神の母の贈り物
私たちは興奮していた。と、同時に大いなる満足感も味わっていた。何しろ、ペルーを代表する世界自然遺産のひとつ、マヌー国立公園でジャガーの撮影に二度も成功したのだから。
その上、撮影を予定してたその他の部分、「土を食うインコ」や「三日月湖のオオカワウソ」、「白いワニと黒いワニ」、「森に生きる民マチゲンカ」などすべてが撮れていた。まるで嘘のように。ここまで順調に、予定通りに撮影が進むことは珍しい。特に自然遺産の場合は。
こうなると、私たちの使命は、その映像を記録した貴重な「撮影済」を無事日本に持ち帰ることである。
「撮影済」とはギョーカイ用語だ。フィルムで撮影していた時代から受け継がれてきた言葉である。発祥はおそらく映画の世界だろう。
この「撮影済」に関しては様々な伝説がある。真相は知りようがない、いわゆる都市伝説のようなものだ。主役はAD、つまりアシスタントディレクター。現場ではいちばんの年少で、いちばんこき使われ、いちばん疲労している立場の人である。そのADが「撮影済」を紛失してそのまま失踪した、という類の話だ。命より重い「撮影済」を。
つまり、「撮影済」には制作費のすべてが注ぎ込まれている訳だし、俳優の二度とできない演技や、再び現れることはないだろうという自然現象、或いは奇跡と呼んでいいような邂逅(たとえば私たちのマヌーに於けるジャガー目撃譚)などが入っていて、それがもし失われることになればそういう貴重な財産のすべてが失われることになる訳だ。
ADが電車の網棚に置き忘れる、或いはタクシーの後部座席に置き忘れる、という話のパターンもあった。もしくは居酒屋に置き忘れるとか。いずれの話も最後は当事者の失踪で終わる。
そういう話を、私たちはグリーンボーイの時代から頭にたたき込まれている訳だ。即ち、なにがあっても「撮影済」だけはなくすなよ、と。撮影機材が失われてもいい。スタッフだって死んでもいい。しかし「撮影済」だけはなくしてはならぬ。それほど大切なものなのだから、とにかく死守せよ。命に代えても守れ。これがギョーカイの不文律であり、私たちの頭に、いや身体の中にすり込まれているといっていい。
さて。マヌー国立公園の撮影を終えた私たちの手の中には「お宝」があった。例の、奇跡的なジャガーとの邂逅を記録したビデオテープ。私たちの使命の中に、「このビデオテープをぶじ日本に持ち帰ること」が加わっていた。日本を出る前、それは定価五千円にも満たないプラスチックのケースに収められた磁気テープだった。しかし、ジャガーを撮った後ともなれば、その価値は計り知れないものとなっている。
私たちはこのビデオテープを、ビニール袋で何重にも包み、それをジュラルミンのケースにしまって運搬していた。川に流されてもしばらくの間は水が浸透しないぐらいに厳重に密封して。ジュラルミンケースの蓋と収納部分の合わせ目には、何重にもガムテープを巻いてある。
この厳重な運搬方法には理由があった。それは、同じ番組の別班が経験したある事故から学んだ教訓だった。北アフリカ、アルジェリアの複合遺産、タッシリナジェール。複合遺産とは、自然遺産と文化遺産、両方の要素をあわせ持つ世界遺産だ。つまり、自然も素晴らしければそこに残された遺跡も素晴らしい場所ということである。ペルーのマチュピチュなども複合遺産だ。
タッシリナジェールは、遙か岩砂漠の彼方の渓谷に太古の人類が残した岩絵がおびただしい数残されているという場所である。
ここにクサノというディレクターがロケをした。美的感覚にすぐれたディレクターで、美大や芸大を出たわけでもないのにやたら美しい映像を撮ってくる男だった。ディレクターというものは百者百様で、たとえ同じ世界遺産を撮影したとしても人によってまったくそのサイトの印象は変わってしまう。いつもはフィレンツェやシェーンブルーン宮殿など美的に壮麗な世界を得意としていたクサノだったが、プロデューサーの(あいつに複合遺産を撮らせたらどうなるか)という思いつきでタッシリナジェールに派遣されたのである。
アルジェリアはかつて、「ここは地の果てアルジェリア」と歌われたこともある本当に人が行くのが難しい所で(人が行けないから貴重な遺跡が破壊されずに残されたともいえるのだが)、クサノが率いる撮影隊はロバで一週間もかけてロケ地にようやく辿り着いたという。
そして、深い渓谷の下にあるホテルに宿をとった。渓谷というのは、川が削り取った跡である。グランドキャニオンのように現在も渓谷の底を川が流れている所もある。しかしその渓谷の川はとっくの昔に枯れていた。もう長い間、それも記憶にないほど長い間水が流れたことがなかったのだ。そしてホテルができた。交通の便がよかった上、深い渓谷が日陰をつくり、岩砂漠地帯でもすごしやすい環境ができあがっていたのだ。
秘境国アルジェリアの、そのまた奥の渓谷である。周りには何もない。バーもなければパチンコ屋も立ち食いそば屋もラーメン屋もないのである。ただ、遙か見上げる渓谷の崖の上に、一軒だけなぜかカフェがあるのをクサノディレクターは目撃していた。
私たちの撮影隊はおしなべてストイックだ。ロケに出たらくる日もくる日も撮影、それしか考えないのである。私などはカメラマンに「意識があるうちはカメラを回してくれ」と言ってあったほどだ。休日はない。休暇タイムも基本的にはなし。あえていうなら移動時間がそれにあたるか。番組では五名のディレクターが腕を競っていた。口には出さねど誰もが他のディレクターに負けたくないと思っていた。プロデューサーが、わざわざそういう負けず嫌いの男たち(当時はディレクター全員が男だった)を選別してきたのかもしれない、そういう計算の上で。競わせて番組のクォリティを上げるために。今思えばプロデューサーはそれぐらいのことはやりかねない人だった。しかし、後で聞いたら、「運がいいディレクターだけを集めたんだよ」ということだった。
この、ストイックな撮影の日々の中で、唯一の楽しみが食事である。
(今日の夜は何を食おうか)
みんなそのことだけを頼りに朝はまだ暗いうちから起き出し、夜はたいてい太陽が完全に沈んで暗くなるまで働き続ける。美しい夜明けと夕焼けは番組に必須のアイテムである。
食事の楽しみ、これが選択の余地がある土地だったらスタッフは幸福である。イタリアン、フレンチ、スパニッシュに中華料理、時には日本料理。町があって、そういう多様なレストランがある土地での撮影は最高だ。しかし不幸なことに、そういう恵まれた環境下での撮影はきわめて少ない。だいたいが「え、こんな所?」と目が飛び出るような秘境である。めしを選ぶ余裕などある筈がないような。レストランや食堂など、一軒あれば幸せな方だ。
それが、タッシリナジェールにはひとつだけ選択の余地があったのだ。崖の上のカフェ。しかし、そこにたどり着くにはちょっとしたトレッキングが必要である。いやトレッキングというよりも、軽めの登山といった方がいいかもしれない。連日、砂漠の中で朝から晩までの撮影をこなしヘトヘトになっているスタッフには、とても崖の上までめしを食いに行く気力は湧いてこなかったのである。連日、宿泊している渓谷下のレストランで我慢していた。
しかし、ある日遂に限界がきた。すっかりホテルのめしに飽きてしまったのだ。みんなが。当然、唯一の楽しみがそんな状況では士気も下がる。ディレクターのクサノは決断した。
「よし、せめて今日のランチはあの崖の上のカフェで食べよう!」と力強く宣言したのだ。当の本人が、ホテルのめしにすっかり飽きていたという裏事情もあったというが。
スタッフは驚喜した。皆で、必要最小限の機材を手分けして持ち、崖の上のカフェまでトレッキングである。めしを食いに、崖を登る。遙か彼方に見える崖の上のカフェを目指して。しかしそれもまったく苦にならなかったという。
そして崖の上での食事中、渓谷のホテルを鉄砲水が襲ったのである。建物ごと、すべてが流された。原因は、三日ほど前に遙か上流の山で降った集中豪雨だという。岩砂漠では、たとえ何百年もそういう事が起こっていなくても、こうした災害は起こり得るのだ。
大惨事だった。ホテルに残っていた人たち、ホテルの従業員も流されて皆死んだ。奇跡的に我らが番組の撮影班だけが、崖の上でめしを食っていたおかげで助かったのだ。それは本当に運がいいというか、全くの奇跡なのだが、ひとつ問題があった。それも大問題である。「撮影済」が流されてしまったのだ。
鉄砲水で「撮影済」がホテルごと流される。まさか、そんな事が起こるとは予想だにしていないから、ホテルの部屋にそのまま置いて出かけという。ただ、その時のVE、ビデオエンジニアが几帳面でスクエアな性格であったが故に、撮影済みのビデオテープは厳重にビニール袋でパッキングして、ジュラルミンのケースにしまい込み、固く封をしてあった。
そして水が引いてからホテルの瓦礫を捜索すると、これもまた奇跡的なことに「撮影済」の入ったジュラルミンケースは発見されたのである。
撮影は一旦中止となった。その日までで、予定の八割は撮れていたという。スタッフはジュラルミンケースの表面の泥を拭い、祈るような気持ちで開封してみた。中にはそれほど水が浸入してないように見えた。しかし、ビニール袋からビデオテープを取り出すことはせず、そのまま日本に持ち帰った。そしてそのままメーカーに送った。下手に素人(といってももちろんプロの端くれではあるが)が手を出して取り返しのつかないことになるよりは、最初からプロのクリーニング技術にまかせた方がいいとの判断だった。
その判断は正しかった。撮影済のビデオテープは、確かに端、アタマの部分は水と泥の侵入で使い物にならなかったが、残りの八から九割は再生できたのだ。結果タッシリナジェールの回はなんとか無事放送されることになっった。持ち帰ったビデオテープの素材を基にして。再撮のため再びアルジェリアを訪れることもなく。
この時のクサノチームの経験を、その後番組スタッフは全員で共有することになった。従って私が担当ディレクターとなったマヌー国立公園の撮影済テープも、この「タッシリナジェール様式」で何重ものビニール袋で厳重にパッキングされ、ジュラルミンケースに入れて持ち帰ることになっていた。
話はマヌー国立公園に戻る。私たちは浮かれていた。撮影があまりにもうまくいったからである。ジャガーも二頭きっちり撮れていた。その上、帰路は飛行機を使う予定だった。マヌーのジャングルからかつてのインカの都クスコまでセスナでひとっ飛びである。すると一時間足らずで着いてしまうのだ。そしてクスコでリマ行きの大型ジェット機に乗り継ぎ、その後ブラジルのアマゾンに向かう予定となっていた。そのスケジュールが、何の問題もなくそのまま進んでいくだろうとスタッフ全員が一点の曇りもなく信じていた。あまりにもうまく進んだロケだったから。
しかし、私たちは忘れていた。自分たちがアマゾンの源流にいるということを。アマゾン川が生まれる所、そしてそこは人間の力や思惑が遠く及ばない場所にいるということを。
思えば、ジャガーの撮影が二回うまくいったからといって、それは私たちがたまたまその時刻、そのポイントに居合わせた、ピンポイントではまったからにすぎない。宇宙船の打ち上げのように、事前から綿密な計画をたててその通りに進んだというのとは大違いだ。いわば神の意志、運命の気まぐれといっていいものであった。
不吉な一報は、無線連絡によってもたらされた。
「ミカミさん大変です。セスナが来ません」とコーディネータのエミリオが、私のコテージに駆け込んできたのである。私は既に荷物のパッキングも終え、ベッドに寝っ転がりまどろんでいたところだった。
「え、どうして?」安らかな眠りから引き戻され、私は寝ぼけ眼でエミリオに尋ねた。この時危機感はまだまったくない。窓から見える空は爽やかに晴れ渡り、風すら吹いていなかった。どう見ても飛行機の運航に影響がある天候とは思えなかった。だから私は、南米によくある機体の整備不良とか、パイロットが寝坊したとか女と逃げたとか、そういう人為的なものが原因だろうと咄嗟に思ったのである。それだったら半日ぐらいの遅れでなんとかなるだろう、とも。半日遅れたところで、飛んでしまえば一時間だ。クスコからリマへのフライトには十分間に合う。それぐらいの余裕はみてスケジュールは組んである。ゆるいスケジュールである筈だった。
「どうせエンジンの調子が悪いとか、パイロットが飛行場に来ないとか、そんな感じでしょ?」私はいつも冗談をいい合うような調子でエミリオにいった。
「いえところがそうじゃないんです」悲しげな目で私の顔をしばし見つめると、ベテランの陽気で楽天的なコーディネータが上空を見上げた。「アンデスの天気がよくないみたいです。気流が悪く、飛行機が飛んでこれません、といってました」
「え、こんなに天気いいのに」私も思わず空を見上げた。穏やかである。「山の方の天気は荒れてるってこと?」
私たちがセスナが来るのを待っている場所、マヌー国立公園とかつてのインカの都クスコの間にはアンデス山脈がでんと横たわっている。海抜五千メートル級の山々が連なっているのだ。当然山の天気だから不安定で上空は気流も悪い。飛行機も来たり来なかったりということは聞いていた。しかし私たちには根拠のない自信があった。あまりにも撮影がうまく運びすぎた故に生まれた慢心である。飛行機は来ると信じていた。
「だいじょうぶ、セスナは来るって」私はコテージから外に出て、空を見上げてみた。アンデスの上空が荒れ狂っているとはとうてい思えないような、平和が青空が広がっていた。
山から私たちのいるジャングルまではものすごい距離がある。タッシリナジェールの鉄砲水に襲われた渓谷と集中豪雨があった上流の山岳地帯と同じぐらいの。つまり、上の方でかなりの荒れた気候の異変があっても、そらが下の方に伝わるのにかなりのタイムラグがあるのだ。危機が迫っているという意識がなかなか持ちにくい。
「ちょっと待つことにしようよ」私は後ろに控えるコーディネータのエミリオにいった。もう撮影すべきものはあらかた撮ってしまっていたし、機材は空輸に備えてがっちりと梱包されていた。その上持ってきた二百五十本のビールも飲み尽くしてしまっている。これについてはペルー人のガイドも驚いていた。日本人恐るべし、と思ったようである。クスコから缶ビールを二百五十本、車と船でえっちらおっちらマヌーのジャングルまで運び、すっかり飲み尽くすとは。当然空き缶は持ち帰る。何しろ世界遺産の自然公園である。写真と足跡以外残してはいけないのだ。もっとも缶ビールの中身は飲み干してあるから帰りの重量はずいぶんと軽くなってはいたのだが。
それにしてもすることがなかった。手も足も出ないとはこのことだ。ひたすらアンデス上空の天候が回復することを願い、待つしかないのである。
しかし、待ってられない性格の持ち主がだいたいこの職業に就いている。かくいう私もその一人だ。マヌー国立公園の青空の下でボーッと待つこと一時間。突然私は、(こんなことをしている場合じゃないかもしれない)という気持ちになっていた。セスナが来ない場合どうするか。備えておこうと突然思ったのである。私はエミリオに船の手配を頼み、船着き場がある中継地の町まで迎えの車を呼ぶように頼んだ。
「もし、セスナが来てそれで帰ることになってもスタンバイの費用は払うから」といって。
その日遂にセスナは来なかった。私たちは急遽、あと一泊、その日の夜をマヌーで過ごすことになった。ただしもうコテージはチェックアウトしているので宿がない。仕方なく、コテージの敷地の中で、ガイドが用意してくれたテントで寝ることになった。同じ敷地に泊まった、修学旅行らしいイギリス人ハイスクールの団体が騒がしく、よく眠れなかった。それにしてもマヌー国立公園に修学旅行とは。うらやましいような、うらやましくないような。
翌日の朝になってもセスナは来なかった。クスコからリマ行きの便に乗るには、クスコの空港に午後三時ぐらいには着いていたいところだ。
(川を下って三時間、それから陸路が確か八時間。ぎりぎり十一時間あれば間に合うか)
その時私はもう、快適なセスナでの帰路をほとんど諦めていた。予定変更、来た時の道をなぞる。船と陸路でクスコに戻る。クスコからのリマ便を逃すと次のロケ地ブラジル入国がいつになるのか、何日遅れるのかちょっと予測がつかない。それだと予算も破綻し、ロケ計画もおじゃんになる可能性があった。
決断はぎりぎりまで待った。何しろ天候が回復し、セスナが飛んでくれたらたったの一時間なのだ。たった一時間の辛抱で冷たくうまいビールが飲めるのだ。
しかし世の中そうそう、特にアマゾンのジャングルにおいては人間の思うようにことは運ばないものである。空はどんどん暗くなり、雲が厚くたれこめてきた。仕方なく私は決断した。
「船と陸路で行こう」
さすがにスタッフはみんな気落ちしたようだったが、そうと決まればてきぱきとそれぞれの仕事をこなしにかかった。あっという間に船着き場のボートに荷物は積み込まれ、私たちは船上の人となった。途中の雨に備え、機材はすべてブルーシートで覆われた。特に厳重にシートが巻かれたのは、もちろん「撮影済」である。私たちもそれぞれレインウェアや雨合羽を着込み、道中の雨に備えた。
あに図らんや、ボートがマトレ・デ・ディオス川を下り始めた途端、ぽつぽつと雨が降り始めた。
「おーい頼むよ、この程度で済んでくれよ」
そう呟いたカメラマンのヤブキの願いも虚しく、雨は川を下るにつれ強くなっていった。そして一時間も進むと、もはや全く前が見えないほどのシャワーとなった。
カメラマンのヤブキとVEのオザワ、撮影助手のキタザワは機材に被せたブルーシートの端に潜り込み、カメラやVTRといった重要機材を少しでも雨から守ろうとしていた。すると私とコーディネータのエミリオが潜り込むようなスペースはもはやなく、レインウェアは着ていたものの、私たちは豪雨に打たれるままになっていた。いかに優れているとはいえ、所詮はゴルフのレインウェアである。十分もしないうちに水が生地を通して浸透を始め、二、三十分もするとパンツの中までビショビショになった。カメラマンのヤブキはさすがに悪いと思ったらしく、ブルーシートの下から「すまん」とばかりに私たちに合掌してきた。
突然襲ってきた大自然の猛威の前に、私たちは為す術がなかった。しかしもっと可哀想だったのはペルー人の船頭たちで、Tシャツと短パンだけでずぶ濡れになりながら懸命にボートを操っている。川は水かさを増し、流れは急になったものの浅瀬や隠れた岩もあるのでそれほどスピードを上げることができない。そういう危険な箇所では、船首にいる船頭がボートを降り、腰のあたりまで水に浸かりながらボートをそろりそろりと押し進めていくしかないのである。
そのうちに冷えてきた。熱帯アマゾンのジャングルとはいえ、雨は冷たい。体温はたちまち奪われ、身体がたがたと震えてくる。歯ががちがちと噛み合わない。レインウェアを着ているとはいえ全身はびしょ濡れで、ただじっとボートに膝を抱えてうずくまっているのだから無理もないのだが。
(こんな、アマゾンのジャングルで低体温症で死んだりして)
というような考えがふっとうかんだ。ブルーシートの中にいるとはいえ、技術スタッフも沈黙したままぴくりとも動かない。生きているのか死んでいるのか。
ボートは再び流れに乗る。船首の船頭は船に這い上がり、同時にエンジンが再始動した。しばらく進むと左手前方の岸に小山のような丘がぼんやりと見えてきた。それの丘が私を誘惑した。ふと、
(あの小山の上に「撮影済」だけでも上げた方がいいのではなかろうか)と思ったのだ。そうすれば万が一、ボートが転覆してもあの貴重な「撮影済」だけは助かる。雨は激しさを増し、川は濁流と化しつつあった。第二の決断の時がきた。
私は後ろで沈黙していたコーディネータのエミリオにふり向いていった。
「あの丘に、撮影済テープだけでも避難させたらどうだろう」
するとそれまで黙っていたエネルギーを一気に爆発させるような大声でエミリオは答えたのである。
「だいじょうぶ! ミカミさんは運がいいから!」
見ると、ブルーシートの下から親指を立てた右手が三本突き出されていた。技術スタッフもエミリオに賛成しているのだ。
私は彼らに勇気をもらった。そして丘の誘惑を振り切った。
(まあ、何とかなるか。これまでも何とかなってきたわけだし。たとえ何とかならなくてもベストを尽くすことにしよう。それでいいじゃないか)
という風に気分が切り替えられたのであった。
その時、短い時間の間に、自分たちが死んで、「撮影済」だけがぶじ残されたとして、そんな素材が放送されるだろうか? と考えてもみた。すると、たとえ放送されたとしても、それはあまり望ましい形ではないだろうと想像できた。ニュースでちょこっと流れるだけとか。「悲劇の撮影スタッフ」みたいなサブタイトルをくっつけられて。それはぜんぜん嬉しくなかった。
その後川幅は徐々に広くなり(下流に向かっているのだから当然だ)、船は徐々に安定を取り戻した。しかし、それまでの道行きの悪さもあって、復路のボートは往路に比べると大幅に遅れていた。船着き場に着いてみると、待っている筈の4WD車も姿が見えなかった。帰ってしまったのか。あるいは山の悪天候に怯えてもともと迎えに来なかったのか。しかしそこでそんなことを嘆いてもしょうがないし誰かを責めても仕方がなかった。それをしたところで何ひとつ問題は解決はしないのだ。かろうじてボートは転覆することなく、ここまで来た。
(もはやこれ迄か)
私はエミリオの顔を見た。半ば諦めかけていていた。
「車が来てない。どうする?」
「だいじょうぶ、まだ、諦めないで」
エミリオは私の肩をぽんと叩くと町の方へ歩いて行き、しばらくしてなんと大きなトラックの助手席に乗って帰ってきた。旧ソ連製の大型軍用トラックだった。町の工事関係者と交渉し、チャーターしたのだという。おそろしく古い、がたがきているようなトラックだった。その助手席からエミリオが右手を突き出し、誇らしげに叫んだ。
「これでクスコまで行きます!」
(そうだな、まだベストを尽くしたとはいえなかったな)
私は元気なエミリオの顔を見て苦笑した。さすがにラテンの男であった。ここまできても楽天的なのである。
船着き場のある町からクスコまでの道は、途中車がすれ違うこともできないほど狭い山道もある。ガードレールはなく、下を見れば断崖絶壁だ。バスの転落事故で死ぬ人も多いという。実際道の所々には転落事故で死んだ人のための十字架も立っていた。これでもし途中で崖崩れでも起きていようなら100%アウトである。時刻は夕方にさしかかっていた。これから急に暗くなるだろう。暗くなれば危険は増すことも間違いない。でも例によって選択の余地はなかった。ええい、と思い切ってこいつに賭け、乗ってみるしかない。とにかくベストを尽くすのだ。もう結果はどうでもいい。
「だいじょうぶ、ミカミさんは運がいいから」
どうやらエミリオは私の運のよさに賭けたらしかった。「だって、一回のロケでハグアール(ジャガー)を二回も撮影するディレクターなんていないよ。私そんな人は見たことがありませんから」
エミリオはてきぱきと現地の人たちに指示を与え、機材と「撮影済」をトラックの荷台に積み込んだ。トラックにはぼろいけど幌もかかっていて、これからは雨に濡れる心配もなさそうだ。
(なるほど。俺の「運」が唯一のよりどころか)
私は覚悟を決めて幌付きの荷台へと乗りこんだ。
驚いたことに、道中ではトラックは度々停車し、何人か地元の人たちが乗りこんできた。アンデスの習慣のようだ。大きなキャパシティ、座席に余裕がある車であれば、道端で手を上げている人を拾ってあげる。誰もが車を持っている訳ではない。この地では当たり前のことなのだ。
だがさすがに定員オーバーになるようなことはなかった。私たちの目的は飛行機のボーディングタイムに間に合うようクスコの空港に着くこと、それはさすがに運転手にも伝えられているようだった。
車はのろのろと進んだ。何しろ旧ソ連製の軍用トラックである。元々スピードが出ない上、この悪天候、しかも辺りは刻々と暗くなってきていた。道路の大部分は舗装などされていなかった。所々で大きな水たまりができており、基本ぬかるんでいる。もっとも、トルクが大きく車両自体の重量も重い軍用トラックはこうした道を走るには最適といえるのだが。
視界は悪く道幅は狭い。前をのろのろと走る車がいても、追い越すことはできない。時刻は刻々とすぎてゆく。もう辺りは真っ暗である。私は遂に諦めた。どう考えてもこのペースでは飛行機のボーディングタイムには間に合いそうになかった。
しかし。その時の私はなぜか爽やかな気分だった。
(やるだけのことはやったなあ)
という満足感があった。とにかくベストは尽くしたのだ。これ以上もはやできることは何もない。
ガタガタと揺れる旧ソ連製軍用トラックの荷台は幌がかかっているおかげもあって暗かった。私は自分のリュックサックを機材の山から引っ張り出した。幸いなことに、防水仕様のリュックだった。どういうわけかそんなものを買い求めてきたのである。高温多湿のジャングル対策として。
リュックの中には、乾いた下着とシャツ、ズボンが1セットビニール袋で養生されて入っていた。私はそういう処置をしてあった自分に感謝した。暗がりの中で濡れた衣服を脱ぎ、乾いた服に着替える。もはや人の目など気になるものではない。着替えると、天国にいるような快適な気分になった。
クスコの空港に着いたのは、ボーディングタイムを三時間ほどすぎた頃だった。タイムアウト。やはり途中から船と陸路に切り替えたところで所詮無理なスケジュールだったのだ。さすがに落胆した私たちは旧ソ連製軍用トラックの荷台からのろのろと機材を下ろしにかかった。どうせ今夜はクスコ市内に泊まることになるのだろう。時間はたっぷりある。
そこへエミリオが戻ってきた。空港ビルに飛行機の運航状況を聞きにいって来たのである。口笛を吹いていた。にこにこしていた。
「どんな具合?」
こんな時に笑うかよ、とムッとしながら私はエミリオに尋ねた。日系人といってもやっぱりペルー人、頭の構造が違うんだな、南米の人はすごいなあ、底抜けに楽天的なんだなあ、などと思いながら。
「ミカミさん、あなたやっぱり運がいい。ほんとうに運がいいね」
エミリオはそういいながら大きく手を広げ私を抱擁した。そしてぽんぽんと私の背中を叩きながら、「リマからの飛行機、まだ到着しておりませんですよ」といった。
ちょっと変な日本語だったがまったく気にならなかった。エミリオは時々こういう言葉使いをするのである。
「ホントに?」
私はエミリオの顔を見た。
「ホントですよ。私は嘘をつきませんですから」
エミリオはその大きな目を私にまっすぐに向け、心の底から嬉しそうにうんうんと頷いた。「飛行機まだ来ていません。私たち、遅刻しておりません」
そうなのだ。アンデスは広いのである。そして広さの尺度が日本とはぜんぜん違うのだ。私たちはそのことを忘れていた。マヌーからクスコの間が悪天候なら、クスコからリマの間もアンデスである。当然天気は同じように悪かったのだ。そのせいで大型ジェット機ですら、リマから飛んで来られなかったということだ。
「やった。助かったあ」
私はエミリオを抱きしめた。だんだん喜びの表現方法が南米の人に近づいてきたな、と思いながら。
「やりましたね。正解でしたね」
カメラマンのヤブキが近づいてきて、私に右手を差し出した。
私はエミリオと抱き合ったままヤブキと握手した。それからVEのオザワ、撮影助手のキタザワとも私は握手を交わした。
「撮影済、あの丘に置いてこなくてよかったですね」
カメラマンのヤブキがしみじみとした口調でいった。
「ほんとだね」まったくその通りだった。あの丘にもし「撮影済」を置いてきていたらこれからまたあそこまで、マトレ・デ・ディオス川の真ん中あたりまで引き返さなければならなかったのだ。
いつの間にか雨は止んでいた。結局、私たちが移動している間だけ降り続けた雨だったのだ。それはマトレ・デ・ディオス、神の母と呼ばれる川からの手荒な別れのメッセージに思えた。あんたたちあんまり自然をなめるんじゃないわよ、という。
旅と撮影の日々 三上夏一郎 @natsumikami
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