第29話大人と子供
「う………うん………」
身悶えと共に、リンダ、リンドレット・ラジアルは夢の世界から帰還した。
素晴らしい夢を見ていた気がする――雲で包まれた世界、ピンクの雲はイチゴ味、青い雲はソーダ味。無色のものを千切って黒い液体に浸ければ、それは直ぐ様ティラミスに代わる。もう少し薄い茶色に浸けるなら、それはあっという間にチョコレートだ。
雲は後から後から湧いて出てきた。無限に食べられる御馳走というのは、実に解りやすい楽園だ。
夢では味など感じないというのは、人によるようだ。リンダは少なくともその雲の味わいを完全に楽しんでいた。
飲み物がないのが少し辛いわ、なんて思いながらリンダは
若干の名残惜しさと共に夢の世界を飛び立って、リンダの意識は現実へと浮上した。
そして、目を覚ます。
舌を介さず脳をのみ騙した味わいも、虚数ゆえに無限に生まれる雲も無い。それどころか、彼女を守り導くための保護者が誰一人居ない現実の世界へと、少女は帰還する。
そしてその目の前に、彼が顔を見せる。
「おはよう、リンダ。御機嫌は如何ですか、素晴らしい夢を見ましたか?」
何処からとも言えない光を反射して輝く銀縁眼鏡に、野暮ったい髪。理科室か保健室でしかお目にかからないような白衣を纏い、小豆色のロングマフラーで申し訳程度に防寒している。
一度見れば記憶の片隅には残りそうな服装。だがそれより何より、強烈に記憶に刻まれるもの――それどころか精神を刻みそうなもの。
ヴェルネ・カーペンターの笑顔が、目の前にあった。
ある程度精神汚染に耐性の有るイヴでさえ顔をしかめるような、悪夢の具現化のような微笑み。
夢から覚めた筈なのに、思わずもう一度目を閉じたくなるような、正常な人間なら発狂するかもしれない光景。半端な対精神汚染
「カープ先生!?」
「ビックリした、先生、どうしてここに?」
「そうか、君は昨夜、気絶して目覚めた後は
カープ先生、いや、カーペンター先生はいつもみたいに優しく微笑むと、湯気の立つマグカップをリンダへと差し出した。
「ココアです。ここには、甘党の探偵が居るようですね」
「わぁ………!」
リンダは無邪気に微笑み、カップに口をつける。熱いかも、とは思ったが、カップの中身は程好い温度になっている。
「ありがとう、先生!ちょうど喉が渇いてたの!」
「それは良かった。どうやら、また何かを食べる夢を見ましたね、リンダ? 口を明け閉めするから、喉が渇くのですよ」
「美味しい夢だったの………」
しょんぼりと、落ち込んだ様子で俯くリンダに、ヴェルネは優しい笑みを崩さないまま、彼女の肩に手を置いた。
「良いのですよ、責めている訳ではありません。ただ、あまり口を開けたままだと喉が乾燥して風邪を引いたり、喉を傷めたりします。貴女の健康を思うのなら、少し気を付けなくてはいけませんよ?」
「はい!」
元気良く、リンダは頷いた。先生はとても優しい――いつものように。
リンダはジンニ公園の北、自然に囲まれたエシャード小学校に通っている。そしてヴェルネ・カーペンターはそこの教師なのだ。
彼の教える歴史は非常に解りやすいと評判である。まるで見てきたかのように世界の歴史を語るヴェルネの授業は、貴族の子息が多く名を連ねる名門にあっても最高レベルと評されているのだ。
加えて、彼自身の性格の良さも影響している。
ヴェルネは子供たちの話を確りと聞いた。
普通の大人や親たちならば気にも留めないような雑談から、その後の人生を左右するような悩みまで、何もかも同じくらいの真剣さをもって相談に応じる。
子の冗談や悪戯に笑い、それがヒトの道を外れるようなら注意する。言葉にすれば当たり前の理想を、ヴェルネはあっさり実現していったのだ。
子供からは信頼できる大人として。
大人からは、有能な上子供受けも良い大人として、ヴェルネは尊敬と敬愛によって作られた額縁に飾られていたのだ。
誰も額縁を外さない。だから、その絵が何を表したものかを知らないのだ。
だから今、リンダは無警戒なままその薄い胸に飛び込み、力一杯抱き締めた。
「おやおや、リンダ。どうかしましたか?」
「………先生も、彼処に居たの?」
顔を埋めたまま尋ねるリンダの声は、明らかに震えていた。
恐らく顔を上げれば、瞳は決壊寸前だろう。それが解っているからリンダは顔を上げず、ヴェルネも無理には上げさせなかった。
ただそっと、その背に手を据えるだけだ。
「えぇ、居ましたよ。リンダ、貴女の御父上とも、お爺様とも御会いしました」
「………どうして、そこに?」
「………それを教えてあげるわけにはいきません、リンダ」
瞬巡の末、ヴェルネは言葉を濁した。
イヴとの約束――子供を教えに誘わないという誓いを守ろうとしているのか、それとも何か別の理由があるのか、それは誰にも解らない。ヴェルネの内心を覗くなんていう、婉曲な自殺をしたいのなら別だが。
いずれにしろ、ヴェルネは緩やかに首を振った。それだけが事実として、世界に浮かび上がる。
「私の個人的な用事と言っておきます、リンダ。そのために貴女を助けたヒトの、微力なれど手助けをしたのです」
「………ようじ………」
「どうしてもと言うのであれば教えますが、リンダ、貴女が聴きたいのはそんなことではないのではないですか?」
イヴが聞いていれば眉を寄せたであろう、鮮やかな話題の逸らし方であった。
相手の疑問に何一つ答えることなく、相手自身に質問を変えさせる手法は、言ってしまえば詐欺師の手口だ。
これもまた、ヴェルネの人気の秘密の1つだ。彼は相手を一切否定せず、自分の思う通りにヒトを動かす。
「………先生、とぅさまも、かぁさまも、おじぃさまも、死んだの?」
「はい。あの晩彼処にいた者の中で生き延びたのは、貴女を除けば3人だけです。私と、貴女を助けた天使様、そして」
「………かめんのひと」
ヴェルネの服を握る手に、ぎゅっと力が籠った。
声にも、悲しみとはまた違う震えが宿る。
「先生、あの人が、あいつが………みんなを殺したの?」
「リンダ………」
「そうなんでしょ?」リンダは顔を上げる。大きな瞳には、吐き出されるのを待つ涙が溜まっている。「わたし、見たよ? 天使様があいつを殴ろうとしてて、わたしを庇って逃げられちゃったの」
ヴェルネは内心で嘆息した。
帰り道、天使様がやけに情緒不安定だとは思っていたが、そういう事情があったのか。
何を言うべきか、ヴェルネは迷う。
大人の迷いを、子供は直ぐに見抜く。見抜いて、それを躊躇わずに突くのだ。
「先生も、あいつを追ってるんでしょ?」
「それは、その………まぁ、そういう結果になりますか」
実際はもう少し複雑なのだが、と言うよりもヴェルネは別に仮面男を追い掛けるために彼処まで行ったわけではないが、しかし。
込み入った事情まで説明してやることもないだろう。ヴェルネはリンダの髪をすいてやりながら、さてと首を傾げる。
どう話を進めるべきか。
………どれだけ上手く話を進めても、どうも美味い結果には辿り着けそうにないと結論付け、ヴェルネは眉を寄せる。
ふと手元に、リンダのカップが見えた。抱き付くときに、近くに置いたらしい。
そこには未だ、半分以上中身が残っている。茶色く、味も香りも強いココアが。
ヴェルネはそこに手を伸ばした。その指先から、信仰を数滴ココアに溢す。
「さぁ、先ずは落ち着きなさいリンダ。ココアでも飲んで」
「………うん、先生………ん?」
ココアを大きく一口呑んで、リンダは2度ほど瞬きした。
そして、次の瞬間、気を失った。
「………話は後でにしましょうね、リンダ。君が覚えていればですが」
ホッと安堵の息をこぼしながら、ヴェルネは再び眠りに落ちたリンダの身体を、そっと床に横たえた。
そして、いつものように、否、いつも以上に強く、ヴェルネは彼の神に祈りを捧げた。
どうか、神よ。早く天使様のお話が終わり、こちらに戻ってこられますようにと。
………出来れば。
リンダが再び目覚める前に。
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