三願四怨
「へぶちんっ」
まったく、いつものことながら憂鬱な季節だ。くしゃみ鼻水目の痒み、どうしようもないと諦めていてさえ、この三重苦は辛すぎる。
「へぶちんっへぶちんっへぶちんっ!」
あーもう、誰だよこんなとこに杉の木なんて植えた奴は。
ぼわんぼわんぼわんっ。
心の内で毒づきながら大きな杉の木の脇を通り過ぎた刹那、背後で妙な――のこぎりを何度も折り曲げているかのような音が聞こえてくる。俺だって人間だ。そんな得体の知れない音が突然背後から聞こえたりしたら、振り返りたくなっても仕方のない話だろう。
だが、これが大きな間違いだった。
「呼ばれて飛び出てじゃーんじゃじゃーん」
くるりんぱと空中でターンを決めたミニスカートの妖精っぽい生き物が、目の前に居た。身長は三十センチくらいだろうか。花をモチーフにしたようなステッキを掲げる姿は、昔懐かしい魔法少女を髣髴とさせる。
とりあえず俺は、ここが夢の中ではないかと疑った。
むしろ夢の中であって欲しかった。いやマジで。
仕事に疲れた三十路男の見る夢としてはいささか痛々しい気もするが、そんな贅沢は言っていられない。誰にも言わずに墓まで持っていけば済むことだ。
「じゃあ俺、もう現実に戻らなきゃいけないんで」
「ちょちょちょ、ちょっと!」
颯爽と右手を挙げて現実に戻りかけた俺の右腕にダッコちゃんよろしく抱きついて抗議の声を上げる。
「何だよ?」
「何だよってことはないじゃないですか。せっかく呼ばれたから出てきたのに」
「呼んだ? 誰が!?」
「またまたぁ、とぼけちゃってぇ」
口元に手を当てて、むふふと含み笑いを漏らす。
可愛い、けどウザい。
「いや、何のことかサッパリわからんし」
「そんなこと言われましても、杉の木の前で鼻の下を擦ってから『ヘブチン』と三度唱える、これだけの手順を偶然行ったとでも言うんですか?」
あー……確かにへぶちんなんてくしゃみをするの、滅多に居ないだろうからなぁ。何というか、花粉症というだけで運が悪いと思っているのに、これ以上憂鬱になる原因を作らないで欲しいものだ。
「うん、それ偶然だから。じゃあそういうことで」
「ちょちょちょちょ、ちょっと待ってくださいってばぁ!」
今度は髪の毛を掴んで引っ張られる。やめろよ、うっかり抜けて生えてこなかったらどうするんだ。
「悪いけど呼んだつもりないから」
「そんなこと言わないでくださいよぉ。ここで何もせずに帰ったら、また先輩に冷ややかな目で見られちゃいますぅ」
「いや、そんなの我慢しろよ」
「駄目ですよぉ。ただでさえあんまりお客が取れなくて白い目で見られているんですから、時給を減らされないためにも離しません!」
時給って、おい。
まぁ色々とツッコミどころはあるけど、いつまでも髪を掴まれているのも気になるし、纏わりつかれても迷惑だ。
「わかったわかった。話くらい聞いてやるから手を離せ」
「……ダッシュで逃げたりしないですよね?」
案外鋭いな、こいつ。
「しないって。で、何の用なんだ? 言っておくが、金も魂もやらんからな」
「いりませんよ、魂なんて。死神じゃないんですから」
金は欲しいらしい。
妖精が金貰って、一体何に使うのだろうか。
「じゃあ何だよ?」
「もちろん、妖精が呪文契約で呼び出されたらすることは決まってるじゃないですか。何でも三つ、貴方のお願いを聞いて差し上げます」
随分と気前の良い話だ。もちろん、ここで手放しにヤッホーと小躍りして浮かれるほど俺は子供じゃない。
「そんなこと言って、どうせ条件があるんだろ?」
「疑り深いですね。その割には嬉しそうに小躍りしてますけど」
ちっ、自分の正直さが恨めしいぜ。
「とはいえ仰る通りです。何でもと言いましたが、妖精の世界にも縄張りといいますか、力の及ぶ範囲というのが存在します。つまり、私の専門外のお願いは聞けないってことですね」
「よし、じゃあとりあえず大金持ちにしてくれ」
「話を聞いてませんね?」
「いいから金持ちだ!」
こちらの一喝に臆することなく、少しだけ離れてヒラヒラと舞ってから、やれやれとばかりに頭を振って小さな人差し指を左右に揺らす。
「だーかーらー、専門外なお願いは却下ですって。そもそもですね、私が杖を一振りして金持ちになれるんだったら、当の本人である私が時給貰って働いてるワケないじゃないですか」
「むむむ……」
確かにその通りだ。だがしかし、常識からあまりに掛け離れている妖精にそんな現実的な正論を言われると、何だか釈然としない。
「じゃあ寿命だ。不老不死にしろとは言わない。あと二百年生きたい」
「さっさと死んでください」
満面の笑顔で言われたぁ!
しかしどうしてだろう。あまり悔しくない。むしろこう、ちょっとドキッとしてしまった。これはひょっとすると俺ってマゾ……いやちょっと待て。結論を急ぐな。
第一今は、そんなことより大事な問題が目の前に転がっている。
「金も駄目、寿命も駄目となると、お前には何ができるんだ? というか、何の妖精なんだよ、お前は」
「何って、見てわかりませんか?」
そう言いつつ茶色いスカートを翻してクルリと回転する。花のように見えるが、それにしては色が枯葉のようだ。そして彼女が舞う度に黄色い鱗粉のようなものが広がっていく。
「へぶちんっ!」
黄色い鱗粉を吸い込んだ瞬間、馴染みの感覚と共に自然とくしゃみが出た。
まさかとは思うが、出てきた経緯を考えるとそうとしか思えない。
「正解はご存知、杉花粉の精でーす」
「ご存知じゃねーよ。何だよそのピンポイントな妖精は!」
「何だと言われましても、そういう家系でして」
「いや、家系とかおかしいだろ」
「ホントですって。お母さんもお婆ちゃんも杉花粉の精だったんですよ。でも最近は、この時期になるとニュースで特集とかされたりして、少し認知度が上がって嬉しい限りです」
上がってるのは主に悪名だけどな。
「そんなワケで、この杉花粉の精が花粉関係のお願いなら何でも叶えて差し上げます!」
「…………よし、もう帰れ」
頭の中で試算を広げるまでもなく、俺は諦めた。間が空いたのは吟味した結果ではなく、呆れて声が出なかっただけの話だ。
「えー、何でですかぁ!」
「当然だろうが」
「妖精ですよ。お願い叶えちゃうんですよ?」
「で、どんな願いなら叶えられるんだ?」
あ、固まった。空を見た。地面を見た。
「えーと、花粉団子とか、ハチさんに割と好評ですよ?」
「人間でしかも花粉症の俺が花粉団子を貰って喜ぶとでも?」
「じゃ、じゃあたくさんの花粉団子を繋げてネックレスとか」
「ただの嫌がらせだろ、それ!」
ようするにアレか。花粉を出す程度のことしかできないワケか。
「……うん、やっぱり帰れ」
「そんなぁ!」
せっかく捕まえた客を逃がすまいとばかりに、立ち去ろうと背中を向けた俺の裾を掴んで引っ張る。
「お願いですらお願いしてくださいよぉ。そうじゃないと実績にならないんですからぁ」
「もう滅茶苦茶だな、おい」
「三つお願いしてくれるまで、鼻先をずっと飛び続けますからねっ」
「絶対ワザとやってるだろ!」
くそ、花粉症ってだけでも十分に不幸だってのに、自ら花粉を撒き散らす妖精に付き纏われるとか、どんな罰ゲームだよ。
とはいえ、このまま押し問答を続けていたところで事態が好転する兆しは見えない。こんなお子様相手にムキになるのも大人気ないし、適当に花粉関係でお願いして――イヤ待てよ。何も団子にするだけが花粉の役目ではないように、コイツにできることも花粉を捏ねるだけではないんじゃないか?
「ちょっと聞くが――」
こちらが少しだけ関心のある素振りを見せた為か、妖精の表情がパァっと明るくなる。
「花粉に関係したお願いって、花粉症を治してくれっていうのもアリなのか?」
「かふんしょーって何ですか?」
花粉の精が花粉症を知らんのか。まぁいい。
「花粉のせいで鼻水やくしゃみが出たり、目が痒くなったりする病気だ」
「そ、そんな病気があるんですか? は、早く病院に行った方がいいですよっ」
おめーが治すんだよっ。
「いやだから、それをお前に治せないのかと思ってな」
「すいません。そんな奇病の治し方は知りません」
奇病言うな。
「例えばホラ、目に付いた花粉を除去するとか、そういうこともできないのか?」
「それならできますよ。スギスギホイッと、こんな感じでどうですか?」
奇妙な掛け声が一瞬気になったものの、すぐに眼球を覆っていた違和感がなくなった驚きに塗り潰される。もし眼球を取り出して洗うことができたらこんな感じなのだろうという印象そのものだ。
「おおおー! ここ、今度は鼻、鼻の方を頼む」
「はいはい、スギスギホイ」
「うおーーーっ!」
何だよ、やればできるじゃないか。まさかこんな幸運が転がっていようとは、神様って奴も粋なことをしてくれるものだぜ。
「えっへん、どんなもんです」
妖精の生意気なドヤ顔も、新鮮な春の香りの前では女神の微笑みに映る。あぁ風はこんなにも甘いもんなんだなぁ。
「正直言って見直したぜ。これでもう花粉症に悩まされることは……は、ふ、へぶちんっ!」
あれ?
「おい、こりゃどういうことだ?」
先程までのスッキリ感はどこへやら、僅か十秒と経たずに痒みとムズムズが戻ってくる。
「どういうと言われましても」
「治したんじゃないのか?」
「いやですから、そんな奇病は治せません」
だから奇病言うな。
「じゃあ何をしたんだ?」
「言われた通り、目と鼻の周囲から花粉を取り除いただけです」
なるほど、一時的に取り除いただけだから周囲を舞っている花粉が入ってくれば元に戻ると、そういうワケだ。納得した。
じゃねーよ!
「ちなみに今ので二つ叶えましたからねー」
「あー、わかった。つまりだ、俺の顔の周りに一生杉花粉が近付かないようにしてくれ。これならどうだ?」
「んー……何か拒絶されてるみたいなんでイヤです」
さらっと断られた。
「ってちょっと待てぃ。何だその理由は」
「じゃあ私、これで帰りますんでー」
「更に待てコラ!」
「もー、何なんですか? しつこいと嫌われますよ?」
「お前に言われたくねぇよっ。俺の最後の願いは放置かよっ」
「え、ちゃんと聞いたじゃないですかー。叶える気はないですけど」
「何じゃそらー!」
「それではさよならー」
爽やかに手を振って、杉花粉の精は黄色い空に溶けた。空の色が変わるほどの場所に居たせいか、花粉症は悪化した。
俺が以前よりも杉花粉に憎しみを抱いたのは、言うまでもない。
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