第20話蜘蛛の貴族
「………何やら、森が騒がしいな」
車椅子に乗った老人、ラード・ラジアルの言葉に彼の息子バルタ・ラジアルは読んでいた本から顔を上げた。
暖炉の火を数秒、それからその上に飾られた若き日の父の肖像画を順に見て、バルタはぱちぱちと目を瞬かせた。
「ごめん父さん、何だって?」
「森だよ」ラード老は窓際にいた。「何やら蜘蛛どもが騒がしい」
「神経質すぎるんじゃない、父さん。蜘蛛だって騒ぎたい夜もあるよ」
ラードは車椅子を操り、自らの息子を呆れた様子で振り返った。
「お前は無神経すぎる、バルタ。森と蜘蛛は我々にとってどれだけの価値があるか、解っておらんのだ」
「解ってるよ、父さん」自分だって蜘蛛どもなんて言ったくせに、とは言わずバルタは従順に頷いた。
息子の従順さは、父には不服だった。「いいや、解っておらん」
バルタは肩をすくめると本を置いて、立ち上がる。真新しい紙の束は、こうなる前よりも遥かに価値が生まれてくる。
「料理と同じだ、材料よりも加工品の方が高く売れる」
「えぇ、そうですね。我々はそうして儲けてきたんですから」
「蜘蛛たちの糸を使い、我がラジアル家は急速に発展した。帝国が滅んでも、蜘蛛がいる限り我々は滅びない」
それは、確かだろう。
ヒトは必要からではなく、着たいから服を着る。その素材にももちろん、拘る。
だから、安くて良いものは好まれる。
「蜘蛛を大事にせねばならぬ。我らはそれと共にしか生きられぬのだからな」
「くっそ!!」
イヴの咆哮に、ヴェルネがやれやれとばかりに肩をすくめて首を振った。
「少々品がないのではないですか、天使様?」
「ここは、舞踏会会場じゃあないでしょ!」
「そうですね、しかし、見事な
イヴは舌打ちし、頭上からの一撃をかわす。
矢のように放たれた糸を焼き、警告するように炎の塊を振り回す。
尤も、それを放つわけにも、蜘蛛を燃やすわけにもいかない。そんなことをすれば、森そのものが焼け野原となってしまうし、それに。
視界の隅に、明かりが見える。イヴの手元で燃えるものとは違う、人工的な、暖かみのある光だ。
ここで炎を使っては、城の持ち主に気付かれてしまう。
「あそこまでは、あと少し。逃げるしかないわよ!!」
「でしたら、天使様。良い考えがあります」
イヴはちらりと、並走しているヴェルネを眺める。結構な速度で走っている筈だが、彼の微笑みはまるで変わらない。息が上がっている様子もない。
まさかとは思うけれど、こいつ、息してないんじゃないわけじゃあないでしょうね。
「………聞くわ」
「天使様はお先に。私がここで信心を試します」
イヴは眉を寄せる。
囮になって、蜘蛛を食い止めるつもりか。流石に、彼らに教えを説くつもりは無いだろうけれど。
イヴは、ほとんど考える間も無く結論を出した――首を振った。
「論外ね、ヴェルネ」
「何故ですか? 私は我が神の導き無くては、死にませんよ?」
「でしょうね………」
「では何故?」
「蜘蛛の気持ちになってごらんなさい」
ヴェルネは走りながら、それでも器用に首を傾げた。
「お前と私と、どっちが美味しそう?」
「………」
「あんたが残って、私が走って、蜘蛛はどっちを追う?」
「ごもっともです」
「どうも!!」
降り注ぐ蜘蛛の前肢をかわしながら、イヴとヴェルネはもう何も言わずに走り出した。
「はぁ、はぁ、はぁ………」
息を切らせながら、どうにかイヴたちは森を抜けた。
蜘蛛も森も、どうにか傷付けずに済んだ。最低限の、犠牲だけで。
「どうにかなるものですね、お見事です。流石は天使様」
涼しい顔のヴェルネを睨み付けてから、イヴはよろよろと城に近付く。
苔むした石の壁は、手入れの行き届いた古さを感じさせる。見映えがするように気を使って、苔を生やしているようだ。
「年代を感じさせるってことに、随分と拘っているようね」
「貴族というのは多かれ少なかれそういうものでしょう。見栄と格好というのは、権力者の好むものですからね」
「詳しいわね」
「彼らは、思ったよりも神を信じているのですよ」
ヴェルネの顧客には、そういう人種が居るということか。イヴはため息を吐いた――全く、世も末だ。
「さて、ではどうしましょうか。殴り込むというわけにもいかないのでしょう?」
「………地下室へ。こういう城には、そういうところが有る筈よ」
「畏まりました。では、裏ですね」
さっさと、ヴェルネは壁づたいに歩き出す。その足取りは、走り続けた割りには全くよろけたりしない。
イヴは舌打ちし、壁で体重を支えながらその後に続いた。あれが信仰の恩恵だとしたら、顧客は満員御礼かもしれない。
ギギギ、という音が思ったよりも夜の静けさに響き、イヴは顔をしかめた。
地面に半ば埋まった、落とし穴のように開いた地下室へと続くドアは、見栄ではなく本当に古いようだった。苔と蔦に覆われ、大きな蝶番は油が足りていないのだろう激しく軋んでいる。
「ほとんど使われていないようですね、これは」階段を覗き込み、ヴェルネは顔をしかめる。「………酷い埃ですね」
「好都合よ。貯蔵庫としてさえも使ってないなら、最高の侵入経路になるわ」
「換気くらいしたいところですが、まぁ仕方がありませんね」
手製のカンテラを翳し、イヴは階段に足を踏み入れる。石段も苔が生えていて、気を付けないと足を踏み外しそうだ。
慎重に進む背後で、ヴェルネがドアを閉める。当たり前だし解っていることだが、その大きな音と、退路が断たれるという事実は心臓に悪い。
………加えて言えば、ヴェルネと二人きりというのも、中々精神に来るものがあるが。
「人の気配はありませんね」
「少なくとも、魂は無いわね。虫とかは居るかもしれないけれど」
「………蜘蛛は居ますかね?」
「あの大きさのは、少なくとも居ないわね」
もっと細かい奴等は居ないけれど。
居心地の悪さに身をよじるヴェルネに、イヴは軽く笑みを浮かべる。
イヴは実際のところ、こうした汚れや虫には嫌悪感は抱かない。何せ、共に牢で過ごした仲だ。
あまり他人に話せる内容ではないが、食べたことだってあるのだ。
過去を思い起こさせるという点では憂鬱だが、別に存在に対してしかめ面を浮かべることはない。
「………広いですね、思ったよりも」
階段を降りて、手近な松明に灯を灯して明るくする。
ぐるりと見回して、ヴェルネはシンプルな感想を漏らした――かなり言葉を選んだ感想を。
「椅子はあるようですし、天使様。ここで段取りでも立てましょうか………、天使様?」
ヴェルネが不審そうにイヴを振り返り、首を傾げる。
それに、イヴは答えなかった――答えられなかった。
息が出来ない、喉が詰まる。
身体が震え、視界が黒く蝕まれる。
自身を呼ぶヴェルネの声が遠く、世界が遠退いていく。
松明で照らされた室内は薄暗く、じめじめと湿気っている。
自然に侵食されかかっている壁からは鎖が生えている。錆と、赤黒い染みとで変色した鎖の先には、手錠が当たり前のように付いている。
隅に目を凝らす。
闇を見通す悪魔の瞳に映し出されるのは、同じく古びた鉄格子。
何かを閉じ込めるための、或いは、助け出させないための境界線。
その中には何も蠢いてはおらず、ただ、存在の残り香としての腐臭が漂ってくる。
あぁ、此処は、この眺めは。
人の創り出した地獄。
かつて、イヴ・スレイマンが居た景色だ。
焼き捨てた筈の、過去の再現。
帝国軍の拷問室が、目の前にあった。
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