10章:瀬戸内デイトリップ


 初夏の日曜、午前11時36分、ベルが鳴り響き列車は定刻通りにやって来た。

 坂出サカイデ駅のプラットフォームに『マリンライナー』が姿を現す。それは瀬戸大橋を介して〔香川―岡山〕間をつなぐ特急列車だ。


 乗降口に向かう者の中には、大きなバッグを3つも抱えた男、iPadをストラップで首から提げた男、小型のショルダーカメラを肩にかついだ男がいる。そのレンズはプラットフォームを歩く3人の女に向けられていた。

 1人は白のブラウスに黒のサブリナパンツをつけた女性アナウンサーで、ずっとしゃべりっぱなしだ。

 もう2人は、身長が20㎝は違う10代の凸凹コンビ。

 1人はむぎわら帽から長いブラウンの髪を垂らし、フリルのワンピースをつけている。

 もう1人は長いブロンドをウサギの耳のようにツインテールに束ね、プリントTシャツにデニムショーツをつけている。そして肩からギターケースを背負っていた。

 清楚な姉にパンクな妹、ローズマリーとジャスミンだ。


 グリーン車に指定された『マリンライナー』の先頭車両に、全員が乗り込んだ。そこは2階構造の車両であり、彼らはそろって階段を上がった。日曜とあって一般車両は乗客で埋め尽くされたが、その2階席には他に人の姿がなかった。

 向き合ったシートに女子アナと姉妹が対面で座った。

 番組ディレクターがiPadの画面を見せながら3人に段取りを説明し始める。カメラマンは三脚を組み立て始め、ADは大荷物から集音マイクを取り出した。


         全ては地元TV局による旅番組の撮影だった。


 これから、ローズとジャスミンのフラウリー姉妹は、瀬戸大橋を渡る列車の旅をする。

 そして、それには父、オーキッドと友人のレンも同行しており、彼らもまたTVクルーがいる席の近くに座った。


                  *


 なぜ、こういうことになったのか。最初のキッカケは、フラウリー家が作ったヴィデオにあった。イベントプランナーの蓮は、香川県の外国人観光客を増やす目的の元、県内で暮らす一家をモニタリングして国内外に紹介するPRヴィデオを作っていた。

 だが、それは仕事の片手間にやる“お試し企画”だったこともあり、本業のプランナー業務が多忙になると、彼女は一家の主人に引き継いでくれるよう申し出た。


 オーキッドはそれを快諾カイダクし、以降、毎日のように娘たちの日常をヴィデオに収め、蓮のユーチューブ・アカウントにその動画を送るようになった。

 一家のうどん店巡りや家での姉妹マジゲンカ。また姉妹自身による手作りVもあり、共に学校にカメラを持ち込み、先生の許可の元で学園生活をリポートした。

 すると、ジャスミンのクラスメイトたちがそれに反応。フラウリー家のヴィデオ作りについて、LINEやツイッターで大勢のユーザーが話すようになっていった。

 

           瀬戸大橋のある小さな街、坂出に

          アメリカから来た10代の美人姉妹がいる。


 SNS上で、そんな言葉がさまざまなユニークな表現によって広まってゆき、やがて県中に拡散した。姉妹のツイッターのフォロワー数は10万人を越え、一家のPRヴィデオのユーチューブ総閲覧数も10万人を突破、蓮によって一家の動画がリンクされた県庁HPには毎日のように2人に関する質問メールが数多く寄せられた。

 とにかく、そういったことが、数週間のうちにナダレのように起こったのだ。


 地元TV局も、それに黙ってはいられなかった。

 毎週、金曜夜に地方枠で30分放送されるグルメ旅番組『』。スタッフがフラウリー一家にそれへの出演をオファーすると、彼らはそろって了承した。

 瀬戸大橋を渡るデイトリップ企画は、そんな具合に実現することとなった。行き先は岡山県の倉敷で、アメリカ人一家に昔ながらの和体験をさせるという狙いがあった。

 そんなワケで、蓮の観光促進PV製作は当初の“お試し企画”な意図を遥かに超え、完全に異次元の領域に突入したのだった。


                  *


 坂出駅を出た『マリンライナー』は瀬戸大橋に続く高架橋を走っていた。先頭、グリーン車両の2階席では、地元局のTVクルーがフラウリー姉妹の撮影を続けていた。

 瀬戸大橋は鉄道と道路の共用橋としては世界一長いものだ。女子アナがそう説明すると、ローズとジャスミンは同時に「ワーオ」と言って見つめあった。

 蓮は撮影カメラの後ろで、TVクルーに向けて姉妹の言葉を訳している。それは仕事ではなく、手助けとしてやっていた。


 3日前、彼女はオーキッドからこの旅について来ないかと誘われ、それに乗った。例年通り、彼女のイベント会社では夏前の今が1年で最も多忙な時期であり日々のストレスはハンパではなかった。

 休日は休日で、また別のストレスがかかった。アコガレの県会議員に薦められたことで司法書士の勉強に取りかかるハズだったが、土日にも依然その意欲がわいてこなかったのだ。時間をやり過ごすだけで自責の念にかられ、葛藤に悩まされた。

 そんなこんなで、蓮は地元TV局がアイドル姉妹を追いかけるという何やら楽しげなこの小旅行に目をつけ、いい気分転換になると自腹を切ってまで参加したのだった。


 揺れる電車内の対面シートでインタビューが続いている。

 女子アナがジャスミンに学校について尋ねると、彼女は「皆んなナイスで優しい」と答える。将来の夢を聞かれると、エレキを鳴らしながら「ROCK STAR!」と絶叫した。

「今、学校の軽音学部でガールズ・バンドを組んでるの。アイ、アキ、アミ、見てる?視聴者の皆んな、ぜひ私たちの演奏をユーチューブでチェックしてね」


『マリンライナー』が瀬戸大橋にかかり、海の上を走り始めた。

 TVカメラは、窓外の景色とそれを見つめる姉妹たちを交互に撮る。港の石油コンビナートや化学工場が遠ざかり、海が広がってゆく。

 7月半ばの夏空の元、カモメたちが大きな輪を描きながら海面すれすれに低空飛行し、おむすびのように丸っこい小さな島々が現れては過ぎ去り、いくつものヨットが橋の主塔のたもとに寄り添い、カラフルな帆を潮風にはためかせていた。姉は美しい内海だと言い、妹はソルトレイクの方が綺麗だよと口をトガらせた。


『マリンライナー』が本州に渡ると、女子アナは先に父、オーキッドから聞いたとっておきの情報を口にした。

「何でも、お姉さんには

 それで顔を真っ赤にした姉を尻目に、ジャスミンはカメラに近づいて言う。


                「He is a Surf Boy!」


「へぇ、サーフィンをやってるの。2人は一体、どんな出会いだったの?」

 ローズはいやいやながら口を開く。

「数ヶ月前、アメリカ海軍の軍艦が高松港にやって来たの。その歓迎イベントがあって、私も国際学校の生徒として参加した。私たちはそこで知り合ったの。彼は香川県出身の日本人よ」

 女子アナが彼のどこに魅かれたの?と聞く。

 ローズはまた赤くなった顔に両手を当てる。

「彼には、すごくユーモアのセンスがある。少しへただけど英語も話せるし、何よりサーフィンが本当に上手いわ。この間、一緒に海に行って見せてもらったの」

 ジャスミンが口をはさむ。

「それに、キスも上手いんだって」

 女子アナが笑って言う。

「2人とも香川には溶け込んでるようね。アメリカとは全然違う場所だから、何かフシギな気もするんだけど」

 それには姉妹そろってうなずいてみせる。

「最近、私と妹の写真を祖母にEメールで送ったんだけど、オモシロい返信が来たの」

 ローズがそう言って、妹に小さくウィンクする。


「グランマはそれにビックリしたって書いてたの。私たちが日本に行って2ヶ月しかたってないのに、写真が別人みたいに見えたんだって。2人ともすごく穏やかな顔になってるって書いてあったわ。

 きっと、ここカガワの美しい風景と優しい人たちが私たちの顔を変えたのね。アメリカと日本ではやっぱり環境が全然違うの。

 アメリカではいつもタフでなきゃならない。たとえ私たちみたいなスクール・ガールでもね。何て言うか、毎日がカーレースのような世界で、一瞬気を抜いただけで、レースから外れて何マイルも置いてきぼりにされてしまうって感じなの。

 だけど、この町は違う。平和そのもので、誰もがゆったりとすごしてる。だから、私も落ち着いて自分の人生についていろいろ考えられるようになったわ」


 蓮は、それをTVクルーに向けて適格に同時通訳した。そうして、その言葉に周囲の誰もが感心の表情を浮かべる中、ジャスミンがカメラ目線で指を2本立てた。


        「姉とサーフボーイ。キスは2回、今のところ」





                  ✿




『マリンライナー』が倉敷の茶屋町駅に着くと、一行は二手に分かれた。TVクルーたちはアイドル姉妹に陶芸体験させるべく、2人と倉敷南部にある窯元カマモトへと向かった。一方の蓮とオーキッドは、市の真ん中にある美観ビカン地区を目指し、下電バスで西へ移動した。そこは後半のTVロケ地であり、両者は後で落ち合う予定だった。姉妹が主役の番組なので父は飽くまで付き添い、また女子アナも英会話はたんのうで蓮の助けもいらない。というワケで、2人はプライヴェート観光を楽しむ事にした。


 美観地区、本町通りに着くと、景色が一変した。江戸時代の町並みがそのまま保存されているような景観で、オーキッドは、「SAMURAI MOVIE」と目を輝かせた。銀色の瓦屋根にマッシロな漆喰シックイの壁に茶色の木戸、ほぼ、この3色に統一された町家が通りの両側にズラリと並んでいた。

 シダレ柳があちこちで物憂げに緑の枝葉を垂らし、並木に囲まれた川には、優美なフォルムで湾曲した石橋が幾つも架かり、川面では観光客を乗せた小さな船がゆっくりと進んでいる。石畳の路地では地元の人たちが自転車で行き交い、茶屋の軒先では観光客が木の長椅子に座ってお茶やお菓子を口にしている。


 蓮の目にも、そんな光景は新鮮だった。イベント会社勤務でもプライベートではほとんど旅行をしない彼女には、まさに近くて遠い異国のようだった。夏の強烈な日差しの中、日傘を片手にミニのモノトーン・ワンピ姿で町家マチヤ通りを歩く。


 オーキッドはユタジャズのキャップをかぶり紺のポロシャツに白い半パン姿。美観地区に入ってからは、全く蓮に話しかけなくなった。毛むくじゃらの腕と脚を日にさらし、常にタカのように周囲に目を光らせては10歩ごとに一眼レフのシャッターを切った。

 蓮の目にその姿は白昼夢を見ている人のように映る。彼は大勢の観光客に混じっても、なぜか1人だけ浮いて見えた。


 カウボーイフェイスの外人だからでもあるが、それ以上に何か独特のオーラのようなものがある。傍若無人ボウジャクブジンという程ではないが、彼は周囲の人の動きとは全くかみ合う事なく、マイペースでカメラ観光を続けていた。それは人に無関心というよりも、自分自身があまりにあふれ出してくるので他人に構っていられないという感じだった。蓮はそんなオーキッドを見るうちに、人事とは思えなくなった。

 他人から見れば、私もまた町中をあんな感じで歩いている時があるのかも知れない。私にしたって、普段歩いている時には何か考え事をしている事が多く、ほとんど周囲の人たちに気を配っていない。私もまた、人前ではあんな風に近寄りがたいベールを身にまとっているのだろうか。彼女はそう思い、道端のルームミラーに映る自身の姿をしばらくながめていた。


                  *


 美観地区を歩き始めて1時間ほどだった時、少女たちが現れた。小学校5~6年生の少女ばかりが7人。誰もがフリルの超ミニスカ姿、様々な色のカチューシャやシュシュで髪を止め、キャーキャー言いながら歩いていた。時代劇のような古風な町並みに、そのポップでキラキラした姿は鮮烈だった。


「なぜ日本の少女は、あんなふうに皆んな同じような服装なんだい?」

 オーキッドが蓮にそう聞いた。

「AKB48というアイドルグループの影響よ。それが社会現象みたいになってて、今じゃ日本のどこでもああいうミニスカ少女たちが見れるわよ」

 そう言って蓮は彼に微笑む。

「それにしても、ジャスミンは彼女たちと対照的ね」

「あの子は、少女のマスクをかぶったオオカミなんだ」

 彼は笑う。

「2年くらい前までは少女らしさもあったけど、何があったのか急にロックンロールに夢中になってね。以来、毎日のようにギターでカミナリみたいな音を出しているよ」

「でも、そういう少女もオモシロいじゃない」

「いや、女はまずセクシーであるべきだ。あの子たちみたいに、ミニスカートで私のような中年男を誘惑すべきなんだ」

 それに蓮は眉をひそめる。

「オーキッド、そんなこと言ってると、アナタ逮捕されるわよ。あの子たち、まだ小学生なんだから」

 それに、彼は周囲の観光客がビックリするほどの大声で笑った。


「分かってる。中年男にとって少女の誘惑ほど怖いものはない。アメリカではなおさらだ。私の出身であるユタ州では警官を1人殺すと、最低10年は刑務所に入る。

 一方で大人が未成年者とセックスすると、どうなるか分かるかい。

 何と、それと同じ刑罰が与えられる。合意があっても恋に落ちていても関係ない。成人男性が少女とセックスしたという事実だけで、刑務所に10年入ることになる。

 つまり、相手が少女というだけで愛のあるセックスでも警官殺しと同等に扱われるんだ。これってどう思う」

「完全にクレイジーね」

 蓮はそう言って無邪気に笑う。

「最近、私、法律を勉強し始めてるの。だからちょっと興味深いわ」

「ウェルウェル」

 彼は感心した顔つきで言う。

「法律を勉強すれば、レンも性犯罪に対する厳罰ぶりに驚くだろう。性は社会のどの分野でもタブーだ。どんな傑作映画も女性のニップルが見えただけでR15指定になる。また、大統領候補になれるくらいに優れた上院議員でも、たった1度のセックス・スキャンダルで政界から消える事になる。その一方でどの国も戦争や軍備には莫大な予算を組む。このように歴史とは暴力を好み、性を憎む。それはつまり力によって愛を抹殺しようとする事なんだ」

 オーキッドはしかめ面で顔を揺さぶり、さらに続ける。


「私が最も性的だったのは、12~13歳の頃だ。男女問わず、多くの人もそうだろう。だが、セックスを最も強く禁じられる対象はその年代だ。誰もが、セックスは汚れたものだとして教えられる。一方で、それを取り巻く大人たちもきつく未成年者とのセックスを禁じられている。

 レン、いいかい、そうやって誰もが。思春期に初めて愛が芽生えた時、それが権力の手で摘まれる。歴史を通じて、それだけは世界中どこでも同じ厳しさで行われてきた。アメリカでもイランでも、そして日本でも」


 蓮には返す言葉がなかった。

 それは一見筋が通っていながら極論でもあった。何よりも性と愛が疑いなく結びつけられている。性にしても暴力性を持つことがあり、また思春期の少女の性行為は、体の健全な成育を妨げる原因にもなりうる。

 しかし、何よりも印象深かったのはオーキッドの熱意だった。

 普段、彼は日本人の蓮に配慮してゆっくりと話す。だが、この時ばかりは、まくしたてた。さっきまでフラフラと虚ろな目つきで町家の景色をカメラ撮影していたのがウソのように思える程だった。

 そして、その原動力は明らかに怒りだった。まるで今そこで自分を非難する者に食ってかかるように。または裁判官に罪を問われたばかりの被告人が弁明するかのように、鬼気迫る勢いで彼は話した。ユタジャズのキャップを被った男は最後にこう言った。


           「私たちは皆、愛の芽を摘まれる。

         その愛が将来、大きな花を咲かせないよう、

       愛が芽吹く思春期に、その根っこを引っこ抜かれるんだ」





                  ✿





 昼下がり、蓮とオーキッドは町家のカフェに行った。そこは瓦屋根にマッシロな漆喰シックイの壁に木の格子戸コウシド、のれんやチョウチンなどがある武家時代そのままの店だった。かなり並んだ後、2人は店内奥の板間に通された。


 ヒノキのハリが縦横に張り巡らされた天井に、小さなザブトンが置かれたザラザラした板間、テーブルは森から切り倒してきたばかりのような丸太造りのものだった。オーキッドは大盛りの夏限定カレーにドライビール。蓮は桃のパフェとストロベリー・ケーキ。笑い話をしながら食べる間、オーキッドが言う。


「レン、この歴史地区は本当に素晴らしい。私にはここクラシキもカガワも最高に居心地がいい。アメリカからここに戻ってきた君がうらやましいよ。私にもこんな故郷があれば良かったのに」

 素直に受け入れられない感もあるが、蓮は微笑んでみせた。

「ところで、さっきの少女たちの件なんだけど」

 彼女が笑って言う。

「こんな場所にいるから思い出したわ。江戸時代の日本では、女性の結婚は13歳くらいからだったのよ。大昔の偉いお家には、村の貧乏な少女たちを嫁がせる制度があってね。さっき川で見かけたような小船に、思春期の少女たちが乗せられて、町に奉公ホウコウに行ってたの。まぁ昔の人たちは寿命が短かったからでもあるけど、日本のサムライの多くはロリコンだったのよ」

「それは、決してサムライの尊厳を傷つける事じゃないよ」

 彼がビールを口にして言う。

「ダンテ、ナボコフ、チャップリン。偉大な芸術家の多くはロリコンだった。彼らは皆、時代に抗おうとしていた。愛の芽を摘もうとする権力に…」

 たまらず蓮はスプーンを回す。

「ああ、気持ち悪い。もうその話はやめましょう」

 オーキッドは頭に両手を乗せて、子どものようにイタズラな笑みを見せた。

 それからは食に熱意を向け、カレーを一気に食べて追加オーダー、その間に2つ目の大ビールジョッキがやって来た。アイドル娘たちの活躍で雑誌社やTV局から多額のギャラが支払われたのだと言う。


 ビール酔いに任せてバカ話を続けたが、フイに黙り込んだ。

「レン、この前、私に言ってくれた事には感謝している」

 彼は、丸太のテーブルに前のめりになって言う。

「突然、妻と娘を同時に失った、私の家族の悲劇。それに対してキミは悲観的になる必要はない、悲劇もまた人生の大切な一部なんだからと言ってくれた。この言葉は、本当に私の胸に届いた」

 そこで、彼は弱々しい笑みを見せ「しかし」と言う。

「それは飽くまで被害者の側の話だ。当然、悲劇をもたらした加害者の立場であれば、話が全く変わってくる。彼らの多くはその悲劇や事故の度合いに応じて罰せられる。

 しかしだ。

 ごくマレにだが、

 つまり、その罪が明らかにならなかったせいで、加害者が非難されず、何の罰も受けずに済む事もある。レン、君はそうなった時、加害者はその悲劇に対して、どう受け止めるべきだと思う?」

 オーキッドは、蓮をじっと見つめた。

 彼女はとたんに息苦しくなる。今すぐここを出てゆきたい。そんな胸の内を悟られないように視線をそらす。

「実は、私には秘密がある」

 彼がグレイヘアをかきあげて言う。

「それも、決して誰にも言えないような秘密だ。どんな事があっても、私はそれを人に話したくはない。しかし、レン、私が君の名前の意味を知った時、その思いが揺らいだ。君の名が死んだ娘と同じロータスを意味するものだと知った時、何か予感がしたんだ」


 彼は両手で顔を半ばオオった。


「君には、と。そして、私の名を意味する花が日本語ではランと発音すると知った時にも同じ予感がした。君の日本名はレンで私はラン。

 そんな偶然のシンクロが、いつしか私の中で意味を持ち、そして啓示的な力を持つようになった。もしかすれば、君は神が私に与えてくれた告白のチャンスなんじゃないか。君と巡り合ったのは、いつか君に…」


               「PLEASE!」


   蓮はたまらず大声でそう言った。「お願いだから、それ以上は話さないで」


 オーキッドは驚いて黙り込んだ。彼女も失礼だとは分かっていたが、そう言わずにはいられなかった。

 オーキッドが何を話してもいい。人一倍、好奇心の強い私はどんな話題でも好む。現に未成年者とのセックスを擁護ヨウゴするロリコン話にさえついていった。けれどその人自身の話になると別ものになる。その人、個人の心の奥深くに迫るものだと、まるで違ってくる。

 沈黙の後、オーキッドは頭を振って、「SORRY」と口にした。

「私がバカだった。君の気持ちはよく分かる。何しろ、私たちはつい最近知り合ったばかりなんだから。どうもビールを飲みすぎたようだ」





                  ✿




 実際、蓮はこれまでにも何度かこういうことを繰り返してきた。男でも女でも、誰かが一線を超えて親しくなろうとすると、それを強くはねのけた。そして、ほとんどの場合、関係をそこで終わらせた。

 なぜそうなのかは自分でも分かっていた。1人きりの時間があまりに豊かに楽しくなりすぎているからだ。人との縁が深まると、当然1人でいられる時間は削られてゆく。気ままなおひとり女子ライフが充実するにつれ、彼女はそれをひどく恐れるようになった。


 LAで過ごした20代は、そうではなかった。雑誌社の仕事では目が回るほどの人づきあいがあり、私生活でも毎月のように恋人が変わっていた時期もあった。だが、それも単にアジア系女ってどんな味がするんだろう的な軽いノリでやって来る白人メンズたちに好かれただけの話であり、どれも恋愛にさえならないものばかりだった。


 そして日本に戻ると、蓮は人づきあいからじょじょに身を引いていった。

 わざわざ時間をさいてまで親友や恋人を作ることに意味があるのだろうか。そう思うようになってから、職場と自宅の間を往復するだけの人生になっていった。たまった貯金もほとんど使うことなく、プライベートな時間の大半をTVや読書や観葉植物の世話、また日々のニュースや映画について気ままな感想を書くブログなどに捧げるようになった。


 回りの同世代を見ても、そういう人たちはポツポツいた。

 そして、いつしかマスコミがそういう人たちを取り上げ、ある呼び方をするようになった。


              『さとり世代』


 その言葉が意味することは、要するに厳しい現実を悟った上で、リスクのある愛や夢や欲を持つことなく、つつましい人生を送る人たちのことである。

『さとり世代』

 それがメディアで注目を浴びるようになると、蓮は少なからず“ガーン”となった。それまで自分流の人生だと思っていたものが、若い世代のライフスタイルを少しだけ先取りしたものだと知り、ひどく空しい気分にさせられた。

 さらに、バカがやれない合理主義のカタマリとして年上世代から糾弾され始めると、彼女は大いに戸惑った。この世の隅っこにあったハズの自分の人生が突然、世間のど真ん中に放り込まれてガンガン叩かれているような、そんな恐怖を覚えた。


 しかし、時がたつと、だんだんと開き直れるようになった。

『さとり世代』が増えて何が悪いというんだ。

 世の中がどんどんヒドクなっているから、そうなるだけの話じゃないか。彼女はそう強く思った。

 ごく一握りの人しか夢や希望を叶えられず、その結果、世界が変化のないまま小さくこりかたまってしまっている。そういう現代社会の真実を悟り、私たちは出世とかデートとか持ち家とかマイカーとか、そんな数多くのことをボイコットしているのだ。

 そもそも悟ることは悪いことじゃない。

 わが香川県のご当地ヒーロー、あの空海さんだって、サトリを開いたことで仏教を広めることが出来たのだ。

 物事を深く考え、何かを悟ることで、人は世間や常識から自由になり、より個性的な人生を送れるようになる。今後もっと大々的に『さとり世代』が増えてゆけば、世の中は確実に変わってゆくだろう。そしてその先には必ず、一握りの人たちが住む美しい楽園の崩壊があるハズだ。空海さんだって、そんな未来を夢見ていたハズだ

 蓮はそんな考えの元、確かな自信をもって、おひとり女子ライフを堂々と続けていた。


                  *


 夕方になり、ジャスミンとローズマリーも美観地区にやって来たようだ。昼食を取ったカフェを出た後、蓮のスマホに姉妹が近所の大原美術館にいるというメールが入ったのだ。そこで、2人はそこに向かった。オーキッドは、またカメラ旅行者になった。石畳の上をフラフラ彷徨サマヨっては、あちこちにカメラレンズを向けた。蓮の頭の中には、やはり先の彼の言葉が引っかかっていた。


           加害者の立場であれば話は変わる…。

        君は神が与えてくれた告白のチャンスじゃないか…。


 そんな言葉の余韻が、全身の神経をピリピリさせた。彼女はそうやって誰かが心の中に入ってくるのを察知するたびに、恐怖を覚える。それはやはり、充実した1人きりの時間を奪われるという『さとり世代』的なワガママさからくるものだった。

 だが、それ以上の何か本能的な拒絶感もあった。

 誰かがこころの中に入り込んできただけで、気持ち悪くなる。ワっと叫んでその存在自体を消し去りたくなる。そんな思いも確かにあった。


 美観地区のシダレ柳を仰ぎながら、蓮は思う。


 私の中にはどうしょうもないのようなものがある。どうあっても、永遠に1人きりでいたいという強い欲望のようなものがある。


 それはまるで〝ストーン・ヘンジ〟のようだ。巨大な石が寄り集まって出来た、あのイギリスの古代遺跡。数多くの細長い石が直立して1つの輪を成したその形状はミステリアスで、今もなお作り手も目的も工法も何もかもがナゾに包まれたままだ。

 石たちは一見、人が大勢で輪になって話し合っている様を思い起こさせる。空撮写真に見る俯瞰フカンのストーン・ヘンジなどは、まるでこの地球、あるいは宇宙全体の未来の行く末を延々と語り合っているかのようだ。

 

 蓮は町屋通りの石畳を牛のようにゆっくり歩きながら考えを進める。

 けれど、その実体は石だ。無のシンボルたるただの石なのだ。

 それらには語り合う言葉もなければ、いかなるコミュニケーション能力もなく、そもそも命があるのかどうかでさえ分からない。

 壮大なストーン・ヘンジが見せるこれ見よがしの協調性。それはただのポーズ、もっと言えば、誰とも語り合えない1人ぼっちの空しさ、その根本的な虚無を隠すためのカモフラージュのようなものだ。

 けれど、そこに私は親近感を覚える。

 私もまた人づきあいの多いイベント企画会社社員というカモフラージュを用い、自らのカラッポさを隠している。そうして、こころの奥底にある孤独のサガを守っているのだ。なぜ、私はそんなふうに出来ているのか。万が一、私に子どもができても、その石はたぶん受け継がれるんじゃないだろうか。さらに孫ができても、ひ孫ができても…。


 そこで、蓮の目に奇妙な光景が飛び込んできた。

 オーキッドが大きな声をあげて、誰かに手を振っていた。美観地区の町屋が建ち並ぶ中、彼は緩やかにカーヴした石橋の欄干ランカンに座り、川を下ってゆく小船を見下ろしていた。

 オールをこぐ船頭に、カサをかぶった船客。

 オーキッドは石橋からカメラレンズを向けてそこに手を振っていた。ねじり鉢巻の船頭がはにかんだ笑顔で手を振り返し、何人かの船客も手を振った。


 そして、そこにはあの少女たちの姿もあった。美観地区に来たばかりの時にすれ違ったミニスカートの小学生たちも、船に乗っていた。川面では、何匹ものトンボが水草の間をレーザービームのようにヒュンヒュン行きかっていた。

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