ジャングルの宿

かつてのインカ帝国の都、クスコからアンデス山中を抜ける悪路を4WDで走ること十時間以上。辺りは暗くなり始め、私たちは疲れ切っていた。最高では海抜三八〇〇メートルの峠を越え、そこから標高ゼロメートルに近いジャングルまで延々と下っていく道のりである。寒くて空気の薄い高地から、熱帯雨林の暑く湿った空気を一日の中で体験することになるのだ。

目的地に近付くにつれ、車がスピードを落とすと、「今夜の宿は、ポサ・ダ・サンペドロと言います」

と助手席に座るコーディネータのエミリオ・Kが大きな声でいった。もはや四捨五入すれば七十歳になる日系ペルー人のこの老人は、他のスタッフが疲れ切っている時でも存外に元気である。時にはその元気さが人をうんざりさせるのだが。

「ポサ・ダ・サンペドロって、どういう意味?」相手をしないのも悪いな、と思い、私はエミリオに質問した。

「ハイ! スペイン語で宿屋のことを、ポサ・ダ・なになにと言います。ですから、ポサ・ダ・サンペドロと言えば、【サンペドロさんの宿】といったところでしょうか」

「よかった。ジャングルでテントかと思ってたよ」私の隣に座る、カメラマンのヤブキがやれやれ、といった口調で呟いた。ヤブキは自然遺産の撮影に長けたカメラマンで、ジャングルの経験が豊富である。唯一の趣味は、撮影終了後のビール。とにかく、ビールがあれば何もいらないという男だった。「ジャングルでテントってのも、つらいんだよなやっぱり」

七人がけのシートの、最後列にカメラを抱えて座る撮影助手のキタザワがはしゃいだ声をあげた。「今夜はダニや蚊にやられなくてすみますね」よほど嬉しかったとみえる。

「ポサ・ダ・サンペドロ、楽しみだなあ」とダメを押すようにヤブキがいった。

「はいはいそうですよ。きっといいところです、楽しみにしててください」エミリオが大きな声でヤブキに答える。

「ビール、冷えてますかね」と撮影助手のキタザワ。

「それはないんじゃないのさすがに。冷蔵庫はないと思うな」カメラマンのヤブキが若い助手をたしなめた。「でも、せっかく車に缶ビールを百五十本も積んできたんだから、宿に着いたら冷たい水をバケツに貰って早速冷やすことにしよう」

ロケ地での唯一の楽しみは、食事、特にその日のスケジュールが終わった後の夕食である。ささやかな宴ではあるが、スタッフは夕食の時間が迫ってくると、できるだけ盛り上がろうとする傾向にあった。

「いいねえ、ビールを川の水で冷やすってのは」私はヤブキのアイディアに諸手をあげて賛成した。「どうですかエミリオさん、宿の近くには冷たい水が流れている川なんかありますかね」

「川はありますよ。だって皆さん、アマゾンの源流を取材しに行くんだから」

こうして、ポサ・ダ・サンペドロに近づくにつれ、私たちスタッフは今宵の食事に向けて盛り上がっていった。

「さあ、着きましたよ!」エミリオが声を張り上げた時、太陽は完全に山の向こう側に隠れ、辺りは夕闇に包み込まれようとしていた。

「よーし、荷物おろそう。それからビールを冷やすんだ」張り切った声をあげると、早速カメラマンのヤブキが4WDから降りて行った。

「ハイ!」助手のキタザワが素早く後に続く。カメラマンの世界は体育会系で、若い者は上の人間に絶対服従である。遅れをとることは許されないのだ。

私はゆっくりと車から降りた。どうせこれからあせったところで何がどうなるわけではない。どうせあとはビールを飲むだけだ。その時、

「カントクちょっと来てくださーい」私を呼ぶヤブキの叫び声が、暗闇の中から聞こえてきた。嫌な予感がした。ヤブキの声が、はずんだトーンではなかったからだ。私は常備しているマグライトを点灯させ、おそらく【サンペドロさんの宿】へと続く、細い、曲がりくねった道を歩き出した。

建物らしきシルエットが見えてきた。その前に、頭にとりつける型のライトを点灯させたヤブキとキタザワが立っていた。このタイプのライトは、両手がフリーになるので撮影現場では非常に重宝する。

「どうしたの? 何があった?」私のマグライトが暗闇の中で立ち尽くすヤブキと北川を照らし出す。

「まさか、これが【サンペドロさんの宿】じゃないですよね」カメラマンのヤブキがボーゼンとした口調で呟いた。

「え?」私の目はヤブキの頭につけたライトの光を追いかけた。するとそこには、屋根と柱だけの建物らしきものがあることがわかった。暗がりのなかなのではっきりと全貌は掴めなかったが、間違いなくその建物に壁はない。雨宿りのための東屋、もしくは一時的に物を置いておく簡易倉庫みたいなものなのでは、と私は推測した。

「冗談だろ、おい。こんなものが【サンペドロさんの宿】である筈がないじゃないか。きっと、荷物置き場とか、馬とかをつないでおく場所とか、そういうもんじゃないの?」私はヤブキに向かっていった。

「そうですよねー、どう考えても」

私たちが話しているうちに、撮影助手のキタザワは建物の中に足を踏み入れていたようで、

「あのー」建物の真ん中あたりからキタザワの声がした。

「なんだよ、キタザワ」ヤブキがキタザワのヘッドライトに向けて声をかける。

「ヤブキさん、この床の上にあるの、ベッドじゃないですか」

「なにっ?」とヤブキが建物の中に踏みこんだ。私もヤブキに続いた。あれ? と思った。壁があれば建物の中に入ったということになるのだろうが、なぜかそんな気がしない。確かに、キタザワがいうとおり、屋根の下の床の上には幾つかのベッドが並んでいた。

「うそ。これが、【サンペドロさんの宿】? だって壁ないよ」私は呻くように呟いた。

「そうですね。これがポサ・ダ・サンペドロ、【サンペドロさんの宿】ですよ」いつの間にか私の背後にエミリオが立っていた。

「だって、これ、柱と屋根だけじゃん」私はエミリオにいった。私たちの責めるような視線が一斉にエミリオに向けられた。

エミリオはたじろぎもせず、「だいじょうぶです。ベッドに蚊帳を吊しますから」と平然として私たちに答える。「まったく問題ありませんよ」

どうやら、長い夜になりそうだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る