押し忘れ

空撮を終え、ヘリから降りると、とてつもない疲労感が押し寄せてきた。今日も空撮はうまくいかなかった。世界遺産「ナスカの地上絵」の撮影が。大枚をはたいてペルー空軍の大型ヘリをチャーターしたというのに、これでは毎日貴重な予算を空からばらまいているようなものである。このままでは埒があかない。私たちは一旦ホテルに戻りミーティングを開くことにした。

シャワーも浴びずに撮影助手のコヤマが使っている部屋に集合する。HDカムのビデオを巻き戻し、プレビューを開始した。

映像は全体的にひどくぶれていた。ヘリコプターの上でモニターを見ていたから、ヘリ自体の振動でぶれて見えたのではないか、という私の淡い期待が見事に打ち砕かれる。

「だめだよ、これ」思わず私は呟いた。「使い物にならないなあこれじゃ」モニターの中では激しく揺れるナスカの地上絵の映像が流れ続けている。

「わかってますよカントク」カメラマンのツノダが、ふて腐れたような口調でいった。「私だって精一杯やってるんです。でもあれだけ被写体と離れてちゃどうにもなりませんよ。望遠で撮らざるを得ないんですから」

カメラがぶれる大きな原因は、ペルー空軍のパイロットが、「ヘリは二百メートルより下に下りることはできない」と主張しているせいだった。そういう決まりができたというのである。

政府が決めた飛行制限により、ヘリコプターが地上から二百メートル以下に降りられないということが大きく影響していた。

「えー昔うちのスタッフが来た時はそうじゃなかったっていうぞ。いくらでも地上絵に近付くことができるって話を聞いてきたんだけど」私は日系ペルー人のベテランコーディネータ、エミリオ・Kにいった。

まだハイビジョンではなかった時代に、私たちのチームの別のディレクターがナスカの地上絵を撮影していた。その時はかなり地上絵に接近できていたのだ。だから迫力ある映像が撮れていた。今回私たちのチームは「あの迫力をハイビジョンで」と期待されてペルーに送りこまれた。最低その期待には応える必要があるのだ。それがプロの仕事というものだろう。

「パイロットの説によると、原因は、韓国人です。韓国の俳優が、ヘリから地上絵の上に降り立ったっていうんです」

それは変身ヒーローもののドラマの撮影だったという。日本でいう仮面ライダーみたいなものだ。韓国のドラマ制作スタッフは、そのヒーローをヘリコプターから地上絵の上に降り立たせ、ポーズを決めて、それを撮影して帰ったのだという。それ以降、ナスカの管制官はセスナやヘリが地上絵に接近するのを厳しく監視するようになったというのだ。

「信じられないバカどもだ」私はうめいた。テレビのスタッフは往々にしてバカなことを考え、突拍子もないことをするものだ。そのとばっちりを食らうのは直後に訪れた別のクルーである。一般の人から見ればテレビのスタッフなどどれもこれも同じようなものだ。見分けがつかない。「こちらはいいスタッフ」、「こちらは悪いスタッフ」とステッカーでも貼ってくれればいいのだがそんなものはない。

「今ではヘリや飛行機が上空二百メートル以内に地上絵に近付くことがなかなか難しいんだそうです。困ったものです」とエミリオが本当に困ったようにいう。

被写体との距離が離れれば、望遠のズームレンズを使わざるを得ない。ヘリが地上絵の周りを旋回し、その動きに合わせてズームアップをかける。そういう複雑なコンビネーションが必要な撮影に私たちはチャレンジしていた。望遠レンズはよほど安定した土台の上でなければぶれるのだ。朝のうちは風が弱いとはいえ、ナスカの地上絵のあるフマナ平原の上空はやはり風が強い。さすがのペルー空軍の大型ヘリでも揺れるのだ。

「だからおれは韓国人が嫌いなんだ」カメラマンのツノダが呟いた。「それにどこかのバカがズームコントローラ忘れて来やがって」ツノダは撮影助手のコヤマを横目で睨んだ。

若いコヤマの肩がビクッと一瞬震えたような気がして、「その話はもう止めてくれ」と私はいった。「今更言ってもしょうがないことを口に出すのは止めようじゃないか」

それは私のモットーだった。言ってもしょうがないことは口にしない。それより何か問題があったらそれを解決するために何かしたり考えた方がはるかにましじゃないか。

カメラのパン棒に取り付けられるちいさなズームコントローラは、今回の撮影でいちばん大切な装置である筈だった。カメラマンが揺れるヘリの上でカメラをパンしながら地上絵をズームアップするためには、これがないとどうにもならない。カメラマンは右手でパン棒を、左手でフォーカスリングや絞りのリングを操作するから。その大切なパーツを、撮影助手のコヤマはどうしたことか日本を出発する時に積み忘れた。機材リストには記載されているが実際の機材の中には入っていないという悲惨な状況。あってはならない筈のミスだった。

(それにしてもこのチームはもはや崩壊しているな)私はカメラマンのツノダと撮影助手のコヤマを見てそう思った。二人の間にできたひび割れはもう修復不可能に見える。

私たちは世界遺産に来て途方に暮れている。

状況はこうだ。私たちは世界遺産に登録されているナスカの地上絵を撮影に来ている。が、肝心の空撮がうまくいってない。当たり前のことだが、地上絵は空の上からしか見えない。空撮がうまく撮れないのは致命的である。その映像がなくては番組はできないからだ。しかもペルー空軍にはヘリのチャーター料金として日本円に換算すると二万ドル、すなわち二百数十万の金を既に支払ってある。今更中止にはできない。ディレクターである私は追い詰められていた。帰国して「うまくいきませんでした」ではプロとして済まされない。たとえズームコントローラを忘れたのが撮影助手だとしても、撮影がうまくいかなかった責任を問われるのは現場の責任者であるディレクターなのだ。私は職を失うかもしれない。少なくとももう二度と世界遺産を紹介するこの番組を手がける機会は与えられないだろう。

「とにかく、今この状態で何をするのがベストかを考えるしかない」雑念や不安を振り払うように私はいった。

「方法はひとつしかありません」カメラマンのツノダが青ざめた表情でいった。「被写体にもっと近付いてもらえばいい。それしかないです。ヘリのパイロットに交渉してくださいよ、そうすればせめてワイドのズームレンズが使える。現状よりかなりましな画は撮れます」

「それなら使える画が撮れる、と保証できるの」私はツノダの顔を見た。毎日毎日、使い物にならない映像を撮り続けているカメラマンの顔は日に日にやつれてきている。めしもろくに喉に通らない感じで、いつもあまり料理に手をつけずに部屋にすぐ引きこもっていた。

「少なくとも使える画は撮ってみせますよ」覚悟を決めたような口調でツノダが言い切った。

「管制官の目をかいくぐって、ということだな、つまり」私は呟いた。

「どうですか、ヘリのパイロットに、少し多めにチップあげるから、と交渉してみましょうか」場の空気を和らげるようにエミリオが提案した。

「そうか。なるほどね」私はエミリオの顔を見た。「パイロットを買収するってこと」

確かに、軍人たちがもう少し小遣い稼ぎをしたくて難癖をつけているのでは、という疑念はあった。意外にそういうケースは多少のお金で解決するケースが南米には多い。それをやってみるか。

「じゃ、お願いします」私はエミリオに頭を下げた。

案ずるより産むが易し。買収はあっさりうまくいった。

「本当に? 彼らOKしてくれたの」と私がいうと、

「この国では、こういう事、多いんですよ」とエミリオは私にウィンクした。「一人一日200ドルのボーナスです」

なるほど、一件落着。但し予算は更に膨れあがることになる。一人頭、一日200ドルのボーナス。パイロット、副操縦士、整備士の三人で600ドル。撮影が長引けば長引くほど、奴らは喜ぶだろうがこちらはにっちもさっちもいかなくなるかもしれない。でもこれでやるしかない。

パイロットの提案で、管制塔が開く前、早朝に飛ぶこととなった。レーダーが働く前に仕事を終えてしまおうという算段だ。

翌朝私たちは朝5時前にホテルを出てひっそりと空港でスタンバイし、6時前にはフマナ平原の上空にいた。パイロットが私に目配せして、地上絵に向かって高度を下げていく。何メートルまで降りたかは教えないでくれと伝えてあった。万が一何かあった場合は、「知らなかった」ですませるように。私はエミリオを通じて、ペルー空軍の軍人たちに、「パイロットの判断でぎりぎり近くまで行ってくれ」と伝えただけだった。エミリオがそれ以上何を伝えたか私は知らない。聞かなかったし、教えてくれるなと伝えてあった。

「おお、すげえぞ今日は」カメラマンの習性で、ツノダはカメラを構えながら興奮していた。いい画が撮れると、カメラマンは興奮する。どうやら素晴らしい映像が撮れているようだ。それは、モニターを見ている私にもわかった。その時私が思ったのは、(ああ、これで日本に帰れる)ということだった。モニターをぼんやりと眺めながら私は心の底からほっとしていた。ヘリの上ではモニターをちゃんと見てはいけないのだ。空撮でモニターを真剣に見つめているとたちまちヘリに酔ってしまうからである。ナスカの地上絵の空撮はようやく無事終了するように思えた。

「お疲れさまでした。ほんとうに今日はありがとう」ヘリを降りた私は、スタッフと、そしてペルー空軍の軍人達と固い握手を交わした。終わりよければ全てよしだ。いろいろあったが、過ぎたこと。それはなしにしてやろうと私は思っていた。

「今日はうまくいきましたね」コーディネータのエミリオが私の肩を抱き、背中をぱんぱんと叩きながらいった。

「ああ。今晩はホテルのレストランで打ち上げのパーティでもやりましょうってパイロットたちに伝えといてよ」私はエミリオにいった。

「今すぐにビールでも飲みたい気分だね」

「それじゃ、空港のカフェで一杯やりましょうか」

「いいねえ。みんなもどう?」私は機材の片づけをしている技術スタッフに声をかけ、空港のカフェへと向かった。ひとりテーブルに座り、とりあえず地元のビール、クスケーニャをオーダーする。地元のおばちゃん、といった感じのウェイトレスが栓を開けたクスケーニャをほどなく運んできた。よく冷えていた。

(予算は多少オーバーしたが、どうやらこれで番組は何とかなるか)私は天に向かって感謝を捧げ、ビールを飲んだ。ナスカに来てこれほどビールが旨いと感じたのは初めてだった。いい画さえ撮れていれば、プロデューサーもぐだぐだ文句はいって来ないだろうとの計算もある。

「カントクお疲れさまでした」カメラマンのツノダが笑顔でカフェに入って来た。

「ああお疲れさま。やっぱり被写体には接近しないとね」」私はビール瓶を持ち上げてツノダに示した。「さ、乾杯しようよ」

「いいですね」ツノダがいった。顔が緩んでいる。カメラマンの責務をようやく果たすことができた、という表情だった。

「ま、いろいろありましたけど」ツノダは栓を抜いてもらったビールをウェイトレスから受け取った。「いい画はとれたと思いますよ」

「ああ。おれもモニターで見ててわかった。よかったよ」

「では、終わり良ければ、ということで」私とツノダはクスケーニャで乾杯した。心地よい酔いが、身体の中を駆けめぐり始めた頃、

「あの」おずおずとカフェに顔を出したのは、撮影助手のコヤマだった。コヤマは青ざめた顔で私たちのテーブルの前に立った。顔が青ざめているのは、てっきり揺れるヘリの中でモニターを集中して凝視し続けたせいだろうと私は思った。ありゃ酔うわ、と。

「どうしたの。座って乾杯しようぜ。乗り物酔いなんか、ビールで飛んじゃうって」私はコヤマに椅子を勧めた。その瞬間、

「すいませんっ」突然コヤマはカフェの床に土下座した。「実は、大変なことをしでかしてしまいました」

「なんだよ」ひどく嫌な予感がこみ上げてくる。胸元を冷たい汗が伝って臍の方に落ちていくのを私は感じた。

「回っていませんでした」土下座した顔を上げないまま小山が震える声で私たちに打ち明けた。

「え」私とカメラマンの角田は思わず顔を見合わせた。

「回ってなかったって。まさか、VTRが?」信じられない、という顔でツノダがコヤマに確認する。

「モニターに集中してて、RECボタンを押してなかったみたいなんです」小山は顔を上げなかった。いや、上げられなかったというべきか。

「ということは、さっきの映像、撮れてないわけ?」死の病を宣告され、そのことを医者に確認する時ってこんな気分がするんだろうと思いながら、まさかの事態が本当のことなのかを確かめるために私はコヤマに尋ねた。

「撮れてません!」

「マジかよ」カフェの床がざぁーっと音をたてて砂のように崩れていくような感覚を覚えて、私は思わずテーブルを強く掴んだ。そうでもしなければ、本当に倒れそうだったのだ。

「すいませんでした!」コヤマは、すいませんすいませんと床に向かってコメツキバッタのように頭を下げ続けている。

「バカヤロー!」完全にぶち切れたツノダが、荒々しくカフェを出て行く音が聞こえた。

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