6章:この世に聖域など存在しない

 ツバキは自転車を走らせる。iPodでJポップを聴きながら海岸通りを行く。

 そこは有明浜だ。

6月間近、ツバキの目に夕方の海はグラデーションの効いたマリンブルーで、見ているだけでサーフボードと一緒にザブンと飛び込みたくなる。

 近くの砂浜には大昔の通貨を巨大な砂絵にした『寛永通宝カンエイツウホウ』がある。海沿いに西に行けば愛媛に入り、南にそびえる七宝山シッポウサンを始めとした山々を越えれば徳島に入る。


 ツバキはここ香川の最西端、観音寺カンオンジ市で生まれ育った。自転車で目指す先は大瀬家で、彼の実家の近所にある。そこは田園地帯にポツンとある広大な平屋の一軒家で、ヒノキ造りの古き良き住まいだ。

 自転車でそこにやって来たツバキの目にヒロちゃんが見えた。

 大瀬・ヒロシ

 彼はガレージで自分の車を洗っていた。ツバキに気づくと、おう、いらっしゃいと声をかけた。4つ年上の幼なじみで一家の長男だ。

 ヒロちゃんは笑って、ちょうど皆んな帰った所やと言った。そうしてモスグリーンのプリウスの車体を丁寧にぞうきんがけする。日曜の夕方、彼はいつも車を手洗いしている。

 一度、ツバキが、なぜホースの放水でてっとり早く洗車しないのかと聞くと、彼は「車でも何でも世話になっとるもんには、自分の手で礼がしたいもんやろ」と笑った。


 ツバキは自転車をガレージの奥に停め、何気に振り返る。ヒロちゃんは車体のパーツを抱きしめるようにして、ぞうきんで汚れを取っている。

 その姿は、目に見えること以上の何かを彼に語りかけてくる。ヒロちゃんは車ではなく何か別のものをふいているようだ。彼はそう思う。

 例えばどこか遠く、奈良かどこかの山奥で偉いお坊さんが先祖代々、何千年も祭られた神木を1人せっせと洗っているような感じ。ヒロちゃんの洗車姿には、そんな気品と風格が感じられる。まったく、この聖なる大瀬家の長男にふさわしい男だ。ツバキは1人、そうほくそ笑む。


「いらっしゃい。夕食、もうすぐやで」

 大瀬家の居間に上がったツバキに主人の大瀬さんがそう声をかけた。

 そこにはいつもの顔ぶれ――大瀬家の面々とツバキの両親――が勢ぞろいしていた。広々とした畳部屋の中、大きな長机を囲んで皆んながワイワイ話している。大瀬家は二世帯家族で、夫婦に3人の子供、プラス主人側の祖父母という7人構成。

 ツバキの家、白谷家とは20年近くのつき合いがあった。

 ツバキの母が花屋を始めた時、ちょうど大瀬家の夫人も美容院を始め、その店に飾る花を注文するうちに仲良くなり、家族ぐるみのつき合いにまで発展。以来、月に1度はどちらかの家で夕食を交わすようになった。白谷家は夫婦と1人子のツバキ、3人だけなので大家族との交流は有難かった。


 ツバキがキッチンをのぞくと、大瀬夫人が声をかけた。

「ツバキちゃん、この前、アメリカの女軍人さん相手に高松で生け花教えたんやろ。新聞の地方欄に載っとったわ。後で話、聞かせてや」

 彼はそれにうなずき、キャベツを包丁で刻むこの家の長女にアイサツした。ナース服にカーディガンを羽織った彼女はニッコリする。それは病院の天使らしい、心を和ませるスマイルだ。

 それがツバキの2つ年上の恋人、シノブだった。市内の総合病院に勤めて5年になる。今年で、2人のつき合いも3年目を迎え、そろそろ当人たちや見守る両家の頭の中にも結婚の文字がチラチラと浮かぶようになっていた。


                 *


 スキヤキ鍋を囲んで夕食が始まった。総勢10名、長机を囲んで、ダンプカーのタイヤのような大鍋にそれぞれがハシを入れる――菜ばしもあるが長年のつき合いを示すように、誰も使わない。両家の主人が向き合って座り、ツバキは父と母の間、彼の向かいにはシノブがいる。その隣には彼女の祖父母がいて、どちらも80過ぎだが元気そのもの。食事が始まって以来、話題はずっと、先週行われたサンポート高松でのアメリカ海軍の歓迎イベントの事だった。


「そうそう清造さんから1本もろた、あの何とか部族の地酒。あれ、中々の味やったよ」

 大瀬家の主人、大瀬さんがツバキの父、清造にそう言った。

 清造はあの日、軍艦の女性艦長の計らいでもらったイヌイットの酒瓶を大瀬さんに1つ分けてあげたのだ。

「いやいや、海軍さんが言うにはアメリカ随一ズイイツの名酒やそうやけど、やっぱり大瀬さんとこの吟醸酒ギンジョウシュにはかないませんわ」

 清造はそう言って笑う。

 大瀬家は江戸時代から続く酒屋・蔵元クラモトであり、主人はその九代目、その一方で市議会議員も勤めていた。また、毎年夏祭りになると山車ダシの上の最前列で太鼓タイコを打ち鳴らす事から、町中の人から『ダンジリ』と呼ばれていた。

 要するに、大瀬家は地元の名家だった。

 そして主人の大瀬さんは自分と同じく先祖の家業につく造園家の清造を大いに気に入っていた。一方で、清造も大瀬さんの事を自分の親兄弟同然に大切に思っていた。


 スキヤキ鍋を囲む長机。そこで大瀬さんの隣に座った妻は家の離れで美容院を営んでいる。その横に座る長男のヒロちゃんこと博は27歳、電気系のエンジニアで、近くの工場で家電の設計や製造を手がけている。

 その横には妹のシノブと末っ子のエリカがいる。エリカはツバキと同い年の23歳。髪をキンキンに染めた彼女はけっこうな美人で、ツバキの目にもシノブの5倍増しくらいにカワイく見える。

 真面目な姉とは対照的に中学高校の頃はレディースに入って改造バイクでブイブイ言わせ、警察のお世話になるほどに荒れた。だが高校卒業と共に改心。母親と同じく美容師を目指し、今では丸亀市にあるシャレた高級店でマジメに見習い中。いずれは母の店を継ぎたいと言うまでになった。

 ツバキには、この奇跡の改心もまた全くフシギには思えなかった。なぜなら、それがこの大瀬家がもたらす聖なる力なのだ。


 夕食が進む中、ヒロちゃんがメガソーラーの話を始めた。何でも、ある大手家電メーカーが少雨で日照時間の長い香川県に目をつけ、三豊ミトヨ市にソーラーパネルを大々的に設置する計画を立てているらしい。電力会社以外が発電所を作るのは四国では初の試みなのだそうだ。話をするヒロちゃんは、とても嬉しそうだった。彼は仕事で次世代ソーラーパネルの開発に当たっているのだ。


「こうなったら、うちの工場も太陽光発電にもっと力入れるようになるハズや。原発がいらんようになる時代もだんだん見えてきたな」

 そう言ったヒロちゃんに大瀬さんが続く。

「いや、まだまだ楽観視はできん。未だにフクシマの原発事故が通常の事故やと思いよる連中が大勢おるからな。飛行機や列車の事故みたいに経済成長に伴うリスクや何やってな。全くバカげた話や。放射能汚染の規模なんて計り知れんもんで、そんなもんはリスクとは言わん。事故の次元が全く違うんやから」


 大瀬さんは、原発問題に深く関わっていた。福島の原発事故以降、彼は市議会議員ながら反原発の声を上げ、愛媛県の伊方イカタ原発の再稼動に反対し、高松駅から四国電力本社まで大勢で横断幕を掲げてデモ行進した事もある。


「そのへんでお開きにしな。政治の話しとったらキリないやろ」

 大瀬夫人がキッチンから居間に現れた。手にしたお盆の大皿にはかれたグレープフルーツが乗っている。そこで、誰もがお皿に手を伸ばす。

「そういや、ツバキちゃん、あのこと考えてくれとるか?」

 ヒロちゃんがフイに言う。

「うちの工場も将来性が出てきたけど、エンジニアがまだまだ足りんのんよなぁ」

「ヒロシ、アホか。清造さんの前で何言うとる」

 大瀬さんが、そう一喝する。

「いや家の事はええんよ」

 清造が言う。

「俺の花畑はたぶんツバキには出来んし、家内の花屋にしても然り。かといって後継者探しになると大変やけどなぁ。それでも、ヒロちゃんみたいな一流の技術者が息子を仕事に誘ってくれるんは嬉しい事ですわ」


 最近、ツバキはヒロちゃんから同じ仕事をしてみないかと持ちかけられていた。彼は昔から物作りが得意で、ヒロちゃんと同じ地元の工業高校の電気科出身だった。一度、工場に連れて行ってもらい製造現場を見学して強く感化された。


「そやけどツバキちゃん、今はムリやろ。もう

 大瀬夫人にそう言われて、ツバキは顔を赤らめる。

「ツバキ、お前、いつまでサーフィンなんかしとるつもりや」

 清造がアキれ顔で言い、大瀬さんが続く。

「いやいや清造さん。俺はいつも感心しよんよ。なぁ、ツバキ君、サーフィンを始めてもう何年になる?」

「子供の頃入れたら、今年で15年目になります」

「何でもそれだけ続けたら大したもんや。どうや、今まで海は色んな事、教えてくれたやろ。人間にとって1番の先生は自然や。いつの時代もそれだけは変わらん。ツバキ君も、サーフィンしながら、大自然から何か大事なもんを学んびょるハズや」

「そうやそうや」

 そう言ったのは、大瀬さんの父だった。

 彼は入れ歯を入れなおして、ツバキに向かって満面の笑みを見せた。

「ツバキちゃん、今年の夏こそワシにも教えまいや。波乗りだけは、やった事ないけんの。80歳からでもまだ遅うないやろ」

 居間の長机を囲む10人が、一斉に笑い声を上げた。


                 *


 夕食後、両親が帰る一方でツバキはシノブの部屋に行った。つき合いだしてからは、いつもの事だった。

 広々とした平屋一軒家の端、中庭に面した部屋で、ガラス窓の向こうにはバラやチューリップが咲き乱れる花壇が見えた。生垣の向こうには田園地帯が広がり、その遥か先には七宝山シッポウサンが堂々とそびえたっていた。

 彼女の部屋は広い畳部屋で、カーペットの上に洋風レトロモダンなローテーブルやソファが並んでいた。スタンドライトだけの薄暗い中、2人はベッドに並んで座っていた。

「なぁ、ツバキ、この夏はどうするん?」

 シノブがそう言った。

「またいつもみたいに、ダイバーショップでバイトして、貯めたお金で全国サーフィン巡りするん?」

 彼は天井の何でもない一点を見つめて言う。「そうやなぁ。今年はどうかなぁ」


 ツバキがサーフィンを始めたのは8つの時だった。近所にサーフスポットがあり、年上のビーチボーイズに混じって見よう見真似で始めたのだ。すぐにハマり、11歳の時、地元のダイバーショップ経営者で元サーファーの男の目に止まった。指導を受けるようになり、真冬以外の季節はずっと波に乗り続けた。

 成果も出た。高校生の時、湘南でサーフィンの全国大会があり、U18部門で7位入賞を果たしたのだ。地方新聞にも取り上げられ、地元では一躍有名人になった。しかし、そこから先が続かなかった。回りからプロになるよう勧められたが、ツバキはそれを拒み、以来、ずっと趣味として楽しんできた。


「ツバキももう23才、そろそろ絞り込む年になってきたな」

 シノブが言う。

「花畑の農夫か、エンジニアか、またはサーファーか。にしても、こう並べたらおかしいな。アンタってホンマに変わった人生送っとるよ」

 シノブは、ツバキのヒザに横向けに頭を乗せた。

「なぁ、私たちも、そろそろ変わり目に来てない?」

 ツバキはうつむいて膝の上の彼女の髪をなでる。

 スタンドライトだけの薄闇の中、彼は依然ナース服姿のシノブに口づけた。彼女は少し唇をそらせたが受け入れた。

 一瞬、彼はムラっとしたが、すぐに消えた。この家では一度もした事がない。それもまた聖なる大瀬家の威光のせいだった。


「何か俺、だんだんこの家に上がれんようになっとるわ」

 ツバキが言う。

「シノブはこの家の子やから分からんかも知れんけどな。この大瀬家の人たちは皆んな素晴らしい。素晴らしすぎるんや。実際、この家の食卓でおると何か聖域みたいに思えることがある。皆んなが聖人みたいに見えるようなことが」

「それはホメすぎや」

 シノブが無邪気に笑う。

「アンタは全然知らんだけ。実際は、皆んな結構、ワガママな人たちなんやで」

 それに、ツバキが笑い返す。

「なぁシノブ、世間で言う所のワガママって知ってるか。それはたぶんシノブが思ってる意味よりも、もっとずっとヒドい人たちを指す言葉なんやで。例えばそうやな。大したことないやつが威張り散らかしたり、上手く行っとるやつを叩いたり、または大ウソついて見栄を張ったりとか、そういうんがホンマのワガママっていうんやで。どうよ、この家にはそんなん1人もおらんやろ」


 すると、シノブはツバキの耳元に口を近づけた。

「なぁ、ここだけの話やで、絶対誰にも言うたらいかんよ。約束守れる」

 彼は目を丸めて、「ああ、何だよ」と返す。

「うちのお父さん、今は反原発の正義の議員なんて回りから呼ばれてええ気になっとるけどな。

 実は結婚前にかけとったんよ。それでお母さんと結婚した後も、ふられた方の女が未婚のままで未練タラタラでな。ずっと私ら家族に嫌がらせしてたんよ。私なんか一回、幼稚園の時、帰りに突然後ろからその人に、腕ギュってつかまれた事もあったんやで。幸い言うたらアレやけど、結局、その人、病気で亡くなられて、事は一件落着したんやけど」

 そんな告白にぼう然としたツバキに、シノブが言う。

「これで分かったやろ。このけがれた現実の世界に、聖域なんてどこにもないんよ」





                 ✿




 ツバキがバイクで坂出サカイデ駅に着いたのは、昼の1時過ぎだった。

 真っ赤なタンクが目を引く、スリムなカワサキの400。歩道脇に停めたそのシートに座って、彼は待つ。曇り空の水曜日、ロータリーではタクシーが列を作っているだけで、通りにも人はパラパラとしかいない。

 だけど、あの子がここに本当に現れるんだろうか…。

 だんだん、それが信じられなくなってきた時、その姿が見えた。駅の裏口の自動ドアが開き、女が1人出てきた。背が高く、肌がマッシロなので一発でそうと分かる。彼女もツバキに気づき駆けてきた。


             Ah, Sweet Rosemary......


 軽くハグを交わしただけで、ツバキの胸の内はそんな甘い思いに満ちた。アイサツ言葉を交わした後、彼はクールを装いながらも熱い視線を注ぐ。

 マユも目も鼻も口もアゴも細やかに上品に整った顔立ち。

 それは相変わらず夜空の月の表面にでも浮かび上がっているかのようにミステリアスだった。足元まである長い麻のワンピース。頭にはベースボールキャップ、背中にはナップザック、足にはパンプス、そして耳元にはパールイヤリング。彼女はブルネットの長い髪をゴムでくくりながら言う。


「安全運転お願いね。実は私、モーターバイクに乗るのは初めてなの」

 彼はOKと言ってヘルメットを手渡す。

 彼女がそれをかぶりかけて言う。

「あれ、これ、いい匂いがするよ。ラベンダーの香りだわ」

「ああ、そのヘルメット、昨日、別の女の子がかぶってたんだよ。きっと、ラベンダーの香りがするシャンプーを使ってるんだろうな」

 彼女はそれを平然と受け流して言う。

「そのこ、何て名前なの?」

「シノブだよ。何、気になるの?」

 ローズは下唇を突き出して首を横に振り、タンデムシートに横座りした。ツバキはエンジンをかけ、右手でスロットルを回す。

「ところで、君の名前は何ていうんだったっけ?」

 彼女はそれに答えたが、400ccのエンジン音でかき消された。

 前の男が大声で言う。

「What?」

「I am Rose」

 男がスロットルを回しながら返す。

「What?」

「Rosemary」

「What?」

 そこで女は思い切り息を吸い込んだ。


          「I am FUCKIN' ROSEMARY--------!!!」


 ツバキは左手のクラッチを放した。バイクは勢い良く発車し、エンジンの爆音と2人の爆笑が混ざり合って辺り一帯にはじけ飛んだ。


                  *


 サンポート高松で出会ったあの日、2人は近くのカフェで1時間ほど話した――おかげでツバキはその後、市内でWデートの約束をしていたシノブの元に大急ぎで駆けつける事になった。

 カフェで、ツバキは彼女のスケッチブックの絵を見せてもらった。絵描きになりたいのかと問うと、彼女は首を横に振ってこう言った。

「絵を描くのは小さな頃から大好きなんだけど、将来の夢は医者になる事。けれど、ここ日本での滞在中はずっと絵を楽しもうと思っている」


 そして、2人は数日後に改めてデートをする約束を交わした。場所は丸亀城マルガメジョウ。せっかく日本に来たのだから、ぜひお城の絵が描きたい。ローズがそう言ったのだ。


                 *


 梅雨の曇り空の下、2人は丸亀城の中を散歩した。ローズマリーは橋の上から見た広大な池掘や高く積まれた石垣、入り口のカワラ屋根の大門や、遥か上に見える城の天守にオドロキの声を上げ続けた。生い茂った木々に多くの花壇、なだらかな丘などのある緑豊かな城内を歩きながら、2人はゆっくりと景色を楽しんだ。平日なので真昼でも人気はなく、池堀にいる白鳥やアヒルの数の方が多いくらいだった。


 ローズは時々、立ち止まってスケッチした。絵を教わった祖母のものだという年代物のカバンから画材道具を出し、ベンチや芝の上に座って熱心に色んな景色をデッサンした。ツバキが横からのぞいても、まるで気にしなかった。

 スケッチブックに鉛筆で下書きし、クレパスで淡く色をつける。1つの景色に大体10分ほどかけ、最後にデジカメで絵に描いた景色を撮って終わり。後は家で仕上げると言う。

 彼が、なぜラフスケッチがいるのかと問うと、その場の空気を残したいからだと答えた。ローズは、その空気をバイブレーションと表現した。下書きには生のバイブがあり、後でそれと写真の光景を交互に見ながらじっくり描くと、絵に独特の深みが生まれるのだそうだ。

 一方、ツバキはローズの絵より、絵を描く彼女自身に惹きこまれていた。モデルのような長身スリムな白人娘が腰を丸めて絵を描いている様は興味深かった。


            絵になる女が絵を描いている。


 その矛盾はコミカルでもありミステリアスでもあった。

 筆づかいは優しく紙をなでている感じで、何かを描いているというより白紙の画用紙の奥に秘められたものをフシギな魔法で浮かび上がらせているようだった。ローズは時々待ちぼうけの連れを見て、ごめんなさいと言う。

 そのたびに、ああ、このコは何も分かっていないんだ、と彼は思う。

 ただ君を見てるだけで、俺がどんな気分になるのかを。

 ただそれだけで、今という時間がどれだけ特別なものになるのか。それが何も分かっていないんだ。


                  *


 雨が落ちてきたのは、午後3時過ぎ、来てから2時間程たった時の事だった。傘を持ち合わせてない2人は駆け足で大木の下に避難ヒナンした。


 目の前には木々にオオわれた小さな遊園地があった。回転木馬やカート乗り場があるが、どうも閉鎖しているようだ。そこは城の外堀の角に当たる場所で、広い池の向こうには街の通りが見える。

 2人のすぐ脇にある池には鳥小屋つきの浮島が見え、城と同じく小屋にも瓦屋根がある。そこにいた2匹の白鳥が無数の雨粒が落ちる池を泳ぎ――おそらくはエサを目当てに――2人の近くに集まってきた。

 ローズがその顔に手を近づけたが、なぜか「!」っと吠えて威嚇イカク。その意外すぎる白鳥の鳴き声に2人で大笑いした。


「ローズは本当に絵描きになろうとは思わないの?」

 ツバキがそう聞いた。

 彼女は笑って首を横に振った。

「まさか、どうやってお金を稼ぐのよ」

「じゃあ、そもそも、なぜ絵を描きたいんだい?」

 ローズは答えに詰まった。雨粒が無数の葉っぱから滴り落ちる大木の下、周囲の景色に目を細めて黙り込む。

 ツバキは、そんな彼女を見つめる。絵の具で描かれたような花模様の麻のワンピースが、池掘から吹く風に揺られていた。彼女自身も淡い水彩画の一片のようにハカナく一瞬の夢のように見える。


 フイに、シノブの顔が頭に浮かんだ。

 俺は今、彼女を裏切っている事になるんだろう……。

 だけど、聖人のように見えた彼女の親父さんでさえ、結婚前はフタマタをかけていたんだ。すばらしき大瀬家の面々と共に囲むあの食卓。そうあの場所さえ、聖域ではなかったんだ。シノブが言った通り、そんなのはこの世のどこにも存在しないのだ。


「私が絵を描くのは」

 ローズが言って微笑んだ。

「世界ともっとつながりたいからよ。絵を描くたびに、私の内面が世界に解き放たれ、そして世界の方から私のドアに入ってくるのが感じられるわ。とにかく、人や物事との深い交わりとか、ある一線を越えたつながりが欲しいの。それが私の絵を描く理由かな」


 ツバキはローズマリーの手を握った。

 彼女はマユをひそめる。大木の下、彼は1歩前に踏み出し、軽くハグした。彼女は、背をのけぞらせながらも受け入れた。その抱ようは、彼にとって完ぺきなフィット感をもたらした。

 それは、サーフィンでボードが完ぺきに波を捕らえた時の感覚を思い起こさせた。

 始まりにはいつもサインがあり、それを波の上で忍耐強く待ち、やってきたとたん絶妙なタイミングで乗っかるのだ。

 いつも勝負は一瞬で決まる。

 結果はシンプルだ。波に乗れるか海に沈むか、その2つのどちらかしかない。ツバキはローズを抱きしめた瞬間、波に乗れたと直感した。彼女の髪に顔をうずめると、雨にぬれたダーク・ブロンドが周囲の草花のように匂いたち、全身の隅々に染み込んだ。


「Just a little while」

 彼は言う。

「あと、ほんの少しだけ、こうしていたい」

 ローズは微笑み、顔を近づけた。彼は彼女を大木に押し当てて口づけた。その唇はシャーベットのように冷たく、カスタードクリームのように柔和だった。2回3回と繰り返す。彼女が息を切らしながら言う。

「ねぇ、ラベンダーの女の子は、どうするの?」

 ツバキがその答えに詰まっていると、奇妙な音がした。


               「グシュン」


 そばの池掘からだった。2人がそこを見ると、さっきと同じ白鳥がいて、いかにも寒そうにして首を大きく縦に揺すっていた。

 どうもそれは、さっきのような威嚇の鳴き声ではなく、ただのクシャミのようだった。2人は笑みを交わし、再び城中での雨のキスを楽しんだ。

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