第三章その炎に安息を
第28話そして夜は明けて
暗い部屋を、私は歩く。
そこが部屋だというのは解っている。だが、歩けども歩けども、私は何処にも辿り着けない。
壁がない。
暗すぎて視界の大半は闇に閉ざされ、手探りで進むしかない状態で、部屋の証である壁に着かない。
着かない、というのはおかしな表現だ。其処が部屋であれば、目指すべき場所のはずである。部屋にいる時点で私はどこに行こうというのか。
決まっている。
私は、此処から出たいのだ。
伸ばした手の先さえ見えない闇の中から出ていきたい。のし掛かるような漆黒の空間から、花咲き風薫る穏やかな光の下へと出ていきたいのだ。
「………何処へ?」
自然に、問い掛けが響く。
何処と無く聞き覚えがあるような、聞いたことがないような。
知り合いの声などよりも余程記憶を揺さぶる、些細な共振。私は心の奥底を覗き込もうと集中し掛けて、そんなことは不要だと声の主はその姿を現した。
少女だ。金髪の、少女というより女の子と言う方が正しいような年齢の彼女は、私を見上げて不思議そうに首を傾げている。
その全身は輝いてこそ居ないものの、周囲の闇をはね除けるような力強い存在感に満ちている。
それなのに、顔など露出した肌は不健康なほどに青白く、纏う漆黒のフリルドレスは、可愛らしいのに何処か生命力に欠けている。
深夜、枕元。
月明かりに照らされる
まるで――ヒトでないものがヒトの格好をしているような、禁忌を匂わせる退廃的な存在感に、周囲の闇も遠慮しているようだった。
幼い闇の女王は、不確かな見覚えの顔をして、無感情に質問を重ねる。
「ねぇ、貴女は何処へいきたいの? 何処かへ、いきたいの?」
私は答えられない。
単なる質問のようでありながら、その言葉の端々から何か、突き付けられる刃の気配を感じ取っていた。
無味乾燥な糾弾の言葉に沈黙する私に、女の子は更に首を傾げる――殆ど真横になるまで、整った幼い顔がゆっくりと傾いていく。
答えることも、さりとて目を逸らすことも出来ず、ただただ立ち尽くす私の前で、女の子は決定的な一言を口の端に乗せた。
「………此処を、出たいの?」
息を呑んだのは私か、それとも、周囲の闇か。動いた空気の気配からすれば、恐らく両方だったろう。
その時初めて解った――何故、私が何処にも辿り着けなかったのか。
理解した私に、幼艶な闇の女王は、首をぎこちなく傾け続けながら、近付いてきた。
その両腕が、大きく広げられる――さあさあようこそと歓迎する、サーカスの道化師のように。
「未だ、こんなに残っているのに?」
その両腕が、黒い炎に燃え上がる。
邪悪な輝きに照らされて、部屋から闇が押し退けられる。
天井から吊るされた何十人もの死体が、黒焦げのままで私を見下ろしている。
眼球が燃え付き闇がわだかまる眼窩が、無機質に私を見詰めてくる。
遠退く意識が、最後に思う。
――その願いは、
弾かれたように跳ね起きる。
途端反射的に跳ね上がった足が机の足置きにぶつかり、思わず呻きながらイヴは事態を把握した。
辺りは、見慣れた古いアパートの室内。グレイブヤード探偵事務所だ。
使い込まれた自分のデスクで突っ伏していたのだろう、軽く身体を
嫌な夢だ。恐らく、今までで一番の。
「おお、お目覚めですか我が天使様」
声の方に視線を向けると、部屋の隅にヴェルネが立っていた。
にこやかなその微笑みは、全くいつもの通りだ――昨夜あんなことがあったにも関わらず。
恐らく、今までで一番の嫌な目覚めだ。目が覚めたらそこにヴェルネが居るなんて、夢そのものと比べても遜色無い。
「心地の良い目覚めではなさそうですね、私も哀しいですよ」
「お前はそうでもなさそうね、快適なベッドだったかしら?」
「えぇ。夢は我が神との対話の場ですから、実に充実した時間でしたよ」
それは、嫌な時間だ。少なくともイヴとしては絶対に避けたい。
イヴは立ち上がり、周囲を見回した。
それから、眉を寄せる。
「………あの子はどこ?」
「リンダですか? 天使様に気にされるとは、あの子も光栄でしょう」
「どこ?」
あの後、ラジアル領からどうにか帰ってきたのが昨日の夕暮れ時。森の中で馬車を見付けられなければ、もっと掛かっていたかもしれない。
馬車を返して、その辺りでイヴの体力は底を突いた。もう一人はともかく、リンダもそれ以上に疲れていたので、そこから一番近い安心できる場所に向かったのである。
事務所のドアをくぐった時点で、イヴの記憶は途切れている。どうやら自分の机までは辿り着いたようだが、幼い同行者の事までは気が回らなかったのだ。
「無理もありません。何しろ、激戦の上強行軍。実際リンダも、寝ているのを私が背負ってここまで来たのですから」
「………お前に触って、副作用とか無いでしょうね」
「はあ、今のところそうした訴えをされたことはありませんね」
「それで。リンダは結局どこに寝かせたの?」
問いながらも、イヴは安心していた。
ヴェルネという人間――確証はないがそうでないという証拠も無いからとりあえずそう呼ぶが――は、他人を意味もなく害するような人格では無い。攻撃されたならともかく、子供を積極的に傷つけるタイプではないだろう。
怖いのは親切心からの教えだが、本人曰く子供に片寄った価値観を押し付けるような真似はしないそうだし、昨夜家族全員を失ったばかりの幼子にはなおしないだろう。そう信じられるくらいの時間は、残念ながら共有している。
ヴェルネはきっと、リンダを安全な場所に眠らせているだろう。イヴはそう予想していたのだ。
そしてその予想は、一応当たっていた――確かにヴェルネは、リンダを地上の何処よりも安全な場所に眠らせていた。
ヴェルネは輝くような笑みを浮かべて、一つのドアを指差した。
古びたそのドアには、『所長室』というプレートが掛かっていた。
「イヴ・スレイマン。私は比較的寛大で、お前の自主性を重んじる振る舞いを心掛けているし、そう振る舞っているつもりだ。雇い主としてはな? そしてお前に残された唯一の社会的繋がりとして、お前の交遊関係が広がることを歓迎するだけの度量を持ち合わせてもいる。だが、しかしだ。世界には果てがあり、私の寛容にも限りがある。幾ら無尽蔵に見えるとしても、な。………イヴ・スレイマン、いつからここは託児所に成ったのかね?」
いつも以上に丁寧にノックしたドアの向こうで出会ったのは、ここまでを一息で言い切った所長の声だった。
不機嫌な所長の声、と言ってもいい。
見下ろした床には、塵の山の間に力任せに空けたとおぼしき空間があり、誰かが寝ていたらしい毛布が残されている。
どこから持ってきたのか、柔らかそうな茶色い毛布には、既に少女の姿はない。ヴェルネが見た目よりも器用な手捌きで、起こすこともなく運び出したのだ。
その時の、ヴェルネの歓喜に満ちた瞳は、イヴに憂鬱の種を植え付けた。彼にしてみれば所長との邂逅は、彼の信奉する神との遭遇に他ならない。イヴを彼の言うところの『天使様』に変えたのは、書類の山の向こうの所長なのだから。
きっと、この話の後でもっと面倒な話をされる。イヴは未来の憂鬱に眉を寄せつつ、現在の憂鬱に向かい合った。
「事情は大筋把握している、その右眼のお陰でな。その上で、敢えて問おうイヴ・スレイマン。何故彼女等をここに連れてきたのだね?」
「他に選択肢がなくて………」
「いいや、あった」所長の声は不機嫌の権化だ。「あったはずだ。あの二人は、お前の目的の助けにはならないのだからな」
「………見捨てるべきだった、と?」
言外の意味に気が付いて、イヴは呆然と問い返した。
「あの場での放置は、少なくともリンダにとっては致命的でした。あのままでは間違いなく彼女は死んでいました」
「それがどうしたと言っているのだ、イヴ・スレイマン。お前は誰だ、何者に成り果てたのだイヴ・スレイマン。幼子の涙など、お前の足を鈍らす鎖にはなり得ない筈だろう」
「それは………!」
反駁は、しかし困難だった。
イヴがリンダを助けたのは損得勘定ではなく、純粋な厚意からだ。寧ろ損得の秤に載せれば損の方に傾き、得の皿に載るものを考える方が難しいほどだ。
博愛精神、人間性、献身、自己犠牲。通常ならば手放しで称賛されるであろう理由の数々は、イヴには無縁のものだった。
それは、輝く光の世界の常識だ。
イヴや所長の属する世界では、そんなものは優先どころか許容さえされない悪徳でしかないのだ。
「………先程も言ったが、イヴ・スレイマン。私は何も、お前の人間的な成長を煙たがるつもりはないのだ」
イヴが理解したことを理解して、所長も雰囲気を和らげる。いや、書類のせいで表情などは全く見えないのだけれど。
「お前が人生に彩りを求めるのは当たり前だし、上司としても友人としても、【悪魔】としても歓迎している。復讐だけにかまけて人生の欲を喪うのは、何とも本末転倒というものだからな。旅に寄り道は付き物というわけだ。しかし――今のお前は、道に迷っている。旅の行く先を見失っているのだ」
「そんなことは………」
「あるとも、イヴ・スレイマン。寧ろヒトの特徴はそれだからな。短命なる迷い仔、それがお前たちの本質なのだ。だからこそ、私はお前を律しなければならん。イヴ・スレイマン、お前は何を人生の目的に掲げたのだ?」
いつもより遥かに穏やかな、午後の陽射しのような柔らかい問い掛けに、イヴは口をつぐんだ。
答えの捜索は、探偵といえども難易度の高い問題だった。
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