4章:レンとランと花々の歴史

「レン、実は私、自分でもこうなる事が薄々分かってたんよ」

 そう女子は語る。

「ほんと、車で山道の急坂をビュンビュン下ってゆくような感じやったわ。だから、いつかガケに落ちちゃうかもって、ずっと前からそう思ってた」

 そう自殺未遂ジサツミスイ女子は語る。

「私、恋愛がダメダメなんよ。実際、今回みたいな事だって初めてやないし。男に夢中になると、どうしても一途になりすぎて…」

 そう自殺未遂女子こと、モエは語る。


 そこはモエの実家にある彼女の部屋、ミラノコレクションやパリ・オートクチュールのランウェイ・モデルたちが写ったポスターがあちこちに貼られた中、彼女はパジャマ姿でベッドに横たわっている。

 一方、レンはそばの椅子に座っていた。平日の午後、蓮は会社の昼休みを延長させてもらい、自分の車でお見舞いにやって来た。同僚であるモエの実家マンションは高松市内にある社の近所なので10分ほどで来れた。年はモエより蓮の方が3つ上、2人は社内でよくチームを組み、蓮の苗字は猪熊イノクマでモエは鹿野シカノだったため、まとめて『イノシカ』と呼ばれる事もあった。


 モエが自殺未遂を起こしたのは1週間前。実家マンションの屋上から飛び降り自殺を試みたが、そばにいた水道局員たちに取り押さえられた。それから両親の勧めで市内にある心療内科に入院してセラピーを受け、1週間後に自宅に戻ってきた。


「私が恋にハマる時は2パターンある。1つは何かから逃げてる時。もう1つは人生が絶好調な時。今回はこの2つ目のパターンなんよ」

 モエがそう言う。

 蓮は相槌アイヅチを打ちながら、そばの花に目を止める。

 ベッドのサイドテーブルの花瓶には、彼女がお見舞いに持ってきた芍薬シャクヤクの切花が生けられていた。旬を迎えた純白の花びらが大きく咲いているが、それを支える茎は驚くほどスリムで長い。

〝立てばシャクヤク〟

 そう、昔から美人に例えられる所以だと彼女は思う。にしても、その頭でっかちのフォルムは不思議だ。なぜあんなに細い茎が、あんなに華々しく咲き乱れる花を支えていられるのか。

 そう言えば、

 彼女は神戸での大学時代にミス大学の関西選抜にも選ばれた程の美人だが、つき合う男たちは見た目も内容も釣り合わないのばかり。一緒にいるのを何度か見かけた事があるが、まさに咲き誇る花女と頼りない茎男という絵だった。

 まったくあんなヒョロヒョロどもが、どうやってこれほどゴージャスな花に愛を注ぐことができ、そうしてここまでボロボロに枯らしてしまえるのだろうか。


「ほら、私、仕事が上手くいってた時あったやろ」

 ベッドに横たわったモエが言う。

「まんのう公園の家族向け企画が大成功した時。ああいう時って、気持ちに余裕が出来すぎて恋愛にハマりやすいんよ。それがいつのまにか重荷になっちゃって…」


 美人の上に愛嬌もあるモエには、社内にも大勢の親友がいた。しかし、この自殺未遂の一件が知れ渡るなり、誰もが態度を一変させた。普段は四六時中LINEしていた同僚たちでも、そっとしといた方がいいという合言葉の元で無視していた。

 蓮にはそれが体のいい言い訳にしか聞こえなかった。

 常識や日常の一線を越えてしまったモエに対し、誰もが恐れや差別感情を抱いているだけなのだ。つまりは、全てうわべだけの関係だったというワケだ。


 蓮は仕事づきあいしかなかったにも関わらず、傷心の後輩社員のために出来るだけの事はした。モエが心療内科に入院した後は、実家の両親をたずねて相談に乗り、さらには事情を聞くために元カレに会いに行きもした。経緯は単純で、彼が別の女を好きになりモエに打ち明けたが聞き入れず、最後は大ゲンカになってしまったというものだった。

 そうしてモエが退院した翌日、蓮はこうしてお見舞いにやって来たのだった。


「時間がたつと、本当バカらしく思える」

 ベッドのモエは、つかんだモコモコの毛布をきつくかんだ。

「何であんなダメ男のために、命まで投げ出そうとしたのか。全然そんなのに値しない奴だったのに。レンにまで迷惑かけちゃって」

 彼女はベッドから身を起こし、蓮に顔を近づける。

「レン、約束する。もう二度とあんな事しない。私も、もうすぐ30やもん。いつまでも、映画みたいな恋愛しててもしょうがないわ」

「でも」

 蓮は、そう言って彼女の目をまっすぐ見つめる。

「私はそういう気持ちも大切やと思う。結果、それが間違いやったとしても、自分の命をかけてまで誰かを愛せるなんて、すごくステキな事やん」

 モエは目を見開いて蓮を見た。

 まもなく天井から雨漏りしてきたのかと思うほど大量の涙で顔をぬらした。両目の端から端まで涙が伝い、大粒が次から次へと流れ落ちてきた。

 蓮は思う。

 ああ、たぶん私は急所を突いたんだろう。たった今、彼女が最も必要としていた言葉に限りなく近い言葉を口にしたのだろう。蓮は椅子から立ち上がってモエの頭を肩で抱いた。彼女は赤ちゃんのように溢れ出る感情のままにワンワンと泣いた。

 サイドテーブルの花瓶に生けられたシャクヤク。

 蓮はそれを見て微笑む。

 その幾つもの大きな花びらは、その生きた化身であるモエを元気づけようと、大きく口を開けて合唱しているみたいだった。





                  ✿




 高松市街地の一角にあるオフィスビル、周囲の商店街を一望できるその7階にイベント企画会社『XYZ』のオフィスがある。

 蓮が入ると、入口付近でコピーを取っていた女子スタッフが、「イノさん、モエ、どうでしたか?」と心配そうな顔つきをした。それに、蓮は「もう大丈夫だったよ」と明るく返した。


 彼女の登場でオフィス内の空気が変わった。デスクで仕事中の10数人の同僚たちの多くは少なからず動揺を見せる。眼鏡のブリッジを何度も押し上げたりPCマウスを神経質にスクロールさせたり荒々しく伝票をめくったりする。蓮はデスクの間を歩きながら、自然な素振りで同僚たちの仕事ぶりを見てゆく。彼女は、各々が何をしているのかを大体把握していて、彼らもそうである事を充分に承知していた。彼女は柔らかい口調で、何人かに確認や助言の声をかける。

「イノ、戻ったか。ちょっと入れ」

 社長の神埼カンザキだった。オフィスの中、透明なガラス張りの仕切りに囲まれた中に社長室があり、勤務中は常に半開きのそのドアの向こうから声がかかった。


 蓮が入るなり、大きな拍手が送られた。

「イノの一押しだった、あの直島の夏祭りイベントな。先方さんが乗り気になって、ゴーサインが出た。いや、よくやってくれたよ」

 満面の笑みでそう言った神崎に、蓮も笑顔を見せた。

 けれど内心は、第一声が、それかぁと思う。

 普通は、まずモエについて聞いてくる所だろう。何しろ部下の女子社員が自殺未遂を起こし、それを見舞ったばかりの社員を社長室に呼び寄せたのだ。

 神崎は、そんな蓮の思いに気づく素振りもしない。

「そんなワケで、お前にはミュージシャンのブッキングの件で、来週、神戸に行ってもらうぞ」

 神崎はデスクの中からファイルを取り出し、彼女に渡す関連書類の分別を始める。蓮はそばの来客用ソファに座って、それを待つ。

 この人は良くも悪くも、今自分の興味を惹くものにしか頭が回らない。それ以外の全てはスターウォーズみたいに遥か彼方の銀河で起こっている事なんだ。


 単純明快な性格を示すように、神崎は童顔だった。もうすぐ39歳になるが誰が見ても30そこそこに見える。そういった童顔オジサンは大抵ヒゲをはやすものだが、その顔はいつもツルツル。おまけにいつもスポーティーな短髪だった。

 20代の頃、名古屋でウェブデザインを手がけるネット・ビジネスを起業して一財を成した。それからITバブルが弾けるのを見越して故郷の高松に戻り、このイベント企画会社『XYZ』を立ち上げた。当初は10人足らずだったが、5年たった今では社員50人の中堅企業にまで成長。神埼は自ら、お祭り男を自称するほどパーティーや行事事に目がなく、企画会議ではいつも1番テンションが高い。


 そんな童顔オヤジが自らの社長デスクに何枚かの書類を集めて言う。

「直島の担当者や県のお偉いさんとかのコンプライアンスがこれだ。目ぇ通して、お前なりに企画詰めてってくれ。提出は来週の頭。いつものようにA4、1枚でな」

「A4、1枚」。

 それは神埼の哲学だった。

「あの『相対性理論』でも、アインシュタインならA4用紙、1枚にまとめられていただろう。それも子どもにでも分かるほどシンプルに仕上げられるハズだ。つまり、どんなに難解でユニークなアイデアでも、それが本当に価値のあるもので、かつ本当に頭のキレル人間が作ったものなら、それは子どもにでも分かるように、A4、1枚にまとめられるんだ」


 そんな口ぐせ通り、彼の会社運営もシンプルそのもの。ムダな儀礼やルールがなく、肝心な事さえできていれば後は何をやってもいい。神崎は冗談抜きで社内恋愛を奨励するとも常日頃から口にしていた。蓮もそういう社風が気に入り、草創期からこの5年、彼と共に歩んできた。

「そうそうイノ、あとアレな」

 神崎はゆかいそうに蓮を見る。

「フルーリー家だっけか。あの一件、県庁の広報に話が通ったぞ。何と、予算が降りるんだって」

「社長、です」

 彼は、そうそうと笑ってスポ刈り頭をポリポリとかいた。

 それは以前、彼女がフラウリー一家に申し出た企画だった。香川に滞在する彼らアメリカ人家族をリポートし、外国人観光客に向けたPRヴィデオを作る事だ。


「だけど、予算は超ギリだぞ。つまり、当人さんたちへの取材料だけだ」

 悲鳴を上げた部下を笑い、神崎は続ける。

「まぁ、何とかやれるだろ。お前にはそういう企画の経験もあるし。とりあえずは、ほぼイノの趣味の枠でやってくれ。だけど、メインは直島だからな。あと2~3、頭の痛い商談もあって、それも後日頼む事になるわ。しかし、気づけば、またお前頼りになっとるな。本当にスマン」

 彼はおどけた顔を見せ、アッラーに祈るイスラム教徒のように何度も頭を下げた。


                 *


 蓮は社長室から自分のデスクに戻った。机回りは綺麗に整頓されている。無数の付箋フセンがはさまれた資料や書類は、仕切り板やファイルボックスの中にピッタリ収まり、お気に入りの半球型台のヴィンテージMACパソコンは新品のようにピカピカ光っている。


 マウス片手に仕事を始めたが、先の神崎の言葉が引っかかって前に進まない。信頼されるのは嬉しいけど、それがだんだん重荷になっているように思う。

 彼女はスマホを取り出してメールを打ち始めた。

 相手はフラウリー家の主、オーキッド。PRヴィデオの企画が決定し取材料も出るので、今週末から仕事できないかと書いて送信した。そして、そもそも彼女がこの企画を思いついたのも、仕事場に息苦しさを感じるようになったからだ。


                 *


『XYZ』。この会社は資金面では神崎と長年のビジネスパートナーの2人が運営していたが実質的に舵取りをしてるのは蓮に違いなかった。5年前の草創期に財政難に陥った事がその発端となった。神崎は緊縮経営に傾き、リスクを避けて昔ながらの町おこしイベントにばかり力を注いだ。

 一方の蓮は〝そういう時こそ攻めに出る時だ〟と彼を奮い立たせた。彼女の推すイベントプランは良くも悪くも先を行きすぎ、勝率は2割にも満たなかった。

 だが、失敗しても次々と違う手を打つので停滞する事はなかった。神崎以下、ベテラン勢は、そんな彼女のカリスマ性に魅かれて動いた。外れた時の損失は大きかったが、その分、当たった時は全てを取り返す収益となった。そんな中、会社は危機を脱して一気に成長株となり、蓮は社長以下多くのスタッフから一目置かれる存在となった。


 以来、社内会議で蓮が発言すると、ほとんど反対意見が出なくなった。いくつか反論が出ても、多くの場合彼女からよりいい案を引き出すための策に過ぎなかった。

 そんな中で、彼女はだんだんとやる気を失い、仕事自体にも限界を感じ始めた。彼女は過去のキャリアに満足せず、より独創的なイベント企画に挑戦した。

 だが、そのたびに現実的制約が顔を出した。堅物のクライアントに悩まされたり、役所のコンプライアンスにぶつかったりした。いつしか職務の大半が同じような企画の立案や会計事務になった。それはとても退屈な時間だった。


     このまま、こんなやりがいのない仕事を続けてていいのだろうか?

        この1年、ずっとそんな疑いを抱き続けてきた。

 

 だが、それでも辞職する気はなかった。仕事に情熱を感じられなくなったとはいえ、当然、その情熱とやらが生活を支えているワケではない。

 情熱とは、家賃や光熱費や、はたまた彼女が大好きなこんにゃくゼリーの勘定を払ってくれるような、そんな類いのものではないのだ。


 そのうち蓮のスマホにメールが入った。

 オーキッドからの返信だった。

 彼は今偶然、会社の近所にある栗林リツリン公園にいるそうで、今そこでPRヴィデオの取材を受けてもいいという内容だった。

 蓮はデスクの書類を一気に片づけ、再びガラス張りの社長室に入った。

「めったにないチャンスですし、2時間で戻って来るので行っていいでしょうか?」

 そう言った彼女に、神崎は、そのアメリカ人の主人っていい男か?と聞いた。

「正直イケメン親父です」

 蓮はそう返して天井に目を泳がした。

「じゃあ、今日はこれで早退して良し。俺は社外恋愛も大いに奨励ショウレイしてるからな」





                  ✿




 蓮はオフィスビルの地下PAから車で出ると、栗林リツリン公園に向かった。そこは高松市街地の中央に位置し、会社から車で5分とかからない場所にあった。運転中、先にお見舞いに行ったモエの実家での事がぼんやりと思い出された。


「自分の命をかけてまで誰かを愛せるなんて、すごくステキな事じゃない」

 いくらモエを励ますためだったとは言え、と蓮は思う。

 よくそんなセリフが言えたもんだ。だけど、その言葉が全くのウソだったというワケでもない。彼女のように純粋に誰かを愛せる人にはとても憧れる。32年も生きてきて私はまだ誰も本当に愛した事がない。こころの底から誰かを好きになったことはない。

 高校時代には女子バスケ部のキャプテンとしてのメンツを保つため、発情したオスに過ぎなかったバレー部主将と暇つぶしでつき合っただけだった――なのに結局やらせてあげなかった。

          私だって誰かを本気で愛してみたい。


 彼女は混雑した真昼の市街地を運転しながら思う。だけど、愛も過ぎると地獄になる。戦争になる。恋も結婚も家族も、全ての終わりの原因はベッタリにある。

 距離が近くなりすぎると、誰もが次第にいがみあい破局を迎える。単純明快な真理だ。アメリカから日本に帰ってこの7年、私は恋人や親友を1人も作らなかった。その一方で増えてゆくものは、業績と信頼と預金残高だけだった。世間はきっと私の事を「人嫌いな仕事の鬼」と言うだろう。

 だけど、それは違う。、私は人と適度に距離を置き、愛というものにすがりつかないのだ。


 蓮は大きな交差点の赤信号で停まり、サイドブレーキを引く。ルームミラーを見た。

 そこには吊り上ったマユと吊り目が特徴的な――いかにもワガママそうな――女がいる。愛にすがりたくないなどと言いながら、実際、私は個性的な生き方をしているワケでもない。

 ただのOLだ。やっぱりある程度は人から愛されたい。世間とか幸福とか常識とかからそれてまで自分流を貫けはしない。

 だけど多分、そうできる個性派だけが本当の意味で愛にすがらずに、人生に生きがいを感じられるのだろう。でも、やっぱり私にはできない。

 だって生きがいとかヤリがいとかが、ガソリン代や保険料や月々のタンポン代を払ってくれるワケじゃない。そんなワケで、私は仕事が終われば自分の部屋に直行するしかないんだ。

 交差点の信号が変わり、蓮はサイドブレーキを引いた。そうして勢いよく発進する回りの車に一切動じず、省エネ・スロースタートでゆっくりとアクセルを踏み込んでいった。


                 *


 栗林リツリン公園に着くと、蓮は園内の駐車場に車を停め、さっそく東門から中に入った。メールを入れると、オーキッドはこの一大庭園の名所、掬月亭キクゲツテイの中にいると返信があった。


 5月の陽光の中、園の奥にそびえる紫雲山シウンザンは、鏡もちのように横長に堂々とそびえ立っている。

 平日とあって入園者の数は少なく、お年寄りや観光客の団体がちらほら見えるくらいだ。蓮は掬月亭のある左手に向かって歩く。北と南の湖がつながる水路の橋の下では、色とりどりのコイが泳いでいた。松林は風に気持ちよさそうに揺られ、時代劇で見るようなダンゴ屋の店先では、子供たちが長椅子に座って行儀よくアイスを食べていた。


 掬月亭キクゲツテイにつくと、蓮はさっそく入亭料を払って中に入った。四方八方に障子が開かれた和室の続き間の向こう、広大な南湖に向かって張り出した和室に彼はいた。

 1人、あぐらをかいて湖に見入っている。蓮は係員に名刺を見せて、県の広報取材のために中をヴィデオ撮影していいかと尋ねた。すると女将オカミらしい着物姿の女性が出てきて快くそれを承諾した。

 蓮は和室の続き間を進み、オーキッドの元に行った。彼女が声をかけると、顔を向け小さな笑みと共にうなずいた。

 ロナルド・レーガン風味の渋顔。白シャツに黒のスラックス、少し天パな長いグレイヘアの前髪には紺色のサングラスをかけていた。

「ちょっと座って、一緒にながめませんか?」

 その言葉に蓮はうなずき、隣に座布団を置いて正座した。

 彼のそばには望遠レンズつきの一眼レフや建築デザイン用と思われる様々な筆記具や書類などが置いてある。トレーシングペーパーのような半透明の紙には、掬月亭の俯瞰図フカンズがラフスケッチされていた。

 湖面には庭園の松林と遠くの市街地のビルが映りこみ、その上を色んな水鳥が行き交っていた。


「やはり、私にはここが1番だ」

 オーキッドが庭園を見つめたまま言う。

「世界的に広く評価されている日本庭園は、桂離宮カツラリキュウとか足立美術館だ。私も一度行ってみたが、どうもピンと来なかった。

 だけど、この栗林公園は気に入った。ここが、私には1番の日本庭園のように思えるよ。レンがこの街の住人だから言ってるんじゃない。私が最も心魅かれる点は、この公園が完ぺきではない所だ。

 植木には古い枝が見られるし地面には落ち葉も多いし、何10年も放置したような小さな滝や池もある。全般的にも周囲の山林と境なく混じり合っているため、1つの庭園としてのまとまりがない。

 だけど、私にはこれこそが完成なんだ。真の美とは創造と荒廃の間で危うく息づいているものなんだ。それは人間にも言える。どんな偉人でも欠点がなければ魅力は薄れる。それは中身のない人形のようなものだ」


                  *


 2人は茶室に入り縁側に並んで腰かけた。目の前には、栗林公園全体のミニチュア版のような庭がある。大半の枝がYの字に美しく統一された松の木や盆栽があり、囲碁のような無数の丸石の上に丸い敷石がくの字に並んでいる。

 蓮はオーキッドに、取材が県から認可され取材料が降りた事を伝えた。それは決して多くない額だったが、彼は喜び「それだけのペイに見合う仕事をしなきゃね」と笑った。


 蓮はカメラを回した――とはいえ、取材費ゼロなので自前のハンディカムなのだが。出されたお菓子、和室に庭園、目の前の南湖などを撮った後、オーキッドにレンズを向けた。何度かNGがありながらも、彼は上手く応答した。

 職業は建築家、ジャポニズム建築を学ぶため、アメリカのユタ州から娘2人と一緒に来た。香川を選んだのは瀬戸内芸術祭や栗林公園に興味があったから。

 そして、この掬月亭も大いに気に入ったと言う。

 中央の畳部屋に入ると360度開け放たれた障子戸から周囲の庭園が見渡せ、それは外を歩いている時に見る庭園とは全くの別物に見える。

 このように本当に優れた建築物は、屋内からの眺めによって周囲の景観を一変させる。それは大抵、建築家が意図したものではなく、建築という創造行為に伴う魔法のようなものだ。

 熱くそう語った後、オーキッドは――おそらくPRヴィデオ風にしようと考えておいた――締めくくりの言葉を日本語で口にした。


           「だから、カガワが、スキです」


                 *


 取材後も、2人は掬月亭の茶室で話した。他の入園者と共に縁側に腰掛け、庭園や南湖をながめながら話に花を咲かせた。

「レンは、すごい冒険家だね」

 フイに、オーキッドがそう言った。

「キミは、UCLAに留学してロサンゼルスで就職したんだよね」

「ええ、でもLAには結局5~6年くらいしかいなかったんだけどね」

「それは一体なぜなんだい?」

 蓮はため息をついて顔をうつむけた。

「Oops, Sorry」

 オーキッドが頭に両手を置く。

「話が行き過ぎてしまったようだ。君の人生最大のミステリーなのかも知れないのに」

 彼は眠そうな目つきでニヤリとした。


 蓮には、それがセクシーに見える。彼の物腰や口調には独特のゆったり感があり、それが刻々と時を刻み続ける現実の中で妙に浮いて見える。そのせいで、ずっと話していても中々噛み合った感じがせず、時には彼が独り言を言ってるだけのようにも見える。人やものに接しているようで、心の芯では何にも触れていない。いわゆる中年の危機を迎えたようなウレいがあり、そこがなぜかとてもセクシーに感じられた。


「ううん、いいのよ」

 蓮は彼に笑いかける。

「私の経歴を知れば、遅かれ早かれ誰もが聞く事だから。ちょっと長い話になるかも知れないけど、その理由を知りたい?」

 オーキッドは抹茶マッチャをすすって、「時間はたっぷりあるよ」と微笑んだ。

「OK、じゃ始めると、アメリカでも地方出身の若者はLAやNYに憧れるものでしょ。私もそうで、最初は東京に目が向いた。だから、東京の大学をパスした時はすごく嬉しかった。東京に行けば何もかもが変わるんだってすごくワクワクしてた」

「だけど、何も変わらなかった」

 オーキッドは眠そうな目つきでそう口を挟む。

「そう、何も変わらなかった」

 蓮は1つ息をついて、湖の水面をじっと見つめる。


「東京で1年過ごしただけで熱も冷めちゃった。日本には集団的なプレッシャーとでも言えるものがあってね。ああしろ、こうしろっていう指図、親や教師、あるいは社会自体からの見えない力のようなものがあってさ。それは都会であればあるほど一層強まるものなの。田舎出の私にはそれが耐えられなかった。その上、大学や街中で見る人たちの大半が、そういうプレッシャーに飲み込まれて、誰かを演じているようにしか見えなくなってきてね。で、私、何のために生きてんだろうって考え始めて。


 ハタチの時だった。私、東京の大学を休学して、親にムリ言ってお金借りてUCLA留学の旅に出たの。アメリカに行けば変わるんじゃないかって思えて。

 単純だったけど決断は正解だった。実際、LAはバラ色の世界だった。暮らしてみれば、まさにそこは自由の国。世界中の国から来た人たちの個性がぶつかり合い、混ざり合っていた。私もその空気にすぐに馴染んだわ。


 UCLAではジャーナリズムを専攻して、結局東京の大学は中退してそこを卒業したの。その後は、就労ビザを取って市内の会社に勤めた。政治的な風刺が売りのカッティングエッジな雑誌出版社だったわ」

 蓮はそこでため息をついて、オーキッドに流し目を送った。

「だけど、それから3年後、今度は別のプレッシャーが待っていたの」

 縁側の座布団にあぐらをかい彼は、眠そうな目つきで次の言葉を待つ。


「それは1人で自由に生きる事へのプレッシャー。たぶんそんな感じのもの。いつか、私、仕事疲れからオフィスで倒れてしまってね。同僚が呼んでくれた救急車でイングルウッドの病院に運ばれて、3日間入院したの。で、退院する前にレセプションでレシートをもらったんだけどね。費用が2千ドルだったの。

 ビックリしたわ。また倒れて入院するくらい驚いちゃった。勤め先は大手企業で雇用者は皆んなAランクの医療保険に守られていたんだけど、移民の私は適用外だったの。まさに自由に伴う責任ってやつね。そこで、気持ちが切れたのを覚えてるわ。それまでも仕事でそういうような差別的な苦難が積み重なってたし。

 この世には楽園はないんだな。

 そんな当たり前の事に気づかされたわ。

 つまり、日本にもアメリカにも種類こそ違うけどほとんど同じ高さのハードルがあったのよ。そしてそれはきっと世界中どこに行っても変わらない。そう思えるようになってね。だったら、住み慣れた故郷で生きるのがベストな道なんじゃないかって、それでここに戻ってきたの」


 蓮はあずき入りの抹茶菓子をかじって、頭をひねる。

「でもね。結局、私は負け犬なのよ。私はいつも自分の夢を追いきれていないの。アメリカではタフになりきれなかったし、日本では……」

 そこで彼女はハっとなった。

 私、何、ベラベラとディープな自分語りをかましてんだろう。

 相手がセクシーな外国人だからか、または英会話が解放的な空気を生み出したからか。何にしても、こんな事は親兄弟にさえ話した事がないし、自分の心の中でさえ整理し切れていないものなのに…。

「レン、実は私もルーザーだ」

 オーキッドがそう言った。

 蓮はマユを寄せて、彼の薄茶色――ヘイゼル色――の目をのぞきこむ。

「2年前、私は建築家の職を失った。住宅バブルが弾けてソルトレイクの建築事務所が破産し、そこから追い出されたんだ」

 彼は自嘲し、両手でグレイヘアをかきあげる。


「以来、まだ再就職できていない。実際、それはとてもタフな事だ。資本主義の聖地のようなアメリカで職を持たないでいるという事はね。

 まるで生きながら存在していないようなものなんだ。妻や子供たちでさえ非難の声をあげ、やがては関心をもなくしてしまう。それによって私のプライドは日々、削られていった。生きているだけで恥ずかしくなるような、そんな気持ちになる事もあった…」

 彼は深くうなだれて頭を揺さぶった。


         「そして、ちょうどそんな時、私は妻を失った」


                  *


 夕方、2人は栗林公園の松林の間をぬい、出口となる東門に向かった。

 先の話の後、オーキッドは重い身の上話を聞かせた事を謝り、それからはつとめてユーモラスに振舞った。蓮も気を使って平静に振舞っていたが、やはり心の内はあの告白の影に覆われていた。


               失業と妻の死。


 おそらく彼が日本に来たのは建築の勉強のためではなく、第一に心機一転を図るためだったのではないか。

 それにしても、と彼女は思う。

 あの告白は出会ったばかりの他人に話すような内容ではない。いくら異国で外国人相手とはいえ唐突すぎる。確かに私の方が先に思い切った告白をしたが、その重みは全然違う。一体なぜ彼はそうしたのか。そこにはそれ相応の理由があるんじゃないか。

 もしかすれば彼は…。

 蓮は唇に手を当て、夕暮れ時の松林に伸びた自らの長い影に視線を落とす。


        、重い身の上話をしたんじゃないか。


 いやいや、そんなバカな。何て自意識過剰でうぬぼれた……。

「見てくれ、私の花だ」

 オーキッドがフイにそう言った。

 公園の出口、東門付近の植え込みに多くのランの花が植えられてあった。大半が満開で、紫色の花びらが気持ちよさそうに風に揺れていた。

「ところで、オーキッドの日本名は何なんだい?」

 蓮が「It's RAN」と返すと、彼は「OH」と無邪気に笑った。

「じゃあ、日本では君がレンで私がランになるね」

 それに彼女は笑い、「Ren and Ran」と大きな声で言った。


 同時に、彼女はあの時を思い出した。

 フラウリー家に出会った日の別れ際、蓮が、自分の名が英語でロータス・フラワー(ハスの花)だと教えると、一家3人そろってボーゼンと立ち尽くした。特にオーキッドはひどく驚いた様子だった。

 あれは一体どういうワケなんだろうか。

 だが蓮はそれを彼に聞いてみたいとは思わなかった。ただでさえ、あんなに重い告白を聞いたばかりであり、もうこれ以上深入りはしたくはなかった。


「Ren and Ran」

 オーキッドが群生する蘭の前で立ち止まって言う。

「この2種は花の歴史そのものなんだよ。地質学的な調査の結果、花の歴史的な起源はスイレン科の花である事が判明しているんだ。

 つまり、睡蓮こそ世界中のあらゆる花の生みの親であり、レンが意味するハスもまたその一種だ。

 一方、遺伝子学的な調査の結果、蘭は花の歴史の最先端、最新の部類だと言われている。つまり、最も進化した複雑なDNAを持っている花なんだそうだ」

 オーキッドは例の眠そうな目つきで笑い、目の前の蘭の花を指差す。

「よく見てごらん。この蘭の花びらは虫に見えないかい?」

 蓮はそれに目を凝らした。

 紫色の花びらの中に受粉管のような白い突起と色鮮やかな小さな花びらがあり、その様は標本にされた南国の熱帯雨林に舞うチョウを思わせた。

「これは意図的に虫にカムフラージュしているんだ」

 彼が言う。

「それも大半はメスのように化けてオスを誘惑する。行動力のあるオスに花粉をこすりつけた方がより広範囲に花粉が運ばれて、より多くの花に受粉できるからね。

 もし、この蘭が何10年とここで咲いているのなら、周辺にこの花びらに似た羽虫が生息しているハズだよ。そうであればおそらく、この蘭はその虫と花粉宅配の独占契約を交わしている事だろう。

 蘭は気高いエリートだから優秀な虫を選別し、他の虫を排除する。自らが置かれた環境を長年に渡って観察し、最も効率的に受粉と繁殖ハンショクができる戦略を練り上げる。蘭とはそういう花なんだよ。

 DNAが進化すると花でも意識を持つんじゃないだろうか。それは思考しイメージし、そして何千年、何万年と生き抜く。そして、花というものはもちろん人類よりも遥かに長い歴史を持っているんだ」


「すごい、私、そんなこと全然知らなかった」

 蓮がそう目を輝かせる。

「じゃあ、私たち2人は人類史よりも長い花の歴史を代表してるのね。私がゴッドマザーでアナタがパイオニアじゃない」

「その通り、レン&ラン、君がクイーンで私がキングだ」

 群生する蘭を前に、2人はハイタッチを交わし、夕空に響き渡るほどの笑い声を上げた。蓮の胸はすっきり晴れた。それまで暗く沈んでいた心が一気に吹き飛んだようだった。


 おまけにもう1つ、ユカイな事が待っていた。駐車場の料金所に行くと、係のおじさんが園内に長居した事に感心し、蓮の車の駐車代を大幅に負けてくれたのだ。彼女がオーキッドにそれを教えると、彼は料金所の窓口に顔を寄せて無邪気にこう言った。


           「だから、カガワが、スキです」

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