世界一高い空港
話はネグロ川を訪ねる二年前にさかのぼる。
私はボリビアの首都ラパスの空港に降り立った。なんと海抜は四千七十メートル。世界一高い場所にある国際空港である。私にとって四千メートルをこえる標高に立つのはそれが初めてのことだった。
いきなり降り立つ四千メートル。飛行機を降り、イミグレーションのカウンターに並んだ時から、私は体に違和感を覚えていた。ふらふらして、一歩足を前に進めるのも苦しいのだ。その時の私は、それが高山病の前兆だとは知る由もなかった。話には聞いていたが、何しろ高山病というものを経験するのは初めてだったからだ。その上日本ではまず体験できない症状である。富士山頂あたりに行けば多少それに近い症状は出るようなのだが。その時の私は、標高が高ければ体がこんな反応をするんだな、ぐらいに軽く考えていた。高山病を甘く見ていたのだ。
しかし、イミグレーションを出る頃にはもう、息も絶え絶えになっていた。自分で自分の体をコントロールできない状態なのだ。ペルーから同行している、コーディネータの日系人、エミリオ・Kが手配した車の運転手が、スーツケースを運んでくれたことが唯一の救いだった。
「運転手のマルセロさんです。私とは二十年の友だち」エミリオは私に運転手を紹介した。
「ああ。どうも」私はそう答えるのがやっとだった。マルセロと握手もできなかった。
エミリオ・Kはペルーの首都リマ在住の日系人で、撮影のコーディネータ歴はもう三十年にもなるというベテランだ。従って彼が私に紹介する人物は、全て何十年来の友だち、ということになる。
「マルセロさんはボクがボリビアで手配する撮影の時はいつもドライバーを引き受けてくれてます。でも普段は旅行会社の仕事が多いんです」
「ああ、そう」
陽気な大声ででエミリオがマルセロのことを話してくれているのだが、私はもはや返事をするのもおっくうになっていた。エミリオは地声が大きい。しかも話し好き。いつもならいい退屈しのぎになるのだがこの日ばかりはそれが鬱陶しい。後頭部は中から小さなハンマーでこつこつと叩かれるように痛み、息を吸い込むことが困難で、足は鉛のように重い。へろへろの状態で、私はエミリオに続き、マルセロの運転するおそらくおよそ二十年前のトヨタ・カローラの後部座席に乗り込んだ。
「これからラパスの市内へ向かいます。今晩はラパスに一泊して、明日の朝早く飛行機でスクレに飛びます。それから車でポトシに行きます」
エミリオが今回のロケハンの予定を説明してくれた。ロケハンなのでカメラマンや技術スタッフは同行しない。エミリオと私の二人だけだ。エミリオの大きい地声が頭にがんがん響く。「やめてくれ」といいたいところなのだがその気力すら出て来ない。
ラパスの空港から市内へは、ひたすら坂道を下って行く。従ってラパス市内に近付くにつれ、標高は低くなる。気のせいか市内に近くなるほど体が楽になるように私は感じた。既に太陽は沈み、夜の闇が辺りを覆い始めている。家々に明かりが灯り、標高が高いせいかきらきらと輝く。ただの家の明かりなのに美しいと感じる。
「こういう高い所は初めてですか」私の状態を気にかけてもいないようにエミリオは話し続ける。
「ええ。初めてです」黙ってラパスの夜景を見させてくれればいいのに、と思いながら私はどうでもいいような返事をした。
「空港の酸素ボンベは見ました?」
「そんなもんあったっけ」
「着陸した途端、具合が悪くなるひとが多いんですよ。高山病です。ペルーでもツアーに来た日本人がいきなりマチュピチュに行こうとして具合悪くなることが多いですよ。なにしろ入り口になるクスコの空港が三千三百六十メートルですからね」エミリオは基本的に話し好きな男で、常に沈黙を恐れるかのように喋り続ける。「でもここはもっとすごい。ラパスの空港は四千七十メートルもあります。世界一高いところにある空港ですからね」
「まったくよりによって何であんなところに空港を造りやがったんだろう」話すのも苦しい状態だったが、私はいちおうエミリオに言葉を返した。車はいつしかラパス市内に入っている。先住民、インディヘナ系の顔だち、民族衣装を身につけた人がほとんどだ。
「今は空港よりちょっと標高下がってます。ラパス市内は三千六百五十メートルしかありません。どうですか、空港よりちょっと楽になってませんか」
「ああ。そんな気もしないでもないけれど」
しかし、市内のホテルに着く頃には、私の体調は更に悪くなっていた。高山病は時間がたつほど進行することを私は知らなかった。時間がたてばたつほど、症状が重くなるのだ。
ホテルは二十一階建てで、ロビーのレセプションの上には、五つ星が並んでいる。いつもなら『おお、五つ星か』と感激するところだがそんな余裕はさらさらない。
「オテル・プレジデンテ。ラパスでいちばんいいクラスのホテルを予約しました」チェックインの手続きをしながら、自慢げにエミリオがいった。「でも値段はいつもどおり。エミリオが交渉して値切りました。ロケの時もこのホテルに泊まるという条件でね。どうですか、いいですね」
自分の功績をアピールするエミリオの声が、ものすごく遠くから聞こえてくるように感じる。その時もはや私は、座り込んだロビーのソファから立つことも難しくなっていた。顔色が蒼白になっていることが自分でも分かった。
「大丈夫ですか。マテ茶でも頼みましょうか。高山病に効きますよ」
「はあ、それはぜひお願いします」
エミリオがフロントで様々な手続きをする間、私はコカの葉でできたというマテ茶を飲んだ。やがてエミリオが、「サービス券もらいましたよ」と嬉しそうに部屋の鍵と割引券のような紙を手に私に近づいてきた。「どうですか、最上階のレストランでウェルカムドリンクでもいかがですか」
「いや。それよりはあの、部屋ですこし休みたいんですが」
「あ、そうですか!それは残念!」エミリオはちっとも残念ではなさそうにいうと、私の荷物を運ぶようにボーイに指示し、部屋の鍵を手渡した。
「ではボクがミカミさんの分のサービス券もらっちゃいますね、もったいないですからね」エミリオは確認するように私の目の前で二枚のサービス券をひらひらさせた。
「どうぞ。ご自由に。では後ほど」私はソファーから立ち上がろうとしたがうまくいかなかった。自分がまるで足腰の悪い老人になったような気がした。私はエミリオとボーイに手を貸してもらい、ソファーからよっこらしょ、と立ち上がり、ボーイの後に続いてエレベーターへと向かった。
「あ、そうだ。高山病気味であれば気をつけて下さいね。横になるともっと具合が悪くなるかもしれない。寝るときは壁にもたれるとか、頭を立てておくんですよ」とエミリオが私の背中にアドバイスをくれた。私はもはやふり向いてそれに答える余裕もなく、右手を上げてエミリオに返事をした。エレベーターに乗り込む前に、「では明日。おやすみなさい!チャオ」というエミリオの陽気な声が聞こえてきた。
部屋に入って、スーツケースを開け、日本で買ってきたダイアモックスという薬を飲んでみる。本来は緑内障の治療薬だが、日本では唯一高山病に効く薬だといわれている。
ソファに腰掛けてはあはあ息をしていたが、だんだんずきずきする頭の痛みが強くなってきた。ダイアモックスはまだ効いてくる気配がない。とにかく眠らなくては、と冷蔵庫を開け、ビールを飲んでみた。体調がよくない時は眠るに限る、それは私が数々のロケで学んだ知恵であり自らに課している鉄則だった。
ビールは味もわからない程だった。しかしアルコールの回りは早かったようで、私はエミリオの忠告もすっかり忘れ、ベッドに横になって眠ってしまったのである。
夜中に何度も目が覚めた。実は眠りが浅くなるのも高山病の特徴の一つである。これも後から学んだ知識ではあるのだが。起きるたびに頭の痛さは確実に増していた。
眠ったのか眠れなかったのかわからないような一夜をすごし、エミリオからの電話で目が覚めた時は朝だった。
「おはようございます。出発の時間です! ロビーでお待ちしてます!」受話器から、更に頭痛を増すようなエミリオの元気な大声が響いてくる。
私は受話器を置き、スーツケースを閉じ、鍵をかけようとしたがうまくいかなかった。信じられないことに、指先がいうことを聞いてくれないのだ。細かい作業が全くできなくなっていた。これも高山病の症状の一つなのだろう。スーツケースの鍵と格闘することおよそ三十分。ついにけたたましくドアがノックされた。
「エミリオです、大丈夫ですか」私はよろよろと立ち上がり、やっとのことで部屋のドアを開けた。
「スーツケースの鍵が閉められなくて。すみません」
私の顔をじっと見て、エミリオがいった。「ああ。高山病ですね。大丈夫、スクレに行けば直りますよ。あそこは二千七百九十メートルしかありませんから」
エミリオの言葉を聞き、助かった、と私はほっとした。「スクレに着くのは、何時頃ですか」
「まあ、乗り継ぎとかがあるから、夕方になるかな。でもボリビアは必ず飛行機が乗り継ぎで遅れますので夜になるかもしれません」
「そうですか。早くて夕方ですか」
どくどくと脳そのものが脈打つような痛みに襲ってきた。スーツケースをいとも簡単に閉じ、鍵をかけるエミリオを見ながら、それまで自分はもつだろうか、と私はぼんやりと考えていた。
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