第27話逃亡、そして。
「………」
魔術により衝撃を和らげて、仮面男は無事に着地した。
ちら、と振り返った城は、もう半分以上が火に包まれている。
仲間が脱出した様子はない。恐らく、やられたのだろう。仮に無事だったとしても、今からの脱出は不可能に近い――悪魔でなければ。
そう、彼女は生還するだろう。何しろあの地獄から生まれたのだ、この程度の火では暖も取れまい。
だが、まぁいいだろう。男は仮面の奥でほくそ笑んだ。既に仕込みは済んでいるのだ、奴に逃げ場所は無い。
この場を逃れさえすれば、後はもうどうにでもなる。仮面男は周囲を窺いつつ逃走に移る――あの悪魔がいつ追い掛けてくるか解らないのだから、早い方がいいに決まっている。
燃え盛る城に背を向けたその途端。
「………っ?!」
その肩が、轟音と共に食い破られた。
「っ、な、何が………?」
「何じゃろうな、ワシも良く知らんよ。じゃが、ワシの城に置いたものじゃ。ワシの勝手にさせてもらおうかの」
激しい出血を押さえながら振り返る。
そこでは、銃を構えた車椅子の老人が、飄々と笑っていた。
「………ラード・ラジアル」
「
男はよろけながら、それでも確りと体勢を整えている。
「死ななかったか………難しいのぅ、慣れぬ代物は」
「………その仕組みは、ある程度理解しているようだが。しかし、知ってるのか? マスケット銃は、1発しか撃てないぞ?」
「知っとるよ。さっき試した」
ラードは笑いながら、銃を放り捨てる。先程の暴発が頭をよぎるが、中に何も入っていない以上、それはあり得ない。
男もそれを理解しているのだろう、投げ出した銃には目もくれない。
「………仕留められず残念だったな。大人しくしていれば死なずに済んだものを」
「ははは、どうやら本当に、お前さんとは初めてらしい。ワシの事を知っておれば、大人しく等とは言わんだろうなぁ」
クツクツと背筋を丸めて笑いながら、ラード老はかつての仲間たちに呼び掛ける。
もうこの世に居場所のない、記憶の中にだけ存在する仲間たち。彼らを覚えているのは二人だけで、もうすぐただ一人になる。
構わない、残りの一人は永遠のピーターパンだ。ラードが朽ち果て、土に還っても、ヴェルネ・カーペンターは残り続けるに違いない。
思えば長く生きすぎた。
老いた身体は満足に動かず、誰かや何かの助けなくしてはベッドにも入れない。
こうなる前に死ぬつもりだったのに――日々大きくなる息子を、孫を見て、明日も見続けたくなってしまった。
だがまあ、丁度良い頃合いだ。最後の役目を果たして、孫に全てを譲るとしよう。
「………客人を手ぶらで帰しては、貴族の名折れだ。無知にして無恥な狼藉者、ラジアル家の
ラードは背筋をピンと伸ばし、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。「それを訊きたくて外してやったんだよ、クソガキ」
仮面男が怒気と魔力をたぎらせる。それがおかしくて堪らないという風に、ラードはニヤニヤと笑い続けた。
「………落ち着いた? お嬢ちゃん………リンダ、だったかしら?」
「………うん」
そう、と呟いて、イヴはリンダを放した。
リンダは少し名残惜しそうだったが、それでも確りと己の足で立った。大した自制心だ――もう自分だけで立つしか無いことを、少女は知っていた。
「歩ける? 早く逃げた方が良いわ」
爆発から大分経っている。消火するべき使用人たちは全滅しているのだから、火事はかなりの規模で広がっていると思うべきだろう。
石造りの頑丈な城は倒壊こそしないだろうが、床や天井はいつ焼け落ちても不思議じゃあない。
そうなったとしてもイヴは死なないが、間違いなくリンダは死ぬ。
構わない、と言い切ることは、今のイヴには不可能だった。
「………だいじょうぶです、あるけます………!」
「………」
力強い言葉だったが、足と声はガタガタ震え、顔は血の気が失せて蒼白そのもの。
これで『だいじょうぶ』なら、世に病人は居なくなるだろう。イヴは軽くため息を吐いて、リンダを抱き抱えた。
「ひゃっ、あ、あの!」
「悪いけれど。せめて貴女だけでも無事に連れていかないと、彼等に顔向け出来ないわ。大人しく掴まっていて」
廊下に出て、イヴは眉を寄せる。
火の手は思ったより早い。豪奢な板張りの廊下は既に火の海だった。
突っ切ることは可能だが、煙が厄介だ。いくら燃えなくとも、息が出来なければ流石にイヴも死ぬ。イヴが死んだら、必然リンダも死ぬことになる。
やれやれ、となると、やはりリンダには確りと掴まっていてもらう必要がある。
「ねぇ、リンダ。1つ訊きたいのだけれど………貴女、高所恐怖症じゃあないわよね?」
「ふむ、流石にこれでは、中の探索は困難でしょうね」
視界を塞ぐ煙と炎に首を傾げつつ、ヴェルネは呟いた。
独り言か、或いは目に見えぬ何者かとの対話か。或いは――足元で正気を失っている仮面の集団に向けたのか。
いずれにしろ、答えはない。
「天使様は大丈夫でしょうけれど。果たして彼等はどうですかね。ラード老の御家族は」
とにかく、脱出だ。
幸いこちらは身一つ、妨げになるものは何もない。
地に伏せた仮面たちは既に、魂は神に献上してあるし、肉体の崩壊は問題ではない。
「一応、向かった方が良いですかね。もしかしたら、御家族全員無事かもしれませんし」
暗に生存を絶望視しつつ、朗らかな笑みを浮かべながらヴェルネは廊下を進む。視界を遮る煙も、身体を焼こうと手を伸ばす炎も、彼の侵攻を阻む事はない。
信仰を、阻む事はないのだ。
「三人抱えるのは天使様と言えども困難でしょうし、私も手伝いをしなくてはなりませんね………ん?」
ヴェルネがふと足を止め、虚空に視線をさ迷わせる。【
「窓の外………?」不思議な導きに首を傾げつつ、ヴェルネは従って窓へと目を向ける。「………あぁ、なるほど」
頷いた次の瞬間、目の前を何かが、上から下へと通過していった。
一瞬だったが、間違いない。今墜ちていったのは、我が麗しき天使様だ。両腕で何やら、毛布にくるんだ少女を抱えていたようだ。
「流石は天使様。実に素早い脱出方法です」
抱えていた少女が、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら絶叫していたような気もするが、早さという点では申し分ない。この程度の恐怖体験なら、命に比べれば安いものだ。
「では、私も続くとしましょう」
ヴェルネは微笑んだまま、窓から外へと飛び出した。
ひょいと、リンダが聞けば驚くほど実に気軽に。
「………ふう」
着地の寸前炎を噴出することで勢いを殺し、イヴはふわりと地面に降り立った。
羽毛のような軽やかな着地。抱えているのが卵でも割ることはないくらい、丁寧な着地だった。
「怪我はない、リンダ?」
「………」
「リンダ?」
返事は無かった。見下ろすと、リンダは白目を剥いて気絶している。
やれやれ、とイヴは肩をすくめる。たかが城の三階からのダイブで気絶とは、やはり箱入り娘というところか。
城の方を振り返ると、火はもう壁面の大半を呑み込んでいた。この分では、明日の朝にはラジアル家の栄華は地に落ちる事になるだろう。中に居た人間の安否は、最早絶望的だ。
「………ヴェルネは、どうしたかしら」
「ここに」
「っ!?」
ポツリと呟いた瞬間、目の前にヴェルネが降ってきた。
特に何か衝撃を緩和するようなそぶりも無く、どすんと地面に墜落する。
祈るような姿勢での着地は相当な衝撃のようだ、墜ちた地点を中心に、地面がへこんでいる。
普通なら、足くらいは間違いなく折れている。下手をすれば命の危険さえ有り得るが、まあ、落ちてきたのは普通からは最も縁遠い人間だ。大事はあるまい。
予想通り、ヴェルネは何事も無かったかのように平然と立ち上がった。泥でも付いたのか、パンパンと服の裾を払っている。
その服も、汚れどころか焦げ跡1つも無い。何なのこいつ。
「お疲れ様です天使様。敵は、残念ながら逃げた様子ですね」
「………まあね」
「代わりに、その子をお助けに?」
イヴは答えず、ヴェルネを睨み付ける。文句でもあるのか、という無言の訴えは、勿論ヴェルネには届かない。
「おぉ、なんと慈悲深いのでしょう! 力無き幼子を保護するために、自らの仇を見逃すとは………!」
「………うるさい」
「………しかしということは。御両親は駄目でしたか」
もう一度、イヴは睨み付ける。ヴェルネは頬笑み、肩をすくめる。
「仕方がないとは、思いますけれど。気にするのは、やはり慈悲深いという事でしょう」
優しく、暖かく柔らかく、自分を甘やかすようなヴェルネの笑み。その穏やかさが居心地悪く、イヴは小さく「うるさい」と呟くに留めた。
「とにかく長居は無用ですね、行きましょう天使様」
「そうね。奴が仲間を連れてくるかも知れないしね」
「それはまあ………無いでしょう」
ヴェルネの歯切れの悪い言葉に、イヴは首を傾げる。良くも悪くも――どちらかと言えば悪い方が多いが――断言するのがヴェルネの話し方だ。
不審に振り返った先では、やはり珍しい、複雑そうな顔をしたヴェルネ。
イヴの物問いたげな視線に気付いたのか、ヴェルネは苦笑して歩き出す。
大股なその足取りにだけは、迷いが見当たらない。
何事か。
何なら今日一番の不安を感じつつ、イヴはそのあとを追い掛けて――気付いた。
少し先の地面に転がる、見覚えのある車椅子と悪趣味なカーディガン。
「………ラード老」
「やはり」
ヴェルネは、地面から銃を拾い上げた。
発射の形跡がある――逃げ延びたあと、どうやらここで、ラード老は銃を使ったようだ。
何に? 狩りをしたい気分ではないはずだ。
だとすれば――彼が銃を向ける相手は一人しかいない。
「………やれやれ。年寄りが無理をして」
何処と無く寂しげに呟くと、ラード老の傍らにしゃがみこんだヴェルネは直ぐに立ち上がった。
「………祈らないの?」
「彼との約束でしてね。彼が死んだときには祈らないと誓ったのですよ。………『お前の祈りなんぞで俺の眠りを醒ますな、大人しく寝かせろ』とのことでしたから」
「英断ね」
ヴェルネの祈りの先に老人の求める安息があるとは、イヴとしては信じられない。
まあ――
「………もう、夜明けですね天使様」
ヴェルネの呟きには、何の感情が籠っていたのか。
背を向け、昇りつつある太陽に向かうヴェルネの顔は、イヴには見えなかった。
イヴはため息を吐いた。
長い夜だった。だが、夜は明けた。
悪魔の時間は、終わった。敵も、味方も、その手に掴めないままに――。
虚しい気持ちで、イヴは太陽を睨み付ける。そして、気付いた。
これまでの復讐で、ただの一度も、満たされた事など無かったということに。
「………私は………」
呟いた問い掛けは何もかもが中途半端で、勿論、答えも無かった。
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