標高4000メートルのクリスマス

その年のクリスマスを、私はボリビアのポトシで過ごすこととなった。ロケハンと呼ばれる、撮影の下見のための滞在 である。撮影本番は年明けに予定されていた。モノは、ユネスコの世界文化遺産に指定されているこの町を紹介する三十分番組。担当ディレクターである私は、町に先乗りし、クリスマスを挟む三日間で下見を終わらせる予定になっていた。

同行するは日系ペルー人のエミリオ・K。ペルーの首都リマ在住の、コーディネータである。ペルー国内の撮影だけでは食えないので、コロンビア、ボリビア、アルゼンチン、チリといった南米スペイン語圏の撮影はよろず引き受ける。コーディネータ歴は三十年にもなるというベテランだ。もう七十歳を過ぎているが、私たち日本人に比べれば元気の塊のような男である。離婚歴三回。今は三十歳以上年下の四人目の奥さんとペルーの首都リマに暮らす。

私とエミリオがポトシに到着したのは、クリスマス・イブの夕方だった。よりによって、である。ポトシ市街は海抜四千七十メートル、世界で最も高い位置にあるといわれる都市である。町に着く手前から、途中のスクレで治まっていた高山病の症状が再発したのを私は自覚していた。高山病は時間がたてばたつほど症状が重くなる。ホテルにチェックインを済ませると、せめてすこしでも元気なうちにと私はエミリオをせかし、イブの夜のディナーを求めて、市内のレストランに足を運んだ。

「なんだってこんなひどい場所に町なんか造ったんだろう」

どうせ高山病だもうどうにでもなれ、という気分で赤ワインを飲みながら、私はテーブルの向いに座るエミリオにいった。アルコールは高山病にはよくないのは承知の上だ。どうせしばらくすればまたあの、地獄の苦しみを味わうのだ。せめて一時でも酒の酔いで感覚を麻痺させていたかった。店内は安っぽくけばけばしいクリスマスの装飾で飾られ、それを見ていると高山病による頭痛が余計ひどくなるような気がしてくる。

「この町が世界遺産になったのは、ひとえに銀のおかげです」と自分のグラスに赤ワインをどぼどぼと注ぎ入れながらエミリオがいった。

「一六世紀から一七世紀にかけて、世界の銀のほとんどが、この町から掘り出されていました。銀が発見されたのはセロ・リコという四千八百メートルの山で、銀鉱山の発展にともない、その麓に町が生まれました。それがポトシです」

エミリオによると、スペイン植民地時代、銀の採掘の為に集められた先住民たちの労働は過酷を極め、鉱山の入り口は、ヨーロッパから派遣された宣教師が「地獄の入り口」と呼んだほどだったという。坑道の中で、数十万人が命を落としたといわれている。とはいえ、銀景気で町は繁栄を極め、当時ヨーロッパでは「景気のいいこと」を表現するのに「ポトシのように」という言葉だったという。

「セロ・リコとは、赤い山を意味するスペイン語です。赤土と岩でできたはげ山ですけど、あれは銀鉱山で死んだ人たちの血で赤く染まったという説があります」ワインの酔いが回るにつれ、エミリオはふだんにも増して饒舌になっていった。「それからもう一つの説は、ポトシの女があまりにもブスなんで山が恥ずかしがって赤くなった」

「はは、そりゃあ面白えや」とエミリオに相づちを打ちながら、私の頭の中では加速度的に痛みがひどくなっていく。安いワインを飲んだのもいけなかったのかもしれない。そんな私の顔色などおかまいなしに、話し好きのエミリオはワインを飲み続け、喋り続けた。

「ボリビアと言えば、忘れられない映画がありますね。何だかわかります?」ワインの酔いでいい気分になってきたらしいエミリオは、フォークとナイフでテーブルを叩いて調子をとりながら、鼻歌でハミングした。おお、それは懐かしい映画音楽。

「雨に歌えば?」

「そうです」

「なんだっけあの映画」

その時点で私の脳細胞は一切の働きを止めていた。もはや何かを考えることができなかった。何も思い出すことができなければ、何も思いつくこともできない。ただ感じるのは、ドクドクと脳の中を脈をうつ血の流れだけである。まるで脳そのものが巨大な血管と化したような感じだ。そして脈をうつ度に激しい痛みがセットとなって頭蓋骨の中を駆けめぐる。もはや目の前にある酒のグラスにはどうしても手が伸びない。エミリオは相変わらず、「雨に歌えば」をハミングし続けている。その鼻歌がまた、針でつくった小さな矢のように私の脳細胞に突き刺さった。

『ひょっとしたらこれはラパスで経験した高山病より重症かもしれない』私は朦朧とし始めた頭で考えた。そしてついに脂汗が流れてきた。ひどい場合は死に至ることもある高山病。治療は高度を下げる、つまり標高の低い所まで移動するしかない。しかし、ポトシまで来てしまうと、高山病が治まる低地までは車で八時間もかかるのだ。

ようやくエミリオが鼻歌を止め、「明日に向かって撃て! ですよ。覚えてます?」といった。

「ああ。そうね」

耳に刺さる鼻歌が聞こえなくなり多少楽にはなったが、言葉を返すと頭が痛む。私は既にボリビアの入り口であるラパスで一度高山病を経験してきた。ラパスの空港は標高四千八十メートル。世界一高い場所にある国際空港である。高地順応ができていない人間であれば、まず降りた途端に高山病になる。しかし四千メートルの高地を経験し、それに順応するなど日本では出来ぬ相談。あり得ない。なにしろ日本でいちばん高い富士山でさえ四千メートルに届かないのだ。つまりほとんどの日本人はこの国に入った瞬間、高山病になるわけだ。

高山病の症状は途中で立ち寄った標高二千八百メートルのスクレで一旦回復したが、四千七十メートルのここポトシに来てまた完全にぶり返した。まだ高地順応ができていないのだ。

どういう訳かエミリオが、「ラストでポール・ニューマンとロバート・レッドフォードが逃げ込んだ国がボリビアだったんですよ!」と嬉しそうにいった。

「そうだったっけ」頭痛でいっぱいの私の頭の中に映画のラストシーンがおぼろげに蘇った。確か、警察官に囲まれ銃撃戦になり、にっちもさっちも行かなくなった二人は一か八か警官隊に向かって飛び出して行ったのだ。二人のストップモーションに、激しい銃声がオーバーラップし、映画は終わったのではなかったか。

「あれは、ボリビアだったのか。じゃあ、ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドはボリビアで死んだんだ」

「そうなんですよ」ちょっと誇らしげにエミリオがいう。「ブッチ・キャシディとサンダンス・キッド。二人の名前、よく覚えていましたね」

「あれって、本当の話だったの? フィクションじゃなく」

「そうですよ。でも、あんな派手な撃ち合いで死んだのは嘘で、二人の最後は追い詰められて自殺したらしいです、実際のところは」ワインを飲み干したエミリオは赤ワインのボトルをつかむと自分のグラスにどぼどぼと注ぎ足し、私のグラスにも注ごうとする。「オートラベス、もう一杯いかがですか?」

「いや、もう、勘弁してください」と私はぐったりしながらエミリオに答えた。何しろ私たちは標高四千七十メートルのレストランにいるのだ。そのこと自体、日常という範囲を超越している。こんなところでよくがぶがぶと酒が飲めるな、と私はほとんど呆れながらエミリオが酒を飲むところを眺めていた。やがて赤ワインのグラスをぐいっと飲み干したエミリオは、酔っぱらって座りはじめた目を私に向けた。

「それだけじゃありませんよ。映画とは関係ないですが、チェ・ゲバラもこの国で死んだんです」

ペルーのクスコなどにしょっちゅう行っているエミリオは完璧に高地順応ができている。まるで普段、低地にいる時と変わりがない。普通に酒を飲み、気持ちよく酔っぱらった様子で、ますますいいペースで自分のグラスにワインをどんどん注ぎ足していった。そんな特別な人間につられてワインをがぶ飲みした私がバカでした、と私は神様がいるなら懺悔したい気分である。

「昔からこの国を甘く見ていた人は酷い目に遭うんですよ。ボリビア人はバカだとか、遅れているとか、夢にも思わない方がいいですよ」

じっさいのところ、私もボリビアを甘く見ていた。その報いがこれではなかろうか、高山病による死の予感が現実になりつつある。

「おれも、この国を甘く見ていたかも」私は呟いた。

「は? 何かいいましたか?」エミリオがこっちの耳が割れるような大声で怒鳴り返す。この男はまた、歳で耳が遠くなってきているのだ。それで普段でも人より大きい地声がますます大きくなっているようなのだ。「もうじきクリスマスのディナーがきますよ」

エミリオが厨房に向かってスペイン語で何事かを叫んだ。「おーい、早くしろ!」といったところだろう。しかし私はもう、クリスマスのディナーなどどうでもよくなっていた。こうなることは分かっていながら酒を飲んでしまった後悔と、早く楽になりたいという願いが、がんがんに痛い頭の中に充満している。

「エミリオさん、おれ、悪いけど一秒でも早くホテルに戻って横になりたいんだけど」と私がいうと、

「横になると高山病の症状はよけいひどくなりますよ」にやりとしながらエミリオは私に忠告してくれた。

ブッチ・キャシディもサンダンス・キッドもチェ・ゲバラもこの国で死んだ。誰もがこの国を後れた地味な国だと甘く見て、大変な目に遭うのだ。ボリビアはそういう国である。

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