第19話蜘蛛の歓迎

 想定通り、ラジアル家の領土には日の入り前に到着出来た。

 後は、こっそり屋敷に近づくだけだ。イヴは手綱を操り、静かに馬車を進ませる。


 領地は、他の貴族のそれとは異なり入り口付近から森だった。それまでの街道が、そのまま緑のトンネルに繋がっているような光景である。

 草木の薫りが鼻につく。


「深い森ですね、天使様」

「えぇ。この森に例の、麻蜘蛛が生息してるわ。ほら、見て」


 イヴは指で森と街道との境界を指し示した。


「………?」

「蜘蛛たちは、鉄の香りが苦手なのよ。ああやって張り巡らせてやれば、彼らは森から出ようとはしない。ラジアル家にとって蜘蛛は財産だけれど、しかし財産だから。逃がすのは誰にとっても損害ってわけ」

「………その割りには、警備の姿がありませんね。我々も容易く越えられましたし、罪人が侵入してしまうのでは?」


 それは確かにその通り。

 境界には、警備の人間は一人も居ない。これは、コーデリアに聞いたらあっさりと教えてくれた事実だ――その理由も込みで。


「彼らは鉄が嫌いと言ったわね? じゃあ、好きだと思う?」

「………………」


 何かを察したように、ヴェルネは口をつぐんだ。実に賢明だ。


 そう。

 彼らは、に敏感なのだ。いくら嫌いな臭いで遠ざけようとしても、その近くで美味しそうな肉の匂いがうろうろしていたら台無しである。


「………では、我々は今、格好の餌食なのではありませんか?」

「安心して。蜘蛛も誰彼構わず襲う訳じゃあない、条件があるの」

「条件。………信仰心ならば良いのですが」

「1つは時間。蜘蛛は夜行性だから、昼間なら大丈夫よ」

「………」荷台から顔を覗かせたヴェルネが空を見上げた。「まもなく月の女神が微笑む時間ですが」

「もう1つは、乗り物よ。ラジアル家に向かう馬車には、鉄粉を浴びさせているの。今この馬車は、鉄の塊というわけ」


 人の匂いが打ち消せるほど大量に振り掛けられた鉄粉は、蜘蛛にとってはご馳走以上に拷問だ。

 誰だって、ケーキの載った皿から異臭がすれば食べたくないだろう。


 馬車に乗っている限り、イヴたちは安全だ。

 ………まあ、馬だったらさっさと抜けられたからその方が良かったのだが、馬に触れられもしない悪魔崇拝者のせいでそれは不可能だった。


 ………ふと、イヴはあることに気が付いた。

 ぎぎぎと所長室のドアのように首の骨を軋ませながら、振り返る。

 そこでは、ヴェルネが物珍しそうに辺りを見ていた。


 ドスン、という音と共に、馬が倒れた。イヴは大きくため息を吐いて、ヴェルネの頭をひっぱたいた。











「………深い森ですね、天使様」

「ええ本当に。うんざりするほど」


 どうあがいても、馬は目を覚まさなかった。不幸中の幸いだったのは、彼らが死んではいない事だ。

 時間さえ掛ければ馬たちは再び目を開き、活躍してくれるだろう。但し残念ながら、イヴたちにはその時間が足りないのだが。


「取り敢えず、急ぐわよ。ここからそう遠くはない筈だから」

「畏まりました、天使様。しかし、馬は残しておいて構わないのでしょうか?」

「大丈夫、鉄の臭いがするこの馬車付近でなら、馬たちは安全よ。………、ね」


 今現在もっとも安全ではないのは、どう考えてもイヴたちの方だ。何しろこれから、蜘蛛たちが生息する森を抜けなければならないのだから。

 そして蜘蛛たちは熊くらいの大きさがあり、食欲旺盛だ。


 イヴは眼帯を外す。悪魔の視界ならば闇夜でも良く見えるし、蜘蛛たちの位置を生命力で感知できる。


「いっそ焼き払ってしまいたいのだけど、生憎ここは貴族の所有地で、蜘蛛は彼らの所有物。焼いたら国を敵に回すわ」

「だから避けていくのですね。私も無用な殺生は無い方が良いです」

「あら、貴方の教えが正しければ、最後には皆死ぬ。なら今死んでも同じではないの?」


 イヴの問い掛けに、ヴェルネは哀しげに微笑む。


「あぁ、何を仰るのですか天使様。地上での死は魂の解放等ではなく、地に縛り付けるも同然です。それでは来るべき時に、空へと還ることが出来なくなってしまうではありませんか」

「そう、なんだ………」


 どちらにせよ、平穏に生きている者たちには、あまり変わらない結末だが。

 しかし、イヴは安堵した。それは詰まり、イヴが殺した者たちもまた、天に還る事は無いわけだからだ。

 奴等は皆、この地に縛り付けられる。奴等の犯した罪が鎖となって、その魂を死後も放さないということだからだ。


 それは、実に気分の良い考え方だ。信仰はともかく、賛同くらいはしてやっても良いくらいには。


 ガサガサと森が鳴く。視界に幾つもの赤い魂が映り、イヴは短く舌打ちする。


「行くわよ、ヴェルネ。遅れないように」

「畏まりました、貴女の導きのままに」











 暗い夜の森も、悪魔の視界では見通しの良い散歩道でしかない。

 一応イヴは左手から黒い炎をひと塊喚び出して、光源ランタン代わりにかざしていた。ヴェルネに必要かどうかは解らなかったが、蜘蛛が嫌がるだろうと考えていた。


 その効果があったのか、森に入って数十分歩いているが、蜘蛛は近付いては来ない。視界をちらつく蜘蛛の魂も、一定の距離を空けて遠巻きに眺めているだけだ。


「天使様の御威光は、蜘蛛どもにも通用するようですね。………私もまだまだ、信心が足りないということでしょうね」

「どうかしらね。お前の信心の成果が、あのお馬さんなのかもしれないわよ」


 寧ろ、その可能性が高いと思うのだが。

 揶揄するようなイヴの言葉に、ヴェルネは不思議そうに首を傾げる。


「かつて開祖様は、歩くだけであらゆる獣が平伏したと聞きます。やがて我が信心も、その境地へと至る筈です」

「それなら、もう至ってるんじゃあない?」


 少なくとも、平伏はした。その後立ち上がりはしないけれど。

 ヴェルネは嬉しそうに微笑んだ。いや、別に誉めたわけではないのだけれど。


 まぁ、もしかしたら。

 ヴェルネのお陰で蜘蛛たちは近寄ってこないのかもしれないが………。


「まぁ、注意して。森は奴等の庭みたいなものなんだから」

「そうですね、視界も悪いですし」

「そうね、頭上にも注意を」


 そう言って見上げたイヴに、何らかの根拠があった訳ではなかった。ヴェルネには何かあったのかもしれないが、少なくともそれを伝える暇はなかった。


 天を仰ぎ見るイヴとヴェルネ。

 月が目に入るよりも早く緑の天蓋に遮られる筈の視界に、いきなりは飛び込んできた。


 真っ赤な、魂の輝き――いや、それは、は瞳だ。赤く輝く、3対の大きな瞳。

 何の意思も感じられない、無機物のガラス玉が見返してきている。


「………っ!!」


 ぞわりと、背筋に悪寒が走る。

 脅威とか、危険とか、そういったものではない本能的な恐怖がイヴの全身を震わせる。

 かちゃかちゃと、不気味な口が音を立てる。


 恐怖の雄叫びが喉から吐き出される寸前に、 イヴの全身が強く後ろへ引かれる。


 目の前を、茶色い杭が通過する。蜘蛛の、前肢か。


「ヴェルネ、」

「天使様、失礼ながら、貴女の炎を恐れる相手ではなさそうです」


 空振りした跡をなぞるかのように蜘蛛が地面に降り立ち、威嚇するように前肢を掲げると、それを振り下ろしてくる。


 イヴは身をかわし、それを右腕で払う。

 地獄の炎を纏った右手は、あっさりと蜘蛛の脚を焼き斬った。


「………貴族の所有物という話ではありませんでしたか、天使様?」

「大丈夫よ、あと7本もある」


 痛みなど無いのか、再び蜘蛛が前肢を放ってくる。


「………6本だったわ」


 飛んだ脚を無感情に眺めて、イヴは肩をすくめた。既に、脳髄の奥から訴えてくるような原初の恐怖は身体から消え去っている。

 奴等は、単なる敵だ。恐れる必要はない。

 この炎の前に、私は薪を積み重ねるだけの木こりなのだから。


 身構え、不適に微笑むイヴ。

 その横顔を頼もしげに見てから、ふと、ヴェルネは何かを聞いたように頷き、再び頭上を見上げた。


 そして、苦笑する。


「どうやら、天使様。………?」


 イヴも空を見上げる。頭上を塞ぐ木々の間かから次々に落ちてくる、蜘蛛たちの群れを。


 イヴとヴェルネは目を合わせて、同時に微笑んだ。


 ………そして、全力で走り出した。

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