ピンクイルカを呼ぶ少女

私たちはアマゾン川のクルーズ船アプリサウア号を貸し切りにして、アマゾン川の支流のひとつ、ネグロ川を遡っていた。出港地マナウスを出てからもう十八時間もたっている。船にはトイレシャワーつきの個室があり、賄いの女性も乗船していていたって快適である。

今回のアマゾン川クルーズには水中カメラマンのフルサワと撮影助手のササモトも合流していた。つまりロケ本番の旅である。

朝の食事を終えた私はもはやすることもなく、ずっとデッキのハンモックに揺られながら雄大なネグロ川の景色を眺めていた。ネグロとはブラジルの公用語、ポルトガル語で黒を意味する。その名の通り黒い川だ。なぜかというと、ジャングルの落ち葉からタンニンが流れ出し、川の色を染めているからだ。

「つまり、紅茶のようなものですね」と隣のハンモックに寝そべっていたコーディネータのマリオ・Oがいった。マリオはサンパウロ在住の日系ブラジル人二世で、私と同世代ということもあり、話が合う。ブラジルで撮影がある時は、必ず私はコーディネータにマリオを指名していた。

「水の中に入れば、赤い色をしています。でも、太陽光線の屈折の関係で表面では黒に見えるということです。私は科学にあまり詳しくないのでそれ以上のことは説明できないのですが」

「いいさ。それで十分だよ」と私は答えた。

私とて理系の話は苦手だ。なんとなく理由がわかればそれでいい。雨や洪水でジャングルの落ち葉から紅茶の葉っぱと同じように色のついた水がしみ出し、赤い水となって川に流れ込む。それが太陽光線の屈折でどうしたわけか表面では黒く見える。それで十分。なんとなくネグロ川がわかった気分にはなる。

一方、マナウスでネグロ川と合流するアマゾンの本流、ソリモンエス川は白い川だ。こちらはアンデスの土を削り取って運んでくるから白いのだという。

「しかし、ネグロ川はどっかの土を削ってはこないのかい?」新たに生まれた疑問。私はマリオに質問した。

「ネグロ川はとても古い川なのです。とてもとても古い。もはや削り取る土がないほど古い。だから、川底は石です。土は全て削られて運ばれてしまった」とマリオは答えた。

すると、今は泥水のように白いソリモンエス川も、私たちが死んで遙かな時がたてばやがてネグロ川のように黒くなるのだろう。

ネグロ川はアマゾン川最大の支流である。支流といっても、対岸が見えないほどの川幅がある。こういう想像を絶したスケールの場所にいると、自分の日頃抱えているちっぽけな悩みはいったい何なんだろうと思う。同時に、このスケール感をテレビで伝えるのは不可能だろうな、と思う。世界には、自分の目で見て感じることしかできない大きさのものがあるということだ。「行けばわかるさ」という言葉があるが、行かなければ絶対にわからない世界がまだまだたくさんある。そんなことを考えながら、アマゾン川を遡る船のデッキチェアに寝そべり川を眺めていた。ここで「川の流れのように」でも聞けたら最高だろうな、なんてことも思う。

船が進むにつれ、時おりピンクの背びれが、黒い川からふいに現れて、船に近寄ってくるようになった。アマゾンカワイルカである。川にイルカがいるのを見たのはその時が初めてだった。最初見た時はかなり感動したが、見慣れてしまうとあたりまえの景色になってしまうから人間の慣れというものは恐ろしい。マリオと二人、黒い川に見え隠れするピンクの背びれをただぼんやりと眺めていると、

「そういえばなぜアマゾンにイルカがいるか知っていますか?」とマリオが私に質問してきた。

「いや。何か特別な理由でもあるの?」私はそんなことは考えたことがなかった。イルカや魚がその場所に存在する意味など考える人はあんまりいないのではないだろうか。

「アマゾン川は、かつて海でした」マリオはいった。

「え、そうなの」私は己の無知を恥じた。

「地殻変動で海が陸地に囲まれ、まず巨大な湖となりました。私たち人類が誕生するはるかはるか以前の話です。その時湖に取り残されたイルカの子孫が、アマゾンカワイルカといわれています」

「なるほど。すると、エイもそうなのか」

私は先日水中カメラマンのフルサワが生け簀の中で撮影した淡水エイのことを思い出した。川沿いに住む漁師が、アマゾン川の水をひいてきて、自然と同じ状況を再現した生け簀である。アマゾン川は水質こそきれいな川なのだが、水は濁っているので実際に川の中で水中撮影をして生き物の姿をとらえることはかなり難しい。ほとんど不可能といっていいほどだ。そこで自然を再現した水深の浅い生け簀をつくって魚を放し、クローズアップを撮る、という手法がネイチャードキュメンタリーでは一般的である。水深が浅いと光もたっぷり入るので、多少水が濁っていても対象はクリアに撮影できるのだ。この手法を発明、その後発展させたのはイギリスの国営放送BBCのスタッフだといわれている。さすがに彼らはネイチャードキュメンタリーの世界では一日、いやそれ以上の長がある。長年培ってきた歴史と伝統の賜だ。BBCが作った、更に大きいアクリルの生け簀も見たことがある。大型特別番組で一回だけ使用し、スタッフはそれをホテルの敷地に放置して帰国してしまったという。私もそのホテルに泊まった折、オーナーから「安くしておくから買わないか」と提案を受けたが断った。コストパフォーマンスが悪すぎる。ちょっと魅力的な提案だったが。我が国の国営放送もこの手法はよく使う。動物や魚のクローズアップはそのほとんどが檻や水槽の中で撮影されるのだ。

話を淡水エイに戻そう。これはアマゾン川に生息する小型のエイで、尾の棘に猛毒がある。泥の中にいるのでうっかりこいつの棘を踏んづけてしまうとまず助からないらしい。恐ろしい生き物だ。

この、淡水エイの存在を知った時私は、

(まあアマゾン川だから淡水エイもいるんだろうな)とさして不思議にも思わなかった。とにかく、サイズひとつとってもアマゾン川のスケールは人間の想像力を超えている。だから何がいても、何が起きても不思議とは思えなくなってくるのだ。アマゾンカワイルカだって、いてもちっとも不思議ではない。


アプリサウア号は最初のロケーション・ハンティングの目的地である滝に近付くと、錨を下ろし停泊した。滝、と呼ばれてはいるが、正確にいうと川底の段差が露出したものである。アマゾン川は雨期と乾期で水位が十メートル以上違う。乾季になって川底が水面に近付き、段差が現れて水の流れを邪魔するのだ。雨期になると深く水没するので問題なく大型船でもその上を通過できるという。

八月は乾季のまっただ中である。年間を通じていちばん降雨量が少ない。これからアマゾン川の水は、一日一日と少なくなっていくのだ。

「カントク、滝の近くまで行ってみましょう」マリオは若い船員にボートの準備をさせ、私達は滝に近付いていった。「これは、雨期にはなくなってしまう滝なんですけどね」とマリオがいう。

滝に近付くにつれ、水面を覆う泡が増えていった。滝の付近では川一面を覆う泡となった。滝が川を泡立てているのだ。ネグロ川の水には、洗剤と同じ性質をもつ界面活性剤のような成分が含まれていて、それが攪拌されることで泡立つのだという。それは不思議な光景だった。水は決して汚染されている訳ではない。しかし、間違いなく泡立っている。

滝のすぐ上流には、川底の岩が多く顔を覗かせていた。

「ちょっと上陸してみましょう」とマリオがいった。

私達はボートを岩に接岸させるとその上に飛び降りた。露出した川底の岩、と言っても、広さは大きなものではタタミ五畳ぐらいはある。

「これがみんな、雨期になると川底に沈むってこと?」私がいうと、

「そうですよ。雨期には完全に見えなくなります」と私に続いて岩に飛び乗ったマリオが答えた。

その時である。岩の割れ目に何か動いているものがいたのである。近寄ってみると、甲羅の大きさが三十センチほどもある亀だった。どうした訳か岩の割れ目に横向きにはさまってしまい、動きがとれなくなっていた。亀は懸命に首を伸ばし、手足をもぞもぞと動かしていたが、とっかかりがないため、全ての努力が徒労に終わる。私は亀の甲羅に手を伸ばし、岩の割れ目から取り出してやった。

「何かいましたか」マリオが近付いて私が手にした亀を覗き込んだ。「ああ、タルタルーガですね」

「タルタルーガ?」

「その亀の名前です。昔のアマゾンには蟻塚に群がる蟻みたいにたくさんいたとインヂオは言っています。どうしたんですか?」

「ああ、岩に挟まれていたんだ。身動きがとれなくなっていたから、助けてやったんだよ」

「それはいいことしましたね。大きくなると、一メートルにもなるって言いますよ。それほど大きいやつはもうめったに見ませんけど。ちょっと、弱っているようだから、船で何か食べ物をあげて、様子を見てから川に戻しましょう」

私はマリオの忠告に従うことにした。船に戻り、食堂から金ダライをひとつ借りて水を入れ亀を入れ、キャベツの葉やフルーツを放り込んだ。

「きっと、亀を助けたからこの先いいことがありますよ」亀に餌をやりながらマリオがいった。「すごくいいことが起きると思うな」

私はなぜか浦島太郎のエピソードを思い出した。


船は、ノバ・アイロンという町に立ち寄ることになっていた。食料を買い、撮影を予定している古代魚ピラルクーの情報を得るためだ。一億年以上前からアマゾン川生息するというピラルクーも、もちろん自然の状態では水中撮影など不可能に近い。マリオはピラルクーを人工飼育している生け簀の情報をこの町で得ようというのである。

小さいながらも町には学校も商店も飲食店もあった。マリオが地元の漁師から情報をもらいに出かけている間、私とカメラマンのフルサワはネグロ川に面したカフェ・バー兼レストランでビールを飲んだ。フルサワは東京水産大学大学院を出た後、水中撮影を生業とするために技術会社に入りカメラマンになったという変わった男だ。スキューバ・ダイビングの名手である。オットセイのような体型をしている。いや、年々トドに近づいているかもしれない。

私たちが二本目のビールを飲み終えようとしていた頃、マリオが息せき切って店の中に飛び込んできた。「ピンクイルカを呼ぶ女の子を見つけましたよ」

「ピンクイルカって、あのアマゾンカワイルカ?」私はマリオにいった。アマゾンカワイルカの成獣は皮膚がピンク色をしているゆえ、ピンクイルカとも呼ばれている。いうまでもく、水中では水の色が赤く見えるネグロ川の中では完璧な保護色となる。

「ピンクイルカを呼ぶ女の子? なんだそりゃ。そんなものがいるはずねえじゃねえか」フルサワは、マリオをからかうようにいうとビールをあおった。

「それが本当にいたんです」ふだん冷静なマリオが珍しく興奮した口調でいった。「どうしますか?会ってみますか。交渉して撮影させてもらいましょうか」マリオがたたみかけるように私に聞いてくる。

「そりゃあ、そんな奇跡みたいな女の子がいたらもちろん撮影したいけどね」マリオのいうことを話半分に聞いていた私は答えた。南米ではよくある話だ。ほんのちょっとしたことなのに話が何倍にもなっている大ボラ系の話、あるいは初めから日本のテレビクルーを引っかけようとする実態のない話。「ピンクイルカを呼ぶ少女」なんてその手の話の典型だろうと思ったのだ。

(アマゾンカワイルカを呼ぶ少女? そんなオーパーツ系の話、ある筈がないじゃないか)

内心そんなふうに思いながら、

「で、その女の子はどこにいるの?」と私は面白半分にマリオに尋ねた。

マリオはにやりと笑うと、「もうじき帰って来ますよ」という。

「この店の娘さんです。そろそろ学校が終わって、帰ってきますよ」

「そんな都合のいい話あるのかよ。馬鹿にしてやがる」と既にほろ酔い加減のフルサワがグラスに残っていたビールを飲み干した。この男、ふだんはけっこうちゃらんぽらんなのだが、水中撮影や魚介類の話になるととたんに人が変わり真面目になる。いい加減な話は許さないぞ、という正義の男に変身するのだ。

「やってらんねえや。もう一本」フルサワは食堂のウェイトレスに手を上げ、ブラマビールを一本追加注文した。

その日は撮影を予定してはいなかった。まあビールを飲んで終わりにして大丈夫かな、と私は思った。酒の肴にその、イルカを呼ぶ少女にひとつ実演をしてもらい、案の定イルカなんかは現れず、「ありゃあ酷い話だったな」と大笑いして終わるのもいいな、ぐらいなノリの話である。

私たちはビールを飲みながら、その女の子の帰りを待つことにした。フルサワと、あそこではこんな馬鹿げた話に騙された、あの国にはこんな出鱈目で酷い奴がいた、という類の話を競い合いながら。

それから一時間ほどが経過した。大瓶のビールが、その後更に三本空いた。すると店の正面、道路側から二人の少女が入って来た。店はネグロ川の岸に接岸しているフローティングハウスである。水位が変わるとそれにつれて移動していくのだ。

「マイーザ?」マリオが背の高い方の少女に話しかけると彼女はこくんとうなずいた。すこし警戒するような光が目の中にある。マリオはポルトガル語でマイーザに話しかけた。マイーザが頷いた。

「この子がその女の子です。さっそくイルカを呼んで貰いますか?」マリオが確かめるように私の顔を見た。

そんな奇跡のような行いをする人物に、これほど簡単に遭遇できるとは思ってもみなかった私は、面白半分にただ頷くしかなかった。

マイーザと一緒に帰ってきたのは妹で、モニーケといった。二人ともアマゾンカワイルカを呼べる、とのことだった。私たちは姉妹に案内され、店の裏側に回った。そこにははしけがあり、船が着けるようになっていた。マイーザははしけの端まで歩いて行くと、その場にしゃがんでネグロ川の水面をぱしゃぱしゃと手のひらで叩いた。

何も起こらなかった。ただ少女は沖合に目を向けたまま一心に水面を叩き続けている。

「やっぱり、そんなことありっこねえよ。おれだって世界中で水中撮影してきたけど、そんな話見たことも聞いたことないもん」カメラマンのフルサワは少女の行為に既に関心を失っていた。むしろ店の中に残してきたビールの方が気がかりなようだった。

その時、「見てください!」とマリオが叫んだ。「アマゾンカワイルカが来ますよ!」

ネグロ川の真ん中あたり、はしけからおそらくおよそ五、六百メートル離れたところにピンクの背びれが見えたのだ。背びれは次第にその数を増し、こっちに向かって近付いて来る。

「おい、ち、ちょっと待てよ」いちばん動揺したのは、カメラマンのフルサワだった。「せめてシュノーケルとってくるから」

フルサワは大あわてでスキンダイビングの準備を整えるため、近くに停泊していた私たちの船に戻って行った。

はしけでは、七~八頭のアマゾンカワイルカが、マイーザの周りに群がっていた。マイーザは躊躇することなく、ネグロ川の中に飛び込んだ。水面にぽっかり浮かんだ彼女の頭の周りを、カワイルカたちが取り囲んだ。

戻ってきたフルサワは、放心したようにその光景を眺めていたが、

「おれたちは奇跡を目撃してんだよ」といって撮影助手のササモトの頭をなぜかひっぱたいた。「音をたてるんじゃねえ」

フルサワは慌ただしくシュノーケルをつけ、そろりそろりとネグロ川に入っていった。さすがベテランの水中カメラマン。イルカたちを驚かせないよう、気を遣ったのだ。

マイーザは近付いてくるピンクイルカたちの頭をなで、時には一緒に泳ぎ、くちばしを抱きしめてキスをした。その姿は、まさにアマゾンの奇跡と呼ぶにふさわしいものだった。

「黒い川」と呼ばれるネグロ川の水は、水中での透明度は極めて低い。他の魚たちと同様、これまでアマゾンカワイルカを自然の中で撮影するのは不可能とされていた。それが、彼らが少女の周りに集まってきてくれるおかげで可能になるかもしれない。

「ほら、私の予言は的中したでしょ」私の顔を見て、マリオは笑った。「カントクがタルタルーガを助けた時、きっとすごくいいことがあるって言いましたよね?」

確かにマリオの予言は的中した。

翌日、カメラマンのフルサワはビールを飲まずにマイーザとネグロ川に入り、アマゾンカワイルカの水中映像を撮りまくった。その映像は、日本に帰り放送されると当然のように大いに反響を生んだ。

「やればできるじゃないか」アマゾンカワイルカと戯れる少女の映像を見たプロデューサーのオオタは唇の端だけを歪めてにやりと笑うと、「もうすこしディレクター続けるか」といった。

私は、アマゾンカワイルカに救われたのである。

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