーロットの演技力が最も光ったシーンだったのではないか。大勢に囲まれていながら、それを語る時のエリーはとてつもなく重い孤独を背負っているように見えた。まるで大人の中に1人だけ混じった、かよわい少女のように。母国とは遥か遠い異国の地で、1人懸命に生きてきた彼女の強さと痛々しさが、そこに凝縮されていた。
人間の個性、あるいは誇りとは
生まれた国やその文化によって決まるものではない。
その本質には、その人が最も強く愛したものがあるに違いない。
エリーにとってそれが日本でありマッサンであったのだ。
「私は亀山エリーです」そう誇らしく言い放った彼女は、
人間の誰もが持ちうる限りなき自由を高らかに表現しているように見えた。
【マッサン最高のシーン/鴨居・裏切り者への叱咤激励】
そして3つ目、『マッサン』150話中、僕にとって最高のシーンは、マッサンが大阪の鴨居商店を退職する時だった。社長室で彼は鴨居の大将と対峙し、退職を申し出る。それ以前、マッサンは鴨居商店で大将の意向に従い、自分を押し殺して庶民的なウィスキーを造ったが、それが不振に終わり絶望的な状態に陥っていた。
だが、そんな中でもエリーの後押しで環境を変えるべく北海道移住を決め、出資者も見つけて独立した実業家の道を歩もうとする。一方でそれは、退職願いを出すまで鴨居の大将にはひと言も話していなかった。いくら無理難題を押し付けられたとはいえ、それは職場を与えてくれた恩人に対して裏切り行為とも呼べる事だ。
しかしだ。鴨居の大将は「お前は一番大変な時に鴨居を捨てるんか」とひと言クギを刺すだけだった。そして、説教を始める。大将が柔軟な現実主義者である一方、マッサンは誇り高き理想家であり決して現実と妥協しようとはしない。そもそもウィスキー作りという自分の夢にしか興味がない。大将はそれを充分承知していて、マッサンが自分のような経営者にはなれないと言い放つ。
そして、マッサンの新事業の資金が足りないと知ると、「何でお前はそれを俺に頼まんのや」と一喝し、本気で経営者になるのであれば人に頭を下げる事を恐れるなと説く。そこでマッサンは土下座をして頼むと、大将はそれが大きな額だったにも関わらず小切手を切って彼に手渡す。そして、それが退職金だと口にする。さらにニヤリと笑って、色んな会社があった方が日本産ウィスキーの発展につながるやろうとつけ加える。
まったく何というシーンだろう、何と気持ちのいい男だろう。
要するに、ここで鴨居の大将は、裏切り者への叱咤激励
という信じがたい行動に出たのだ。
そして、それは決して生ぬるい温情ではない。同じウィスキーを愛する人物として、相手が心から尊敬できるものであったからこそやれた事なのである。だからこそ、大将は出資金というアメと競争意識というムチを同時にマッサンに渡したのである。
どんな時も決して一時の感情に押し流されず、相手の人格と今後の自らの事業を見極めて、適格な判断を下す。とにかく、このシーンには、鴨居の大将の強く厳しく、そして心優しい大人物ぶりが全て出ていた。
【どすの効いた「アホや」】
感動だけではなく、『マッサン』には笑えるシーンも数多くあった。僕が最も笑わされたのは、グラドルの柳ゆり菜が登場する場面だった。彼女は、鴨居商店が売り出した『太陽ワイン』のポスターのモデルを演じた。その子が、街の飲食店に食べに来ると、ちょうど店内では主人と常連客が彼女に気づかずに、壁に貼ったそのポスターについてアレコレ言い合っている。そして食べ終えた彼女が声をかけて、主人と常連はポスターのモデルだと気づく。まもなく彼女が店を出てゆくと、握手してもらうべく彼らも押し合いながら走り出てゆく。それを店内で見送った濱田マリ演じるキャサリンはウンザリ顔を見せ、どすの効いた声でひと言。「アホや」
最もカワイかったシーンは、マッサン夫婦の養女、幼少期の絵馬が見せた1場面だった。北海道の新居で、熊虎のおじさんが絵馬にベロベロバーと変顔を見せるのだが、それに絵馬は腕組みをしてムっとする。そして、ひと言。「私、赤ちゃんじゃありません」
【決して結びつかないものが1つになった奇跡の話】
『マッサン』とは、愛と夢のドラマだった。女の愛と男の夢が融けあった偶然、その奇跡がストーリーの最たる原動力だったに違いない。マッサンの初の日本産ウィスキーを作るという情熱とエリーのどんな苦難があっても彼を支え続けるという情愛、それらが1つに混ざり合った時に、さまざまな感動のドラマが生まれた。
愛と夢は現実的には決して融け合わないものだ。愛に生きる者は夢に乏しく、夢に生きる者は愛に乏しい。ほとんどの人が愛か夢、幸福か孤独かのどちらかに溺れ、そして沈んでゆく。いつの時代も、それが世の定めだ。愛に生きる者は寛容さを持ち、今ある世の中で多くの絆を生み出そうとし、夢に生きる者はプライドを持ち、自らの手でこの世に新しいものを生み出そうとする。だからこそ、愛に溢れた人でさえ夢を抱く者だけには手を差し伸べるのが難しく、その2つは容易に混ざりあえるものではない。
『マッサン』の初回と最終回では共通して、『エリーウィスキー』の祝賀式典のシーンがあった。それはマッサンが亡くなった妻、エリーの名を冠したウィスキーであり、彼女の祖国、スコットランドでのウィスキー品評会で特別賞を受賞したのだ。エリーと名づけたのは、やはり何よりも感謝の気持ちを込めたのだろうが、味オンチだった彼女に少しでもウィスキーを好きになって欲しいというマッサンの願いも込められていたのではないか。
『エリーウィスキー』は、最終回に持ってくるのに本当に相応しい。それは素晴らしく象徴性を放つものである。
エリーとウィスキー。エリーと日本。
そしてエリーとマッサン。本来、それらは決して結びつくようなものではない。
夢と愛と同じく、それらの間には大きな隔たりがある。
世の中が全て論理で、または個人の意思や道理や常識で
回っているのであれば、それらは永遠に結びつく事はなかっただろう。
だからこそ、それらが結びついた『エリーウィスキー』は
大きな象徴性を持つのである。
その存在は静かに語りかけてくる。この世では、何事も起こりうる、どんな事でも決して不可能ではないのだと。<2015/4/4>■
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