第14話行く先と出発場所
コーデリアには引き返してもらい、イヴはヴェルネと、彼と出会う羽目になった酒場に向かうことにした。
「夕方には戻るわ、コーデリア。そしたら服を買いに行きましょう?」
「え? 折角の逢瀬ですし、明日まで一緒に過ごしてくれば良いんじゃないですか?」
「逢瀬じゃあないのよコーデリア………そんな目で見ないで」
ちょっとした一悶着の末、夕方に事務所で待ち合わせる事にした。何があったかの話はその時にするという約束付きで。
………ニコニコと何時にも増して唇を緩ませていたコーデリアが何の報告を待っているのかは、あまり考えない事にする。
まったくあの子は、男女の間に夢より儚い幻想を抱きすぎている。
「明るい方ですね、天使様。私の教え子たち同様、実に微笑ましい」
それは詰まり、コーデリアが年端もいかない子供だと言われているようなものではないか。怒るべきかどうかイヴは少し考えて、取り敢えず気になる点だけを指摘する。
「お前の教え子、という凶悪な言葉を2度と使うな。良いか、2度とだ」
「そうですね、私としたことが傲慢に過ぎました。彼らは勝手に学ぶ生き物でした、私の教え等関係無く」
「そういう事じゃあないけど、まあ、言わないのならそれで良いわ」
人間関係において最も大切なことを、イヴは学び始めていた――即ち、【諦め】だ。ヴェルネと接する限り、それは必須の
それに、この苛立ちをぶつける相手は、直ぐに現れるだろう。目の前の酒場のドアをくぐれば。
ヴェルネは懐から銀の懐中時計を取り出し、大きく頷いた。
「彼らはこの時間、概ねこの酒場を根城にしています。………言うまでもなく」
「そのようね」イヴは中から漏れ出す喧騒に眉を寄せながら頷いた。「行ってくる、あんたは………」
「お任せください、天使様。我が神の御心のままに」
本当に解っているのかどうなのか、とにかくヴェルネはイヴの意図した方向へと、音もなく歩み去った。
出来れば――そのまま居なくなってほしいのだが、そうもいくまい。
イヴは大きなため息を吐いて――
ドアを蹴り破った。
「っ、な、なんだ………?」
倒れたドアを踏みつけ侵入したイヴは、ぐるりと店内を見回した。
相変わらず薄暗い店の中には、数人の筋肉ダルマが屯している。その内何人かには見覚えがあり、イヴは凶悪な笑みを浮かべた。
「あ、あいつ………!」
「化け物女!?」
その異名に関しては、思うところは多くない。精々が『センス無いな』くらいである。
何しろ、イヴは【悪魔】と取引した身だ。化け物という程度は悪口の範囲にすら入っていない。
客の顔を順繰りに見ながら、イヴは首を傾げた。ヴェルネと揉めていた、あの髭男は何処だ?
「あの男………ジョン、と言ったかしら。姿が見えないようだけど、何処に居るの?」
その言葉に、イヴの登場に唖然としていた男たちは一斉に表情を引き締めた。
良い反応だ、とイヴは笑みを深くする。心当たりがあるというわけだ、全く解りやすい。
「ジョンを探してる………お前、やっぱりあの野郎のスケかよ!」
イヴは舌打ちした。今のは、中々の悪口だ。ちょっとグサッと来た。
心に刺さったから――イヴは手近な椅子を叩き潰した。
「ヒィッ!?」
「ジョンは何処だ?」
「く、くそっ! おい皆、やっちまえ!!」
誰かが叫び、全員が立ち上がる。
怯えてはいるが、それでも手に手にビンや椅子を握りしめて立ち向かってくる彼らを、イヴは両手を広げ、笑顔で出迎える。
………その、喧騒の後ろ。
一人の男がこっそりと、店の裏手から外に出ていった。
「くそっ! 何なんだよ………!」
店の裏口に回り、路地に出て、男は激しく毒づいた。
彼の信じる理不尽に対する、理不尽な怒りだ。己に降り注ぐ不幸が何の謂われも無く、人生の結果に一切の責任を負わぬ者の、怠惰なる者の叫び声だ。
とにかく、と男は辺りを見回す。
目の前に現れた脅威に対する応答はいつも通り、逃走だ。
逃げて、助けを求めなければ。そう思ったのだろう、男は駆け出そうとし、
「残念ながら。貴方の無責任な逃走は、ここで終わりです」
「っ!?」
路地裏の、暗がり。
そこからゆっくりと、音もなくヴェルネは現れた。
そして、微笑んだまま首を傾げる。
「貴方が【事情通】でしたか、マスター?」
「てめえ………インテリ野郎」
逃げ出そうとしていたのは、中年の男………酒場のマスターだった。
中でイヴが暴れれば、犯人は逃げ出すだろうと予想できる。だからこそ、ヴェルネは裏口に回り込んでいたのだ。
「単に、グリンさんの行き付けの店のマスターと思っていましたが………成る程、貴方の店に集まった男たちに、貴方が仕事を斡旋していたのですね。ジョンさんは、その代表というところですか?」
「………相変わらず、良く喋る野郎だぜ」
マスターは苛立ちも露に吐き捨てる。
背後のドアの向こう、店内で響く破壊音に一度振り返り、短く毒づく。
「すみませんが、グリンさんの奥さんは、私の教え子です。我が神の教えを信じる者の訴えを私が無視するわけにはいきませんし、それに、我が天使様も行く先を探しています。………色々と、懺悔していただきましょうか」
「喋らせてみろよ、こいつでな」
マスターは袖を捲り上げる。男盛りは過ぎたろうに、その腕は丸太のように膨れ上がっていた。
いや――その筋肉は、現在進行形で膨らんでいる。
応じるように、マスターの顔が濃い体毛に覆われていく。
「………おや」
「【
亜人の一部には、より獣寄りに肉体を作り替える技を持つ者が居る。ラヴィならば兎の脚力、キャッティアなら猫の俊敏さというように、それぞれの長所をより強化する変化だ。
どうやら――マスターの長所は【腕力】らしい。髭でなければだが。
筋肉ダルマから筋肉毛玉に進化したマスターが、毛の中で牙の並んだ唇を歪ませる。
「俺はベアーでな。細々としたご託は要らねぇんだ。話を聞きたいなら、腕ずくで来いよ!!」
言い終わるより、早くマスターが豪腕を振るった。
元はヒトの握り拳だったはずの右手は、最早筋肉の岩と化している。
筋肉の投石機の一撃が、ヴェルネの腹に炸裂した。
細い身体が紙切れのように吹き飛んでいき、路地の壁に激突した。
「………はっ」
マスターは失笑を漏らす。
叩き付けられた壁から、糸の切れた人形のようにズルズルと崩れ落ちた優男を侮蔑を込めた視線で射抜く。口先だけの男はこれだから駄目なのだ。
この腕力でさえ、あの化け物には通じない。
背後の音が激しい内にさっさと逃げよう。マスターは路地裏へ向かう――崩れ落ち、へたり込んだヴェルネの方へ。
その壁の前を通り過ぎようとした時、つい横目で、マスターはヴェルネの姿を見下ろした。
ふと、気付く。壁が軋むほどの衝撃だったはずだが………
何故その死体から、血が一滴も流れていないのだ?
「………あ?」
何故その死体が、ゆっくりと立ち上がっているのだ?
糸の切れた人形に、再び糸が結ばれたように。
崩れた身体が、不自然な軋みで起き上がる。ただの肉の塊に再び生命の火が点り、不格好な人形が踊り始める。
「なん、だよ………おまえ………」
「神の僕」ヴェルネは答えると、斜めに歪んだ首の骨を引っ張って無理矢理真っ直ぐに伸ばした。
「私の命は、我が神のもの。我が神の望まぬ限り、この身体は朽ちることはないのです」
数度全身を揺すると、徐々に骨の軋みは収まっていく。
下手くそな粘土人形は、あっという間にヒトの姿へと変わる。柔らかく、暖かく微笑む笑顔のヒトへと。
唐突に、マスターは理解した。
己が先程、乱入してきた女に向けた言葉は、間違いであったことを。
あれが、あんなものが、化け物な訳がない。誰かの言葉に怒り笑う存在が、化け物であるものか。
これこそが、化け物だ。
力の有無ではない。
己の死に瀕してさえ笑顔で受け入れ、そして拒絶する。
誰にでもやって来る死すら届かない、決定的なまでの断絶。意思の疎通が不可能な事こそ、化け物であるための唯一無二の条件なのだ。
「ば、ばけ………」
「ヴェルネと呼んで………下さらなくても、貴方は結構ですよ」
にこやかに、爽やかに微笑みながら、ヴェルネが手を伸ばす。
楽しさも嬉しさも感じられない、ただ笑顔なだけの笑顔。
魅入られたように固まるマスターの顔を包むように、ヴェルネの右手が覆い被さり。
「貴方を赦します、我が神の名の下に」
マスターの意思は、真っ黒な何かに塗り潰されていった。
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