イベントとオールドオタク2・イベント

 さて明日は我らの街の小さな同人誌即売会である。


 最近の傾向なのか、我が町の特徴なのか、同人誌が恐ろしく少ないイベントだ。その代わりにキャラクターグッズがものすごく多く、創作文芸同人作家で、絵が全く描けない文字だけの作家である私なぞがスペースを出すのは自殺行為なので、当然のこと一般参加である。

 私こと、さかもとは、エリートオタクになってしまった娘にせがまれて、最近そのイベントに顔を出すようになった。

 といっても娘はまだ未成年なので、同人誌を買う予定はないようだ。

 娘には重々『オールキャラギャグ本』もしくは『オールキャラ健全本』にしか手を出さぬようにと言い聞かせている。


 R15作家のくせにといわれるかもしれないが、そこは親なので!!

 といっても最近の小学生はびっくりするほど健全に育てられており、エロ知識は皆無である。

 それどころか『エロ、気持ち悪い。』的な認識なのでハードな推しCPにはまったりするのはまだまだ先だろう。


……昔は親の本や漫画でエロを吸収したものだが……時代が変わったなぁ……。

 我が家には現在有名BL本のイラストレーターになった方の90年代のエヴァの18禁同人誌とか、某ショタアニメの有名作家同人誌とかあるのにねぇ……。

 はっ! またエロの話しになってる! 変態か、私は!

 こんな事を書いていると、小説家になろうに書いているファンタジー小説が怪しく見えてしまうではないか!


 閑話休題。


 さてさて九十年代の地方イベントの話に戻そう。

 前回、同人誌を作り上げた中学生同人屋四人組は、出るイベントを近所に定めた。90年から92年のことである。

 といっても東京なので近所といっても何駅か先だったりする。

 今書いても問題は無いと思うので書くが、主に我々の出張先は八王子、立川、王子、大宮であった。

 大宮ソニックシティはちょっと遠いけど、絵の上手い人が多くて楽しかった。当時のアニメディアの読者投稿常連だったワタルの同人誌やさんが居た。私は毎回スケブを頼むという暴挙に出ていたことをよく覚えている。

 立川は……カオスだった。廊下に並んだ小さな部屋がみんな即売会という、迷宮のようなイベントで、8頭身のドラえもんの同人誌を見て、気絶しそうになった。当然ながらのび太君とカップリングされていたからだ。

 八王子は立川よりも落ち着いた印象で、ガラス張りの外に噴水があったりして、場所がお洒落で何だか申し訳なかったことを覚えている。

 王子の北とぴあではワタル・グランのイベントが多かった。今もあそこではコミティアの見本誌会が開かれているだろうか?


 当時はとっても自由だった。あまりジャンルわけが厳しくなかったのかもしれないし、私たちがサンライズ本等というぼんやりした本を出したからかもしれないが、同じジャンルは近くに無かったと記憶している。それどころか、受付順に並んでいるのかな? というイベントもあったほどだ。

 イベントに初参加して、自分たちのレベルを知るわけだが、当時はそれほど落ち込んだりしなかった。だってみんな好きな好きに書いているだけだったから。当時、まあインターネットも無いし、批判し合う土壌も無かったから、同じジャンルであるというだけで話が盛り上がったものだった。

 結局の所、サークル参加をしつつも、買い物に来たような状態になってしまったし。


 そういえば今の若い人はご存じだろうか?

 当時、BLというジャンルはなかったのだ。

 そう当時それらの本は『やおい本』と呼ばれていたのである。

 やまなし、意味なし、おちなしが転じてそうなったといわれるが、どうして葬呼ばれるようになったのか今もって謎である。

 やおい→june系→BLとこのジャンルは道を辿っていくわけだが、今たどり着いたBLが約称としては最も理解しやすい形だ。

 やっぱり人間、分かりやすい方向に流れるのかもしれない。

 そこから考えると我々が中学生時代に書いていた同人誌はBL本では無い。れっきとしたやおい本である。

 いや、別にそれを主張したからどうと言ったことも無いのだが。


 当時のイベントで1番の人気だったものは、今の若い人には考えられないだろうが、便せんと封筒のセットだった。

 便せんと封筒だよ?

 現在のコミケットでは見た事がない。いや、私が今住んでいる地方イベントでも見た事がない。

 しかも当時の便せんと封筒は、印刷所で作っていないのだ。

 じゃあどうやって作ったかって?

 プリントゴッコだよ! プリントゴッコ!

 若者は知っているだろうか?

 下絵を描いて、すっごい強力なランプでバシャッとそれを版に焼き付けて、そこにインクを好きに載せて印刷する、ちょっと未来の版画みたいなやつだ。

 昔はほとんどの家庭にそれがあり、それで年賀状を刷っていたのである!

 お母さんやお父さんに聞いてみ?


 それはそれとして、それを使って作った便せんと封筒は、絵は違えどどこも同じような色使いだったりと、とっても味がありつつ不思議な連帯感を醸し出していた。私たちの中にもイラストが得意な人が居て、その人の便せんは売れた。

 今は便せんと封筒で手紙を出すことすら無いだろうな。

 そう思うと寂しいものだ。あれはあれで味があってよかったのに。


 当時、同人誌を印刷してくれる印刷所も少なく、恐ろしく高かった時代、本当にイベントではコピー誌が多かった。印刷してある本は本当に高かったし、フルカラーはもっと少なかった。

 今はいい時代になったなぁとおもう。だって高校のバイト代で50冊ぐらいなら簡単に刷れてしまうからだ。

 まあ……主婦ニートで旦那にぶら下がっている私には無理なわけだが。


 そんなわけで、これが90年代初頭の地方イベントに出る同人中学生のイベントだったわけだ。

 93年には私はいよいよ高校に入って本格的に同人誌活動を行い、コミケットに参戦していく……と思っていたのだが、ここからまた私の迷走が始まるわけだ。

 もちろん同人誌活動は続いていた。

 その頃はサンライズでは無く、田中芳樹が大好きで銀河英雄伝説にはまっていたのだ。ヤンが好きすぎて書けないので帝国を書くという倒錯した愛で、小説を書き殴っていたのである。

 そしてコミケットの場所は……晴海国際展示場だ!

 晴海を若い子達は知っているだろうか?

 たどり着くためのルートはいくつかあるが、私の当時のルートは月島からの歩きである! 始発で家を出て、月島駅に降り立ち、そこから延々と二十分以上晴海まで歩くのである。

 人の少ない倉庫の街を、冬は海風に震えながら、夏はコンクリに照らされながら延々と歩くのだ。何せ駅から晴海は全く見えない。歩いて歩いて大きな橋を渡って、倉庫街のどん詰まりをぐるりと迂回し、当時の行列が並んでいた1番海側のC館よこの駐車場に並ぶのだ。


 今は壁サークルと呼ばれている大手はA館に全て集められており、A館に入ること自体が困難で入ることにも長時間並ぶ有様だった。私は愛するグランゾートサークルがあったので当然二時間は並んだ。今はそのサークルさんはヘタリアの大手サークルである。

 そういえばあの当時大手最高の列を記録したのは確か、バスタードの萩原一至だった。ホテル浦島に止まってゲットした友人が自慢していたっけ。


 東館はまん丸で『ガメラ館』と呼ばれていた。広くて少しだけ快適だったし、裏に穴場トイレもあって最高だった。

 南館はコスプレの更衣室があって、一階はFC小説ジャンルが多かったと思う。

 死にそうだったのは西館のエレベーターで、当時のスタッフにはエレベーターの混雑対応班があって、旦那の友人が当時そこでスタッフをしていた。一度二階に行ってしまったらもう二度と戻れない、そんな館だった。

 あの頃は幽遊白書なんかがあっただろうか。サンライズもその近辺だったと記憶している。

 そういえば私はそんな中でワタルの同人誌を買いに行った記憶がある。同時アニメディア常連だった方の本だ。そうか、高校に入ってもワタルを買って歩いていたなぁ。


 私のコミケット初参戦は、暴動が起きた年として有名な夏コミである。

 スタッフが行列を入れる順序を間違えて参加者が怒り出し、あげく暴動に成って一カ所から全員が雪崩れ込んだという事件である。あれだけ沢山の人が怒声を上げて入口に突入し、踏みつぶされる人もいたし、叫ぶ人も、担架で運ばれる人もという大騒ぎで、私も友人とはぐれて会場では会えなかった。

 あれはまったく、今から考えると考えられない事件だった。

 でも晴海はよかった。何故なら、館と館が繋がっておらず、広い敷地を繋いでいたのは外の道だったからだ。それほど空気が薄くて苦しくとも、建物の外に出れば呼吸が出来たし、待ち合わせ場所も見付けやすかった。

 そうそう。

 当時の待ち合わせは伝言板だった。南館とどこかの館の前に伝言板が置いてあって『○○へ、何時にガメラ館の前で! ○○』とか『○○へ、新刊買えたから南に移動したよ ○○』等という伝言が並んでいたものだ。

 なにせ連絡を取る手段がポケベルしか無いし、そのポケベルに連絡するための公衆電話はいつも大行列だからだ。トイレと並ぶほどの行列が公衆電話だなんて、若い子達は信じられないだろう。

 連絡手段があの当時は本当に面倒だった。

 でもだからこそ伝言板というシステムがあったわけだし、みんなの書き込みには可愛いイラストを書く人なんかもいて伝言板を関係ないのに見るのが楽しかった。

 

 この頃のコミケットでは、現在のような状況が始まりつつあったらしい。

 そう、推しCPが違うことで起こるもめ事である。

 現在はBL漫画家として活躍しているが、専門学校時代の同級生であったMに専門学校時代に聞いたのだが『カップリングの境目で喧嘩が起きるんだよねぇ……。うちのサークルの列が掛かったって怒られて……』とのことだった。

 だからMは当時サークル配置に一喜一憂したそうだ。

 ちなみにMとは十年以上会っていない。彼女が有名になると何だか恥ずかしくて足が遠のいてしまったのだ。サークルのチェックだけはしているが、今はオリジナルJUNE系で出しているので推しCP騒動など関係ないだろう。


 私はといえば、銀英伝の本を作っていたけれど、常に金欠でアルバイトもしておらず、コミケットには一般参加しかしていなかった。


 銀英伝の本を買いあさり、A館で同人誌を買う。

 そんなこんなのオタライフが続いていたわけだが、先ほど書いた通り私のオタライフは迷走していくこととなる。


 田中真弓が大好きで、大好きすぎて共演したいと妄想し、山寺宏一のエッセイを読んで形態模写の練習をしたりしはじめたのだ。

 おかげで今も私は、飲み会で困らない程度の持ち芸がある。

 そう、なんと私は声優になりたい! と不細工なくせに思い始めて演劇なんぞを始めてしまったのだ。

 希望は当然田中さんの居る事務所……だったのにバオバブのパンフレットを取り寄せたりして。アーツビジョンの案内を取り寄せたこともある。

 結果分かったのは、我が家は貧乏だったので養成所にはいる事なんて出来ないということだった。

 それに学校と二足のわらじも無理なので(そこはほら、ADHDなので幾つも平行して物事を進めるのは無理なのだ)とにかく演劇で実力を付けようと奮闘が始まった。

 演劇部に入った私はバイトなんて考えを起こすことも無く、毎日部活にのめり込んでいくのである。

 そのせいで同人誌活動は先細り、その代わりに私は違うイベントとの関わり方を始めてしまうのだった。

 あの頃、演劇部に入らず帰宅部で、無理しまくってもバイトして声優の養成所に通っていれば……。

 夢でもある洋画の吹き替えをする、顔の一切出ない声優さんを必死で志していれば、今頃ベテラン声優になっていただろうか?

 そうしたら今はまっている声優さんと会えたりしたのだろうか?


 ……無理だね。才能の問題だ。妄想は身を滅ぼすわ。


 どうあれ、田中真弓さんと共演の夢はまだ捨てていない!

 こちらは小説屋で、田中さんと共演を!!!

 ……夢見るだけならたタダだよね?


 そう、同人誌から離れて始めたイベントとの新たな関わり方……。

 私は、コスプレイヤーに進化してしまったのである!

 その上、イベントを運営する側にジョブチェンジ!


 次回、90年代コスプレイヤーと、コスプレイベントのお話でお目にかかりましょう!

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