第22話悪魔が来たりて
「………ふむ」
豪華な家具、年代物の小物に囲まれた書斎。
一際歳月を経た様子の黒檀の書き物机で書類を広げて、バルタはひとつ頷いた。
その様子を見るともなく眺めていたラード老は、車椅子を軋ませながら頷いた。
「収支は合っているか、バルタ。無駄遣いをしてはいないだろうな?」
「当たり前です、父さん」
多くの者に驚かれるのだが、ラジアル家は代々倹約を旨としていた。
貴族らしからぬ、と言えばその通りだ。貴族は義務として財を浪費し、収集する。
彼らも貴族として、義務としての浪費は行っていたが、それ以上、己の快楽にはけして金を使わなかった。
それを多くの貴族は嘲笑った――愉悦を知らぬ無粋者共と。
今、彼らはラジアル家に頭を下げて金を借りに来る。愚か者、愚か者、愚か者。
「我が家の名を、今になって汚すような真似はしませんよ、父さん。私は、必要なものにしか金は使いません」
差し出された帳簿を受け取り、老人はパラパラと捲る。
他人に帳簿を見せ、監視するのもまた、先祖伝来のやり方だ。
ヒトは弱い。
目の前に自由になる金があれば、どれほど高潔な人物でもやがて堕落する。先祖から伝わった、己の稼いだ金でなければ尚更だ。
そうしないために、彼らは監視し合う。
「………結構。お前は立派な跡取りだ、嫁共々な」
「ありがとうございます、マルガレットも喜ぶでしょう」
バルタは自身の妻の名を、愛しげに呼んだ。
これもまた貴族らしからぬ習慣として、ラジアル家は自由な結婚を認めていた。先代の指図無く、次代の若者は婚姻を結んだのだ。
ラードも、そしてバルタも。
他薦ではなく己の眼を信じ、その責任を負うという習慣。その試みはこれまで成功を納め、そして当代も成功しつつある。
「男児で無いのは残念じゃったが、リンダも聡明な娘じゃ。お前も、いつでも一線を退けるな?」
「あの娘は未だ7つでしょう。気が早いですよ」
苦笑いしつつ帳簿を受け取ると、バルタはそれを金庫に戻す。
「久し振りに一杯やるか、バルタ。シラーの良いのがあるぞ」
「私の
共に笑い合いながら、父子は部屋を出ようとして。
「………残念ね、その予定は
いきなり開いたドアの向こう。世にも美しい悪魔に出会った。
「………何だね、君は」
誰何の声を上げたのは、まだ若い男。上等なナイトガウンを羽織り、伸ばした背筋に威厳を満たしている。
「新しい
茶化すようにぼやいたのは、車椅子の老人。同じくらい上質の寝巻きの上から、手編みらしいカーディガンを羽織っている。
二人に共通するのは、その鋭い眼光だ。
商売人の瞳だと、イヴは思った。信念ではなく、損得で世界を見る眼差しだ。
「趣味と言えば」イヴは鼻を鳴らす。「どうして老人は、そんな妙な柄のニットを着たがるのかしら?」
「同感だな、美しい盗賊。父さん、だから原色は止めろと言ったじゃないか」
「これはお前の妻の作品だぞ、バルタ」
「すまないが女盗賊、今のは聞かなかったことにしてくれ。似合ってるよ父さん」
老人は肩をすくめると、車椅子を器用に操り若者――察するに当主バルトロメオ・ラジアルだろう――の前に進み出た。
利益勘定の生涯を送ってきた鋭利な視線が、イヴの全身を値踏みする。
「それで、何者かねお嬢さん。面接には段取りというものがあるぞ?」
「あいにく面接じゃあないの。だからそんなものは必要ないわ。私は、これについて詳しい話を聞きたいだけよ」
イヴは、手にした銃を放り投げる。
床に当たって、当たり処が悪かったのか。銃は大きく叫び声を上げて、弾を吐き出した。
「うわっ!!」足元での轟音と壁の破損に、バルタは飛び上がった。「何をするんだ、危ないだろう!!」
「………えぇ、危ないわね。こんな風に暴発するものだとは思わなかったわ」
「暴発………ふむ」
バルトロメオ・ラジアルの父であろう老人、ラーダリアンは慎重に銃に近付くと、車椅子の上から観察する。
「………これは、何だね?」
「知らないの、息子のワインセラーの中身まで知っておいて? 意外だわね、ご老体」
「そうだな、意外ではある。………察するに、お嬢さん、お前さんはこれが我々の持ち物だと主張したいようだが?」
イヴは、せせら笑いを自覚した――だって、こんな
「これは、貴殿方の城で見付けたものよ。あの忌まわしい、血にまみれた地下牢の中でね」
「だとすると、なお意外だ。我が愚息に帳簿を誤魔化し、ワシの眼を欺く才覚があったわけじゃからな」
「減らず口を………!」
イヴが怒り、腕が燃え上がる。
二人のラジアル家が目を見開き、言葉を失った。
「………お前たちが、これをただの荷物に紛れ込ませて運んでいた事は解っている。帝国軍の残党と繋がりがあったということでしょう?」
「馬鹿な!」バルタが叫び声を上げる。「我々が、あの血に飢えた獣と? 馬鹿も休み休み言え!!」
「どうかしらね。血に飢えた虫なら、既に繋がりがあるようだけれど?」
「………どうやら皆、落ち着く必要があるようじゃな。どうかね? シラーの良いのが………」
イヴの右腕から、黒炎が放たれた。
高価そうなソファが燃え尽き、ラード老はため息を吐いた。「水にするかね?」
「………我が神よ、狂乱と苦痛で歌い上げられた真なる地の神よ。天に潜む全能者に産み落とされ、哀れにも天に還ることを拒まれたこの者の魂を、汝の口に………、?」
一心不乱に祈りを捧げるヴェルネの耳に、啓示が届く。この世で彼自身にしか理解することの出来ない、ヒトには発音することさえ出来ない囁き声だ。
それが本当に彼に何かを教えているのか、それとも無意味な不協和音に過ぎないのか、誰にも解りはしないだろう。
ヴェルネは他人に理解を求めていないのだ――理解は赦しに繋がる重要な要素で、それは導き手であるヴェルネ自身が持つべきものだからだ。
そして恐らく、彼の信じる神もまた、理解を求めてはいない。するわけがない。
神は何も求めない――天上に居ても、地の底に居ても。
だからその囁きがどんな意味を持っているのか、本当のところは誰にも解らないのだ。
確証の無いものを信じられるかどうか。それこそが、信仰の有無というものだ。
とにかく。
ヴェルネは信じていて、そしてそれに相応しいだけの恩恵を彼に与えていた。
「あぁ、畏まりました我が神よ。………敵が現れたのですね?」
彼は立ち上がる。
嬉しそうに楽しそうに微笑むその顔からは、死者への憐憫は消え失せていた。
「………………………」
男は、森を抜けた。
その全身は闇のような黒い衣装で頭までをすっぽりと覆っている。
その手には輝くように磨き上げられた長剣。
そして、その背、森の出口には。
蜘蛛の死体が山のように積まれていた。
森中の蜘蛛を殺し尽くしたその男は、静かに城の入り口に向かう。
………死神のように。
「とにかく、落ち着いてくれないかねお嬢さん。どうも誤解があるようじゃ」
「或いは、そう思わせたいとかね」
肩をすくめると、イヴは右腕を老人に向ける。そこから何が飛び出すか、既に彼らは知っている。
「どこにそんな証拠があるんだ、私たちがそれを運ばせたなんていう空想の根拠は?」
「根拠? 貴方たちがそれを消したようね、運び人の命の火を」イヴは皮肉げに微笑むと、懐からそれを放る。「まだ入れ物は消せていないようだけど」
彼らの足元に転がったそれ………血塗れのシャツの切れ端を見下ろして、バルタとラード老はサッと顔色を変えた。
驚愕と、恐怖。悪くない味付けだ。
「………この持ち主が、我が城に?」
「似合いの場所にね、この城の地下室に」
「馬鹿な」再びバルタは呻いた。「そんなわけが………」
「………ここでかつて、忌まわしい行いがあったことは認めよう、お嬢さん。だが、それらは過去の話だ。私の息子に譲ってからは、そんなことは全く無かった」
「では、彼は何故? 招かれざる客人というわけ?」
イヴは睨み付け、バルタも睨み返す。
間の腰の低いラード老が、ため息を吐く。その口が半開き、嗄れた音が空気を震わすよりも早く。
「………アナタ、それに義父様。さっきの爆発音はいったい………」
「来るなマルガレット!!」
イヴの背後でドアが開き、眠そうに瞼を擦る妙齢の美女が顔を出して。
その喉を、イヴの左手が握り締めた。
「あら、あら、あら」
イヴの唇が、凶悪に歪む。
「貴様………!」
「話を聞かせてもらうわ、ラジアル家当主様? ………正直に、頼むわね」
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