スクレからの脱出

町の様子を偵察に出かけたハビエルが戻って来た。彼は今回の仕事のために、撮影コーディネータのエミリオ・Kが雇った現地のタクシー運転手である。

「困ったことになりました」ハビエルの報告をうけ、ホテルのロビーをうろうろと歩き回りながらエミリオがいった。日系ペルー人で、この道三十年以上のベテランコーディネータのエミリオが、本当に困った顔をしている。これは極めて珍しい。異例の事態かもしれない。

ソファーに座り、手持ち無沙汰に地元の新聞をぱらぱらとめくっていた私はエミリオに尋ねた。「と、いうと?」

予定していた撮影は既に昨日のうちに終わっていた。荷造りも終え、撮影機材も昨日のうちにスクレの空港に送ってある。あとは次の撮影予定地ペルーに向かうだけの筈だ。

エミリオはお手上げです、とばかりに両手を広げると、「空港に行く手だてがありません」といった。

ハビエルによると、町の入り口の要所要所にバスが交差点を塞ぐように停められている、車は完全に通れない状態だ、ということである。タイミングが悪いことに、私たちが移動するその日に、バス会社労働組合のストライキが決行されたのだ。労働条件の改善と、賃上げを要求するストだという。そして、労働者により町が封鎖されてしまった。バスを使って。

「この国では、しょっちゅうストライキが起こります」泣きそうな顔でエミリオがいった。「貧乏な国ですからねボリビアは」

日系ペルー人ながら、物事を深刻に考えないラテン気質のエミリオがこれほど困った顔をしているということは、事態はよほど深刻なのかなあ、と私は急に不安になった。

国民一人あたりの年収が南米で最も低いと云われるボリビアでは、しょっちゅうストライキが起きる。ストライキで事態が好転することはないのだが、大衆の不満のはけ口となっていて、体制側も目をつぶっているのだ、とエミリオは続けた。

私はホテルから外に出てみた。空はどんよりと曇り、今にも雨が降って来そうだ。日が出ている時はまぶしいぐらいに白く輝く白塗りの教会も、さすがに落ち着いたたたずまいを見せている。ここスクレにはスペインの植民地時代に造られた町並みがほとんど建築当時のまま残されていて、ユネスコの世界文化遺産に登録されていた。スペインからの独立宣言がこの町で行われ、その時に活躍した将軍の名前が町の名となった。ボリビアはややこしい国で、現在首都が二つある。スクレは憲法上の首都なのだが、それは名目上のことで、行政府など首都機能は国際空港のあるラパスに移されている。スクレは人口も少なく、歴史があり、つまり日本でいえば京都のような存在なのだろう。いわばボリビア人の精神的な首都であるらしい。

「空港に行く手だてがないんですか」と後ろから声がして私は振り向いた。カメラマンのツノダが立っていた。「どうするんですか。ストが終わるまでこんな町にいなくちゃいけないんですか」

こんな町、という言葉に、私はかちんときた。

「こんな町だって」私はツノダにいった。「あなたは、こんな町と思いながらロケしてたってことですか」

「いえ、そういう訳ではないんですが」ツノダはたちまち恐縮して、私の顔から目をそらした。

私はこの男とロケに来たことをかなり後悔していた。がたいはいいが、体力もなく気も弱い男であった。その上技術もなければ撮影に対するガッツもない。当初予定していたカメラマンに直前にドタキャンされ、その本命カメラマンに紹介されたのがツノダであった。売り文句が、「実は本編をやったこともありまして」というものである。その言葉にころりと騙された。テレビの世界では、映画のことを「本編」と呼ぶ。テレビの人間には根強い「本編」コンプレックスがあった。つまり、映画のスタッフはテレビのスタッフよりなぜか上に見られ、それなりにリスペクトされていたのである。私にも本編コンプレックスがあった。それに負けた。本編のカメラマンならきっといい画を撮ってくれる、そう思い込んでいたのだ。よくよく聞けば、ツノダは本編を手がけたといっても担当したのはセカンドユニットだったようだ。まんまと私は「本編」という言葉に騙されたわけだ。

それにしても何かとつきがないロケだった。そういう時はこの程度のスタッフしか来ないのである。

「じゃ、とりあえず部屋で待機ということで」南米に来た感動もなく、帰国日をひたすら指折り数えているカメラマンはあっさりと引き下がった。自分の部屋に戻って行った。その後ろ姿をため息をつきながら見送っていると、

「カントク、なんとかなるかもしれません」と後ろから声をかけられた。ふり向くと、満面の笑みを浮かべたエミリオがハビエルの肩を抱いて立っていた。実にわかりやすい男である。「アミーゴ!」とハビエルに声をかけ、今にもキスでもしそうな勢いだ。

「ストが急に終わったとか」私はエミリオに尋ねた。

「いえいえ、さすがにそれはありません」とエミリオがいった。まだ笑顔である。「ハビエルさんがバイクを集めてくれました。みんなバイクの後ろにつかまって空港まで行くことです」

「と、いうと、スト破り? バリケードを突破するってこと?」私は念のためエミリオに確認した。

「そうですよ」当然、といった口調でエミリオが答える。

「なるほどね」私はため息まじりにいった。いかにも南米らしい、荒っぽい問題の解決方法であった。そして発案者のハビエルと、それに一も二もなく迎合したエミリオはそのプランが失敗することなどこれっぽっちも考えてないことは明らかだった。

「それで、いつ?」私がさらに尋ねると、

「もちろん、今すぐです」と間髪を入れずにエミリオが答えた。とても嬉しそうな笑顔で。

エミリオのアレンジしてくることはいつもこんな調子だ。考える暇もなければ、選択の余地もない。

「こんなこともあるかもしれないと、ボクは昨日機材を空港に送ったのです。私物は仕方ありません。ホテルに置いていきましょう。後でガブリエラさんに送ってもらいます」エミリオはこの町で撮影の手伝いをしてくれた、ユネスコの若い女性弁護士の名前を口にした。とてもチャーミングで頭のいい女性だった。もし私が独身だったら、この町に残ることを真剣に検討したかもしれないほどの。

「ガブリエラはここに来るの?」私はエミリオに尋ねた。

「いえ。彼女も結局道路封鎖で動きがとれません。ここには来られないと思います」

「え。すると彼女にはもう会えないんだ」それはショックだった。

私とガブリエラは片言の英語とスペイン語で毎日会話を交わすうちに、けっこう親しくなっていた。ガブリエラは美しく、その上愛嬌のある若い女性で、彼女との会話は何もいいことがなかった今回の撮影の唯一の慰めとなっていた。せめて彼女にお礼と別れをいいたかったのだが、どうやらそれは、もはやかなわぬ望みのようだった。私はカメラマンのツノダと撮影助手の部屋に行き、エミリオの作戦を説明した。

「え、そんなんで大丈夫なんですか」ツノダの顔色はたちまち不安そうに青ざめた。

「そんなもん、やってみなけりゃわからないさ。でも時間がない。さっさと支度して」私はツノダと撮影助手にいい、ロビーに戻った。エミリオが既に苛々した顔つきで待ち構えていた。

「さ、カントク、バイクが来てます。急いでください」エミリオにせかされて、私はホテルの外に出た。「カントクはハビエルさんのバイクでいちばん先に行くことです」

「はあ。おれが先頭」

私はハビエルの運転するバイクにまたがった。既にフルフェイスのヘルメットを被っているハビエルが私をふり向いて親指を立てた。ヘルメットで顔は見えない。親指を立てるのは南米ではOKのサインである。ハビエルの背中にしっかりとしがみついた私に、エミリオが近付いてきて囁いた。

「ストライキしている人たちに捕まらないように。スト破りは鞭打ちの刑です」

ぎょっとした。「鞭打ち? それって法律なの?」

「いいえもちろん違います。背中を裸にされ、ストをやってる人たちのリーダーが鞭を打ちます」

「そんな、無茶苦茶じゃないの」

「仕方ありません。ここはボリビアなんです」言葉の深刻さとは裏腹に、笑顔でエミリオがいった。

「でも捕まるなといわれても、おれが運転する訳じゃなし、どうすりゃいいの」

「だからそこは。ヤマト魂でしょう」とエミリオが私にウィンクした。私は覚悟を決めた。

ディレクター、カメラマン、撮影助手、照明技師という構成の私たちスタッフ四人と撮影コーディネータのエミリオは五台のバイクにまたがってスクレのホテルを後にした。

間が悪いことに、出発するやいなや雨が降ってきた。バイクを操る人間も、後ろにしがみつく人間も、頭のてっぺんから足先まで、すぐずぶ濡れになった。

問題の交差点が近付いてくる。道路を封鎖しているバスが見えてきた。確かに車は通れそうになかった。道を塞ぐバスと交差点に立つ民家の間には、わずかに人ひとり通る隙間が空いているだけである。バスの手前では、ストライキ中の男たちがたき火を囲み、酒瓶をラッパ飲みして気勢を上げている。ホテルを出発する前、エミリオにいわれた言葉がよみがえった。

「ストライキしている人たちに捕まらないように。スト破りは鞭打ちの刑です」

酔っぱらって荒くれている男たちの姿を見ると、とても鞭打ち程度では済まされそうになかった。あれがバス会社の社員? ただのごろつきじゃないのか、という感じである。

(頼む。うまくすり抜けてくれ)私は神に祈った。

次の瞬間、ハビエルが操るバイクはバスと民家の間の隙間をするりと見事にすり抜けていた。続く四台も、ストライキ中の男たちに捕まることなく無事私たちのバイクに続いた。突然の雨が彼らの関心をそらしてくれたのかもしれなかった。そういう意味では、ラッキーだった。

結局私はガブリエラにそれきり会うことはなかった。別れの挨拶も、お礼の言葉もいえなかった。翌年、彼女が結婚したとの便りがエミリオからあった。

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