第33話閉じる罠の口
2階の桟敷席から見下ろす舞台では、純白のドレスに身を包んだ女性が歌っている。
何て世界は罪深く、何て世界は美しいかと、無垢にして無罪の証明のような真っ白な衣装に身を包んで、歌姫は力強い声を響かせる。
罪でヒトは生まれ、欲でヒトは生きる。悪徳が栄えた試しはないと言いながら、それが消え去る日は永遠に来ない。
世界から悪を全て消すためには、きっと、この世からヒトを全て消し去らないといけないのだろう。
だって、罪は自由な風のように吹いている。それを心地好いと思うヒトは、世界に溢れているのだから。
「………無事だったか」
ダニアンの呟きは、劇も半ばまで進んだ時に漸くこぼれた。
隣に座る彼の顔を見ることなく、イヴは頷いた。
「そう言うってことは、ある程度事態は掴んでいるのかしら?」
「勿論だ。………恐らくは、お前の思う以上にな、イヴ」
それはどうかしらね、と嘯くイヴに、ダニアンは腕を組もうとして顔をしかめた。
「冗談を言っている場合じゃあない。良いか、我々が何も掴んでいないと本気で思うのか? 我々が、無能な鼠の集まりだと思っているのか探偵?」
「いいえ、まさか。もう少し、上等だと思っているわよ? ラジアル家で起きた表向きの顛末を知るくらいにはね?」
「お前がどこまでをそう呼んでいるのかは知らないが、イヴ、我々はもう少し深く知っているぞ」
「へえ?」
歌姫の歌が終わり、幕が降りて舞台が暗転した。休憩時間の騒がしさに劇場が包まれたのを見下ろして、漸くイヴは視線を動かした。
上質な
鋭い眼光に真正面から向かい合うと、イヴは唇を綻ばした。
「聞きましょうか、隊長さん?」
「………昨夜遅く、ラジアル家が何者かに襲撃された。キャロティシアン王国の、帝国崩壊後の新政権における大貴族の本邸がだ」
「正解、1ポイント」
「一家は、使用人も含めて殆ど皆殺しだ。唯一、7才の少女が残ったらしいが、その証言が何処まで信用できるかは我々の中でも意見が割れている」
「2ポイント」
「城は全焼、屋敷からは武器が見付かっている。用途不明の、いや、私たち以外には用途不明のマスケット銃がな」
「3ポイント、ダニアン、そろそろ詰みかしらね?」
ニヤニヤと嘲笑を浮かべるイヴを、ダニアンは苛立たしげに睨み付ける。
何をふざけているのだ、怒鳴り付けようとして、開幕のブザーに口を閉ざした。
静まり返る観客席に声をひそめ、ダニアンは言葉を続けた。
「良いか、イヴ。お前が思う以上に事態は不味い方に転がっているんだ。自覚があるのか?」
「どういう自覚? 殺人事件の容疑者の自覚かしら?」
「貴族の殺人事件だ!」ダニアンは低く怒鳴った。「お前が馬車を借りたことも、ラジアル家の領土方向へ向かったことも解っているんだぞ」
所詮状況証拠にすぎないが、それでも充分だと上層部は判断するだろう。
相当な力のある貴族への襲撃だ、建国間もない王国としては手痛い事件で、だからこそ早急に解決しようとするだろう。影に帝国の亡霊がちらつくのなら尚更だ。
イヴを逮捕し、処刑して終わり。それが最も簡単なシナリオだ。
「お前も、そのくらい察しが付いているだろう。証拠の捏造も容易いこともな」
そして今回に至っては、捏造の必要さえない。イヴは確かにラジアル家に行ったのだ。そこで火を着けていないとしても、彼女が火を操るUMAだということは直ぐに解る。火事の現場で見かけるには、いささか物騒すぎる異能だ。
疑われる要件は数知れず。対して、疑わない根拠は余りにも少ない。
「何故ラジアル家に向かった」
「決まっているでしょう、奴等が居ると思ったからよ」
「何故直ぐにそれを我々に知らせなかった………!」
押し殺した怒鳴り声に、イヴは肩をすくめると、舞台へ視線を戻した。
興味無さそうに手すりへ顎を乗せているが、それなりに楽しんではいるらしい。ダニアンは大きくため息を吐いた。
「………直ぐに、身を隠せ。焼け跡の調査で何かしら進展があれば、お前の容疑も晴れる。それまでの間大人しくしているんだ。追っ手の可能性も捨てきれん、贈り物は持ってきたな? それを持って………、どうした?」
ダニアンは、不審そうに眉を寄せた。
ニヤニヤと笑っていたイヴが、更に深く、とうとう声を上げて笑い出したのだ。
慌てて周囲に目をやるが、幸いそれほど大きな声ではない。
誰も騒ぐ素振りを見せないことを確認して、ダニアンは安堵の息をこぼした。そして、咎めるように鋭くイヴに声をかけた。
「なんだ、何を笑っている。そんなに面白い場面がある劇ではないだろう?」
「あ。あんたは観たことあるのこれ?」
「再演だからな」
「そうなんだ、ふふ、それなら、先を教えて欲しいなダニアン。それとも、最後まで見させてくれるの?」
イヴが、その左目が、ちらりとダニアンを見た。鋭くはない、怒りも憎しみもない、凪いだ湖のような穏やかな青い瞳。
そのあまりの静けさに息を呑むダニアンに、イヴは、淡々と尋ねた。
「ねぇ、どうするつもり? いつ私を捕まえさせるつもりなの?」
「………何を、言っている」
案外早く動揺から立ち直ったな、とイヴはぼんやりと思う。
流石は歴戦の巡視隊隊長だ。頬を垂れた一筋の脂汗には、まぁ目をつむってやろう。
「冴えない惚け方ね、ダニアン。遊びが足りないんじゃない?」
所長の言葉を思い出しながら、イヴはクスリと笑う。なるほど、これは中々気持ちの良い言い方だ。
あのもって回った言い回しは、所長なりの遊びだったのだろう。もっと早く、試してみれば良かった。
こうなる前に。
「単純な話だわ、ダニアン。あの男の大好きな推理とか、そんな次元の話じゃない。貴方しかいないのよ」
所長なら、まるで児戯だ駄作だと酷評するところだろう。
どれだけ難解な、精巧で複雑なトリックを用いた事件であっても、容疑者が一人しかいないのならそれは難事件ではない。
話の序盤でならそれも良いが――事ここに至っては、容疑者=犯人だ。
「犯人が罠を仕掛ける、それは良いわ。相手は貴族ですものね、そういう政治闘争は起こり得る。だけど、その標的が私だというなら話は変わる」
「どういうことだ」
「私を恨む相手がいない、という話よ。まさか私が、食べ残しをする礼儀知らずとは思わないでしょうね?」
イヴ・スレイマンの狩りは完璧だ。
獲物は唯の一人として逃したことはない。最後の一人を除いては。
死人は誰も恨まない。彼らには、そんな義務を課せる運命なんて無いのだから。
「だとすると、どういうことか。簡単よ、私への罠の動機は恨みではなかった」
「………ほう」
ダニアンは、そろそろ余裕を取り戻しつつあった。油断なくイヴの挙動を見守りながら、仏頂面に微かな笑みを浮かべて見せる。
イヴは、舞台に背を向けた。
狭い桟敷席で、ダニアンの顔を正面から見つめる。
「では、どういうことだ。お前は恨まれていなかったのか?」
「さぁ。少なくとも今回は、恨みよりも実益を優先させた。1投で2羽を落とそうとしたのよ、貴方は。有力な、けれど目障りな大貴族と私を食い合わせるためにね」
おかしいと思ったわ、とイヴは首を振って見せた。これもまた、遊びだ。
「巡視隊の誰も知らない、私にしか届かなかったラジアル家の関与の証拠。解りやすくポケットにあったのに、誰も見なかったなんてあり得ないでしょ。でも、見なかった事にはできる、隊長の貴方なら」
「………1ポイント」
「どうも。そして、馬車を借りたことが解ったなら、そのあとを追えば済む。私の目的が、あの時点では行方不明者の捜索だったのだから、私が馬車を借りることは予想できるでしょ。予想できれば、網も張れる」
現実には、馬に乗ろうとしたら乗れない同行者が居ただけだが。
「あとは、簡単。あの地下室を見せれば、そしてそこで死体と銃を見せたら、私は確実に暴走する。奴等と繋がっていると思い、貴族を相手に大立回りを演じるはず。そして、その間に地下に火を点けてしまえば、厄介な相手は全部燃え尽きてくれるって訳でしょう?」
そして、とイヴは唇を舐めた。
ここからが、クライマックスだ。
「私をそうさせるには、条件がひとつあるわ、ダニアン。解るでしょう? 貴方は、帝国の残党じゃないかしら?」
「………」
「答えは?」
ダニアンは、答えなかった。
桟敷席に沈黙が降りる。黒いドレスに着替えた歌姫の嘆きの歌が、劇場に響く唯一の音だった。
「………く」
やがて、その沈黙は破られた。
低く、控えめに、けれども毒々しく。
「くくく、ふふ、くははははは………!」
ダニアンが、笑ったのだ。
無表情の仮面は崩れ落ちて、野蛮に、狂ったようにダニアンは笑う。
それを冷ややかに眺めながら、イヴはため息を吐いた。
「いやあ、済まないね。遊びのある答えが見つからなくてな」
「そう。お互い、詰まらない人生を送ったものね」
「違いない」
互いに苦笑した。そこは、どちらも理解し合えていると確信できる事柄だった。
――あぁ、詰まらない人生だった。
「せめて、派手に締め括るかね?」
「止めておくわ。どうせ、部下が忍んでるんでしょう?」
「ふふ、関係の無い人間は巻き添えにしたくないか? 立派なことだ」
ダニアンが右手を上げ掛けて、何かに気づいたように左手を上げた。それを見て、イヴは嘲笑を浮かべた。
「どうしたの、老犬にでも噛みつかれたのかしら?」
「ふん」
合図に反応して、観客席から何人かが立ち上がって向かってくる。
ダニアンの手下たちだろう。表と裏、どちらの手下かは知らないが。
それを見ながら、イヴはやれやれと肩をすくめた。それから、ちらりと舞台へ視線を向ける。
気になってたんだけどな、と小さく呟く。あの、罪の美しさを歌い、今、罰を求め嘆く歌姫が、最後は何色のドレスを着るのか。
無垢の白か、嘆きの黒か。
イヴは苦笑しながら、降参するように両手を上げる。
手下の一人がその頭を思いきり殴り付けて、イヴの意識は、あっさりと闇に落ちていった。
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