9章:ラベンダーとローズマリー


 エアコンの効いた車内は、椿ツバキオイルの甘い香りに満ちていた。ネットリと濃密な天然ものが助手席の女の肌から匂いたっている。

 ハンドルを握るツバキには、それがたまらない。まだキスだけのカノジョが、すぐそばで自分の名のつくオイルを全身にぬっている。それ以上にセクシーな事があるだろうか。


 ツバキの父、清造は自身の花畑で椿を栽培し、それを精製所にオロしている。その後、各メーカーがサンプル品を送ってくるので、ツバキの家にはいつも椿オイル関連の商品が山積みになっていた。紫外線や潮水による素肌へのダメージを抑える天然椿産ボディオイル。今日ツバキはそれを持参し、車の運転中に助手席の女に勧めた所、彼女は大喜びして素肌にヌリヌリし始めたのだ。


「ねぇツバキ、私、椿の匂いがする?」

 それに彼がうなずくと、ラベンダーの匂いよりもいい?と返ってくる。

「それはどうかな」

「ねぇ、ラベンダーガールとは、最近うまくいってる?」

「ああ、うまくいってるよ。昨夜ユウベは、2人で全身に椿ローションをぬりあってから一晩中、けだもののようにファックしたんだ」

 そこで2人共に大笑いした。

 車の助手席にいるのはローズマリーだ。

 前のデートで、ツバキが手渡したバイクのヘルメットからラベンダーのシャンプーの匂いをぎ取って以来、彼女は彼のもう1人の人を〝ラベンダーガール〟と呼ぶようになった。

 それにはツバキも賛成した。ローズマリーとラベンダーは同じハーブ系の花なので、俺の恋のライバルになるにはちょうどいい。そんな彼の言葉にローズはただ笑っていた。


 ツバキは依然、を続けていた。シノブには黙っている半面、ローズには3年来の恋人がいると打ち明けていたが、彼女はまるで気にしなかった。彼が思うに、どうも自分とのつき合いを、異国での一時のロマンスと割り切っているようだった。


                 *


 3度目のデートの行き先は海だった。ツバキは母親から借りたワインレッドの日産マーチにローズマリーを乗せて山道を進んだ。ルーフトップにはサーフボードを積んでいる。もちろん、彼女を地元の有明アリアケ浜に連れてゆくワケにはいかない――あんな田舎町でアメリカ女などと一緒にいればたちまち近所中のウワサになるだろう。行き先は観音寺から東にある詫間町。その浜辺にあるサーフスポットだ。


 朝、近くのJR駅までローズに来てもらい、車で拾って山道に入った。ものすごいグネグネ道で道幅もせまいが、所々から青空と海が見渡せた。車の窓からそれが見えるたびに、ローズは目を輝かせてと声を上げた。

「MAGNIFICENT!」

 山をかなり上り下りした所でツバキは車を山道脇に入れた。

 荒地の中、生い茂った草木を押しやるように駐車する。

 そこは香川の中でも山奥の秘境であり、周囲は手つかずの野山で民家は遠くにポツポツとあるだけだ。その山道の脇道から降りてゆくと海辺に出る。そこが目指すサーフスポットだった。地元のサーファーだけが知る超穴場で、ツバキは小学生の頃から10年以上も通い続けていた。

 車から出たツバキに潮風が当たった。

 7月初旬の午前中、熱気はそれほどでもないが、ローズはエアコンが効いた車内に引きこもっていた。彼は、トランクから折りたたみバイクを取り出した。ビーチまで少し遠いのでローズにそれを貸すのだ。

 彼は、誰かがいるのに気づいた。山道の通り向こう、神社の鳥居の影に男がいた。


「おっちゃん、久しぶり」

 ツバキは自転車にサドルを入れながら大声を出した。

「やっぱりツバキちゃんか。今年も来たんな」

 男は鳥居の下の石段に座ったまま言う。

 地元の人で年はゆうに80歳を超える。麦わら帽をかぶり白い綿シャツと半パン姿、真っ黒に日焼けした顔で満面の笑みを浮かべた。小学生の頃、ツバキが自転車にサーフボードをくくりつけてここに来ていた時に知り合い、夕方になるとよく一緒に潮干狩りをしたものだ。

「おっちゃん、もうすぐお盆やからお墓の花、また家から持ってくるわ」

 ツバキは男の耳が遠いので、山びこ級の大声でそう言う。

 鳥居の下の老人は、ありがとなぁ。親父さんにもよろしくのぉと言う。ホームに行くんで乗り合いバスを待っとる最中なんや。


 ローズマリーが車から降りてきた。ツバのある白い帽子とパステルカラーのワンピをつけた彼女は、車よりも遥かに高い頭の上にバラ模様の日傘をさした。

「コニチワー!」

 そのローズの声も山びこ級だった。老人はビックリして立ち上がり、こんにちはと頭を下げた。ツバキは笑って言う。

「おっちゃん、俺のアメリカ人のガールフレンドや」

 老人は頭をかきながら、そうかそうかと返す。

 それからローズはツバキが組み立てたバイクに乗って砂利道を下っていった。

 老人が言う。

「わしは太平洋戦争の前からここに住んみょるんやけどなぁ。あんな子が近所の浜に降りて行ったん見たんはこれが初めてや」

「おっちゃん、長生きしてみるもんやろ」

 ツバキは車の陰に座り、サーフボードの表面にワックスをぬり始めた。まぁ、どんな仲かは知らんけど。鳥居の下の老人は言う。

「戦争はとうの昔に終わったんや。あのアメリカさん、大事にしまいよ」


                  *


 デタラメに草木が生い茂る砂利道、そこを降りると小さなビーチがあった。山脈のふもとにある天然の入り江で、海岸には波に凸凹に削られた小さな岩山が散らばっている。ツバキは視界に海が広がると、手にしたサーフボードとクーラーボックスを砂利ジャリ道に置いた。思い切り潮風を吸い込んで全身で深呼吸する。


     海、それはもう、そこにあるとしか言いようがないものだった。


 初夏の日差しを受けて海面はキラキラと無限の輝きを放ち、入道雲の浮かぶ青空は水平線と仲良く交じり合っている。ここ数日、ツバキは地元の有明浜で何度かサーフィンしてきたが、ここでは今年初めてだった。


 サーフィンを教わったダイバーショップの店長に初めてここに連れてこられたのが12才の時。他に知っているのは10人ほどの地元サーファーだけの超穴場スポットだ。大勢で来ると目立つので仲間内で練習日を決めて1人ずつ来るようにしている。今日もツバキは仲間と事前確認を取っていた。

 このサーフ名所は、山のふもとと小さな入り江というマレな組み合わせから生まれたものだった。山頂からの吹き降ろしの風がせまく岩山の多い海岸とぶつかって、局所的に高波が発生するのだ。満潮時なら胸の高さまである波が打ちつけ、台風の前後なら軽く2mを越える。岩だらけなので危険もあるが地形をマスターすれば大丈夫。とにかく、サーフィンには絶好の場所だった。


 ツバキは浜に下りて折りたたみバイクを見つけた。そのそば、岩山の陰にローズマリーがいて、パステルカラーのワンピをひらひらさせながら海を眺めていた。

「Big Breaking Wave!!」

 彼女は、両手で波の動きを真似てそう言った。

 2人で浜の上の山林に入った。その先には草木に覆われた丸太小屋があった。大体一般的な家庭の物置ほどの大きさだ。それは仲間の1人、大工のサーファーが職人芸を生かして枝木や葉っぱで手作りしたもので、この穴場サーファー仲間の専用倉庫として使っていた。山林の奥まった場所にあり、一見すると古びた小屋にしか見えない。


 ツバキが南京錠を開けると、背後のローズが「ワーオ」と言う。

 中はピカピカに磨き上げられた清潔な板張り造りで様々な物が保管されてあった。フィンやリーシュコードやボードの補修用品、携帯シャワーや真水の入ったポリタンクなどが並んでいる。2人はそこからデッキチェアと簡易テーブルを取って、浜辺に運んだ。


 時はちょうど正午。昼食は途中のセブンイレブンで買った惣菜ソウザイ弁当やホットドッグだ。クーラーボックスから出したコーラやジンジャエールなども加え、2人は木陰の下でランチした。山のふもとなので涼しい吹き降ろしの風が絶えずやって来る。遠くの水平線には、2~3の漁船やフェリーが見えた。

「ローズ、海は好きかい?」

 ツバキがそうたずねた。

「ええ、大好き。だけど私の故郷には湖しかなかったから、海が見れるのは夏の1週間だけだった。毎年、バカンスを取って家族で南カリフォルニアのビーチに行ってたの。そこにはサーファーもいっぱいいて、ここよりも10倍は波が高かったわ」

 ローズは郷愁に駆られたのか、故郷の友人相手に話すような早口で色んな事をペラペラとしゃべった。

 ツバキはついてゆけなくなり、そのうちローズも気づいて苦笑いを浮かべる。

「ごめんね、いつも俺と話すのは大変だろ」

「ノーノー、そんな事ない。ねぇツバキ、って知ってる?」

 彼女はハシをたこウィンナーに突き刺して言う。


「今、私たちが話している言葉がそうなの。つまり、英語ビギナーの人たちのための英語ね。それはネイティブ英語とは全く違うのよ。最小限の英単語でシンプルに伝える。それがグロービッシュなの。

 今、私、インターナショナル・スクールに通ってるでしょ。そこで先生がグロービッシュを教えてくれるの。クラスメイトとの会話もそれでね。

 最近分かったんだけど、ネイティブよりグロービッシュの方がずっといいの。

 なぜって自分の言いたい事が、よりクリアになるから。

 話す前に自分が言いたい事を単純化して整理してるからね。それに世界の視点で見るとグロービッシュを話す人口の方が圧倒的に大きいワケだしね。そっちの方が実用的なのよ」

 ツバキは笑って言う。

「じゃ引き続き、『幼稚園キンダガートン英語イングリッシュ』をお願いするよ」





                  ✿




 正午過ぎ、ツバキはゴーグルやラッシュガードをつけてボードを脇にはさんだ。

 いよいよサーフィンに出るのだ。

 ローズマリーはお留守番だった。浅瀬に岩場が数多くあるので、充分に地形を知らない者が泳げるビーチではなかったのだ。だが、ローズには何の不満もなかった。ここには第一に絵を描きに来たからであり、祖母譲りの本格的な画材道具を持参していた。さっそく彼女は木陰の簡易テーブルでスケッチを始めた。

「サーフィンをやり始めると時間を忘れるので、1時間したら休憩の合図をくれ」

 ツバキがそう言うと、彼女はムリだと即答した。

「私はそれ以上に絵に夢中になれるから」

 そう言ってウィンクしてみせた。


 山林に囲まれた秘境のサーフスポット。ツバキはボード片手にそこに入った。波に素足をつけると一気にテンションが上がった。

 やっぱり夏場の海の肌触りはたまらない。

 そう彼は思う。真夏に毎日、海に浸かるようになると真水が本当に気持ち悪くなる。フロやプール、川でさえ何か毒のある人工液のように感じられる。それくらい夏の海は彼のカラダと相性が良い。ツバキは浅瀬で少し泳いだ後、サーフボードに腹ばいになり、パドリングを始めた。沖に向かって、幾つもの波を乗り越えてゆく。


 いつも、この瞬間にある感覚が甦る。中2の時、高知県の生見イクミビーチで開かれたサーフ大会に、ジュニアの部で初出場した時の事だ。

 あまりの緊張から、号令と共に大勢の競技者と一斉に波に向かった時には砂浜に何度も転んだ。しかし、海に入ると全てが変わった。うるさいぐらいガタガタ鳴っていた歯がピタリと止まった。パドリングを始めた時、もう大丈夫だと思った。自分の意思に関係なく、カラダが勝手に動いていたからだ。

 結果は3位、銅メダル獲得。

 ツバキはそれ以上に素晴らしいものを得た。それは、自分自身を遥かに超えた何かを自分の中に見出せた事だった。

 何十億年も前から存在し、そして全ての生き物が滅びた後にもずっと存在し続けるもの――海。彼にとって、それだけが唯一信じられる神であり、それが自分の中にも存在するように感じられたのだ。以来、海でパドリングをするたびに、その感覚が甦った。俺は海と永遠にうまくやってゆける。そんな確信が自然とわき出てきた。


                  *


              サーフィンを始めた。


 背丈ほどのショート・ボードを波の向きに立て、その上で立ったままバランスを取り波と共に流されてゆく。何度も繰り返すうちに感覚が研ぎ澄まされてゆく。ツバキは波の水平線に沿って、サーフボードを横に滑らせる。上手くバランスが取れるようになると、ボードの上で歩いたりスキップしたりした。クルリと1回転して波の中にプルアウト。


 水から顔を出すと、ビーチのガールフレンドが大喜びしていた。

 その技は、浜辺から見る人に対し、サーファーがボードではなく、じかに波の上を歩いているように錯覚して見せられるのだ。ローズマリーはすっかり絵心を失ったようで、デッキチェアの上に立ち上がって歓声を上げていた。


 ツバキは調子に乗った。山から吹き降ろす風が最も激しく当たる入り江の一角。その最高のブレーキングポイントに出て、大技にチャレンジする。

 大波を待ちカットバックを狙った。波の隅まで行き、そこで反転ターンをして戻る技。1本、最高のテイクが出ると、ローズはまた歓声を上げた。

 次にトップターン。いったんブレイクしようとする波の下に入り、また上に上って波のトップを削るようにターンする技で、上級のテクニックがいる。だが、今日のツバキはラッキーだった。完ぺきなテイクを決めて波しぶきを空高く跳ね上げた。


 浜辺の彼女は絶叫した。デジカメを撮り、難しい技が決まるたびにピョンピョン飛び跳ねた。ツバキも最高潮にヒートアップした。

 何度かオーストラリアの海岸で一般参加の大会に出たが、その時も海外らしい熱烈な歓声がきて、大きな力になった。一方、シノブと一緒にいる時には、それが全く望めなかった。彼女はサーフィンに興味がなく、ツバキがどんな技を決めてもビーチで大人しく拍手するだけ。10分もすれば決まってメールを打ち始める。

 今ビーチにいる女は違った。

 遠目にも、海岸にうちつける白泡のようにマッシロな素肌がまぶしい愛しのローズマリー。彼女はパステルカラーのワンピをなびかせながら、野生馬のように砂浜を元気よく走り回っていた。


                  *


 ビーチに戻ったツバキはヘトヘトに疲れていた。だが、それも一気に吹き飛んだ。駆け寄ってきたローズマリーがほっぺにキスの雨を降らせたからだ。


「ツバキ、信じられないわ。最高よ。アナタ、プロサーファーじゃない! 」


 岩場の日陰に戻って2人で休んだ。ツバキはクーラーボックスから出したバナナをかじりウィダーINゼリーに吸いつく。ローズは、そんな彼の絵を描き始めた。鉛筆を立て、画用紙にデッサンしてゆく。

「私がこの世で1番シットするものが、何か分かる?」

 ローズが言う。

「ツバキ、アナタよ。本当にすごかった。クレイジーだった。だって、サーフ・ムーヴィーみたいだったもん。ねぇもう何年サーフィンやってるの?」

 彼はゼリーのチューブを外して、小学校の時から15年と言う。

「プロになろうとは思わないの?」

 彼は苦笑し、視線を彼女のサンダルに落とす。

「分からない…。ただ、プロになるなら全部捨てなきゃならなくなる。友達も家族も」、「それにラベンダーガールもね」とローズが口をはさむ。

「それどころじゃない。故郷だって捨てなきゃならなくなるよ」そう言って力なく笑った彼に、思わぬ英語が返ってきた。


              「MOTTAINAI!」


 ツバキはそれに目を丸めた。

「私、この日本語の意味知ってるのよ。何か大切なものをムダにした時に使う言葉でしょ?」 それに、彼は戸惑いながらうなずいた。

「もう一度言うわ。モッタイナイ。ツバキ、アナタは自分の才能を捨てるつもり。15年の年月を捨てるの? プロになるのは、すごくタフだって事は分かる。だけど挑戦もしないであきらめてしまうの? それじゃ絶対いつか後悔するよ」


「ローズ、君はどうなんだい? なぜ絵描きになろうとは思わないんだい?」

「私はまだ5年くらいしか描いてない。それにアナタのサーフィンほど上手くはない」

「そんなの関係ないよ。続けてさえいれば、絵だってどんどん上手くなる。そう言えば、君はなぜ医者になんかなろうと思うんだい?」

「なぜって医者は人の命を救うのよ。それってすごい事じゃない。ほんの小さなことでもいいから、私は世界を少しでもより良い場所にしようと思ってるの。それも実質的な方法でね」

 潮風に吹かれて舞い上がるブルネットヘアが彼女の頭をスッポリと覆った。

 そうして顔をなくした女が言う。


「だけど正直、最近はどうかなぁって思うようになったの。カガワに来て以来、私、どんどん絵を描く事が好きになってるのよね。友達と離れて1人で過ごす時間が多くなったんで、絵にすごく夢中になれるのよ」

「じゃあ今、君も迷ってる最中なのかい?」

 彼女は少し赤くなって、おでこをポリポリかく。

「ええ、たぶんそうね……」


                  *


 午後3時、初夏の太陽は周囲の山脈の稜線リョウセンにグングン近づいていた。ツバキはまたサーフィンに出て、ローズは木陰で画を描いた。


            彼は〝エアリアル〟に挑んだ。


 それは彼にとって特別な技だった。波の先端でボードごと跳び上がり、空中でクルリとターンを決める。一般的にもそれは最上級のサーフテクの1つだ。

 初めて出来たのは12歳の時で、以来ずっと精度を上げてきた。しかし、何度テイクを重ねてもダメだった。今日だけの事ではない。もう3ヶ月も前から、彼はエアリアルを全く決められなくなっていた。

 20回目のワイプアウト。ツバキはそこで力尽き、浅瀬でブレイクした波の泡のスープにだらしなく押し流された。浜辺では依然、ローズマリーがデッキチェアに座り絵を描いていた。テーブルに前のめりになって海と画用紙を交互に見つめていた。


               


 その言葉がツバキの頭の中で余韻を残していた。

 高校時代、湘南の全国大会U18部門で7位入賞した時、ツバキは国内外のマリンスポーツ・メーカーの広報から、プロになるよう誘いを受けた。ずっと指導を受けてきた地元のコーチからも勧められた。

 しかし彼は悩んだ末に全ての誘いを断った。プロになると競争が激しくなるし、結果が出なければ生活苦も重なってくる。そうなれば、サーフィンへの純粋な思いが薄れてしまうんじゃないか。それよりも趣味として自分らしくサーフィンをエンジョイした方がいいハズだ。彼には、それこそが正しい選択だと思えた。


 5年たってその判断の大きな間違いに気づいた。あの頃をピークにしてサーフィンの腕が上がる事はなかった。3年間は辛うじて現状維持、そして今年になって確実に落ちてきた。

 何よりも、エアリアルを失った事は象徴的だった。エンジョイ路線に切り替えた事で、高難度の技やオリジナルの技に挑む貪欲さがなくなった。それと共に、サーフィンへの興味すらなくなってきた。毎年、オーストラリアで開かれるサーフ大会に出てきたが、プロのレヴェルの高さに圧倒されて、最近では行く気もしなくなっていた。


 やはり、何事もそれ一筋でなければ本物の情熱はわいてこないのだろう。

 ツバキはようやくその事に気づいた。世界を転戦する日本人プロサーファーのブログなどを読んでも、それは明らかだった。誰もがサーフィンに全てを捧げていて、賞金が稼げなければ生きていけなくなるような状況に自分を追い込んでいた。

 そうしてツバキは気づいた。

 18の時、プロになるのを拒んだのは競争が嫌だったからじゃない。それはもっと大きな試練、つまり1つの夢に人生のすべてを賭ける事を恐れたからだ。

 サーフィンのカタワら、家業の花の栽培を手伝っているのも逃げ道を確保するため、人生に保険をかけていたいからだ。そんな中で技術とか才能は伸びるのだろうか。10代の頃の純粋な思いはキープできるのだろうか…。


                 *


 ビーチからローズマリーが消えた。ツバキがそれに気づいたのは、浜に戻ろうとパドリングを始めた時だった。浅瀬に戻ると、木陰のテーブルに画材道具があり、そばには折りたたみバイクがあるのが見えた。一体どこに行ったのか。サーフボードを砂浜に突き刺し、彼は声を上げた。

「ローズ、どこにいる?」

 フイにワンピースが目に入った。背後の山林の枝木に、パステルカラーの布が釣り下がってヒラヒラしている。

 まさか、あれほど注意したのに泳ぎに出たんじゃないか。バカな。この辺の浅瀬は岩だらけで危ないのに!

「ローズ、どこだ。どこにいる!」

 ツバキは大声を張り上げながら、浜辺を早足に回った。

 が、どこにもいない。額に手をかざし海から山からあちこち見渡す。まさか、沖に流されたのか。いやこんな小さな浜でそんな事が起こるハズは…。


              「I AM HERE------」


 青ざめた顔つきの男に、ようやくそう声がかかった。見ると、少し離れた浅瀬にある岩山から彼女が手を振っていた。

「Rose, You, Fuckin Killin me!!!」

 ツバキはそう怒鳴った。

 その岩山はすり鉢状の大きなもので、ローズマリーはその中央の潮溜シオダまりに浮かんでいた。幅が10mはある大きな窪地クボチで、岸壁がろ過するのか、海水より遥かに透明な水がたっぷりとたまっていた。

 ツバキがそこに入ると、ようこそ私のプールへ、と彼女が笑う。セパレートの黄色いヒマワリ模様の水着姿で、ぷかぷかと気持ちよさそうに浮かんでいた。彼が真ん中に進むと、足がつかない程の深さになる。


 2人とも気ままに泳いだ。彼はカエル泳ぎしながら、「ローズ、ちゃんと絵は描いたのかい?」と聞く。彼女は背泳ぎで青空を見ながら言う。

「ええ、たくさん描いた。いつかツバキにも見せてあげるわ」

 高い山脈に囲まれたビーチの日没は早く、5時前になって一気に気温が落ちた。

「ツバキ、アナタのサーフィンは失敗続きだったね」

 彼女が哀しげに言う。

「ごめんなさい。私があんなこと言ったからね」

「いや、俺はローズに感謝してるんだ。だって、今まであんなこと言ってくれたのは君以外に誰もいなかったんだから。おかげで色々考えさせられたよ。本当にありがとう」

「ねぇ、さっき言ったグロービッシュを覚えてる?」

 彼女がそう言う。

「いい、この質問に〝超〟グロービッシュに答えてみてよ」

 ツバキはそれにまゆをひそめる。

「私のこと好き?」

 彼女のその言葉に、彼は「Yes I do」と返す。

「ノー、不正解よ。言ったでしょ。超グロービッシュだから、超シンプルな答えでお願い」

 彼は、ワケが分からず目を丸める。

「いい、最もシンプルな言葉は沈黙よ。だから、言葉なしで愛を表現するの」


 力強くツバキはローズを抱き寄せた。彼女はおどけた顔で目をつむり、水中で両手をペンギンのようにパタパタさせた。

 そして、キスをする。

 岩山の海水プールの中、2度目のキス。

「That's Correct...」

 彼女がそうつぶやく。


 先に潮水プロテクト効果のある椿オイルをぬりつけた彼女の全身の素肌が、海に馴染ナジんだ彼のカラダをはじき続ける。だが、彼にはそのツルツル感が気持ちいい。どんなにカラダを触れ合わせても、1つに交じわる事はない。そのフシギな感覚は、間近に見ても月の表面に浮かんでいるような顔をしたミステリアスなローズにピタリと重なる。


「Salt water Kiss...」

 彼女がつぶやく。潮水のキス。彼女の薄い唇にはたっぷりと塩分が含まれ、彼は夢中になって吸いつく。

「ねぇ、ラベンダーキスとローズマリーキスのどっちがいい?」

 それに、ツバキは苦笑するだけだ。


 重なり合った2人の心臓はデタラメに鳴り続けるが、いつしか共鳴しあう。それが1つになって互いの欲情でバスドラムのように脈打ち出した時、ツバキの頭はマッシロになった。森からのセミしぐれも、満潮で荒れ始めた潮騒も、山林を飛び交う鳥たちの鳴き声も、まるで耳に入らない。ただ、1つに融けあった命の音が聞こえるだけだ。

 彼は思う。

 山から1つ残らず草木が消えても、海から1つ残らず波が消えても、空がドカンと地面に落ちてきても、ずっと永遠にこうしていたい。

 満潮の高波がそこに押し寄せるまで、2人はずっとそうしていた。

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