ブラジルの赤い土

ブラジルの南部、ミナス・ジェライス州。南米大陸でよく目にする赤土の大地を切り開いた道を、私たちを乗せたロケバスはもう三時間ほど走り続けていた。車は韓国のヒュンダイがつくったトヨタ・ハイエースのコピーである。形はそっくり、しかし助手席に乗るコーディネータのマリオによると、パワーや足回り、ボディのつくりなど少しずつ本物に劣るという。私たちの目的地は次のロケ地オーロ・プレット。ブラジルを代表する古都で世界遺産のひとつである。日本でいうなら京都みたいな存在か。オーロ・プレットとはポルトガル語で「黒い金」の意味である。中世この近くで金鉱脈が見つかり、その後しばらくは金の採掘で栄えた町だ。いわばバブル景気の名残である。どこでもかしこでも、歴史は繰り返す。

「ハイエースは名車だと思いますよ。ヒュンダイはまだまだトヨタにかないませんね」

と助手席のマリオ・Oはいう。彼はなかなかの車好きだ。売店でちょくちょく自動車雑誌を買い求めては、暇があるとめくっている。もはや日本では少なくなった人種である。

マリオのいうことは正しい。前のロケ地、やはりブラジルの世界遺産コンゴーニャス・ド・カンポでは、この車が急な坂道を息も絶え絶えに登っていたことを思い出す。トルクが不足しているのである。みんなで下りて車を押そうかと思ったほどだ。

マリオはサンパウロに住む日系ブラジル人。今回のロケのコーディネータを務めている。コーディネータとは、海外ロケには必須といえるスタッフだ。おおむね現地に暮らし、日本語と現地の言葉を話し、撮影場所や関係者との交渉を行い、あるいは事前に許可どりを行う。日本人スタッフとロケ地の橋渡しをする、貴重な存在だ。いいコーディネータがいればそのロケは成功する確率が高くなるし、たちが悪い奴にぶつかると、そのロケは限りなく不快なものとなる。最悪、没ネタになってしまうこともあり得るほどだ。南米の場合、コーディネータはやはり現地生まれの日系人が多い。

マリオは一時日本の制作会社の技術部に勤めていた。しかしあまりの仕事のきつさに嫌気がさし、一年ももたずにブラジルに帰ったという経歴の持ち主だ。その後しばらくしてサンパウロをベースに撮影のコーディネート業を始めた。日本にいた頃はストレスからしょっちゅう円形脱毛症になったというが、ブラジルに帰ったとたんにそれが治った、と笑いながらいう。

「一年続けてたら死んでましたね」今では半ば冗談めかした口調でマリオはいう。「それにしても日本人は、どうしてあんな狂ったように働くんですかね」

「悪いな。確かに今回のロケじゃおれたちも、毎日狂ったように働いてるな」私が一発皮肉をかますと、

「いえミカミさん、そんな意味でいったんじゃないんですよ」とマリオは慌てて否定した。

「いいんだよ。日本って国と国民がおかしいのは事実なんだから。この国に来てよくわかった」

マリオは助手席、私はその真後ろ、ヒュンダイの二列目のシートに座っている。私の隣にはカメラマンのムラタ、三列目のシートにはVE(ビデオエンジニア)兼録音技師のウエタと照明のタカハタという配置である。世界遺産を取材する私たちの人員構成は基本がディレクター、カメラマン、VE、照明の四名。日本から出むくのはたったの四人。撮影対象が町や建物、自然といった動かない大きなものが多いがゆえ、カメラの方が動こう、カメラを動かそうというのが撮影の基本姿勢だ。そのため、カメラを上下に動かすミニクレーンや横移動させるためのライトレールという携帯用のレールなども常に携えている。カメラはソニーのHDカム。現在のように一眼レフでハイビジョンや4Kを撮影できるほど技術は進歩していなかった。カメラがでかくて重ければ付属用具も必ずそうなる。でかくて思いものをしっかりと支えなくはならないから。その結果、私物も含めると、機材の総重量は軽く300キロを超えた。航空機のオーバーエキセス、重量超過料金もけっこうなものとなる。オンエアは毎週あるので、四人で300キロの荷物を携えた五つほどのチームが、常に世界中のどこかで世界遺産を取材しているという状況にあった。レギュラーのディレクター連中は取材を終えては帰国して番組を仕上げ、それが終わる頃また出発するというサイクルで動いていた。

当時、「え、スタッフって四人しかいないんですか」といつも人には驚かれた。そうなのだ。いつも四人である。特例はない。これより少なくなることはあっても、増えることはない。これは制作プロデューサーのオオタが決めたルールである。なにしろ撮影の対象は天下の世界遺産だ。予算に際限がなかったら、いくらでも金を使い、日数を費やしていいのもをつくりたい、それが制作者、特にディレクターやカメラマンの本能というものだ。しかし予算は限られている。プロデューサーのオオタは海外取材番組ひと筋に生きてきた男で、長年の経験からこのスタッフの人数を割り出した。ロケ日数にも決まりを作った。ピラミッドのような文化遺産が七日。アマゾンのジャングルなどの自然遺産が十日。これにも特に根拠はない。やはりオオタの経験からはじき出された数値である。この人数と撮影日数をオーバーしなければ、よほどのことがない限り予算はオーバーしないという寸法だ。

それでも私たちは、少人数の割に大がかりな撮影を世界中で敢行してきた。たいていの場合現地のスタッフを雇い、大型のクレーンや空撮のヘリコプターを現地で調達しなければならない。そういう現地スタッフの手配も、マリオのようなコーディネータの仕事である。だから、コーディネータは、人手の少ない私たちにとって、かなり重要なパートナーといえる。ある意味、撮影の成功はいいコーディネータ選びにかかっているといっていいほどなのだ。

私の隣の席にいるカメラマンのムラタは先ほどからすうすうと気持ちよさそうに寝息をたてている。三列目のシートにいるVEのウエタと照明のタカハタもまた、眠っている。たいてい彼ら技術スタッフは、移動中は眠っている。そうやって体力を温存しているのかもしれない。あるいはそれがすっかり習慣化してしまったのか。移動の車に乗ったら、条件反射的に眠りに落ちる。長年の経験から体がそういう風に記憶してしまったのかもしれない。私などは流れていく外の景色がもったいないと夢中になっていつお外を眺めているから移動の社内ではとても眠れたものではない。何しろ一生に一度来るか来ないかという場所に来ているのである。そのことは脇に置いとくとしても、ディレクターは移動中の車内では眠る訳にいかないのだ。移動の途中で何に出くわすかわからないからだ。それは、珍しい動物であったり民族衣装を着た美しい女性だったりあるいは葬式などの儀式であったり形の変わった雲であったり山であったりいろいろで、いちいちあげればきりがない。珍しいものを目撃したら即撮影。私はそのように決めている。すべては一期一会なのだ。まあいいや、帰り道に撮ろうなどと思っていると、決してそうはならない。対象は消えている。時間が変われば、状況も変わる。世界は常に動いている。その一瞬がすべてである。くり返しはない。だから、移動中、少なくともディレクターだけは眠ってはいけないのだ。たとえどれほど疲れていようとも。

そもそも私は、ガキの頃から移動することが大好きだった。それはもう、病的といっていいほどである。移動しているという状態が好きなのだ。父親は地方のバス会社に勤めていた。すると家族は「家族パス」というものを支給される。パスを持っていれば、その会社のバスに乗っている限り、どこへ行っても無料である。私は物心ついた時からその特権をフルに利用していた。確か、初めて一人でバスに乗ったのは四、五歳の頃ではなかったか。五キロほど離れた町に祖父と祖母が住んでいて、その家に遊びに行くのである。ほとんど毎日のように私はバスに乗った。やがて祖父の家に行くだけでは飽き足らなくなる。移動距離は少しずつ伸びていく。とはいえ小さな子供のことだ。どこか知らない町に行っては、帰ってくるだけである。それでも楽しかった。見知らぬ土地に行く、というだけでわくわくしていた。そうした体質は、今もってまったく変わらない。三つ子の魂百まで。とはよくいったものである。年を取るとともに移動する距離は増え、ついにこうして地球の裏側、南米大陸にいる訳だ。いや、いるというよりは、すっかりいり浸っているのだが。

「年間に自殺する人が三万人。それが十年以上と聞きました。日本は怖い国ですね」と助手席のマリオがいった。狂ったように働く日本人、まだ先程のテーマで会話は続いていた訳だ。

「休まないからじゃないのかなあ。日本人は子供の頃からいつも何かに追い立てられるように暮らしている。いい学校に入るため。いい会社に入るため。いい暮らしをするため。子供ができると今度は、子供たちを同じサイクルに押し込めようとする。するとまったく休む暇がなくなるんだ」

「聞いてるだけで滅入ってきます。疲れそうですね」

「疲れるよ。そしてそういうコースから外れると、なかなか這い上がるのは難しい。コースから外れないために頑張って、過労死、つまり疲れて過ぎて死んでしまうひともいる。自殺が多いのもそのせいじゃないかな」

「ブラジル人はめったに自殺しませんよ。殺人や強盗は多いですけど」

「どっちがいいのかなあ」

「さあ、どちらですかねえ。まあ皆さんがそうやって狂ったように働いてくれるおかげで私に仕事が回ってくるわけですけどね。ハハ」とマリオが笑った瞬間、車が大きく右に左に傾いた。ドライバーが前を走る車に追い越しをかけたのだ。

出発してから気付いたのだが、今回のドライバーはやたら運転が乱暴な男だった。前に車がいると追い越しをかけずにはいられないたちのようだ。ブラジルはネルソン・ピケやアイルトン・セナなどF1の名ドライバーを生んできたお国柄である。スピード好き、或いはそういう血の気の多さが国民全般的にあるのかもしれない。そのせいか交通事故は多いという。

「おい気をつけろよ!」珍しく鋭い口調の日本語で怒鳴りつけると、その後は早口のポルトガル語で、マリオがドライバーに何事かまくしたてた。

ポルトガル語は抑揚が大きく、ブラジル人は身振り手振りを交えて話すので、ちょっとしたことでもひどく大ごとに感じるのだが、さすがにこの時はマリオが真剣に怒っていることがよくわかった。しかしひげ面のドライバーは平然とした顔で受け流し、その上小馬鹿にしたように顎を上に向けると、やはりポルトガル語で短くマリオに何かをいい返した。

「彼に何ていったの?」私は後ろの席から身を乗り出して助手席のマリオに尋ねた。

「はい。雨が降っているんだから飛ばしすぎるなよ、と言いました。幾らする機材を運んでると思ってるんだって」

確かにソニー製のハイビジョンカメラF900をはじめとする私たちの機材は南米にはめったにない高価なものだ。F900はジョージ・ルーカスが「スターウォーズ」を撮るためにソニーと開発したカメラで別名「シネアルタ」という。そのカメラを私たちは世界遺産を撮るために使っている。基本的には映画を撮るためのカメラで、極めて優秀だ。ただし、私たちの撮影のように、湿度百パーセントのアマゾンのジャングルに何日も入ったり、摂氏五十度近くにもなるアルジェリアの岩砂漠を横断したり、マイナス二十度にもなるワルシャワの雪景色を撮りに行ったりすることは基本的に想定外なので、よくワーニングが出て止まってしまうのが玉に瑕なのだが。

「で、あいつは何と答えた」私はドライバーのひげ面の横顔を見ながらマリオにいった。

「わかってるよそんなことは、といってます」困った奴だ、とでもいいたげにマリオはドライバーの横顔を睨みつけた。「でもぜんぜんわかってないな、こいつ」

ドライバーはマリオに睨まれていることなど我関せず、といった感じで鼻歌を歌いながら涼しい顔でハンドルを握っている。

「だいじょうぶかなあいつ」呟きつつ、私は自分のシートに再び腰を下ろした。

私が座っているのはヒュンダイの二列目、つまり真ん中のシートの窓際である。いちばん揺れの少ない、特等席ということだ。ディレクターということで、いちおう優遇されている。しかしそれは、映画監督のように社会的に偉い存在だからではない。つまり私たちは常に最悪の事態を想定している。照明技師が倒れても、VEが倒れても、カメラマンが倒れても、ディレクターだけ残っていればなんとか撮影は続けられるし番組も成立にこぎつけられる可能性が高い。それだけの理由だ。

その特等席に座っているにも関わらず、ドライバーの乱暴な運転のせいか、私はすこし気分が悪くなってきていた。窓ガラスを見ると雨のしずくがさっきより増えている。天気は悪い方に向かっているようだ。出発したのは夕方で、薄明かりが残っていたが、今では辺りは闇に包まれている。そして雨。ブラジルの田舎道にはセンターラインもガードレールも街灯もない。しかし現地の人間は乗用車であれ、トラックであれ、かなりのスピードで飛ばす。だから対向車とすれ違うたびにひやりとする。お互いに減速せず、めいっぱいのスピードですれ違う。テレビのロケ隊が命を落とすのはたいていが交通事故であることが頭をよぎる。或いはヘリコプターの墜落。今回のロケでは当然ヘリに乗る予定もあるのだがとりあえずはまだ先の話だ。

技術スタッフの三人はしかし、私が気分が悪くなるほどの乱暴な運転にも関わらず、誰も目を覚まさなかった。こうなるともう、特技というか超能力である。

『よくこんな状況で眠っていられるものだ』と私はほとほと感心していた。私はもはやディレクターとしての使命感だけではなく、ドライバーに対する不安と不信感からとても目をつぶってなどいられない。かといってどうすることもできず、私はフロントガラスごしに、進行方向の暗闇をずっと見つめていた。

突然、目の前に大きなカーブが現れた。曲がった先が見えない。当然のようにドライバーはまったくスピードを落とすことなくカーブに突入する。車がカーブを曲がり切ると、いきなり目の前にトラックの赤いテールライトが現れた。ドライバーは急ブレーキを踏み、大声で何事か怒鳴った。私と、技術スタッフの三人の体は前につんのめった。

「おーい、いいかげんにしてくれよ」三列あるヒュンダイ・ワゴンの最後部の座席から眠たげな声が聞こえてくる。「ぜんぜん寝てられないじゃないの」

声の主は今回の技術スタッフでは最年長の、録音技師ウエタだった。本職は録音なのだが、今回はビデオエンジニアも兼ねてもらっている。ビデオ映像の色あいを調整したり、マイクを持ち、音を録るのが彼の仕事だ。

ウエタは身体を乗り出して私に、「このひとドライバーに向いてないんじゃないの?」といった。

「まったく運転、荒いですよね」ウエタの隣で、これもさすがに目を覚ました照明技師のタカハタが相づちを打った。照明技師は文字通り、被写体にライトを当てるのが仕事である。

「そう。さっきから怖くて前見てらんないんだよ」私はふり向いて、三列目のシートの二人に答えた。

再び前を見るとドライバーが一旦車を後ろに下げ、ギアをローに入れ助走をつけてトラックを追い抜こうとしている。目がぎらぎらしていた。舌なめずりするような表情。狂人のようだ。

「おい止めろ、無理すんなよ」私は思わず呟いたが日本語なので通じない。助手席のマリオはなぜか何もいわなかった。呆れ果てているのだろうか。

ドライバーが床を踏み抜くようにアクセルを思いっきり踏みこむ。ヒュンダイはスピードを上げ、それでもじれったいほどゆるゆると大型トラックを追い越して行く。パッセンジャーはドライバーを入れて五名、その上私物を入れるとおそらく五百キロぐらいの荷物を積んでいる。車は韓国ヒュンダイ製いんちきハイエース。なかなかスピードは上がらない。

「ひゃー、対向車が来たらどうすんのよまったく」三列目のシートで録音技師のウエタが悲鳴のような声をあげた。

悪夢のような追い越しはそれでもなんとか無事に終わった。ヒュンダイはようやくトラックの前に出て、対向車線から本来走るべき道に戻った。ドライバーは得意げな顔になり、どうだ、といわんばかりにクラクションを何度か鳴らした。いったいこの追い越しで、どんな報酬が得られるというのだろう?まったく理解に苦しむ。助手席のマリオは凍るような目つきでドライバーの横顔を睨み続けている。

やがて雨脚は更に強くなった。時々すれ違う大型トラックが、ブラジルの大地に特有の赤い土を派手に跳ね上げていく。大型トラックの前輪に跳ね上げられた赤土は、べったりとヒュンダイのフロントガラスを覆ってしまう。すると一瞬前方の視界がまったく無くなる。ワイパーが泥を落とすまで数秒間前がまったく見えなくなるのだ。対向車の泥がフロントガラスを覆う度にポルトガル語でおそらく何か呪いの言葉をわめき散らしながら、ドライバーはワイパーを操作し、赤土を拭き落とした。

やがて最後部の座席の二人は、再び眠りに落ちたようで静かになった。やはりこれは超能力かもしれない。私の隣ではカメラマンのムラタが先ほどからの騒ぎをよそに寝息をたてている。この男だけはまだ一度も目を覚ましてこない。大物なのかバカなのか。それともよほど疲れているのか。逆に私はといえば、ますます目が冴えてしまった。この先に再びドライバーが追い越したくなるようなのろのろ走る大型トラックがいませんようにと祈りながら、フロントガラスを叩く雨とその向こうの夜の闇をひたすら見つめていた。

対向車線にヘッドライトが見えた。大型トラック。飛ばしている。ヘッドライトはみるみる迫ってきた。すれ違いざま、たまたま水たまりをタイヤが通過したようで、かなりの量の泥水と赤土を跳ね上げていく。ヒュンダイのフロントガラスは一瞬視界がゼロになる。ドライバーがワイパーを操作したが、今度はなかなか赤土が落ちない。土の量が多すぎるのだ。ドライバーは暗闇に目をこらすように身を乗り出した。

ようやくワイパーが赤土を拭った時、ヘッドライトに浮かび上がったのは、二股の交差点だった。

「危ない!」私が叫んだ時はもはや手遅れ。どうしようもない、何もできない状況だった。

ヒュンダイは、高さが15センチほどの、コンクリートでできた分離帯の真ん中に向かってまっすぐに突っ込んで行った。急ブレーキが踏まれたが、ABS=アンチ・ロック・ブレーキングシステムが作動したらしくタイヤはロックすることなく車は直進した。けっこうなスピードで突っ込んだのだが私にはそのシーンがハイスピード撮影の再生、すなわちスローモーション映像のように見えた。最悪の状況だったが、へえ、ヒュンダイにもABSがついていたんだ、とその時私はなぜか感心した。次の瞬間、ガガガガガ、という衝撃が車の下を走り抜けた。

車は分離帯の中の芝生に乗り上げ、しばらくのろのろと走ってようやく止まった。

日本人スタッフで、眠っていなかったのはたぶん私だけで、悪夢を見るような思いで、衝突から車が止まるまで、その一部始終をしっかりと目撃していた。目がカメラだったらよかったのに、そしたら衝撃の映像が撮れたのに、そんなことを考えながら。

ふと気付くと、クラクションが鳴り続けていた。音が止まないのは、ドライバーがハンドルに突っ伏したまま動かないせいだった。

「あいたたた」最後部の座席で、録音技師のウエタがちいさなうめき声を上げた。その後何分かは、車の中の誰一人、しばらく口を開かなかった。いいや、聞けなかったという方が正確か。それほどのショックだったのだ。

クラクションは鳴り続けている。

「みんな、大丈夫?」ようやく我に返った私は後ろの座席を振り返り、技術スタッフの面々に声をかけた。

「いやちょっと膝をぶつけたけど。まあ、大丈夫かな」録音技師のウエタは暗闇の中、おそらく膝をさすりながら私に答えた。「いったいぜんたい、何があったのよ」

「いやーびっくりしたあ」眼鏡をかけている照明のタカハタはその眼鏡を外し、壊れてないか確かめているようだった。「おでこを思いっきり打っちゃったよ」

「高畠さん、体は何ともない?」私はタカハタに無事を確認した。

「えーと、まあ。大丈夫です。ちょっと眼鏡が落っこっちゃったけど。でも壊れてはないようだし」タカハタは何度か眼鏡をかけては外し、具合を確かめた。

「そう。よかった」

私はそれよりドライバーが心配だった。ずっとハンドルに突っ伏したままなのだ。まさか、死んでしまったのでは。

『しかしドライバーが死ぬ程の衝撃ではなかった筈だ、でもショックで死んじまったということもあり得るか』などと様々な思いが私の頭の中を錯綜した。

「大丈夫?彼」私の思いっきり不安な気持ちを代弁するように、隣にいたカメラマンのムラタが助手席のマリオに尋ねてくれた。ようやく目を覚ましたようだ。日本人としては大男の部類に入るムラタは、その体格、温厚だが粘り強い性格をみていると、ムービーカメラマンになるために生まれてきたような人間であると私は思う。幸いムラタにも怪我は無さそうだ。

マリオは怒ったような顔でムラタの問いには答えない。ドライバーの襟をつかむと無理矢理顔を上げさせた。クラクションがようやく止んだ。するとシュー、という音が聞こえてきた。私は外を覗いた。ヒュンダイワゴンの車体の下から白い煙のようなものが吹き出していた。

「おいみんな、すぐ外に出るんだ」真っ先に状況を把握した私はみんなにいった。「車の下から煙みたいなものが吹き出している。燃料が漏れていたらやばい。爆発する」

するとマリオは呆然としているドライバーの頬を平手で張り、何事かポルトガル語で怒鳴った。

全員がぞろぞろと車から降りた。みんな不思議と落ち着いているようだった。最悪の事態は過ぎたような気がしていたのだ。これでもし、燃料が漏れていて、車が爆発でもしたら、おそらく笑うしかなかっただろう。やけくそに、笑いながら死んでいくのだ。無謀なバカドライバーのせいで。

車が爆発しても影響ないような距離に避難し、遠巻きにして見ていると、しばらくしてヒュンダイ・ワゴンの下から吹き出し続けていた煙のようなものは出なくなった。どうやら燃料ではなく、水蒸気だったようだ。

「あーあ、ラジエーターがいかれちゃったかな、これは」妙に落ち着いた声で録音技師のウエタがいった。

雨脚はさっきより弱まっていたが、それでもまだしとしとと降り続いていた。郊外、それもどこであるかもわからないような思いっきり郊外だから、街灯はない。辺りは真の闇。私はいつも肩からたすきがけにしているトートバッグの中に、ミニマグライトを入れていたことを思い出し取り出した。点けてみると思ったより明るかった。周りが漆黒の闇のせいかもしれない。ちっぽけなマグライトの明かりをこれほどありがたいと感じたことは生涯になかった。スタッフも同じように感じたようで、明りがつくと「おお」と誰かが感嘆の声を上げ、小さく拍手する者もいた。

ドライバーは地面に膝をつき、ヒュンダイのボディの下をのぞき込んだがすぐに立ち上がり、頭を左右に振った。マリオが運転席に座り、キーを回したが、スターターはうんともすんともいわなかった。

「だめです。動きません」運転席から降りてきたマリオは憮然とした口調で私に告げた。

「こんなところで動けなくなってどうすんだよ」誰を責めるでもなく、独り言のようにカメラマンのムラタがいった。「夜明けまで雨の中、このまま待つのかな。それとも運良く通りかかる車を止められるか」

「ちょっと待ってください」マリオはポケットから携帯電話を取り出した。「線が一本ある。つながるかもしれない」

そこはかろうじて携帯電話が通じる圏内に引っかかっていたようである。マリオがボタンを乱打して電話をかける。何度か試し、ようやくつながったようで、何事か早口のポルトガル語でまくしたてた。その間、ドライバーはヘッドライトの前で、頭を抱えてうずくまったままだった。

「だいじょうぶ。つながったよ」マリオは私に右手の親指を立てて見せ、事故の後初めて笑った。右手の親指を立てるのは、ブラジルではOKのサインだ。「一時間ぐらいしたら、アシスタントのラオが迎えに来ますよ」

その言葉通り、きっちり一時間をすぎた頃、銀色のメルセデス製のワゴンで、マリオのアシスタントのブラジル人、ラオことラウジーニョがやってきた。別働隊で現地レンタルした機材だけを先にオーロ・プレットに運び終え、さあこれからビールでも飲もうかというところだったらしい。ラオはひどく不機嫌だった。

ラオことラウジーニョは黒人の大男である。完全にアフリカ系の顔立ち、顔色も真っ黒だ。声は低い。アフリカから奴隷として連れられてきた黒人の遺伝子が強く出ている容貌である。ラオは到着するなり、のしのしとヒュンダイの前にうずくまっていたドライバーに歩み寄り、襟首を掴んで無理矢理に立ち上がらせた。殴ろうと拳を振り上げたところにマリオが割って入った。

夜明けに近い頃、ラウジーニョの車に乗り、ロケ隊はようやくオーロ・プレットのホテルに到着した。

私はスタッフの受けた衝撃と疲労を考え、その日の撮影は中止とし、昼ごろ食事のためロビーに集合しましょうと声をかけ、部屋に入った。少し眠ろうと思った。

昼過ぎに、ホテルのレストランに顔を出してみた。みんなが席につき、思い思いに何かのプレートにかぶりついている。しかしそのテーブルにはあのドライバーの姿は見えなかった。

「彼、だいじょうぶだったの? あのドライバー」私は隣の席でミネラルウォーターを飲んでいたコーディネータのマリオに訊ねた。

すると「彼はクビにしました。もうじき新しいドライバーと車が来ます」とあたりまえのようにマリオは答えたのである。

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