第26話炎は全てを呑み込んで。

「マルガレットォォォォッ!!」


 ドアを蹴破り、叫びながら寝所に飛び込む。

 間に合え、間に合ってくれと祈った甲斐は無かったらしく、そこには仮面の男が悠然と立っていて、その手に握った剣からは赤い液体が滴っている。


 冷静であれと、バルタは自身に言い聞かせてここに来た。

 マルガレットが無事である可能性はひたすらに低い。だからこそ、そこに妻の死体だけがあることさえ覚悟しながら、バルタは廊下を走ってきたのだ。

 もしそうだった場合、振る舞いは冷静でなければならない。武術に自信があるわけでもなし、準備万端の殺人者を相手に無茶をしては死ぬ事も解っている。


 妻が死んでも、娘がいる。

 残されたバルタは父として、娘を守り育て導かなければならないのだ。ここで死ぬわけには行かない。


 そこまで考えていて、なお。

 男の視線の先、ベッドの脇で倒れる最愛の妻の姿を見た瞬間に、バルタの意識は沸騰した。


 灼熱の炎が脳を呑み込み、視界さえ赤く染まるようだった。

 妻を殺した男が目の前にいるという事実が血管中を駆け巡り、付け焼き刃の冷静さを追い出した。


「キサマアアアアアアアア!!」


 獣のように吼えながら、獣のように男に飛び掛かる。

 何もかも、どうでも良い。ただこの男を殴る事だけを考えろ。


 憎しみと怒りを推進剤に、バルタは矢のように仮面の男に拳を伸ばした。


 そして、勿論。


「………」


 仮面の振るった剣は、バルタを容易く斬り伏せた。

 あぁ、とバルタは、内蔵と鮮血を撒き散らしながら思う。


 すまない、マルガレット。貴族に迎え入れる夜、その立場ゆえに振り掛かる、あらゆる災厄からお前を守ると誓ったのに。

 お前はそれを笑ったが――出来るわけがないでしょうと笑ったが――俺は誓ったのだ。お前が信じなくとも、お前のための英雄ヒーローになると。


 すまない、リンダ。お前の生まれた朝、泣きながら誓ったのに。ラジアル家に生まれた事を誇れるような、立派な家にすると。

 マルガレットはまた笑った。アナタにそんなことは出来ないわと、だから、二人で守りましょうと笑った。


 すまない。お前を守れなかった。

 すまない。お前たちを守れなかった。

 すまない――復讐すら、俺には出来なかった。


「………すまない、せめて、こいつだけでも殺したかった………!」


 迫り来る絨毯への衝突、人生の終わり。

 呟いた言葉は、神には届かない。当たり前だ、憎しみからの殺意を、神はけして許さない。


 だから。

 


「っ!?」

「お前ぇぇぇぇぇ!!」


 叫び声と共に飛来した黒炎の熱気を背に受けながら、バルトロメオ・ラジアルは絶命した。

 その唇は、安堵に綻んでいた。











「燃えろっ!!」


 両腕から黒炎を放ちながら、イヴは仮面の男に突撃した。

 両足から炎を噴出させ、飛ぶような速度で接近する。間に倒れたバルタに一瞬だけ目を向けて、それを飛び越える。


「っ!!」


 男は剣を振るい、飛来する炎を切り払うと、直ぐ様体制を整えてイヴの突撃を迎え撃つ。


 黒炎を纏った腕が、刃と打ち合う。


 炎の魔力か、それとも悪魔の肉体だからか。

 単なる皮膚が刃を受け止め、その膂力で打ち払っていく。


「チッ………!」


 嵐のごとく降り注ぐイヴの乱打。

 剣を巧みに扱い受けながら、仮面の男が舌打ちする。


 剣は一本、腕は二本。

 実力の差はあるが、単純な手数の差でイヴは仮面を圧倒していく。


 加えて、イヴの炎が男を追い詰める。


 踏み締める足からも、黒炎が吹き出しているのだ。

 漆黒の炎は絨毯の上を滑り、仮面の男に迫る。男はその都度飛び退いたり足元に剣を振るったりして防いでいるが、その一手一手毎にイヴの攻勢に追い付けなくなっていた。


 ――このまま、殺す………!


 炎か腕か、どちらかで充分。

 どちらかが直撃すれば、仮面の男に致命傷を与える事が出来るだろう。そしてその時が訪れるのは、最早時間の問題だった。


「………」


 見覚えのある帝国軍の服装に、仮面。その見た目がイヴを熱情に駆り立てていく。

 しかし………イヴは忘れていた。目の前の侵入者が、ヴェルネので『敵』と明示された相手だということを。


 常識はずれのイヴの挙動。それに敵対し得るのは、やはり常識の枠から外れた力――【】。


「………【護法乃六ガードレベルシックス青霊の城壁ブルーキャッスル】!」


 くぐもった叫びと共に、部屋の床が


 青の属性を与えられた魔力の壁が床から沸き起こり、イヴと仮面男との間を一瞬で分断したのだ。

 地を這う黒炎は断ち切られ、目標を見失ったイヴも立ち止まる。


 その隙を、【敵】は見逃さない。


「………【青針】」


 低い号令に応じて、壁が姿を変える。

 壁面に波紋が生まれ、そこから水が針のように飛び出したのだ。

 仰け反りかわしたイヴの眼前を針は通過していき、


「【青針・乱打】」

「チッ!!」


 更に波紋が数十生まれるのを目撃し、イヴは舌打ちしつつ顔と腹を庇う。

 防御の姿勢を取ったイヴに、針の雨が殺到していく――。











「………ふむ。


 手応え有り。

 放った【針】は魔力の産物、元来手応えも何もあったものではない筈だが、仮面男の声には迷いがない。

 確実に貫いたという確信があるようだ。仮面男は魔術を解き、壁を消す。


 その、刹那。

 肌を刺す程の殺気に、仮面男は再び魔力を巡らせる。だが。


「………遅いわ」


 呟くような声よりも早く、は到来する。

 黒炎の塊――それが巨大な掌となって、仮面男を。イヴの腕が半ばほどで黒炎に呑まれていて、そこから先が炎の大蛇となって仮面男を捕らえている。


 魔力の針で全身を刺した筈――そんな仮面男の驚愕を悟ったように、全身から黒炎を立ち上らせてイヴは笑う。


「たかが程度で、この私の殺意が、怒りが、………?」


 確かに、火は水で消える。

 だが、イヴのこれは悪魔の炎。水に覆われようが、酸素が尽きようが、イヴの意に反して燃え尽きる事はけしてない。


「我が炎は復讐の炎。私の殺意敵意害意のみを糧として燃える、魔性の火。半端な水でどうこう出来る訳がない」

「………【護法乃三ガードレベルスリー青霊の甲冑ブルーメイル】………!」


 呪文と共に男は全身を魔力の膜で覆い、身を守ろうとする。

 あらゆる災厄を防ぐ神秘の鎧。その必死の抵抗は、しかしイヴの激情に油を注ぐだけだ。


「五月蠅い………!」


 仮面男を掴む力が、更に強まった。魔力の鎧が軋み、不可視のそれに大きくひびが入る。


「くっ………ぐぅ」

「ふふ、ははは、あははははは! 何それ、何よそれ! それで抵抗のつもりなの?!」


 狂ったような笑いの衝動が、心臓から全身を駆け巡っているようだった。

 これが、こんなものが、かつて己を壊した敵か。イヴの狂的な笑みは、身悶えする仮面男の姿に更に深まっていく。


 こいつが、彼処に居たのかどうか。

 それとも単に資料として、幾つか分の1としてのイヴしか知らないのだろうか。一応あの地獄は人も物も分け隔てなく焼き払ったが、その前後で人の出入りが無かったとも限らない。

 それに、あの時は、これ程の【元素使いスペラー】が居るとは思わなかった。が軽すぎたかもしれない。


 何にしろ。

 こいつは奴等の一員だ。かつて生き延びたというのなら――今度こそ殺してやる。


「ぐぅおおお………」


 男の声に、苦しみが混じる。上等なワインのように理性を溶かす歓喜に、イヴは深く深く唇を歪めて、


「………かぁ、さま?」

「っ!?」


 背後からの囁くような声に、イヴは弾かれたように振り返った。


 そこに立っていたのは、幼い少女。

 軽くウェーブがかった金髪の、上品な顔立ちの、儚い少女。


 その見開かれた丸い瞳に映る自分の顔に、イヴは息を呑んだ。

 闇のように抉れた右目目を引く、黒々と感情の煮凝りに濁った左目。耳まで裂けろとばかりに大きく開かれた唇の端には、チロチロと黒い炎が燃える。

 正に――


「………かぁさま、かぁ………っ!?」


 幼い瞳は、仮面男の前で転がる二人の死体を見咎めた。

 人生でもっとも長く見てきて、もっとも傍に居たであろう、最愛の二人。父と母。その、死体。

 ヒュイッという鋭い呼気が、少女が真実を悟った事を教えた。


「………っ!!」


 仮面男が、その隙を見逃さなかった。

 身体を包む魔力を動かし、槍として少女へと放つ。

 呆然とする少女の瞳は、その攻撃を見抜けない。


「危ないっ!」


 ………深く考える間も無く、イヴは少女を庇うように移動した。

 集中が解けた黒炎が消え、仮面男が自由の身になる。男は更に数本槍を放つと、身を翻して窓ガラスに突っ込んだ。


 ガシャンという音と共に男はその身を宙へと踊らせた。かなり高い位置の筈だが、自殺では無いだろう。

 逃げられた。

 掴んでいた筈なのに、手放してしまった。


「かぁさま、とぅさま………!」


 少女が悲鳴を上げ、二人の死体へ駆け寄る。聡明な子だ、倒れているだけ、寝ているだけとは思わなかったようだ。

 へたり込み、すがり付く少女を抱き締める者は、もう居ない。


「か、かぁ、さま………ぅぐす、と、どぅざまぁ………!」


 とうとう泣き出した少女。

 その小さな背中が、いつかの自分を思い出させる。


「ひっぐ、ひっぐ………っ?」


 自分の手が少女を抱き締めているのを、イヴは呆然と眺めた。

 少女も驚いたのだろう、零れそうな程に大きく目を見開いている。


 無垢な瞳は、果たしてイヴに何を見出だしたのか。少女は振り返り、泣きながらイヴに抱き着いてくる。


 その細く、小さく、壊れそうな身体を受け止めながら、イヴは自分の手をじっと見詰めた。


 復讐のための手足。

 憎しみの権化である、手足。

 それで、幼い魂を抱き締める事が、堪らなく汚らわしく感じられる。


 だが、突き放す事は出来なかった。


 窓から逃げた仇は、今現在も加速度的に遠ざかっている。追い掛けて殺すなら、今この時をおいて他にない。

 慎重な敵だ、このあと姿を現すとは限らないし、もしかしたら表舞台には2度と姿を見せないかもしれない。


 復讐するなら今しかない。何もかもなげうって、走り出すしかない。

 だが――腕の中の小さな温もりを、突き放す事は出来なかった。

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