第36話無音の来訪者
「………はぁ」
イヴは、思わずため息を吐いた。
室内に誰も居ないことは、布越しだって解る。悪魔の瞳は単なる距離や建物に遮られることだって無い。
それでも、目を閉じていれば見えないのは、『見えない』という私の認識に依るのだろう。
目を閉じたまま世界を見る人間は居ない。
見たくないから、目を閉じるのだから。
だからイヴは目を閉じる。これ以上、あの男の魂なんて見ていたくないから。
そうして暗闇の中で考える。
肌にまとわりつく鎖は、魔力を妨害するようだ。この世のありとあらゆる神秘を為す根源の力を封じれば、魔術だろうが異能だろうが無効化できるというわけだろう。
実に的外れだ。イヴの炎に、魔力なんて概念は無い。
これは復讐の炎、怨嗟の声。イヴの感情が昂ればその威力も増し、イヴの魂が火を点す限り、燃え続ける。
そもそも、イヴは一般的には【
定義は、それだけ。
体系化して【撃法】と【護法】に分類した、解析された能力ではないということだ。その対処方法が、魔術と同じである筈が無いではないか。
だというのにダニアンがこれを使ったということは――それであれほど安心していたということは、それだけの根拠が有ったということだろう。机上空論に過ぎない仮説か、或いはもっと確かなもの、過去の成功だ。
恐らく、誰かが居たのだろう。この鎖で力を封じられた誰かが。力を封じられ、そして命を奪われたのだ。
ダニアンは、それに関与したのか。それとも資料として知っているだけか――どちらにしろ、彼を納得させるだけの根拠として、この鎖には前科があるようだ。
「………もしかしたら。ただ嫌になっただけかもしれないけれど」
それもあり得るのではないかと、イヴはぼんやりと考えた。
こうして一人で目を閉じていると、色々なことが思い浮かぶ。父のこと、母のこと、黒こげの彼らの死体のこと、そして、自分のこと。
闇の向こうから、イヴがイヴを見詰めている。馬鹿にするように、見下げ果てたというように、殺し続けて生き延びたイヴを拒絶している。
こうならなければ、成り果てなければとイヴは思う。私もそちらへ行けたのかしら、と。
そうして、こちらを馬鹿にするのだろうか。顔も知らない誰かの保証した正常の範囲にいることを、自慢げに周りに触れ回るのだろうか。
そんなことを思うと、ふと、思ってしまう。
自分は、間違えた。もう、取り返しはつかないのだ。
過去の誰かも同じように嫌になって、終わりにしたくて、鎖を受け入れたのではないか。そんな風に、思ってしまう。
「………馬鹿みたいね」
呟いたその時、ドアが鳴った。
誰か来たのか。ダニアンが何か、更なる蛇足を言いに来たのか。
疑問に思いながら目を開けた、次の瞬間だった。
「貴方は神を信じますか?」
「っ!?」
聞き覚えがありすぎる声と文句。そして、誰かが倒れるどさりという音。
布を透かした悪魔の視界には、金色に輝く魂が1つ――魂の脱け殻が、1つ。
見慣れた魂だ。
ここにまで来るとは、思っていなかったが。
「ヴェルネ………」
「おぉ! なんとお痛わしいお姿でしょうか!」
大きな声を上げて、ヴェルネの気配が目の前に移動した。相変わらず足音も、衣擦れもしない。
無音で移動したヴェルネの手が、イヴから一先ず包帯を取り去る。あまり明るくはない室内だったが、閉じていた目にはきつかった。
しかし、静かな動きなのに、声だけがやたらとうるさいのはなんなのか。イヴは疲れたようにため息を吐いた。
「意外な登場ね、ヴェルネ」
「驚きましたか?」
「いいえ、来たがるとは思っていたから。来られるとは、思ってなかったけど」イヴはちらりと視線を床に向けた。「何をしたの?」
「合法的な手段ですよ。昔の話ですが、私には少々コネクションがありまして、末期の祈りを許されたのです」
聞いたのは、一緒に来たであろう見張りに対して何をしたかだが。
まあ、気になる事ではあった。まさかここに入るために、巡視隊を全滅させたのでは無いだろうかと少し不安だったのだ。
光にぼやけた視界の中で、ヴェルネは晴れやかに微笑んだ。
「それこそまさかです、天使様。不敬な輩も居るようですが、真面目に働いている方も多数居ります。根こそぎ供物では、我が神にも失礼に当たりますから」
「………そう」
失礼の基準がぶっ飛んでいる神さまだとイヴは思ったが、まあ言わないことにした。
ここに来たのも、どうせその神の導きなのだろうから、文句を言うのは失礼だろうしそれに――食べ物の好みは誰だってあるものだ。
瞬きを数回繰り返すと、漸く視界は落ち着いてきた。
慣れてきていたが、やはり、見えると言うのはそれだけで精神の安定に寄与するものである。安堵の息を漏らしたイヴに、ヴェルネは首を傾げた。
「しかし、天使様。何故このような事態に? この程度の戒めで、天使様がどうにかなるとは思えませんが………」
「ヴェルネにとっても、些細な障害かしら?」
「そうですね、神秘の程度としては、お粗末も良いところです。私の生まれた場所ならばこの程度、子供の玩具にもなり得ません」
ヴェルネの生まれた処、か。
それが果たして何処で――何時のことだか、イヴには全く想像がつかない。この地上にあるかどうかさえ、はっきりとしないのだから。
何百年前の話だか、もしかしたら、御伽噺の時代に既に存在していた可能性さえある。
生まれた、とはどうも言いたくなかった。目の前のこの世の果てみたいな生物に親が居るという事実は、下手な怪談よりも恐ろしい想像だった。
「あはは、私の両親はもう死んでいますよ。私に信仰を託し、奇跡を与えて死にました」
「………そう」
それはそれは、迷惑な事をしてくれたものだ。ヴェルネは肩をすくめた。
「………物理的には、ただの鉄ですね。天使様でしたら、どうとでもなるのでは?」
その見立ては正しい。
イヴの借り受けた腕ならばこの程度、紙切れのように引きちぎる事が出来るし、炎を使えばあっという間に蒸発させられる。
どうにでもなる。『イヴが炎を使えない』という前提で組み立てられた拘束なのだから、前提が間違っている以上は成立するはすがない。
拘束は無意味。それなのに、イヴはここにいる。
「………もしや、天使様。貴女は………ここで終わるつもりなのではないですか?」
「………」
ざわりと、室内の空気が波打ったような気がした。そんな変化など気付かないで、ヴェルネは立ち上がった。
「我が麗しの天使様、貴女には神命が下っている筈です。罪深き人々を供物として捧げるという任を帯びて、地の底から舞い上がって来た筈です」
「………いや、そこまでは………」
「それを、放棄するというのですか?」
それは、どうしようもなく静かな言葉だった。声量の問題ではない、声に込められた感情が余りにも少ないのだ。
普段の、うるさい程の感情が殆ど欠落していた。見詰めてくる金の瞳にも、人間らしい情動の気配が見受けられない。
生き物の形をした何かが、じっと見詰めている。
感情のこぼれ落ちたヴェルネ。その全身から何か、黒々とした何かが広がっていく。
悪魔の瞳でさえ、『黒い何か』としか認識できないモノが、ヴェルネの足下に水溜まりを作っていく。
座らされたイヴの全身を、呑み込むように。
イヴの視線が、ドアの付近に倒れた見張りの男を見付ける。
彼は、ヴェルネの信仰に呑まれたのだろう。その魂は、最早何処かに旅立ってしまった。
このままではイヴも同じ目に会うだろう。それを理解して、イヴは――
「………ふふ」
小さく笑った。
「どうかなさいましたか、天使様?」
「えぇ、まあ、何て言うか。漸く本当の貴方に出会ったような気がしたのよ、ヴェルネ・カーペンター? はじめまして」
ヴェルネは目を見開いたまま、ぎょろぎょろと無機質な瞳で笑うイヴを見詰める。
そして、その唇が、笑みの形に歪んだ。
「………ふふ、そうかもしれませんね。はじめまして、イヴ・スレイマン」
「イヴでいいわ」
「ヴェルネで良いですよ」
くすくすと、二人は笑う。意味も理由もなく、ただ可笑しいからというだけで。まるで――友達みたいに。
「ヴェルネ、貴方は、終わらせようとは思わなかったの?」
「いいえ。………いえ、どうなのでしょう。私はそれを考えないようにしてきました。そしてやがて、考える仕組みを無くしてしまったのですよ」
「そう。………哀しいわね」
「それを哀しいと思えることは、幸せでしょうね。私はもう、どうとも思わない。だからきっと、貴女ならば、今ならば終われるのでしょう。………ラードのようにね」
彼にとっては、唯一の友だったのだろうか。既に居ないラードを偲ぶように、或いはその真似をするように、ヴェルネは軽く目を閉じた。
「………ねぇ、ヴェルネ、頼みたいことがあるの。………友達として」
「構いませんよ、我が友よ」
微笑みながら、ヴェルネは膝を折り、祈りを捧げ始める。
きっと、とイヴは思う。
私には、似合いの祈りだろうなと。
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