気遣い
懐かしい顔との、久方ぶりの再会だった。
大学時代に世話になったこの町へ来たのは、単純に仕事の都合からだ。短期出張で一ヶ月足らずの滞在だけど、ここに根を下ろしたかつての友人と言葉を交わす程度の余裕はあった。
若かりし頃を思い出させる重い扉の感触を確かめるように押し開くと、あの頃と何一つ変わらないドアベルの音が時を巻き戻したような気分にさせる。相変わらず薄暗い店内には人気がなく、いらっしゃいませの一言すら飛んでこない接客の姿勢も変わっていないようだ。昨今は珍しくなった、ファミレスではない喫茶店という存在が現在も残っていたことに今更感動しつつ、目的の人物を探して視線を彷徨わせる。
「よ、久しぶり」
向こうが手を振るまでもない。客は彼一人しか居なかった。俺はかつて何度もそうしてきたことを思い出しながら、奥に陣取ってグラスを磨いているマスターにコーヒーを注文すると、マフラーとコートを畳みながらかつての友人へと足を向けた。
「久しぶりだなぁ。最後に会ってから十年ぶりくらいか?」
大学を卒業して二年くらいしてから一度皆で集まったことがあったから、それから数えればそんなところか。気付けば三十路も半ば、大して自覚もないままながら、すっかり俺もオッサンだ。
変わった自分と変わっていないここが余計に年齢を感じさせてくれたのか、少しだけ現実に気落ちしながら腰を下ろすと、改めて友人と向き直る。
中肉中背、人の良い笑顔、濃い眉毛、少しばかりの苦労を重ねた痕が皺になって見えるけど、コイツはやっぱりコイツのままだ。何一つ変わって――いや、頭は少し薄くなったな。特に前の方が。
と、本人も気にしてるだろうし、あんまりジロジロ見るべきじゃないな。
「そういや、結婚してるんだって?」
少しバツが悪くなって、強引に話題を振る。ただ毎日の仕事を繰り返している内に歳を重ねてしまった俺とは違い、コイツは所帯持ちだ。学生の頃一緒に下らない毎日を過ごしていたというのに、道が変われば色々違うものだと改めて思う。
「あぁうん、三年くらい前に」
そう口にするコイツは、どういうワケか眉根を寄せる。こんなご時勢だ。普通の会社に就職して伴侶が居るってだけでも十分に胸を張れることだと思う。少なくとも俺が逆の立場なら、もっと嬉しそうに報告しそうなものだ。
「何だよ、上手くいってないのか?」
久しぶりだけに鋭く突っ込むべきかどうか一瞬悩んだが、変わっていないここの雰囲気が俺の背中を押した。
「まぁ、結婚したから何でも理想通りってワケじゃないけど、上手くいってないってことはないよ。ただな……」
不自然に言葉が止まる。プライベートなことだし、俺とは基本的に関わり合いのないことだからと言い淀んでいるというところか。
気にするな。プライベートの暗部はむしろ大好物だ。
「言いかけてやめるなよ。気になるだろうが」
「けど、こんな話をするためにあったワケでもないし」
「いいから話してみろって。悩みってのは大抵の場合、話すだけでも気楽になるもんさ」
メシウマ、ゲットだぜ!
「……じゃあ、聞くだけ聞いてくれ」
「おう、遠慮なく話せ」
「実はさ、家内が最近ちょっとよそよそしいというか、態度がぎこちない感じなんだよな。話す時もこっちを見なかったり、途中で不自然に言い淀んだりするしさ」
それは浮気か。不倫か。
「急に外出が増えたりとかは?」
「いや、それはないけど。家事はむしろ前よりよくやってくれてるよ。というか――」
ふと何かを思い出したように天井を見上げる。
「そういえば、最近妙に風呂場と洗面所が綺麗なんだよな。汚れどころか抜け毛一つ落ちていないって感じで。これってひょっとして、何かの前兆だったりするのか?」
「いや、聞いたことないけど」
この時点で何となく、ことの原因がわかったような気がした。
「そっか、やっぱりわからないか。でも何か変なんだよな。こう……不自然っていうかさ。だってブラシ――頭梳かすヤツな、アレだけ妙に綺麗になってたりするんだぜ? 歯ブラシとかはボロボロなのに」
「あぁ、うん、そうなのかー」
うっかり意識を外すと、視線が持ち上がりそうで怖い。
「何なんだろうな、あれは」
「心当たりとか、ないのか?」
特に頭の辺りに。
「そうだなー、年始に実家帰った時に餅の食い方で親と少し口論になったけど、あれがまだ気になってるとか?」
「うん、全然関係ないな、それ」
「実は命を狙われてたりしてな」
「風呂や洗面所を綺麗にするとお前は死ぬのか?」
死んでるのはお前の髪の毛だ。
「いやでもさ、俺の夕飯だけ海藻サラダが山盛りなんだぜ。和風ドレッシングが好きなのにゴマドレッシングかけろってうるさいし。あれってもしかして、ワカメとかゴマに含まれる毒素で殺そうとしてんじゃね?」
ちげーよっ。気ぃ遣われてんだよっ。
というか、ワカメにもゴマにも毒なんか入ってねーよ!
「そっか、大変だな」
主にお前の奥さんが。
「ホント、給料奪われた挙句に殺されるとか、結婚てのも楽じゃないよ。若い頃なら、好きとか言い合っていられれば良かったけどな」
「そうだな。もう俺達も若くない」
呟いて、危ういところで持ち上がりかけた視線を横へと逸らす。
「ところで年齢といえば――」
俺はそれとなく確かめてみることにした。
「身体とか、昔とは結構違うよな?」
「そうだなー。体力も落ちたし腹も出てきたし、何か思うように動かなくなってきたよなー。そうそう、皺とか昔の写真見ると増えてるなーってわかるぞ」
もっとわかりやすいのがあるだろ、お前は。
「筋肉痛とか遅れるようになったしなー。そういや俺、年取ってから少し毛深くなったよ」
これならどうだっ。
「そっか。オレは変わらんなー。まだフサフサだし」
えっ。
「……うん、そう、だな」
俺は諦めた。
懐かしい喫茶店を出て、現実へと戻る。手を挙げて帰途に着くアイツの背中は、かつてのアイツと何一つ変わっていないようには見えた。それが虚勢なのか本心なのか、残念ながら今の俺にはわからない。
悲しい現実は人を歪ませるかもしれない、そんなことを思いながら自分の頭を軽く撫でてボリュームを確認すると、北風に向かって歩き始める。
何かを耐え忍ぶよう、背中を丸めて。
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