逃げるのではない。これは転進だ!
日曜日の昼下がり、すでに昼食を終えた居間の中央で、私はテーブルに肘をつき窓の外を見るでもなく眺めている。時折窓の外を横切る雀の鳴く声が耳を掠め、遠くを走る電車が線路を叩く鼓動が心地良く響く。いつもならテレビを点けてお茶でも啜っている頃合だ。
しかし今、背後にある襖の向こうにいる弟の苦悩を思うと、とてもじゃないが世間の些事という雑音に身を委ねようという気にはなれない。
ここは私の実家、両親が三十年前に建てた夢の結晶である。だがその主である二人は、もうここには居ない。父は既に他界しており、残された母は先日施設への入居を決めた。これまでは父の残した僅かな資産と母の年金で自宅の維持を賄ってきたのだが、母が施設に移った以上、ここの管理は残された私達の仕事となる。とはいえ、私は既に自立して一人暮らしをしており、この実家で毎日の生活を営んでいるワケではない。問題はもう一人――弟の方だ。
姉の私がこんな言葉を並べるのも心苦しいのだが、弟は二十代半ばにして無職の駄目ニートだ。収入らしい収入どころか、職歴と言えるものさえ持ち合わせていない。今回母を施設に入れたのも、母の負担を減らしたいという意識がある以上に、弟を自立させなければならないという責任感に拠るところが大きい。母の年金が当てにならない以上、何かしらの形で労働対価を得る必要がある。
だが、彼がどうするにしても一つだけ問題が残る。この家だ。
ローンは終わっているから、必要なのは維持するための経費だけなので金額的に大きな問題ではない。ただ、一人で暮らすには少しばかり大き過ぎる。弟が将来誰かと結婚して(現状では想像つかないが)家庭を営むつもりならそれも良い。だがいずれにしても、当面の維持管理は弟に一任されることになる。個人的には馴染みのある実家だけに、帰る場所としてそのままであって欲しいと思ってはいるが、いっそのこと処分して財産分与という形で片付けてしまうのも一つの方法としては有りだろうと考えている。残すのか、売るのか、あるいはもっと別の良い方法を模索するのか、それを今、襖の向こうで考えているのだ。
とはいえ、さすがに待つのも飽きてきた。三杯目のお茶もなくなって、退屈への耐性も限界だ。奴と違って、私は貴重な休日を削ってここに居る。いつまで待たせるんだと文句を言いに行こうかと腰を浮かせかけた刹那、背後の襖がスラリと開かれた。
振り向かせた視線の向こうに見える弟の表情は、いつになく真剣なものだ。その眼差しには固い決意と、どことなく自らの意志を誇るかのような輝きが窺える。どのような結論に達したのかはわからないが、納得のいく回答に行き着いたことは間違いないだろう。
「どうやら答えは出たみたいね」
「あぁ、なかなかの難問だった」
弟は私の脇をすり抜けてテーブルを迂回すると、私の正面に腰を下ろした。この真剣な場には似つかわしくないだろうと判断して、飲み終えた湯飲みを隅へ移動させる。私達は向かい合い、真剣な顔を対峙させた。
では、聞かせていただきましょうか、その答えを。
「色々考えたんだが、やはり――」
右の人差し指を立て、弟は身を乗り出す。
「ブルマしかないと思うんだ」
「……ぶ、るま?」
え、何それ。確かに今『ぶるま』って言ったよね。それはひょっとして絶滅寸前のレア体操服のことを言ってるの? というか、どうしてこの場でそんな単語が出てくるの?
あれ、何の話してたんだっけ。
「疲労と戦う階段で、一息ついた踊り場で、ふと見つけた段差という名のオアシスで、見上げればそこに広がる純白のパラダイス。その気持ちはオレにも痛いほどわかる。確かに理想でありロマンだ。だがっ!」
テーブルを力強く叩き、カッと目を見開く。
「現実はそれほど甘くもないし、美しくもない。相手の容姿もさることながら、見て嬉しい下着でないことの何と多いことかっ。ストッキングに隠れているならまだ可愛げもある。しかし、そんな生易しい苦笑いで済むものばかりではないのだ。白くないだけなら希望もあろう。ところが現実ってヤツは、羽がついていたり染みがついていたり糸がほつれていたりと散々だ」
えっと、何の話をしている?
「それは一体――」
「いや、わかっているんだ」
言葉の真意以前に、何についての話なのか問いただそうとした私の台詞を、彼は大きく広げた右手を突き出して制止する。
「オレの言っていることが単なる理想論でしかないことくらいはな。だがな姉貴よ、男って生き物はあのスカートという物体の中に夢と希望を見ているんだ。苦しく辛い現実ばかりの世の中で、一瞬のチラリズムにロマンを託しているんだよ」
「はぁ……」
その勢いに頷いた。いや、頷かされた。
「しかし実際の世の中は、ロマンどころか変質者扱いに犯罪者扱い、コレでは誰も幸せになんてなれやしない。だからオレは考えた。皆が幸せになれる方法をっ」
拳を握り締め、立ち上がらんばかりの勢いで盛り上がる。
「そこで、ブルマだ」
ようやく話が戻ってきたらしい。いや、全くわからんけど。
「スカートの下はブルマ、全ての人がブルマ、日本全国総ブルマ化計画を発動することにより、世の女性たちは油断しまくった下着を見られる恐怖から開放され、同時に我々男性は新たなフェティシズムへと目覚める。まさに全ての人々が幸せになれるではないか。なに、ブルマなんて見てもつまらないだと? 心配するな、少なくともオレは幸せだっ!」
親指を突き上げて何やら誇らしげな弟を見るのが辛い。
とりあえずテーブルの下に隠してあったハリセン(昨日の新聞で作った)を取り出して、袈裟切りに突っ込んでおいた。
「……痛いです、姉上」
「色々と言いたいことはあるけど、とりあえず一つだけ聞いておくわ。それは一体何の話?」
「え、合法的にスカートの中身を見るにはどうすべきかについての考察ですが」
もう一発突っ込んだ。
「だから痛いです、姉上」
「アンタが考えるべきことは何?」
「下着はやっぱり白い方が正義だと思うんだっ」
二発追加。
「すいません。この家をどうするかです。すいません」
「わかってるならホラ、もう一回ちゃんと考えてきなさい!」
襖を指差す私に睨まれて、弟は渋々立ち上がる。本当にどうしようもない弟だと思っていたが、ここまでとは思っていなかった。どうやら認識が甘かったようだ。
「あっ……」
襖に手をかけた弟が振り返る。
「ブルマじゃくてスク水ってのは――」
「この家ごと燃やされたいの?」
「ひぃっ!」
可笑しな悲鳴を上げて襖の向こうに消える。
どうしようもない弟ではあるが、その気持ちはわからなくもない。誰だって、心地良い現実が崩壊すると思えば現実から逃避したくもなる。アイツも今、アイツなりに必死になって戦っているのかもしれない。今まで楽をさせすぎたことが今の彼を作ったのだとすれば、私や母にも責任の一端はあるのだろう。
だけど……。
ブルマはない。
断じてない。
せめてスパッツだろ。
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