第31話炎の有り様

「………」


 立ち上る湯気の隙間から見下ろすマグカップは、夜のように黒い。


 引き出しから角砂糖を5つ放り込み、ミルクを注ぐ。漆黒の液体は瞬く間に白い霧に覆われ、掻き回すと茶色く染まった。

 闇は、容易く薄まる。舌を焼く熱さも、冷たいミルクが程好く冷ましてしまう。


 コーヒーも感情も、濃さを維持するのは酷く困難だ。温度などは、数える内に大気に溶けていってしまう。

 身を焦がしていた筈の灼熱も、放っておけばただのぬるま湯に成り果てる。そのために掛かる時間は、温めるより遥かに早い。


 保つには常に、燃やし続ける必要がある。イヴはそれを知っていたし、実践してきた。奴等を燃やすことだけを生き甲斐に、復讐心に薪をくべ続けて来たのだ。


 だが、イヴは知らなかった。


 火は、一瞬の水であっという間に消えることもあるということに。


「………私は………」


 少女の瞳から見返す自分の、悪鬼のような顔。

 老人に突き付けられた、復讐相手との相似。

 そして、何より。

 人を助けるために、イヴは復讐を脇に置いた。


 捨てた訳でも忘れた訳でもないが、確かにあの一瞬、イヴは復讐よりも見知らぬ他人を優先したのだ。

 自分自身による、何よりも鋭い裏切り。その針はイヴの心を抉り、縫い止めていた。


 思わずため息が出る。イヴは自らの心境の変化を敏感に察していた。


「………暇そうだな、イヴ・スレイマン。なら少し付き合いたまえ」

「え? ………所長?」


 不意の呼び掛けに、イヴは顔を上げた。

 所長室のドアが丁度閉まるところだった――出てきていたのか。


 イヴは舌打ちした。我ながら物思いに耽り過ぎだ、そんな珍事を見逃すなんて。


 所長の姿を見たことは、イヴは1度もない。コーデリアもそうだ、あの書類の山の向こうを覗くことは出来ないし、そして所長の姿と言えば、ハッキリとしないもやに包まれていた。

 出歩く様も見たことがないし、良い機会だったのに。


 或いは。


 それにさえ気が付かないから、所長はイヴを誘ったのかも知れないが。

 優しい気遣いというわけか。それもまた、温度を下げる一因なのに。


 イヴはため息を吐いて、所長の元へと向かった。











「何か御用ですか、所長」

「まあ掛けたまえ。カップは? 結構」


 椅子に座ったイヴはカフェオレを口に運び、眉を寄せた。まだ少し熱い。

 置くところもなく、仕方無く吐息で冷ましながら、イヴは所長の言葉を待った。


「あの男は? ヴェルネ・カーペンターといったかね?」

「あぁ、役所に行きましたよ。後見人手続きに」

「後見人………。何ともあの少女は、困難な人生を選ばされるものだ」


 やれやれと嘆く所長に、一先ずはイヴも同意した。彼女は、不幸の星の下にでも生まれついてしまったのか。

 イヴの言葉に、しかし所長は否定の声を上げた。


「それはどうだろうな」

「え? でも、それは………」

「と言うよりも、だ。良いかイヴ・スレイマン。誰かの人生を、他人が幸不幸など判断するものではない。それは己自身の天秤で、自分だけが決められるものなのだ」

「………」


 イヴは押し黙る。

 一般的には、どう考えても不幸だと思うのだが、所長の言うこともわかる。

 彼女の人生だ、彼女だけが不幸を嘆く権利がある。


 それに。

 、悪魔と付き合う事こそ不幸というものだ。


「さて。奴が居ないのならば問題ないな。あれが居ると余計な話をしに来ないとも限らんからな。私は、奴の狂信に付き合ってやるつもりはないんでね。………ならばもう一度聞くがね、イヴ・スレイマン。今は余裕があるのかな?」

「………えぇ、まあ」一先ず必要なのは調査だ。それには、コーデリアの出社を待つ必要がある。「取り敢えず手は空いています」

「結構。では、午後の御茶会と行こう」


 イヴは大きく眼を見開いた。

 所長が部屋から出歩くという珍事に続く更なる珍事だ。所長は、殆どイヴやコーデリアとお茶をしたことはない。


 姿を見せないから、

 理由はイヴのカップと、所長のカップとの違いにある。


御茶会ティータイム、ですか」

「その通り。良い時間だろう?」


 性別も人種も想像できない奇妙な声からは、内心など推し量ることもできない。だが、続く言葉からは簡単に心情を想像できた――侮蔑だ。


「まあ残念ながら。お前のそのに合う菓子は用意していないがね、イヴ・スレイマン」


 ………これだ。

 所長は熱心な紅茶党で、イヴのコーヒーはおろかココアさえ邪道と断じる程だ。

 例の回りくどい口調で散々に扱き下ろされ、流石のコーデリアも2度と所長をココア会に誘うことは無くなった。


 好きなものを嫌う人間と過ごすことほど不毛なことはない。イヴはそう思っていたし、所長も同意見だと思っていたのだが。


「良き羊飼いであろうとすれば、羊以上に牧羊犬の調子を気にするものだ。イヴ・スレイマン。?」

「………どうでしょうね」

「詰まらない惚け方だ、お前も少しは遊びを知るべきかも知れんな。そんなことでは気の利いた辞世の句も用意しておらんだろう」

「知ろうと思えば、私と泥水を飲まずとも知れるのでは無いですか、所長?」


 イヴは肩をすくめながら挑戦的に尋ねた。

 背もたれに体重を預けながら、長い足を組む。無礼な態度ではあるが、所長は気にしないようだった。

 くつくつという笑い声に混じり、ティーカップとソーサーが触れ合う音が小さく聞こえた。うるさく言う割りに、作法の決まらない飲み方である。


「だから遊びが無いと言うのだ。それでは詰まらないだろう、イヴ・スレイマン。御茶会とは紳士淑女の戦場だよ。こうしてカップをぶつけ合い、意見をぶつけ合うのが紳士の嗜みというものだ」

「私は紳士ではありませんよ」

「私だって違うとも。だが、そうあろうとすることは大切なのだ。詰まるところ紳士の条件と言うものはな、紳士的である事だけなのだからな」


 カップをぶつけ合うのが紳士的であるとは思えなかったが、イヴは押し黙る。所長が私たちの世界で言う『紳士』について話しているとは限らないのだから。

 言葉の定義は人それぞれだ。そこで言い争うことは、不毛だ。


 代わりに、イヴは意見をぶつけることにした。紳士的に。


「………何があったのか、は見ていたはずですが?」


 寧ろその事で、今朝は絞られたのだ。


「見ていたのは何がだ。起きた事象は、イヴ・スレイマン、お前の内心を語りはしない。ここは是非とも、お前の心をこそ聞いておくべきだと思ってな」

「………どういう意味でしょうか」

「言わせたいのなら言ってやるがね、イヴ・スレイマン。?」











 覚悟していた質問は、覚悟していたよりも容易く受け止める事が出来た。

 いずれ問われるだろうと思っていたからだろう。想定内の衝撃は、どれ程大きくとも被害を生まないものだ。

 所長の言葉を借りるなら、『牧羊犬の調子を気にする』のは当たり前だ。そして、調子が悪いのなら直そうとするのもまた。


 所長は、彼にしては辛抱強い間を設けてイヴの返答を待った。イヴはじっくり内心を整理して、舌に乗せる。


「………解りません」


 悩んだ割りにはシンプルな、けれども正直な思いだった。


 今この時点での思いを語るのならば、イヴは勿論復讐を諦めたりはしていない。奴等が目の前に現れたら………いや、そんな想像すら必要ない。奴等がこの世界の何処かで安穏と息をしているだけで、イヴは奴等への憎しみを燃えたぎらせる事が出来る。

 イヴは復讐者リベンジャーだ。それはけして変わらない、魂の有り様だった。


 だが同時に、イヴの心は気が付いている。


 もしも目の前に奴等が現れたら――そしてその横で、誰かが死にそうになっていたら、自分はどうするのか。

 ………どうするのかと悩むそれだけで、イヴにとっては変化だ。好ましくない変質だ。


 かつての自分には、復讐しかなかった。今やそれは、天秤の片側に載る程度にまで軽くなってしまっている。

 たとえ、復讐の側に傾くだけの重さは保っているとしても。最早自分には、復讐だけが在る訳では無くなったのだ。


「………所長。私は………もう役に立たないのでしょうか?」


 斬首台に首を乗せるつもりで、イヴは尋ねた。

 所長にとっては、由々しき事だろう。吠えない猟犬は、最早無価値な愛玩動物だ。そして所長に、ただの犬を飼う趣味は無いと思う。


 イヴは債務者だ。所長が取り立てると決めたなら、命さえも残らない。


 イヴは所長の姿を幻視した。挑むように、それともすがるように?

 どちらにせよ、イヴの左目は書類の山を越えられず、右目は眼帯に戒めてある。


 かちゃん、と甲高い音が小さく聞こえた。


「………いいや、イヴ・スレイマン。お前はけして、無価値ではない」


 果たして所長の声は、出来る限りの真摯さを含んで響いた。


「先程も言ったな、紳士であるためには紳士的であるだけで良い。復讐者であるためには、復讐的でさえあれば良いのだ。そう、心掛けるだけで構わないのだよ」

「私は、迷っています」

「それでも構わない。人間らしくて親しみが湧く程だよイヴ・スレイマン。私にとっては、お前たちの迷いや苦しみはミルクのようなものだ。紅茶を楽しむためには欠かせんのだよ」


 所長の声には、笑いさえ含んでいるようだった。


「私は薄情だが、無責任ではない。イヴ・スレイマン。お前が復讐的で有る限り私の火はお前のものだし――手に余ると言うのなら、いつでも返してくれて構わんよ。………そのときは、?」


 やはり、そういう話になるのか。

 迷うのは良し、但し、折れることは許さないと。折れるくらいならば、いっそ燃え尽きろというわけだ。


 当然だ。イヴが燃やしているのはイヴにとっては仇だが、所長にとってはただの魂。所長あくまには、パイやケーキと同じおやつのようなものだろう。

 所長は紅茶が好きだ。紅茶には、茶菓子を欠かすわけにはいかない。


 どうやら、イヴには道はひとつしかないようだった――前に進むことだ。


「………コーデリアの出社を待って、調査に戻ります」

「結構。だが、それよりも?」

「迎えに?」


 首を傾げたイヴに、所長は堪えきれないとばかりに笑いながら言った。


「リトルグレイだよ。イヴ・スレイマン、お前の家に、置いてきたままだろう?」

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