第24話夜の襲撃、迫る魔の手

「………今度は、なに………?」


 地の底から響くような轟音に、マルガレットはベッドから体を起こして不安そうに辺りを見回す。

 オーケストラが全員で大太鼓を打ち鳴らしたような、身体の奥を震わせるようなその音に、マルガレットの精神が激しく掻き乱される。


 もちろん、マルガレットは戦争を知らず、剣や魔法を用いた闘争を知らない。だがそれでも、その轟音に込められた他者の悪意を感じ取ることは出来た。

 それは、正しくときの声だった。聞く者全てに等しく、敵対者の到来を告げるための叫びだった。


 マルガレットの実家は何処にでもあるような普通の家で、いわゆるではない。

 と言うよりも、もっと

 マルガレットは、ラジアル家の創った商会の従業員だったのだ。それも、商品の箱詰めという末端中の末端だった。


 頭を使う事もない、単なる歯車としての役割しか求められない位置。

 本来ならばマルガレットの人生はそこで終わっていただろう。それなりに働いて、そこそこの家に住み、近くの誰かと結婚して子供を産んで、夜ぐずる子供をあやしながら母と同じ歌を聞かせるのだ。


 それが変わったのは、偶然。


 ある日のトラブルに対処するために見せたマルガレットの閃きが、偶々視察に訪れていたバルタの目に留まったのだ。


 そこからはあれよあれよと事態は進み、マルガレットが瞬きしている内に、バルタは彼女の前で跪いていた。

 全く、まさに夢物語フェアリーテイルだ。出会ってからほんの3ヶ月で、マルガレットの生活は一変していたのだ。


 唐突に訪れた、人生の絶頂。

 だからこそ、向けられた悪意の数は、戦場へ赴いた先代と比べても遜色無いほど。

 その経験がマルガレットに教えていた――


 思わず歯を食い縛り、ぎゅっと手に力を込める。


「………かぁさま………?」


 腕の中から聞こえてきたか細い声に、マルガレットの意識は現実へと戻ってきた。

 柔らかい毛布に包んだ、マルガレットの小さな小さな宝物。

 リンダ。我が娘。


「………何でもないわ、大丈夫よ」


 幼い娘の横に再び寝転び、その髪をすいてやる。軽くウェーブがかった金髪は、母であるマルガレットからは髪質を、父からは髪色を受け継いでいる。それをすいてやるのは、記憶の中の幼いマルガレットが何より好んでいた事だった。

 娘もそれは同じなのか、気持ち良さそうに眼を閉じて身を任せている。


「………とぉさまは?」

「………大丈夫よ、大丈夫………」


 娘の不安を和らげるための言葉ではあったがしかし、完全に気休めというわけではなかった。

 音は、ずいぶん遠くから響いてきたような気がする。遠く、しかも下の方から。

 夫が見知らぬ賊と向き合っていた部屋からではなかった、と思う。音自体も、最初にバルタの仕事部屋で聞こえてきたものよりも幾分か大きかった。


 あの部屋でないのなら、バルタは取り敢えず無事だろう。

 それに、あの女。

 整った目鼻立ちに、背も高く、均整の取れた良い体格の美女。けれどもそれを魅力的と思えないのは、単にあの眼を見たからだ。


 真っ黒な、生き物のように蠢く炎が燃える瞳。火が燃えながらも照らされることはなく、覗き込んだら何処までも落ちていくような、底無しの闇。

 そっと、マルガレットは喉を擦る。女は掴んだ部分が痣となるほど力強く、折れないように手加減するほど嗜虐的だった。

 苦しみ、間近に迫る死の恐怖に震えるマルガレットを見て、あの女は嗤ったのだ――悪魔のように。


 死んだ、と思った。【死ぬ】でも【死にそう】でもなく、彼女に掴まれたその時点でと確信させられた。

 死神の手触りとは、ああいうものかとマルガレットは薄れ行く意識のなかで思った程だ――そしてそれが勘違いだとは、今もって思ってはいない。


 死んだ。マルガレットも、バルタもラードも、あの部屋の全員は等しく死んだのだ。

 今は未だ、その途中。綱渡りの只中だ。何かを踏み外せば、直ぐに地獄の底に落ちるだろう。

 最後の彼女の瞳は、幾分か人間らしく成っていたことが多少の希望だ――取り敢えずというのはそういうことだ。


 あの眼のままなら、彼女はバルタを殺すまい。

 再び死神の眼に成れば――もう誰にも止められないだろう。


「怖くないわ、お母さんが付いてる」

「………?」


 その言葉に一瞬マルガレットはぎょっとした――すっかり忘れていた。


 この城に居るのは、家族だけ

 メイドのミリーは、コックは、護衛たちはどうしたのだ。

 ………答えは解りきっていた。あれだけの轟音で起きてこないというのなら、


「………大丈夫よ、ミリーも、きっとあとから来てくれるわ」

「ジンジャーは?」

「た、多分今頃厨房よ。もしかしたら、温かいココアでも練っているかもね」

「………のめる?」

「良い子にしてたら、きっとね。………きっと」


 毛布の隙間から、大きな瞳を覗かせる娘の頭を撫でながら、マルガレットは決断した。


「………リンダ。ココアが欲しいなら、?」











「………駄目だ、誰とも通じん」


 机に魔法道具らしき鈴を放り投げて、ラード老は苛々と車椅子を動かす。

 爆発は数度で収まったが、そのあとは城は静寂に包まれていた。静寂、使用人の声も、騒ぎも何一つ起こらなかったということだ。


 それを、彼らの寝坊と受け取るほどの楽天家は、イヴの知り合いには一人も居ない。この部屋にも。

 恐らく――彼らは、もう生きてはいまい。


「………一応聞くが、心当たりは?」

「一応答えるけど、無いわね。私の味方でも、敵としてでも覚えがないわ」

「私たちは、覚えが多すぎる。だが………これ程直接的な手段に出る奴となると、ちょっと思い付かないな」

「………ふむ」


 ヴェルネが虚空を眺め、幾度か頷く。バルタは気持ち悪そうにそれを眺め、ラード老は大きく舌打ちした。


「そのはまだ治っておらんのか、まったく………」

「我が神の導きが止むことは、けしてありませんから。それよりも、はもう近いようですね」

相棒パートナーとしてどうかね、お嬢さん?」

「便利とは思うわ、当たっている限りは」

「………待て、近いだと?」バルタがふと、顔色を変えた。「この辺りに居る、ということか?」


 ヴェルネが微笑みながら頷いた。


「ここに来るまでにはまだ猶予がありそうです。今の内に脱出しましょう」

!!」


 バルタが叫び、イヴも舌打ちした。


 使用人は、既に死んだ。

 今この城に居るのはこの部屋にいる面々と、マルガレットと彼女の娘、そして敵だけだ。

 敵が賢明で、尚且つ容赦が無いのなら。目指す場所は、恐らく彼女たちの方だ。


「くそっ!」


 バルタも同じ結論に達したのだろう。短く叫ぶと、廊下に駆け出していく。


「………ヴェルネ、逃亡は中止するわ。敵は、私を罠に利用しようとしてる。諸ともに焼き払うつもりでしょう。そんな相手を前に、のこのこ逃げ出すわけには行かないわ」

「敵の戦力は不明ですが、我が神の導きがと明示しております。詰まり………使ということです。危険では?」

「私の命は、敵を焼くための火種よ。危険に背を向けていては、ただ燃え尽きるだけ――一人きりで。そんなのは御免だわ、私は敵を焼いて燃え尽きる」


 イヴは唇を歪ませる。

 それに。

 敵が罠を仕組んだのなら、そいつはイヴの過去を。だから悪夢の舞台を調え、冷静さを奪うことが出来たのだ。


 何故知っている? 決まっている、そいつもだからだ。


 敵、そう、敵だ。

 待ち望んでいた復讐の機会が、今目の前に訪れている。逃す手はない。


「私は行く。お前は好きにして」

「ははは、勿論お供しますよ。御老体は、そろそろ御休みください」

「黙れ馬鹿。この火事場で寝たら死んどるわ。………安心せい、勝手に逃げる。お嬢さん………


 その言葉と、見透かすようなラード老の瞳から、イヴは眼をそらす。

 助けることが目的ではない。だが――先程のように、ただ燃やすだけで良いのか。

 問い掛けるような視線に返すものは、イヴの手元には無かった。

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