ジャガー目撃譚
話はこの、しなやかなメスのジャガーを見ただけでは終わらなかった。まだ続きがあるのだ。
メスのジャガーを見事に映像で捉えた後も、私たちはマヌー国立公園の取材を続けた。何しろ世界遺産の取材を始めてからというもの、現場では休んだことはない。腐っても世界遺産である。目をよくこらして見れば、撮るものはいくらでもあるのだ。取材日数はいつも圧倒的に足りない。そもそもいいディレクターやカメラマンという輩は、いつまでも撮影を続けていたいという性質を持つものなのだ。
確かあれは、三日月湖を撮りに出かけた帰り道のことだったと思う。その日の撮影ノルマを終え、我々の頭の中は恒例のビールタイムでいっぱいになっていた。
その時、それまで静かにしていたツアーガイドのカルロスが叫んだのである。
「ハグアール!(ジャガーだ)」
「え? どこよ。どこどこ?」
小舟の中はたちまちパニック状態となった。カメラマンのヤブキと撮影助手のキタガワが、慌ててHDカムを望遠レンズ仕様にセッティングを代え始める。ふだんHDカムには標準ズームレンズが装着されている。その方が様々な状況にすぐ対応し易いからだ。しかし、ことジャガーとなれば話は別だ。きっとそんな近くにはいないだろうという先入観がある。標準レンズから望遠レンズへの交換は、五分ほど時間を要する。この五分がもどかしい。動物や鳥ならばはるか遠くへ逃げ去ってしまう時間だ。事実、そういう経験は山ほどある。
「ちょっと待った!」しかし私は、撮影部の動きに待ったをかけた。
ジャガーはそこにいたのである。我々のすぐ目の前に。距離にして二メートルほど離れた川岸にいた。今度は大きなオスだった。ちょうどアフリカのサバンナで見かける雄ライオンぐらいの大きさである。悠然と、のそりのそりとジャングルの藪の中を歩いていた。
「よしキタザワ、回せ!」といいながらカメラマンのヤブキはHDカムを肩に担ぐ。ようやく状況を把握したのだ。ヤブキが担いだカメラにキタザワは外部モニターのケーブルをつなぎ、カメラのRecボタンを素早く押した。
「回ってます!」カメラ後部の赤いタリーランプが点滅するのを確認して、キタザワがヤブキに声をかけた。ヤブキは無言で頷いた。もう撮影に集中している。目の前のジャガーに。
ジャガーはといえば、まるで私たちの存在を無視するかのように川岸の縁を悠々と歩いていく。
「神サマ……」私の横で呟いたのはコーディネータのエミリオであった。そうなのだ。またしても軌跡のような光景が私たちの目の前で展開されているのである。
私はモニターを見るのも忘れて目の前の大きなジャガーに見入った。こういう時カメラマンはかわいそうだ。ファインダーを通してしか、奇跡の瞬間を見ていないからである。奇跡は肉眼で見てこそナンボのものなのだ、ホント。
やがてジャガーは川岸の縁ぎりぎりまで姿を現すと、のっそりとその場に寝そべった。腹ばいになり、じっとこっちを見つめている。特に私たちを警戒している様子もなかった。
船頭は心得たもので、既に船のエンジンを切っていた。船は流される。
「近づいて。大丈夫そうだから」舳先でカメラを構えるヤブキが後ろの私たちに声をかける。
「大丈夫ですかね」とコーディネータのエミリオがいちおう私に伺いをたて、私は頷いた。
「ワイドレンズで被写体にできるだけ接近すること。それがいい写真を撮るこつである」と言ったのはロバート・キャパだったか。そんなことを思い出していた。
ジャガーはしばらくそのまま動かなかった。西日をまともに顔に浴び、まぶしそうに目を細めていた。私たちは流されては接近を繰り返し、ぞんぶんにジャガーを映像におさめた。
五分ほど経過しただろうか。ふいにジャガーはのっそりと立ち上がると、ゆっくりと体をジャングルの方へ翻した。まるで、「ハイ私の出番は終わりましたよ」とでも告げるかのように。そしてゆっくりとジャングルの中へ歩み去った。
私たちは彼の姿が完全に見えなくなるまで、VTRを回し続けた。
「ミカミさんはほんとうに運がいいね」私の横でジャングルに消えて行くジャガーを見送っていたエミリオが呟いた。
「またやっちゃいましたね」ようやくカメラのファインダーから目を離したヤブキが言った。
宿に帰ってVTRを確認してみると、ジャガーは前肢に傷を負っていた。重傷ではなかったが、おそらくできてそれほど時間がたっていないだろうと思われる、生々しい傷だった。
おそらくあのジャガーは川に水を飲みに来たのでしょう、というのがツアーガイドカルロスの見解だった。
「じゃあ俺たちは彼の邪魔をしちゃったかな。悪いことをしたな」私は言った。
私たちはビールを飲んでいた。冷蔵庫がないので、川の水に漬けておいたビールである。ほどほどに、生ぬるい。その日はなぜか、最初にメスジャガーを映像に捉えた時ほどの興奮はなく、私たちはバカ騒ぎをしなかった。決して二回目だから慣れたという訳ではない。興奮と感動が大きすぎたのだと思う。魂が抜かれたというか、そういう貴重な体験だったのだ。
「いやーミカミさんは運がいい。本当に運がいいですよ」ビールの酔いが回ってきたらしいコーディネータのエミリオが昼間の言葉をくり返す。一日に何回も同じことを言われていると、(ひょっとして本当にそうなのかな)という気もしてくる。その時私は思い出した。番組の制作プロデューサーであるオオタが酒の席でふと漏らした一言を。
「この番組は、腕はともかく、運のいいディレクターだけを集めたんだよ」
そのことを隣で飲んでいたカメラマンのヤブキに言うと、
「そうですねー、一週間で二回も天然のジャガーに当たるディレクターはちょっといないでしょうねー。おかげでボクもこれからラッキーなカメラマンと名乗れそうですよ」
とのんびりとした口調で答えたのである。
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