ケツカユイ
社運を賭けたプロジェクト、その栄誉を勝ち取るプレゼンが開始されて、すでに一時間が経過している。現在、我がチーム一番の期待株にして私の忠実なる部下であるところの清川くんが、プロジェクタの隣に陣取って幹部連中に熱弁を奮っている。
ちなみにチームのリーダーであるところの私は、補足用として待機しているホワイトボードの脇に立って、その様子を見守っていた。もちろん企画の趣旨や資料の多くはチーム全体の功績に違いないが、このプレゼンに関しては清川くん一人に一任してある。そろそろ上役にも顔くらいは憶えてもらわないと、私の隣に立つ男としては役者不足と言われかねない。どんなにイケメンでも、仕事が満足に出来ないぺーぺーでは困るのだ。
そしてケツがカユイ。
この企画を軌道に乗せることができれば、社内での地位も揺らぎないものとなるだろう。女であることを利用して企画を通しているなどと嘯うそぶいているクソ連中の戯言も、黙らせることができるかもしれない。まぁ、学歴しか誇るもののない能無しなんて端から怖くはないし、持っている武器を最大限利用するのが私の流儀だから殊更否定するつもりもないけど。
何にしても、ケツがカユイ。
こんなんでテレビを観たら首が疲れて仕方ないんじゃないかと思うような大画面に、次から次へと我がスタッフの用意したセンス溢れる背景と合成された製品のイメージ映像が投影され、集められた幹部達の視線を釘付けにしている。いつもなら、私以外の何かに注目が集まることを快く思わないところだけど、今日ばかりはその様子が心地良い。
つまるところケツがカユイ。
駄目だ。このままではプレゼンに集中できない。トイレにでも行って掻いてこようか。
いや、駄目だ。仮にも私は責任者という地位にある。他のチームが発表している時ならともかく、自分の部下達が頑張っている最中に席を外したのではイメージが悪いし、清川くんが動揺する可能性もある。私がここでどっしりと腰を据えているからこそ、彼も安心できようというものだろう。ああ見えて結構小心者の彼は、普段はそんな小動物的なところが可愛くもあるが、こんな場面でその資質が発揮されては社内での評判にも関わってくる。事は彼一人の問題ではない。彼と正式に付き合うことにでもなれば、そんな男を選んだ私の評判にも影響を与えることになるだろう。
やはり今、この状況下でトイレには行けない。
でもケツはカユイ。凄くカユイ。
いや、ちょっと待て。このカユミは、果たして本当にケツを震源地としているのだろうか。
違う。正確にはケツじゃない。尾骶骨の五センチくらい上がカユイ。そこは確かに最もケツに近いポイントの一つではあるかもしれないが、決してケツではない。
つまりアレだ。ここを掻いたからといって、会議中にケツを掻いた女というレッテルは貼られないんじゃね?
いやいやいやっ、落ち着け。落ち着くのよ、紫藤マリ。仮にカユイポイントが正確にはケツじゃなかったとしても、極めてケツに近いポジションであることは事実。こんな目立つ場所でそんな場所に手を動かしたりしたら、確実に何人かの注目はこちらへ動く筈だ。横目に見た程度の彼らが、掻いた場所がケツか否かなど正確に判断できよう道理もない。というか、十中八九ケツを掻いたと思うに決まってる。
すなわち私がこれまで必死になって積み上げてきた貞淑で有能な美人OLという評判はガタ落ち、そんな評判があればこそ支えられてきた地位も安泰ではいられない。くそっ、何てことなの。今までの私を持ち上げ続けてきた資質と才覚が、こんな形で私自身を苦しめることになるなんて!
そもそも、掻いた場所がケツかどうかもわからない馬鹿な連中に頭を下げなければならないなんていう現実社会こそが、破壊せねばならない最も――
いや、ちょっと待って。
それならばいっそ、連中の方へケツを向けて堂々と掻いてやればいいんじゃないの? そうすれば、私が掻きたいのはケツじゃなくて、ケツに近いけど違う場所なんだよってことが明確になる。何という逆転の発想、さすが私、こんな時でも冴えてるなんて素敵過ぎる。
なんて、できるかアホっ!
はしたないどころか、可笑しな性癖でも持ってるんじゃないかと疑われるわっ。あぁ駄目だ。もうカユ過ぎて冷静さが失われ始めている。チクショー、こういう時は男が羨ましい。男なら、会議中にケツ掻こうが鼻をほじろうがウンコ漏らそうが大して評判が落ちることはないだろう。これかっ、これが男女の不均衡ってヤツかっ。
私は、今この時ほど女であることを恨んだ憶えはない。
とはいえ仕方ない。ここは我慢の一手だ。
プレゼン開始からすでに十五分が経過している。ケツカユイ。予定では三十分で終了の筈だから、もうしばらくの辛抱だ。ケツカユイ。ここまで来たら私の出る幕はないだろうから、清川くんの技量に託すしかないだろう。ケツカユイ。というか、今彼が何についての説明をしているのかすら、私の耳には入ってこない。ケツカユイ。もしも彼が何かしらのトラブルを抱えて行き詰ったりしたらケツカユイ、私の助言や助力を頼りにすることは不可能だケツカユイ。
駄目だケツカユイ。もういよいよケツカユイ、頭の中がケツカユイ、お尻のことで一杯だケツカユイ。
ケツカユイケツカユイケツカユイケツカユイケツカユイケツカユイケツカユイケツカユイケツカユイケツカユイケツカユイケツカユイケツカユイケツカユイ、ホントにケツがカユイっ!
はっ、しまった。無意識に右手がケツへ向けて発進しそうになってた。というか、ふと気付けば奇妙な視線がこちらへ向けられているのを感じる。幹部連中の半分くらいは大型モニターではなくこちらを見ているし、プレゼンの真っ只中にある清川くんも、何やら大きな失敗でもやらかしたかのような顔をして私を見ている。
どういうことだ?
あの怯え方はまるで、私に自分のミスを報告する時のような顔ではないか。見たところプレゼン自体は順調に進んでいるようだし、特にミスらしいミスなんて――ひょっとして、カユミと戦っている私の表情が、怒っているように見えたということか。
違いますよー、私は清川くんを怒っていたりしないですよー。
勘違いを修正するため、私は満面の笑みでアピールする。
「ひぃっ!」
ひぃって何だ、ひぃって。
まぁいい。彼には後でお仕置きしながら説明するとして、むしろ問題は幹部連中の方だ。この大事なプレゼンの最中に私へ注目なんてされたところで意味はない。何でもないというところを見せて、その関心をモニターへと戻してやる必要が――
何か部長がニヤニヤ笑いながらブロックサインを出している。
はっ?
ちげーよ。無線バイブとか仕込んでるワケねーだろ。一回死ねよ、エロジジイ。その少なくなった髪の毛、全部引っこ抜くぞ!
むかつくけど、今は無視するしかない。心を落ち着けて、平静を保たなければならない。心頭滅却すれば火もまた涼し、ケツのカユミを忘れることも不可能な所業ではない。
落ち着け、落ち着くんだ私。
深呼吸をして、お腹に力を入れて、意識を整える。
ぷぅ。
あ、オナラ出た。
全てを失った私は、トイレの奥で泣きながらケツをブォリブォリと掻くのだった。
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