第12話持ち込まれた依頼
「あ、イヴ先輩!おはようございます!」
ドアから出て直ぐその快活な声に出迎えられて、イヴはパチパチと目を瞬かせた。
何度そうしてみても、或いは軽く目を擦ってみても、景色はまるで変わらない。今は眼帯で覆っている上に閉じている右目を解放しても、恐らくは同じだろう。
その若草色は幻では無いらしい。イヴは首を傾げながら、いつもの一帳羅を確りと着込んだ探偵見習い、コーデリア・グレイスに歩み寄った。
「おはよう、コーデリア。早いわね? 未だ
「所長から、先輩に早出してもらうと聞きまして!」
「………あいつ………!」
イヴを朝早く呼び出すのは構わない。どうせろくでもない昔の夢を見るだけだ、眠気さえ堪えれば良いし、何より所長はイヴの主人だ。呼び出す道理がある。
だが、コーデリアは違う。
彼女は真っ当な人生を送っているのだ。奈落の底みたいな自分たちに巻き込むのは止めさせなくては。
イヴは直ぐ様踵を返して所長室に向かった。
勿論ドアは開かなかった。中に気配もない。まるで――この古ぼけた安物のドアを開けたら、そこには何も無いかのように。
「先輩? どうかしましたか?」
「………何でもないわ、コーデリア」
馬鹿馬鹿しい妄想だ。
例え箱を開けなくても、ドアノブを握る手そのものが、中の猫を証明している。
証拠を求めるのは安らぎを求めること。そして、安らぎとは、『これが答えだよ』と顔も知らない誰かから差し出されたぬるま湯に浸かり、考えるのを止めることだ。
それを望む人生も世の中には有る。だがそれはイヴ・スレイマンの人生ではない。
「依頼の話を、貴女から聞くように言われたのだけど、コーデリア。今構わないかしら?」
「はい、もちろんです!」
イヴは頷き、
コーデリアの机は向かいで、間の低い本棚を無視すれば会議は容易く行える。そもそもイヴは机の上に物を置かない主義なので、なんならその壁を退かしても構わない程だった。
「先ずは飲み物から始めましょう、ココアで良いですか?」
「あぁいえ、コーヒーはある?」
「あ、じゃあカフェモカにしましょうか」
お願い、と言いかけたイヴの目がコーデリアを捉える――簡易キッチンの戸棚の前で、湯気を立てるマグカップに挽いたコーヒー豆をぶちこもうとしている姿を。
「………ココアでお願い、コーデリア」
「? 解りました!」
コーデリアの緑色のスーツが揺れ、視界を通り過ぎる。
今度スーツの採寸に行かせるべきだと、イヴは心に誓った。ついでに動きやすいパンツスーツにするべきだとも。でないと、あの大きさでは全く服に着られてしまっている。
「どうぞ、先輩!」
「ありがとう」
マグカップを受け取り、イヴは引出しを開く。手近なところに入れてある角砂糖を摘まみ取ると、三個まとめて放り込んだ。
「ココアに砂糖入れるんですか?」
「………えぇ。蜜の味が好きなのよ」
他人の不幸の味だから、とは流石に言わず、スプーンで丁寧に掻き回す。
渦を巻く
「それで、どんな依頼なの、コーデリア?」
「あ、はい。えっと………これです」
「………行方不明者の捜索?」
差し出された羊皮紙を、暫し無言で眺める。
三十代半ばの男性が、奥さんのもとから突然蒸発したらしい。依頼人及び周囲の聞き込みの結果、結婚生活に問題はなく、また賭け事やそれに伴う借金という可能性もない。
何らかの犯罪に巻き込まれたか、或いは、彼の生活に未だ見えない何らかの確執があったのか。
「調査は、詰めの段階です」
ココアを口に運びながら、コーデリアは数度頷いた。「果たして他人の仕業か己の仕業か、その最後の
「目処は付いているの?」
「はい。………このあと、情報提供者と会う予定です。そこで、この依頼の方向は定まるはずです」
単なる失踪となれば、コーデリア1人でも調査は可能だ。しかし、何らかの犯罪に巻き込まれたとしたら、戦闘能力を持たない彼女に任せるのは危険だ。
所長の意図が何となく解った。所長は、これが何かの事件だと感じているのだろう――イヴに任せるべき事案だと。
「良いわ、それじゃあ、早速行きましょう。準備は?」
「はい!」
立ち上がり、イヴはココアを口に運ぶ。そして、直ぐに顔をしかめた。
「………イヴ先輩?」
「………」
イヴは再び腰を下ろすと、重々しく言った。
「………ココアが冷めてからにしましょう」
半袖のブラウスの上にスプリングコートを着込んで、イヴは事務所を出る。
その後から、コーデリアも階段を下りていく。
揺れる金髪を眺め、ブーツの足音をうっとりと聞きながら、コーデリアはまさに天にも昇るような心地好さだった。
仕事。憧れのイヴ・スレイマンとの、合同の仕事だ。
イヴは怒っていたが、コーデリア本人としては所長に感謝していた。早朝の呼び出しも、それが恐らくは給料に反映されない事もどうでも良かった。
イヴとの仕事を設定してくれただけで、それ以上何の願いがあるというのか?
「コーデリア」
「っ、はいっ!」
いつの間にか地上についていた。イヴは憂鬱そうに近くの協会の屋根を眺めながら、コーデリアに尋ねる。
「待ち合わせなんでしょう、いったいどこへ行くの?」
「あ、は、はい! こちらです」
慌てて先に立って歩き出す。
危ない、とコーデリアは深呼吸する。いくら憧れの先輩との初仕事とはいえ、あまりにも浮き足立っているぞと叱りつける。
そう、先輩はあくまでも協力者だ。依頼人から話を聞いたのはコーデリアだし、情報提供者と会う約束をしたのもコーデリアだ。イヴを引っ張っていくくらいでなくてどうするというのだ。
先輩に褒められたいのなら、仕事ぶりを見てもらわなければ。幸いここまでは順調なのだから、最後まで確りするのよコーデリア。
「………」
張り切る後輩の背中を眺め、イヴは微笑んだ。それから大股で彼女に追い付くと、思い直して、半歩後ろを影のようについて歩き始めた。
「そうだわ、コーデリア。今回の事件が終わったら、一緒に服でも見に行かない?」
「ふぇっ!? は、はい!喜んで!!」
思いがけないご褒美に頬を染めつつ、コーデリアはイヴを先導して通りに出た。
未だ昼前だが、人通りは落ち着いているようだ。人混みが苦手なコーデリアとしては、有り難い限りである。
大きく跳ねる心臓を押さえつけつつ、声が上擦らないよう気を付けて、コーデリアは深呼吸する。
「待ち合わせ場所は、半ブロック先のカフェです。時間には少し早いですが………」
「早く着く分には構わないでしょう、待たせるよりは遥かにね。ケーキでも食べて待ちましょう?」
「そうですね」
イヴの瞳は、心なしか嬉しそうだ。
コーデリアは内心でガッツポーズする。先輩の好みを考えて、ケーキの美味しい店を選んでおいて良かった。
相手の方は男性だから少し悪いかも知れないけれど、大丈夫、甘党の殿方も少なくない世の中だ。最悪コーヒーがあれば問題ない。
「何にしましょうか、確か、フルーツタルトが有名なお店なんですよ」
「そう。………ベリーとチーズのタルトがあると良いわね。コーデリアはショコラかしら?」
「マスカットにしようかなと思ってます………イヴ先輩?」
つい先程まで上機嫌だったはずのイヴは、何故か頬をひきつらせていた。コーデリアは息を呑む。
先輩のこんな顔は、所長に嫌みを言われた時くらいしか見たことがない。………葡萄が嫌いなのだろうか。
幸い、不機嫌の泡は一瞬で弾けて消えた。気まずさを隠すようにイヴは軽く息を吐くと、肩をすくめる。
「何でもないわ、ちょっとした偶然の一致に驚いただけよ。………直ぐそこなのよね、行ってから決めましょうか」
「あ、は、はい」
首を傾げながらも、コーデリアは同意した。確かに、もうすぐ着く――と言うよりも、もう見えている。
「あそこです、あの店のテラス席。………あれ? もういるみたいです」
「へぇ? 待ち合わせに先に来るタイプの男は嫌いじゃあないけれど、少し小心に感じるわね………………っ!?」
「イヴ先輩? どうかしましたか?」
軽口を言いながら、情報提供者の顔が見えるくらいの距離に近付いた途端、イヴはその足を停めた。
見上げる横顔は、先刻とは比べ物にならないほど動揺している。いつも冷静なイメージが崩れ落ちるほどに。
「………え、あれ? あれが、その………」
「あ、はい。そうです」
約束の席で、本を読んでいる男性。
細いフレームの眼鏡に野暮ったい髪形、医者の白衣みたいな丈の長い上着とマフラー。
「間違いありません。情報提供者のヴェルネさんです。………お知り合いですか?」
恐る恐る訊ねたコーデリアの前で、イヴは大きく肩を落とした。
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